8-7 暗い雲

 …どくん


「――ん……?」

 小さな礼拝堂の中で一人目覚めたのは、快活そうな少女だった。

 起き上がり辺りを見回すと、床に倒れていたり、椅子にもたれかかるなどして意識を失った村人たちの姿が目に映る。

「みんな、寝てる…何が起きたんだっけ…?」

 寝起きだというのに頭の中は妙に鮮明だった。

 ふらりと礼拝堂の外へ出る。上天に輝く陽は、正午近くだというのに月のように暗かった。

 何か、鼓動のようなものが聞こえた気がして北西の空に顔を向ける。

 見慣れた血潮の山の頂きに、見慣れないものが浮かんでいた。

「なにあれ…山の上に赤い球…浮いてるし。昼…なのに日が昏いし…」

 空に浮かぶのは欠けた小さな月と昏く輝く大きな陽。異様な空気が周囲を満たしているのに、身体の調子は不思議なほどに良かった。

 沈殿していた記憶が意識の水面に浮かび上がる。

「…あ、そうだ、ユーリ。あの子、大丈夫かな」

 村の北にある小さな家へ、少女は小走りで向かった。



 暖炉の優しい火の光が照らされた広めの部屋の中は、程よい温度に暖められていた。

 部屋の中央には大きめの樫の木の机。その上には干し肉、チーズ、豆類などのつまめるもの、そして六つの木製のジョッキが置かれていた。

机の横に置かれた六つの椅子のうち、三つにはトーマ、ウェルテ、ラルマが腰かけていた。

 暖炉の傍では膝を抱えて座るネーヴェと、敷布の上で眠るティーフ。

みなベリダでの質素な支給服に身を包み、肌が露出しないように首や手足を包帯で覆っていた。

「“気が利くじゃない”とでも言えばいいのかしら…私たちの魂だけはしっかり回収するなんてね。それにしても…文字通り命を賭けて私たちが守っていたのを知っていたのに、まだ魔物として生きる勇気が出せなかったっていうのは、ちょっと酷いんじゃない?」

 その声に責めるような色はなく、純粋な疑問のようであった。

「ごめんなさい。あの時は、怒りよりも悲しみや虚無感のほうが大きくて…あと、なによりも“復讐を始まりにするのはいけない”気がして。僕が、そこから始めることが、どういうことなのか――」

 暖炉の傍で座っていたネーヴェは立ち上がると、椅子に座るトーマの傍に近づき、トーマの細腕を掴み上げる。

「あ、の…ネーヴェ?」

 突然のことに戸惑うトーマを、鳶色の右目が睨み付けていた。

「復讐って、そんなにいけないこと?」

 短い問いを発するネーヴェの隻眼は、静かな怒りを孕んでいた。

「ネーヴェの気持ちを否定するつもりはありません。ただ、僕は――」

 椅子から立ち上がり向き直ったトーマは、自分の腕を掴むネーヴェの手を優しく外し、同じ高さにあるネーヴェの右目を怯むことなく見返す。

「――過去のためではなく、未来のために戦いたいんです」

 暖炉の薪がパチリと火の粉を放つ。

「…」

 ネーヴェの硬質な眼差しはトーマを捕えたままだ。

だけの力を、僕は持ってます…たぶん。だから、もう少しだけ僕に力を貸してください」

 ウェルテの声が焼けた石のような空気を冷ます。

「そこらで止めなさい、二人とも。トーマは思っていたよりもちゃんと“自分の立場”を理解してる、いいじゃない、お手並み拝見といきましょ」

 きびすを返すネーヴェは、何でもなかったかのようにまた暖炉の前に戻ると、隣に置いてあった小皿の上の干し肉を手に取り齧り始める。

 次に部屋の中に響いたのは、ドンと木製のジョッキが乱暴に置かれる音。机の上に腕をもたせかけるラルマの顔は酒気で微かに赤らみ、不機嫌さを露わにしていた。

「未来を見据えてるからって過去はぜんぶ切り捨てちまっても構わない、ってのはちょっと乱暴なんじゃねえか。つーか先の処罰者との戦いは、どうせ“俺を洗脳して使う”のが前提だったんだろ、なあ?」

 座った眼でラルマはウェルテを睨み付ける。ウェルテは眼を合わせずに、チーズを齧りにながら涼しげに答える。

「ん、前提ってわけじゃないわ。あなたが離反する公算が大きいから、相応の対策を取っていただけでしょ。文句ならウィクリフに言いなさいよ」

「俺は“生きることに勝る幸福は存在しない”がモットーなんだよ。危険を冒すのは、相応の報酬が約束されてるからだ。その報酬に“名誉の戦死”だけは絶対に含まれねぇ」

 もう一度エールをあおるラルマは、机の端に座り直し、手元のジョッキを眺めているトーマ目を向ける。

「んで、トーマ。お前は許せるのかよ、ウィクリフが俺らにしたこと」

 椅子に座りなおしたトーマは、再び机の上に視線を落とす。

「それは――よく解らないです…。でも、ウィクリフの啓発エンライトが無ければ、僕は絶対にユーリを食べることはなかった、ということだけは、絶対に言いきれます。それはつまり、究極の魔物に進化することはできなかったわけで…」

「ま、お前があそこでずっとうじうじしてたら、今頃何もかも終わってたのは間違いねーけど」

「ウィクリフを許せないと思う気持ちはあります、でも、それと同じくらいウィクリフが無理やりにでも背を押してくれて良かった、と思える自分がいるんです」

「ふうん、俺はやっぱり許せねーけどな…“お前達の意志は、最大限尊重する”なんてエラソーにのたまってたくせに、そういうことなら最初ハナから“作戦に支障のない範囲内でのみ尊重する”とでも言ってくれりゃいいのによ」

 言いつつラルマは、ソラマメの入った小皿を手元に引き寄せる。もう、一通りの不満は言い切ったという様子だった。

「で、アルクスのツラが見えねーのはどういう了見だ。トーマ、お前知ってんだろ」

「あ、それが…その、まだ、みんなとは話したくないみたいです。“今の私には、そんな資格は無い”って」

「ったく、いつまでいじけてんだか、あの馬鹿は。じゃ、ラウラの容態はどうなんだよ」

「はい、上手く循環を調整したから、もう大丈夫です。ラウラだけじゃない、ベリダに…あの街に棲む全ての人が、もう蝕の暴走や変調で亡くなることはありません」

「へえ、上等じゃねえか。んじゃさっさとケリ付けちまえよ。俺は、せいぜい高見の見物させてもらうからよ」

 立ち上がり、トーマの傍に来たラルマは、拳を軽く突き出す。

「ありがとう、ラルマ」

 トーマがその拳に自分の拳を軽く突き返すと、ラルマの姿は陽炎のように揺らぎ、消えていった。

 暖炉の傍に座っていたネーヴェは立ち上がりトーマの傍に近寄ると、その右目でトーマを睨みながら、束ねた右手の人差し指と中指でトーマの左目の目元に軽く触れる。

「あたしは、教会を破壊する行為に加担できていればそれでいい。死ぬ一秒前も、魂だけになっても」

 そして、ポツリとその言葉を残して消えた。

「最初に会ったときは、正直、数日もすれば逃げ出すかと思ってた。まさか私たちが積み上げて来た何もかもを、背負うような存在になるなんてね」

 椅子から立ち上がったウェルテは対面に座るトーマの横に来ると、その細い左肩に左手を置く。

「後、任せたからね」

「はい、任せて下さい」

 そして、最後の言葉を残して消えた。

 パチリと薪が爆ぜる。トーマは椅子から立ち上がり、薪をくべようと暖炉の前に向かう。

「…トーマ…魔力の流れ、ちゃんと理解してくれたんだね」

 いつの間にか目を覚ましていたティーフは、暖炉の傍でもぞもぞと起き上がる。

「うん。でも、知れば知る程、その巨大さが怖くも思えてきて…何かアドバイスとか、ないかな」

「みんな、トーマと繋がってる。言葉でも身体でもない、願いだけの繋がりなんだけど…それでも、この繋がりを信じてほしいな」

 ティーフは、あどけない笑顔を見せながらトーマに向けて右手を差し出す。

「うん…今なら、信じられる気がするよ」

 トーマがそれを握り返すと、ティーフの姿は薄く揺らぎ消えていった。

 炎がゆらめく静かな音、薪が爆ぜる音だけが支配する部屋の中で、暖炉のそばに座り紅い炎の揺らめきを眺めていたトーマは、おもむろに立ち上がると、誰にともなく言葉を投げかける。

「本当に、良かったんですか…アルクス」

「……ああ。私という奴は、思っていたよりも虚勢を張る臆病者なんだと再確認させられたよ」

 言葉は背後から返ってきた。

「僕は、ちゃんと話してほしかったな、と思います…」

 トーマの右肩に背後から手を置かれる、それは振り向こうとするのを制止する所作のようでもあった。

「これでいいんだ、迷惑ばかりかけて済まない。ラウラの事も、感謝の言葉をいくら重ねても足りない。…私にこんな事を言う資格はないが…トーマ、お前は私と違って前に進める人間だ。頼りにしてるぞ」

 そして、トーマの背後にあった力強い気配は消失した。

 薪の爆ぜる音と空気が流動する微かな音だけが響く部屋の中に一人残されたトーマは、胸に手を当てて、眼を閉じる。

 “自分は、一人ではない。”という感覚が確かにそこにはあった。

 魔脈に微かでも連なる人々が、今、どんな場所でどんなことを想い、願い、生きているのかが伝わってくる。

《絶対に、大浄化を止めて見せます》

 薄赤い液体で満たされた空間に、視界は戻る。



 火口の上に浮かぶ赤い球体。その皮膜が裂け、中から赤い液体に身体を濡らした黒い飛竜が姿を表す。

《教国首都の光域…ここからでも解るくらい、すごい浄化の力が発せられてる…でも、首都から溢れだしているだけだ、強い壁がある感じはしない》

 視界の中には、暗黒の海に浮かぶ孤島の如く、白い輝きを纏う首都ヴェルナの姿を捉える事ができた。

 輝く孤島へ向けて、トーマは黒い翼を羽ばたかせ、闇夜の空を滑りぬけていく。



「預言の言葉の通り、未曾有の災厄が私たちの国を喰らおうとしている」

 巨大な半球状の大聖堂の空間の中。

 椅子も床も壁も天井も、あらゆる場所に光の筋が走っている。

 それは精緻で幾何学的な曲線を描きながら聖堂の中央に集約されていた。

 一粒、また一粒と光の粒が、光の筋の上を走り、中央に座する巨大な白い卵の中へと吸い込まれていく。

「それはこの都を守る守護の光を溶かし、巨大さを増して、あの呪われた山から今すぐにでも私たちを喰らい尽くさんと迫り来るであろう」

 卵の傍らに立つ教皇は、流入してくる光の粒たちに言い聞かせるように、落ち着いた声を響かせる。

「恐れてはならない。あなたの信じる心が弱いほど、かの災厄は増長する」

 巨大な卵が鎮座する中央の広い円形の台座の周囲に光が集まり、それは人の姿を形作りはじめる。

「だが、約束の時は近い。我々には、首都に集いし類まれな司教たちがいる。彼らの守護によって浄化者の孵化が必ずや達成される」

 現れたのは、白い生地に金の装飾の施された司教以上が纏うことの許されている、壮麗な法衣姿の者たち。いずれも、フードを目深にかぶっているが、“一様な存在”である使者とは異なり、背丈も体格もばらばらだ。

「では、頼んだよ」

 教皇は招聘された司教たちに声を掛ける。

 答えるように、司教たちは一斉に両手を胸の前で組み合わせる。

『主よ、我々の願いと行いが光の下にあるならば、我々にあなたの目と耳と口を、死も厭わぬ信仰を、創造と破壊の槌を、そして信義を授けたまえ』

 司教たちの両手の内に光が宿る。

『光の使者よ我らを守り、魔を払いたまえ』

 光溢れる空間に、一糸乱れぬ唱和がこだます。


 巨大な半球状の聖堂の屋根の直上に、槍や弩を装備した数千の殉教者、数百騎の騎乗し騎士槍ランスを装備した守護者から成る一個旅団が、円形の布陣を成して顕現した。



 進むほどに空を覆う闇は薄く立ち消え、陽は強い光を取り戻していく。

 教国北部に広がるなだらかな草原地帯には、天に登る陽の柔らかな光が降り注いでいた。

 光域中央、首都の付近には、麦畑や牧畜の囲い、果樹の群生する場所などが見受けられる。外縁に近しい程、広い場所を必要とする仕事の形跡が薄く、代わりに村や街の中は、密集した作りになっていた。

 点在する村や街は、いずれも頑丈そうな防護壁や防護柵で囲われており、その中心には立派な跡塔が建てられている。

 “今まで見て来た中で、最も広く、最も平和で、最も多くの村や街が存在する光域”というのが、素直な感想だった。

《こが首都光域の跡塔…見た目は脆そうだな》

 頂点の尖った細長い跡塔は、両腕で囲える程度の太さしかなく、材質は冬の清水のように透明な硝子で出来ていた。

 黒い竜が青白い空を滑りぬけていく度に、その軌跡には赤黒い切り傷のような痕跡が刻み付けられていく。

《浄化効果は強いけど、伸ばしてきた魔脈が消されるほどじゃない…大丈夫、ちょっと怖いけど、跡塔は無視していこう》

 黒い竜は、より一層、身体に魔力を漲らせ、眼下に広がる村や街の細長い跡塔に警戒しつつ北の首都へ向けて飛ぶ。

 が、すぐに異変に気付き、空気を掴んで制動を掛ける。

 まるで、黒い災禍を歓迎するかのように、見渡せる範囲にある全ての跡塔が光り輝き、その透明な材質から光を拡散させ、上空に投げかけていた。

《素直に通させてはくれない、か》

「グルルル…――」

 呼吸を整る。

 黒い火が薄く開いた紅い歯の隙間から微かに洩れると同時に、後方の光が収束し、一本の太い光の筋を空へと伸ばした。

《後ろか!》

 その光の筋の中から、数十騎の光り輝く騎士槍ランスを構え、白銀の甲冑を纏った白馬にまたがる守護者が、黒い竜に目掛けて猛然と突進する。

 上空に回避しつつ反転し、反撃の炎弾を騎兵の背に向けて放つが、騎兵の姿は既に薄れており、黒い炎弾の残影を通り抜けただけだった。

《光から生まれた虚像…?いや、あの存在感は間違いなく実体だ――》

 今度は、大地の上に結ばれた光の筋の中から白い弩を構えた殉教者がずらりと姿を現し、空に目掛けて光の矢を撃ちこむ。三列横隊の矢の群れは遥か上空にいる竜に、勢いを衰えさせることなく迫る。

 光の矢の群れを尾と翼で打ち払いつつ、反撃の炎弾を地上に放つが、騎兵と同様に、弩兵隊もまた、一度の攻撃ですぐに幻影のように消え去る。黒い炎弾は、草原に黒い穴を穿っただけだ。

《――あるいは、虚像と実体の中間の存在…?いいさ、まともに戦うつもりがなりなら、進むだけだ》

 黒い翼をひるがして、北に進路を戻し、空を駆ける。

《また強い光…!》

 が、幾らも進まない内に、前方に大量の光が結集し、輝く歩兵長槍パイクを構えた殉教者の六段に及ぶ横隊が顕現し、ハリネズミのような槍の壁を構築していた。

 上体を起こして、大きな両翼で空気を掴み、急制動を掛けて串刺しを免れる。

 と同時に、前方の槍の壁を構築する槍兵隊に向けて黒い燐火を飛散させる。

《そこを、どいて下さい!》

 胸や角、背から伸びる造血骨が紅く輝く、それに連動して飛散した黒い燐火が赤黒い爆炎の花束を、隊列のど真ん中に咲かせた。が、槍兵の隊列は爆発の起きた所だけが幻のように揺らぎ、呪いの爆炎を回避していた。

《くっ…存在が曖昧すぎて、侵蝕の糸口がつかめない…!》

 トーマはそのまま、旋回して左翼側には槍の壁を見つつ高度を上げようととする、右翼側からはまた騎兵、更に下方から弩兵隊が狙いを定めていた。

《跡塔を狙うしかない、か》

 トーマは黒い炎弾を、最も近くの村にある、光を拡散させている跡塔に目掛けて放つ。が、炎弾が村を囲う柵を越える寸前で、光の大盾を構えた守護者が顕現し、凄まじい守護と浄化の力で黒い炎弾を弾き、消滅させた。

 それを見たトーマは思わず、紅い口から黒い煙を不満そうに吐き出す。

《この状況で防御に徹した守護者を、撃ち抜く余力はちょっと無さ…――あ、っと》

 微かに天地の感覚が混濁し、翼の飛翔が止まり、身体が揺らぐ。

《魔脈が不安定になってる…?》

 南側の空を見ると、空に刻み付けた赤黒い軌跡の周りに伝令者がたかり、光を放って、浄化しようとしていた。

 左右両翼からは、また騎兵が槍の矛先を向けて、空を駆けてきていた。

《駄目だ…状況が悪すぎる、一旦、退こう。ムキになって進もうとするのは、きっと教会の思うつぼだ》

 トーマは都市を背にして、空に刻まれた魔脈の痕を辿り、南の空へと後退していく。

 空に刻まれた黒い痕にたかっていた伝令者は、黒い飛竜が接近するや木葉を散らすようにして散開する、ちょうど災いが退くのを歓迎するように。

 光域の縁に近づく程に、また陽の光は弱まり、空は闇に覆われていく。



 光域の外まで退避したトーマは、血潮の山の北の麓にある廃砦の塔の上に降り立った。

 陽の光を遮る蝕の帳と、周囲を巡る潤沢な魔力は不思議と精神と安定させる。

《こんな時、どうすればいいんだっけ。確か、ウィクリフは、焦らず落ち着いて状況を整理し、次の手を考えていた…》

 黒い竜は塔の上で翼を畳み、瞼を閉じて瞑想する。その姿をもし、異端者たちが見ていたら、思わず跪き、祈りを捧げていたに違いない。

《次から次へと、包囲して僕の進攻を妨害する…けれど、致命傷を狙って来るわけじゃない…。教会の目的は、防衛の有利を最大限利用した時間稼ぎ…少し甘く見てたな》

「今ならいかなる使者が迫ろうとも、打ち払い侵蝕し進むことができるはず」という自負は、水晶のような跡塔から放たれた光より現れる防衛線の前には役に立たなかった。

 しかし、侵蝕が不可能なわけではない「“究極の力”で魔力を無理やり練り上げ、光域に向かって押し広げればあるいは…」そんな考えが頭に浮かぶ。

《……いや、僕はもう一人だけの存在じゃない、簡単に“ある程度の犠牲が出ても…”なんて考えちゃだめだ。少しの無理が新たな無理を呼び込んで、取り返しの付かない犠牲を生み出す…なんてことはもう絶対に嫌だ》

 一人ではないということを、繋がりを信じる。ついさっき、言われたばかりだ。

 もっといろいろなものを感じ、信じ、頼ればいい。

《焦らずに…必ず手はある。あの防衛を突破する手が》

 いつの間にか廃砦は、黒い飛竜の座す塔を中心にして渦を描くような模様の蝕痕に覆われていた。

(―あの透明な跡塔、なんとなくマルフィナのものに似てたな…)

 記憶の中から、湖の清水を固めて作られた透明な破壊不能の跡塔の姿が脳裏に浮かぶ。

(―マルフィナ……みんなは、あの再生する水の跡塔をどうやって攻略してたっけ…。確か、ウェルテ、ネーヴェ、ラルマ、アルクス、ティーフ、五人が力を合わせて…聖体を直接狙うような作戦を立ててたはず)

 二度目の都市侵攻、自分はまだあまり活躍できてなかった頃、頼もしい仲間が活路を拓いてくれていた頃。

(―正々堂々と正面から向かうのではなく、別の視点から、いろいろな仕掛けを作って――…)

 蝕痕は所々が薄赤く隆起し鼓動し、魔脈の主に魔力を巡らせていた、まるでその思索を助けるかのように)

《そう、今は…魔力を含むモノは、全て僕の味方…》

 血潮の山の全体を感覚する。流動する魔力の小川、拍動する池や湖、そしてそれらから発散された魔力を宿した空気、雲…。

 それら全てが、一つに繋がり、循環しているのが容易く理解できた。

《うん、いける、きっと上手くいく》

 塔から飛びあがったトーマは、血潮の山の火口上空へと飛翔する。

 その紅い眼には、決戦に立ち向かうような昏い悲壮さではなく、何か新たな発見を試す時のような明るい輝きを宿していた。



「目標の撤退を確認。配列アレイや使者に被害は無し。大地に数ヵ所の蝕痕の付いた穴を開けられましたが、侵蝕の拡大は認められず、浄化は容易」

「空に刻まれた蝕痕も順次、浄化中です」

「負荷軽減のために跡塔の輝度を下げますか?」

 大聖堂の中央の台座を囲う司教たちが、矢継ぎ早に報告を重ねる。その両手は組み合わされ、内には光を湛えたままだ。

 台座の中央、光の粒を貪欲に吸収する巨大な卵の隣で報告を受ける教皇は、鷹揚に指示を出す。

「いやいや、まだ油断できないよ。輝度は現状を維持、伝令者には光域内縁を哨戒させてくれ。預言の魔物は決して、攻撃を諦めたわけじゃない」

「承知しました」

 顎に白い手をやり、どこか呑気に思案する教皇には、焦りや不安といった感情の一欠けらも見受けられない。

「…恐れながら、預言の魔物は必ずや、預言の通りに討ち滅ぼされます」

 老齢の司教が、しわがれれた声で、言葉を挟む。

「その通りだ。しかし、彼女が遺した預言は。常識はもとより、非常識でも計れない力を預言の魔物は持っているからね、警戒はし過ぎるということはないよ」

「出過ぎた事を申しました…お許しください」

 教皇は全く気にしていないというふうに笑みを返す。

「いやいや、いつも“出過ぎた事”を言っているのは私の方さ。それより、何をしてくるのか楽しみだよ」

 巨大な卵の中で滅滅する輝きは、五つに分化していた。



 血潮の山の頂に舞い戻ったトーマは、火口に目掛けて降下し、マグマのようにうねる魔力の濁流の中に飛び込んだ。

 薄赤い温かな液体が身体を包む。火口の中は界域に似ているが、激しい流動と熱、そして、身体中に響く大きな鼓動は、ここでしか感じられないものだった。

《物理的に巨大な心臓が確かに火口の直下に存在する、僕はその核に過ぎない……あの巨大な心臓…なんて呼ぼう…大規模魔力循環器官中枢部…?なんか違うな》

 すぐにこの器官の持ち主が誰であったかに思い至る。

《“ユーリの心臓”…。うん、まずは、このユーリの心臓の鼓動を使って、軽い噴火を起こせばいい……噴火の起こしたかなんて知らないけど、たぶん、こんな感じかな――》

 全身の造血骨を励起させ、魔力の流動に干渉する、優しく、包み込むように。

 火道の直径と同等の大きさの球形の膜が、火道の中に形成された。

 ユーリの心臓に魔力が集約され、鼓動と共に放出される。

 その放出の方向を上に変え、二拍分を形成した膜の中に保持し膨張させる。

《いける…。恐れないで、皆の信じる心が、この火を強くするから…》

 そして、三度目の鼓動で、膜の上部を弾けさせ圧縮されていた魔力の奔流を解放した。紅い濁流は、竜の身体を押し上げながら火口から空へ噴出した。

 噴出した赤黒い魔力の濁流は、すぐに空気中で硬化し、積層の黒い雲を作る。

《やっぱり、雲って、こんなに流動してるものだったんだ…恐ろしい雷を落すものなんだから、そうだよね。ただの綿の塊なんかじゃない》

 空気中に満ちる莫大な魔力の粒が摩擦し、紅色の稲妻を迸らせている。まるで激しい感情の奔流の中にいるようだった。

 ゆっくりと大きな黒い翼を飛翔させながら、空気の流れと、黒い雲の中を細かい網目のように縦横無尽に広がる魔脈の拍動に感覚を委ね、それを胸の奥、炎嚢へ引き込む。

《うん、これくらい激しいほうがいい。そうでないと、穴は開けられない》

 キノコの傘のように展開した黒い雲の中心で、真っ赤な口腔をバクリと開く。

 黒い紋の走る舌の上に黒い球体、“砲弾の核”となるものが形成される。

 その“核”に周囲の雲から発生した幾筋もの紅い雷が、雷鳴を轟かせて集中していく。電を吸収し紅みを帯びていく核は、口腔の中で微震し、気を許せば今にも破裂しそうな程だった。

《ぐっ…火薬の塊を咥えてるみたいだ…でも、大丈夫…落ち着いてコーティングを…》

 紅い雷光を纏う核を、黒い殻が覆っていく。

 砲弾を中心に、六方に誘雷針の突き出た巨大な黒い輪と、その内側に小さい輪が形成される。

 内側の小さい輪の回転と共に、黒い砲弾は先の尖った楕円系に引き伸ばされていく。

 外側の巨大な輪の誘雷針に落ちた紅い雷光が、内側の小さい輪と砲弾に絡みつき、蠢く蜘蛛の巣のような形となる。

《これが、皆の願いだ。生きていたいという願い》

 トーマの胸、翼、背、尾から突き出す紅い骨、そして二本の角が、強く赤く輝く。

 目の前の雲がうねり、筒状の射出道を作っていく。

 キノコ状だった暗雲は北に、首都光域の南の縁へと粘度の高い液体のように垂れ伸びていく。

 うねる分厚い雷雲の中にぽっかりと空いた数メルト強の穴の先には、はっきりと首都の輝きが視認できた。

《さあ、受け取れ!》


  


 紅の雷光が爆ぜる。

 竜の口腔から放たれた黒い砲弾は、筒状に空いた道を更に加速しながら滑り抜け、音を置き去りにして光域を貫く。



「血潮の山より生まれた暗雲が、首都光域南方にまで伸びているのを確認しました」

「それを除き、光域内部に変調は見受けられません」

 報告を受ける教皇は、いつになく真剣な表情に変わっていた。

「…いかが致しましょうか、猊下…?」

 恐る恐る司教の一人が声を掛ける。

「光域南方の輝度を今すぐ最大に引き上げ、警戒を厳に。可及的速やかにお願いします」

「はッ」と、短い了解の返事を返した司教たちは、南方に重点的に奇跡の力を集め始める。



 一際ひときわ強い紅色の雷光が、首都光域の南方に垂れ込める暗雲から迸った時。

 もう全ては終わっていた。

 暗雲から放たれた紅い雷を纏う黒い砲弾は、収斂した光の使者――二十体の守護者、五十体の槍兵の殉教者と十数騎の騎兵の守護者――を一瞬にして蒸発させ、聖堂から左に伸びる通りに大穴を開けていた。

 僅かに遅れて雷鳴が光域全体に轟く。


《よし…次はもう少し狙いを右に…》

 雲の中で黒い竜は二発目の砲弾の核を、その紅い口腔の上に凝縮し始める。

 首都光域の南方に垂れ込める暗雲は、ますます濃くなっていく。

 魔脈の中心部で練り上げられた想像を絶するトーマの超々長距離ブレスは、首都の光の防衛部隊を完全に無力化していた。

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