8-6 究極の魔物

 それでも、今、自分が何をどうするべきかは、既に解っていた。

 火口の中心の祭壇に打ち込んだ携帯締結器から垂れ下がる自分の“人間の身体”が、循環を遮るくさびになっていると。

 あるいは、それこそが人としての生に戻るための“最後の安全弁”と言ってもよかった。

 それを打ち崩さぬ限り、この新たな身体で目覚めることはできない。

(―でも…何のために、誰のために…)

 もう、ユーリはいない、その心臓を喰らい殺してしまったから。

 残された蝕人たちを守るという漠然とした正義感や、殺された仲間達の仇を取るという復讐心は、人の身体を捨て、永劫に魔物として生きる道を選ぼうとするまでの勇気を与えてはくれなかった。

(―アルクス、ラルマ、ティーフ、ウェルテ、ネーヴェ、ウィクリフ…みんな、ここまで僕のために犠牲になってくれたのに、ごめんなさい…僕にはそんな決断をする勇気は、無いんです…)

 思考は泥のように停滞していく。


 …どくん

 だが、胸の内側から鼓動と共に聞こえてきた微かな声が、その停滞を押し流していく。


  気付いて

  あなたはもう孤独から最も遠い所に…

  どうしようもないほど多くの魂の中心にいるの

  君の鼓動が一番よく聞こえる場所

  君の命の一番近くに私はいるから…

  だから――


  “一緒に世界を救って。”


 

 巨大な心臓から送られる莫大な血流が、身体中を駆け巡る。

 尋常でない量だというのに、それだけの魔力の循環があって初めて身体は動くような気がした。

 火口の中心に垂れ下がる鎖が高熱で断ち切られる。

 トーマの身体は界域に沈んでいった。肩口から胸元を喰い取られたユーリの骸も、火口を覆う蝕痕の膜の中へと吸い込まれていく。

 人の生き方、身体との決別は成された。

 心と体は今、一つになっていた。


 火口の中心点の上空へと大きく跳躍した処罰者は、長大な白銀の槍を片手に振り上げ、投擲の構えに入る。白銀の槍に今までにない強烈に光が集約していき、眼を焼くような光の槍となった。

 そして、処罰者は、寸分の狂いなく火口の中心に目掛けて、渾身の浄化効果を込めた光の槍を投擲した。

 天から落ちるいかずちのような速さで落下する光の槍は、一瞬にして崩れかけた祭壇を吹き飛ばし、赤黒いマグマを縦長の▽型に掘削し深部へと突き進む。

 が、ある地点で、光輝の槍は停止した。

 抉れたマグマの逆さまの頂点で真っ赤なあぎとが、その槍の矛先に噛み付いて、受け止めていたのだ。

《簡単なことだったんだ…》

 真っ赤な歯列の隙間からは、黒色の炎が吹き出す。

 黒い炎は強烈な輝きを放つ槍を容易く包み込み、溶かし、蒸発させた。

《そう…魔力の本質とは、流れうつろう人の願いや想い…心を運ぶためのもの…》

 抉れた赤黒いマグマがぼこぼこと盛り上がり、火口に向かって噴出を始める。

 危険を察知した処罰者は、新たな白銀の槍を手に召喚しつつ、火口の上空から逃れる。

《今僕は、その流れの中心にいる》

 赤黒いマグマが火口から噴出し、山頂付近の山肌に泥濘のように滑り流れていく。

 火口上空に赤色の煙が満ちる。

《亡くしたと思っていたものは、実は自分の最も近くにあった…。ただあまりにも近すぎて気づけなかった》

 その赤い煙は、内側から発生した強烈な突風で破裂するように吹き飛ばされる。

 煙の中から現れたのは、紅色の血筋が走る黒い大きな翼を広げ、全身に鋭い黒い鱗を纏う巨大な飛竜だった。

 長く伸びた紅い角。黒い顎に並ぶ獰猛な紅い牙の列。

 胸の中心は紅く染まっている。

 翼や背から皮膚を突き破って紅色の骨が伸長している。

 その太く長い黒い尾の先からは先端の尖った細長いメイスのような形状になっていた、先端にいくほど熱せられた鉄のように真っ赤に染まっている。

 紅い眼球の中の漆黒の瞳孔が、白く輝く処罰者を見つめていた。

《僕らは、あなたたちの都合で一方的に抹殺されるような存在じゃない》

『主よ、悪しき魔物を討つ力を我に与えたまえ』

 処罰者は、空に光の足場を作り白銀の槍を構え、投擲の姿勢を作る。

 一瞬後、雷の如き速さの光の槍が黒い飛竜の胸へと迫る。黒い飛竜は、その巨体からは信じられない素早い身のこなしで光の槍を紅い尾の先で弾いた。闇夜の空中に白い直線と赤い曲線の光芒の残滓が煌く。

《もう、違和感がどうのっていう次元じゃない…この身体が自分自身の自然体だと思える》

 体勢を元に戻した黒竜は、既にその口腔に黒い炎弾を凝縮させ、照準を処罰者に合わせていた。空気を焼く音と共に、黒い炎弾が凄まじい速度で放たれる。

《この身体の何もかもを肯定できる、受け入れられる。考えるよりも先に、自然と身体を動かせる…》

 処罰者は避けることもままならず、魔力を多分に含んだ黒と紅が入り混じった爆炎に包まれた。

 黒煙を振り払った処罰者は左腕を失い、火傷のように張り付く蝕痕を半身に受けていたが、見る間に修復され左腕も再生されていく。

《どうしても…諦めないんですね》

 輝く鎧の巨人は垂直に跳躍し、黒竜を上回る高度に達するとそこで空を蹴った、“ト”の字の軌道を経て黒竜に向かって槍を構えた処罰者が迫る。が、完全に軌道を見切っていたトーマは、処罰者の突進をぎりぎりで躱しつつ、その背中に強烈な尾の鞭を叩きこんだ。

 山の中腹へ叩き付けられた処罰者、盛大に黒い土を空に巻き上げる。

 黒い砂煙が晴れ、黒い土にめり込み無残な姿を晒す処罰者の纏う白銀の鎧は、ひしゃげ、ひび割れ、白いコートは裂け千切れ、背には黒い大きな蝕痕が刻み付けられていた。

 それでも処罰者は、鎧を修復し、蝕痕を浄化しながら立ち上がる。

《もう跡塔は存在しない…あの使者はきっと、どこかにいる信徒の魂を消耗ながら戦っているはず…。まさか、その信徒たちの魂を全て使ってでも抵抗を続けるつもりかな》

『信心深き者達よ…その清き魂を我が手に預けよ…!』

 放たれた光の槍が拡散して、横殴りの光の矢の雨となって襲い来る。

 黒竜は凄まじい機動力で空中を縦横自在に飛び回り、追尾してくる多数の光の矢を回避する。

《それなら、僕だって考えがある…!》

 矢を回避しきった黒竜は、口腔に作った黒い杭を処罰者に向けて放つ。

 黒い杭は処罰者の肩口に突き刺さり、白く輝く鎧を黒く侵食していく、処罰者は黒い杭を掴み光で包み浄化しようとする。

《今だ!》

 黒竜の翼や背から突き出た紅色の骨と、胸元が赤く輝く。

 それは、魔力の増幅、操作を補佐する“造血骨”とでも呼ぶべき新たな器官だった。

《やっぱり、今ならできる、…!》

 広大な地下空間で祈りを捧げる信徒が一人、また一人と気を失い倒れていく。その手の平や首筋には、ほんの僅かな蝕痕が出来ていた。

 トーマは、単に奇跡を侵蝕して破壊するのではなく、その先に存在する“信徒の魂に直接介入して、魔脈へと繋ぎ止めて”いた。

 莫大な魔力のプールから、対象の人格、思考にそぐう形質の魔力を選択して注入するための微細な魔力への理解と、浄化に負けない濃度を維持する干渉能力があればこそ可能な業だった。

《そんなに難しいことじゃない、誰もが命を捨ててまで悲しみ憎しみ続けられるわけじゃない、僕はただ手を伸ばせばいいだけ…教会の信仰を捨て、魔力を掴むのは信徒たち自身なんだ》

 腹部と太腿に、追加の黒い杭が射ち込まれた処罰者は、黒い土の上に手をつき跪く。白銀の鎧はその輝きを失おうとしていた。



 魔力の侵入基点となっていたダニロの骸は、胸元に大きな蝕痕を刻み付けていた。

『信心深き者達よ、安らかな時の流れの中で休みたまえ』

 教皇が言葉を放つと、地下居住空間の全ての人々の動きが、凍結してしまったかのようにピタリと止まる。

《我が主よ…徴収レヴィの効力が阻害されています、これでは彼の魔物と戦うことはできません…》

「確かに私が今、地下の信徒の配列(リソースアレイ)に施した“停滞ステイシス”は、君へのリソースの供給を阻害してしまっているだろう、だけど、それ以上に侵蝕の拡大を抑える方が重要だ。全くもって、“敬虔なる信徒が一瞬にして蝕人になること”などあってはならないからね。残念だが、君はその黒い竜には敵わない。また、私からの助力も期待しないでほしい。下手に干渉して無用な侵蝕を地上の配列アレイに招く危険を冒すよりも、大浄化の発動を急いだ方が合理的だ。ありがとう、後は私に任せて、君は安らかに眠ってほしい」



 頭上に冠していた光輪が消える、白銀の鎧やコートが纏っていた光彩は失われ、全身は黒ずみ、ひび割れ、土になって崩れ落ちていく。

 破格の力で次々と預言の魔物を打ち滅ぼした処罰者は、ここに消滅した。

《僕は憎しみを心の糧にはしたくない…。まずは、この循環をなんとかしなきゃ…》

 黒い杭を火口の縁に十字を作る様に四方に撃ち込むと、火口の中心上空で尾を丸め、翼を自分を覆い隠すようにして畳む。

 赤色の球体の膜が黒竜をすっぽりと覆い、ちょうど、真っ赤な卵のような姿となった。その表面では循環する魔力のムラが、這い伸びては消えを繰り返す蝕痕として現れている。

《みんなが残してくれた魔動脈は、ちゃんと教国全域に根を伸ばしてる…網目のように複雑なのに簡潔な線のような構造で、常に崩壊を続けているのに貪欲に再生しようとする…面白いな》

 大きな鼓動が空気を震わせる。莫大な魔力が血潮の山を中心に教国をくまなく循環しているのが感覚できた。

 全魔力構造の核となったトーマは、魔動脈に干渉し、教国全土の蝕の中に住む者達の魔脈の乱れや滞留を調整し、可能な限り皆にとって負担の少なくて済むように流れを正していた。

 もう、誰かを犠牲としなくて済むように。どこかに負担を集中させて犠牲の上に力を得るような事がないように。

《僕は一人になってしまった、と思っていたけど、それは違った》

 アルクス、ウェルテ、ラルマ、ネーヴェ、そして、ティーフ、皆の魂を吸収し、彼らの有していた認識、統率、侵蝕、構築、操作の能力をトーマは取り込み、複合的に使用していた。

《皆の全ての魂は、この“ユーリの心臓”に繋がっている…》

 魔脈の全てを一手に掌握し、全ての魔力の恩恵を受け、それを意のままに操ることのできる唯一の存在。

《この魔脈に通じる全ての人の命…大浄化を止めるまで、ほんの少しだけ使わせてもらいます》

 それが究極の魔物の正体だった。

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