8-3 愛のかたち

 自分の居場所、頼りにしている人や、大切にしている人、当たり前の日々を構成する色んなものが、ある日突然、滅茶苦茶に破壊されて取り返しがつかなるなるのではないか…。

 ふと、そんな事を本気で心配している自分がいる事に気づく時がある。

 魔物による被害も無く、アンヴィルの村は平和なのに、心の中のざわめきは、日が経つにつれて大きくなっていく。

 どうすれば、この言いようのないざわめきを止められるのだろうか。

 あの子、竜と共にいた……いや自分と竜は同じ存在だと言っていた少年。

 トーマがその鍵を握っている気がしてならなかった。



 地下墓地内部の魔脈と繋がるありとあらゆる器官、装置、経路、試料は浄化効果に晒され、赤黒い表面に白く輝く亀裂が走っていた。

「お終いね…何もかも…」

 円形の浅めの槽のある大広間。

 その槽の中には赤い液体が薄く張られており、その円の中心にヤンは膝を抱え座っていた。

 服を纏わない白い肌の裸体を覆うのは、蝕痕と随所に書き刻まれた指示呪文。

「なんでこんなことしてるのかしら、私」

 槽の床にある大きな結節からは、幾本もの赤い管がヤンの身体に絡まるように這い伸びている、あやふやなものではなく、確かな実体を持った太い血管のようなものだ。

 それは、ヤンの左右の首筋、両腕の関節近くと両手首、両足首、臍部、さらに一際大きい管が胸の中心――鳩尾みぞおちの辺りにまで繋がって脈動していた。

 一種の迷路を構築し、浄化の光が届かないように時間を稼いでいる。

「あの子たちを、ベリダに住む者を守るため…教会の横暴に対する義憤…あなたを助けたいという思い」

 部屋の四方の隅に白く輝く染みが現れる。血と蝕痕に塗れていた空間は、清浄な光と空気に満たされつつあった。

「いいえ、違う、疲れてしまったのね…そう、私は浄化されたかったんだわ…」

輝く白い染みは、部屋の中を這う蝕痕を消滅させながらヤンの浸かっているプールへと迫る。

「でも、いいわ。私の研究成果は全て保存したし。いつか、誰かがあれを見つけ、人々のために使ってくれる事を祈ってるから……」

 浄化の光は広間の中心に達する。

 ヤンの身体に光の筋が登り、その血液と共に身体中に這い伸びていた蝕痕を抹消していく。

「さようなら、ウィクリフ」

 ヤンは光の粒なって消え去った。



「ハイブを放棄する」

 暗い表情の少年少女を前に、蝕痕の這う低い台の上に立つウィクリフは開口一番そう言った。みな帰化を解除してからろくに礼拝堂に上がることもできないため、皮膜服姿のままだ。

 ウェルテは即座に質問を返す。

「ラウラはどうするの?」

「どうもしない。構築した生命維持基盤を破壊することもしなければ、積極的に調整、維持することもないだろう」

「魔脈に飲み込まれたらそれまでってことね」

「あるいは浄化の光の飲まれるか、だな」

「やっぱり…放棄しなきゃいけないほど、危険な状況なんですか?」

 そろりと手を挙げ、発言するトーマ。

「ああ、先のアルクスが乗っ取られる瞬間の記録を見直したが、媒体も依り代も必要とせずに、まるで手足が如く強力な奇跡を立て続けに、しかもたった一人の術者が使者を介して遠隔から行使しているのを確認した」

 ウィクリフは啓発に視線を落とし、淡く輝く頁をぱらりと捲る。

「強力に秘匿されているはずのアルクスの姿を発見した“看破ディテクト”、心の隙間に強制的に介入し他の干渉を拒絶する“断行インタラプト”、意思疎通を計るための“対話ダイアログ”、精神の構造を書き換え掌握する“浄化ピューリフィケイション”、そして、対象者の精神と肉体をそのまま依り代として使者を呼び出した“顕現エヴォケイション”と、顕現した使者を支えるための信仰を強引に引き込んだ“神性ディビニティ”。ここまでルールからの逸脱行為が許されているのは、リソースの中心に位置し法を作る存在である、“教皇”ただ一人だ」

「存在そのものがもはや奇跡の塊じゃない…“神の代理人”とはよく言ったものね」

 口元に手をやり、俯くウェルテ。

「アルクスの記憶を見られたということは、都市を襲っている魔物の中にあるのは、僕ら…人としての意識を持った魂であるということも既に把握されているんでしょうか」

 トーマも平静を装うが、その声に滲む不安までは消せなかった。

「その可能性は高い。なお、アルクスの魔脈を通じて浸透してきた浄化の光だが、今までは“ある場所”を囮にすることで時間を稼いたが、それもじきついえる。遠からずここは完全に浄化されるだろう、教会の者が乗り込んでくるのも時間の問題だ」

「でも、教皇がそんなことをしているなら、大浄化は誰が指揮してるわけ?」

「大浄化の準備は言ってしまえば“浄化者の卵にリソースを集中させ、その孵化を目指す”というものだ。おそらく、卵が自律的にリソースを吸収できる段階まで進行したのだろう。残された時間は少ない」

「大浄化は順調に進んでる、魔物とおれらの関係も根城もバレて棄てざるを得ない、貴重な仲間を一人失って、おまけに教皇サマに目を付けられてるときたもんだ」

 締結器の一つに近寄り、その腕に手を乗せるラルマ。足元の結節には白い亀裂が入り始めていた。

「加えて、今までにない膨大なリソースがベリダ南方で行われている儀式に集約されている。おそらくあのリソースを投じられた使者が顕現するとしたらそれは“カプアの守護者”を上回る能力を備えた規模のものになるだろう。これほどの規模の強い想いを一朝一夕に集められるはずはない、可能性があるとすれば―」

「まさか…今まで破壊してきた都市から避難していった人たち…ですか」

「その通りだ」

「じゃあ、はやくその顕現を止めに行かせて」

 ぽつりと言うネーヴェはウィクリフを睨む。

「そうだよ、さっさとベリダの南に集まってるその信徒どもを殺しにいこうぜ!そうすりゃ顕現もくそも無くなるだろ!」

 声を荒げるラルマは、握った左拳で締結器の腕を叩く。板金と鎖が擦れる音が空間の中に響くが、ウィクリフはあくまで淡々を言葉を続ける。

「アルクスが教会に屈したことで、戦力を一つ失うに止まらない甚大な被害を出した、それらは全て危機管理を怠った俺の責任だ。いくらでも責めは負う、しかし、今は聞け。ハイブに浸透する浄化の光はいつ爆発的に広がっておかしくはない、もはやここから潜るということは教会へ自分の魂を差し出すことと同義だ。そして、ベリダ南方に集合しているのはフィエンツの住民だ、奴等の性質上、殺傷したところで顕現を止めるどころかむしろ早める危険すらある」

「へえ、そりゃいい。その使者が俺らをぶち殺す前に、降服しようぜってわけだな」

 挑発的に言うラルマ。

「まだ手はある、この状況を打破することは可能だ」

 ウィクリフの眼には、強い覚悟が秘められていた。

「では、教えて下さい…その手を」

「トーマ、お前は“究極の魔物”になってもらう」

 恐るおそる聞くトーマに、ウィクリフは断固とした答えを返した。



 首都地下居住空間。

 なだらかすり鉢状の広大な円形の空間の中で今、ここに避難してきた全ての者が、無機質な白い居住部屋の外に出で中央に向きずらりと細い縁路に並び、両手を組み合わせ膝を降り、祈りを捧げていた。

 広大な空間の中心、すり鉢の底、銀の槍で作られた檻の中に、預言の魔物によって住む場所を追われたマルフィナ、クラーザ、カプア、ジェハノ、四つの都市の元住民たちの怒りと悲しみが込められた強い輝きが収斂されていく。

 その輝きは処罰者の卵を包み込んでいた。

 蒼白に憔悴した顔のダニロは、都市を追われた民の思いを一身に集め、それを処罰者の卵へと流し込んでいく。

「臓腑より産まれし土は、左足から立ち上がり、右足を踏みだす、その右手に処罰のやりを持ち、その左手で悪しき魔物を掴むだろう」



 ベリダ南方の村、トポールより少し東側にある小高い丘の上。

 夜闇の下、一千人ほどの白い服を纏った者達が、その丘の頂を中心にして、十重の円陣を形作っていた。円陣を作る彼らの表情は常に虚ろで、みな例外なく手足は細り、落ちくぼんだ眼窩と痩せこけた頬、という様相だった。それは決して、フィエンツからここまで昼夜を問わず歩き続けてきたかたというわけではない。

 円陣の外縁に、細い光の柱が生まれていく。

 円陣の中心には、白いローブをまとった子供、代行者がいた。

「罪を犯し、許しも乞わず、なおも外れた道を進もうとする者に必要なのは、然るべき罰だ」

 代行者の下から、白い羊皮紙に日輪の印の黄色の封がされた書簡を足に持った三羽の伝令者が飛び立っていった。



「――概要は以上だ、細かい指揮はウェルテが執る」

 少しの沈黙の後、ラルマは不満そうな声をあげる、

「…何をするのか、だいたい分ったけどさ、どうも仮定が多すぎる気がすんだよなぁ、なんか大事がことが抜けてるっていうかよ。トーマ、ネーヴェ、お前らもなんか言えよ、納得できるのか、こんな作戦」

 本心からというわけではなく、ウィクリフへ文句の一つでも言いたいだけ、という様子のように思えた。

「あたしは言われた通りやるだけ」

「僕も、信じます。今まで破壊してきた都市に住んでいた全ての住民の祈りに対抗するには、僕らもきっと相応の覚悟をしなきゃいけないと思うから…」

「そうかい、そりゃ上等だ」

「異論がないなら、話を進める」

 ウィクリフは啓発者を畳むと、その表紙を少年少女らに向けて差し出す。

「自分の利き手の掌をここに乗せろ、啓発者の力の一部を転写する」

 その言葉を聞いたウェルテは微かに訝しむような視線をウィクリフに送ったがすぐに逸らした。

 すぐに乗せるネーヴェ、次いでウェルテ、ラルマは左手を乗せる。トーマは最後に少しの逡巡の後、右手を乗せた。

 蝕痕の刻まれた掌へ白い日輪のシンボルが転写されていく。

「これで、お前達の間で相互に“対話”は可能になった、最悪、俺が死んだとしてもこの効果は持続する」

「永遠にこのままってわけじゃねえよな」

「啓発者の役目である、肥大化する教会の抑止を終えれば自然に消滅する」

 転写を終えたネーヴェは、一人、最も浄化の影響の少ない結節の上に乗り、掌を付けた。

「ネーヴェ、本当にいいのね?」

 心配そうに問うウェルテ。

「魔物だろうと人だろうと、あたしは何も変わらないから」

 締結器の枷も装具も付けずに、結節の上に乗り、跪くネーヴェ。

 黒い表皮に右手を付こうとして、ふと止め、その手で左目の傷痕の感触を確かめるように撫でる。そして、皆が見守る中、結節に飲み込まれて行った。

 浄化が進むハイブの結節を利用する唯一の方法、それが人の身体を棄てて完全に魔物に戻ることだった。

「ウィクリフはここに残るんですか?」

「ああ、お前達が退避した痕跡を可能な限り消す。案ずるな、俺はここで死ぬつもりはない」

「でも、どうやって――」

「行け。二度は言わん」

「…無事でいてください」

 ウィクリフは、啓発者に視線を落したまま片手を上げて答えるだけだった。

「おい、いくぜ、トーマ」

 トーマ、ウェルテ、ラルマの三人は、二重三重に鎖が巻かれた人の腕程の長さのある装置――携帯型の簡易締結器を背負って、ハイブに空いた狭い通路へと歩んでいった。


「全ての蝕人の命を、お前たちの肩に預けてしまっているのは、あまりにも酷だと思う。だが、何があっても諦めるな…お前たちの鼓動はまだ止まっていない」

 残されたウィクリフは、低い声で一人ごちる。

 ハイブの中を這い覆う黒い蝕痕は、ますます白い筋によって塗り替えられていた。



 二、三回ほど角を曲ると、地下通路は天然の洞穴に繋がっていた、変化に乏しい暗闇の中を歩いていたからか大して歩いていないはずなのに、時間の進みは泥のように重かった。

 洞穴から抜けるとそこは、蝕痕に塗れた草木が茂り豊富な魔力が脈動と共に流れ行く異形の森、血潮の山の麓だった。空を覆う木々の葉が二つの月明かりを隠している。

「さてと…あぁ、ちゃんとこっちに向かって来てるな」

「でも、本当によかったのかな、ネーヴェは…」

「嫌だったら、そうはっきり言うぜ、あいつの覚悟を安く見るなよ」

 土を踏みしめる大きな足音と共に岩陰から、青みがかった灰色の毛皮の巨狼が現れる。

 その巨体と冷たい双眸は、見る者に根源的な恐怖を抱かせる力があった。

 右手の掌に薄く刻まれた白い輪の痕が、微かに輝く。

《乗って》 ネーヴェの声だ。

 巨狼は目の前に来ると、身体を伏せた。

「お願いします」

 小山のような背に登り、跨る。柔らかな灰色の毛皮とその下に秘められた隆々としなる獣の筋肉が伝わってくる。

「じゃ、気を付けろよ」

「何かあったらすぐに“対話”で報告しなさい」

「はい…行ってきますね」

 両手足が結晶でガチリと固定されたかと思うと、灰色の巨狼は森を凄まじい速度で駆け上がっていく。

 二人の姿は直ぐに見えなくなった。

 木を躱し、岩を踏み、川を飛び越え進む、その走りに迷いは無く、まさに勝手知ったる庭を自在に駆け回っているようだった。

 木々が疎らになり、見覚えのある岩場を進む。

《近道する。ちゃんと掴まってて》

「え、ここを?大丈夫…?」

 巨狼は、ほとんど垂直の岩肌に爪を突き立て、結晶で固定と解除を繰りかえしながら、ぐいぐいと登っていく。

「あ…!」

 爪を立てた衝撃で両腕で抱えられそうな大岩が岩肌の切れ目から落下してきたが、巨狼は容易く大顎で受け止め、下に放る。

 崖の上は薄赤い湯の張られた広い池が広がっていた。

「ネーヴェは、初めて魔物になった時の事とか覚えてますか」

《…忘れた》 巨狼は砂礫の浜を走り抜ける。

 視線を上に向けると、紅い霧の立ち込める山の頂が間近に迫っているのが分った。


 暗い魔力の森の中に残されたウェルテとラルマは、細い獣道を進む。

「そういや、ウィクリフはなんで、あんな教会にたてつくことに御執心なのかね、知ってるか?ウェルテ」

 地図を持っているわけでもないのに二人の足取りは淀みなく、明確に目的地点へと進んでいた。太い魔脈の位置と経路をすぐに把握し、それに添って歩いていた。

「ウィクリフには元々、蝕人の子供がいたのよ、先立たれた奥さんの形見としてそれは大事にしていたらしいわ。彼が破門されたのは蝕の研究していたからではなく、蝕人の子供の出生を隠していたから…」

 ウェルテの足元に一匹の大きな蟲が歩いてきた。姿形は蟻異種フルミナだが、その腹部は、ゆっくりと明滅する橙色に発光を宿しており、暗い道の先を照らしてくれていた。

「なるほど、それが教会にバレたと」

 ラルマも器用に、蝕痕の刻まれたうねる気の根や枝を避けて歩む、極僅かな明かりでも視界に不自由はしてないようだった。

「そう、教会は単に破門するだけに止まらず、ウィクリフの中にある我が子の記憶までまるごと消したらしいわ」

「さすが、むごいことしやがる」

「そして啓発者の顕現を成した後、自分の経歴を調べ、自分に子がいたらしいという事実だけを見た。つまり、全ての蝕人を助けるということは、ウィクリフにとって、自分の子を助けることでもある…というわけ」

「顔も声も知らない単なる記録の中の子を…ねぇ。まあ分ったような気がするぜ。あいつは、とことん回りくどい事が好きだってことがな」

「そうね」 立ち止まるウェルテ。

 視界の先、少し開けた空間に、丁度良く蝕痕が集約し結節を作っていた。

「先に、使うわよ。繁殖胞の準備や偵察もしたいし」

「ご自由に、俺はもう少し登るぜ」


 薄赤い液体の流れる細い川。

 その岸辺に埋まった平たい岩の上に大きな結節が生まれている、しかし、ラルマは目の前の結節に潜ろうともせず立ち竦んでいた。

《どうした》 ウィクリフの声が聞こえる。

「…やっぱりよ、俺は納得いかねー。俺はあんたの願望を叶えてやるための道具じゃねえんだよ。今回の作戦だって、トーマの進化を当てにして、俺たちは捨石みたいな扱いじゃねえか」

《否定はしない》

「あんたは“生きるための戦い”だって言ってたよな。死ぬための戦いをしろってんなら…俺は付き合いきれねえ」

 ラルマは肩に提げていた携帯型締結器を地に放る。ガシャリと音を立てて、鎖と杭の装置は黒ずんだ土の上に落ちた。

《逃げ出してもいいが。大浄化を止められなければ、どのみち蝕人であるお前の未来は変わらないぞ》

「知るかよ。案外、蝕痕も何もかも綺麗さっぱり無くなって、明るい平和な世界で暮らせるかもな」

《そうか、残念だ》

 ラルマは結節の前から立ち去ろうとした。が、

『主よ、闇の中に迷える子に献身の光を与えたまえ』

 その足は痺れたように止まってしまった。

 ウィクリフは、細い銀の刺突短剣スティレットを取り出すと、啓発者の頁の上に乗せた左手の掌を深く突き刺していた。

 掌を貫いた刃は啓発の頁にまで達し、血の滴るウィクリフの左手は、広げられた黒い頁に縫いとめられていた。

「なん…だよ、これ…結局、てめえも教会と同じじゃねえか…」

 ラルマの左手の掌に転写された日輪のシンボルが強く輝きを放つ。

《より多くの蝕人を救うこと。そのためなら俺は、手段を選ばない》

「っへ…やれるもんなら…やってみろ…よ」

 左手の掌で掻き毟る様に胸の中心を掴む。日輪のシンボルは蝕痕の刻まれたラルマの胸に転写され、深部へと浸透し、その魂を掌握する。

 結節の上に、蝕痕の這う褐色の少年の身体が倒れ伏す。

《ティーフ、界域に落せ》

 締結で繋がれてもいないラルマの身体は、蝕痕の中へと吸収され、界域の中の更に奥深く、中心へと沈んでいく。

《ウェルテ。影の魔物に高純度の寄生異種パラシタを射ち込め。肉体的な限界は考慮しなくていい。その後、影の魔物の制御はお前に任せる。有効に使え》

《了解…》



 巨狼は血潮の山の頂、火口の縁に辿り着いていた。

 むせ返る鉄っぽい血の匂いが鼻をつく。耳の奥では、大きなゆっくりとした脈動が響いていた。

「ここが血潮の山の頂上…」

 あまりの心地よさに、人が立ち入るべきでない異形の領域だということを忘れそうになる。

《思い出した》

 周囲には、もうもうと紅い湯気が立ち込めており、熱気が肌に纏わりついてくる。

 火口は赤い筋の走る黒い表皮に覆われている、その火口表層には、紅い界水が足首まで浸かるくらいの浅さで張られていた。

「え、あの―」

《嬉しかった》

「ああ、初めて魔物になった時のこと、だよね」

《そう》

 その中央には、白い石材で作られた祭壇らしきものが見える。

 しなやかで強靭な巨狼の背は、その祭壇の前で止まった。

「そっか、僕も同じです…嬉しくて、なんだか…今までは無理だった何かを変えられる、今までは無理だったことでもできる、そんな気がしました」

 手足を固定していた結晶は砂のように溶ける、低く伏せてくれた巨狼の背から降りる。

「ありがとう、ネーヴェ」

 巨狼は一瞥いちべつを返すと、すぐに火口から飛び出していった。

 祭壇の中央に大きな円形の溝の開いており、いかにもここから潜って下さいと言わんばかりの造形をしている。

 携帯型の締結器の杭を蝕痕の這う白い石材に突き刺し、右手に枷をはめ、黒い円の中心に歩み出て、跪き掌を乗せる。

 そして、すぐに理解した。

「すごい…これが、魔脈の心臓…」

 これまで感じてきた魔力の流れとは全く違う、全方位から大きな魔力が集約し、そして放出されていく。

 その爆発的な量と濃度に眩暈がしそうだった。

 自分には不相応なんじゃないか、という思いが沸き上がるのをなんとか振り払う。

「やっぱり、そうだ…この感じ、ユーリの手のひらに似てる…きっと、大丈夫」

 手のひらから感じる脈動に意識を向けると、すぐに黒い皮膜が身体を覆い始める。

 僕は、火口の中心に飲み込まれていった。



 聖室の前でベリダ大司教は一呼吸整えた。

 この部屋の中で自分を待つ人物の事を考えると、いつもの余裕ある尊大さは紙屑のように圧縮されてしまう。丸い頬に垂れた冷や汗を震える手で拭うと、大司教はゆっくりと扉を開いた。

「――やあ、ご苦労様」

 長めの金糸の髪、女人と見違えるような整った顔の青年がにこやかに出迎えた。

「大変お待たせしました、教皇猊下!いやはや、事前に一言頂ければ、ええ、少しは相応の準備もできたのですが」

「気にしなくていいよ、今は非常事態だ、公式な訪問でもないし儀礼的慣習を気にしてる場合じゃない。それよりどんな状況なのかな?」

 今日の天気でも聞くかのように教皇は大司教に問う。

「は、私共わたくしどもでは関知していない使者が西方より去来、更に各都市を破壊していると思しき強大な魔物が次々と出現し両者は市内で衝突、使者は魔物によって破壊されたらしく、魔物どもは血潮の山へ逃亡…。また、ベリダ南方、トポールの村の西側には、いずこから移動してきた多数の難民が集結しているという状況…でして、もう何から手を付ければよいのかほとほと困り果てております…」

「大変だったね。難民のことは大丈夫、彼らは彼らに課せられた役目によってやってきたんだ。ここに現れた預言の魔物たちについても、私がなんとかしよう」

 大司教は、微笑みながら自分の言葉を聞く教皇を前に、そろりと冷静になり、問うた。

「真でございますか…一先ひとまずベリダ内を回り、無用な恐怖と混乱に乱れる蝕人たちを鎮めておったのですが、これで一息つくことができます。では、早速、都市内の各管理官を招集しましょう…ああ、そうです、審問の院のウィクリフだけは、何を考えているのか衛兵に“いかなる者も一切の立ち入りを禁じる”と指示しているようで、こんな時に…全く理解に苦しんでおります」

「よく分かったよ。ただし、誰も召集する必要はない。ただ、君の魂を私に預けてくれればそれでいい」

「は、え…魂…ですか?」

「そう、今すぐあの魔物たちを討ち滅ぼすのにどうしても必要なんだ。どうかよろしく頼む」

 微かに固まりかけた大司教だったが、すぐに引きつった笑みを浮かべて答える。

「も、もちろんでございます!猊下のお役に立てるのならこんな幸福は他にありません!どうぞ、お使い下さい!」

 そして太った両手を組み合わせて跪いた。しかし、その両眼は恐慌に見開いている。

「ありがとう、君の献身は必ずや多くの民を救うだろう」

 その頭上に、教皇は白く細い手を翳し、言葉を唱えた。

『善き魂よ、ここに天の使いを導くしるべとなれ』

 ベリダ大司教の恰幅の良い体躯の輪郭は、霧にように崩れ光の粒となって教皇の掌の上に集まる、そして、光を纏った銀の輪へとその姿を変えた。

『主よ、我々の願いと行いが光の下にあるならば、我々にあなたの目と耳と口を授けたまえ』

 背後に振り向く教皇、見上げる聖体が、小さく凝縮していき、金の装飾と光輪を背に冠した白い鳩の姿へと変じる。

「さあ、届けにいっておくれ」

 聖室の扉を開け、銀の輪を乗せた掌を捧げる教皇。

 聖体から変じた伝令者は、掌の上の銀の輪を掴み、開かれた扉から飛び立っていった。



「浮かない顔だね、考え事かい」

 顔を上げると、厳しいが優しい光を秘めた老女の眼に見つめられていた。イルダさんはいつも本当に聞いてほしい時にだけ、声をかけてくれる。

「あの、今日は祈りの会に参加したくないんですけど…だめ、ですよね」

 口に出してから後悔した。大事な集会に行きたくないだなんて。こんな時こそ、しっかりと祈らないといけないのに、なぜか自分の胸の内はそんなことをしている場合ではないと叫んでいた。

 叱咤の言葉を覚悟したが、返ってきたのは違うものだった。

「いいよ、そういう日もある。大人しくしてな」

「すいません、イルダさん」

 姿勢の良い老女は、銀の輪の首飾りを首に掛けると、小さな家から出て行った。


 薄暗い朝の礼拝堂で一人、準備をしていた神父は「ばたばた」という羽音に手を止めた。

 今日は週に一度、村人全員が礼拝堂に集い、生きている者の平穏を、そして亡くなった者の安寧を祈る集会の日だった。

 音の方向、南の窓を見ると、窓枠に丸められた白い羊皮紙が置かれていた。

「不用心だなぁ、こんな文の渡し方、聞いたことないぞ」

 神父は眉根を寄せながら、その丸められた羊皮紙を取る。円形に複雑な太陽を模した印の黄色の蝋封がされた書簡だった。

「これは…教会からの正式な書簡だ。大浄化に関する注意だろうか…」

 神父はパキリと黄色の蝋封を割って、ゆっくりと丸められた羊皮紙を広げた――。


 鐘の音がアンヴィルに響き渡る。教会には怪我や病気で動けない数人を除き全ての村人が集まっていた。

「あ、イルダおばさん。ユーリは一緒じゃないの?」

 礼拝堂の入口近くにいた、両腕に蝕痕のある赤髪の少女は無邪気に老女に話しかける。

「熱だして寝込んでるよ」

「そっか、珍しいね。あのさ、今日の神父様ちょっとおかしいと思うんだ。なんかやけに落ち着いてるっていうか」

「…ジゼ、あんたちょっと、今からユーリの様子見に行ってくれないか」

「え、もう祈りの会、始まっちゃうし。この後じゃだめ?」

「…そうさね、まあ、終わってからでもいいかね」

 集まった者は皆、その日の神父様の様子がどこかおかしいのにすぐ気付いていた。しかし、神聖な祈りの時間に水を差すようなことをしたくないのは皆同じで、祈りは黙々と行われていた。

 一通りの祈りを捧げた後、変わり映えのしない神父の「なんでもない日々の尊さ」そして「ある程度の緊張を持つ事」の旨を伝える説教が行われる、大仰なたとえ話も奇跡という言葉も使わない、本当にただの注意喚起のような内容だ。そして――

「――では、みなさんの魂が清きものになることを、心より祈っています」

 神父は光に包まれて、光の粒となって消えてしまった。

「神父様…?」

 そして教会の壁に飾られている、太陽を象徴する大きな白い白銀の輪が輝き球体に変形する、その球体の中から、十匹程の白く輝く鳩が飛び出していった。

 その鳩は次々と茫然とする村人達の心臓を貫いていった。

 貫かれた者の身体からは、瞬く間に蝕痕が消え、大人しく祈りを捧げ始める。


 どくん…

「なんだろう、何かおかしい」

 胸を突き刺すような悪寒を感じ、窓から外を見る、眼に飛び込んできたのは、教会の周囲を旋回する輝く白い鳩の群れだった。思わず、窓際から後ずさる。

「…あれ、なんで私、あの鳩が危険だって思うんだろう…きっと教会の神聖な存在のはず」

 逃げないと、心はそう叫んでいる。どこか、安全な場所…“北の崖”。もし自分に逃げられる場所があるなら、そこしかない。どうしようもなく、そう思えた。

「…でも、だめ、もう柵は修理されてるし。じゃあ、門から出て…いけるかな」

 こっそりと家を出て、教会から影になるように家の合間を縫ってすすむ。

 崖の上に行ってどうするのか、そんな冷静な思考が頭をよぎるが、とにかくそこしか行くべき場所はない、と胸の内側から突き動かされるように、村の西側の門へと走った。

 そして、門に辿り着いたが、その場で立ち尽くすしかなかった。

「なに…これ…」

 丈夫な材木で作られた門は白い光の格子が覆っていた。まるで、逃げようとする獣を閉じ込めるかのように。

 悪寒を感じて振り返ると、村の上空を旋回していた一匹の白い輝きを帯びた鳩が、光の格子の封の前で立ち尽くす自分に目掛けて飛来する。

 思わず目を閉じ、一人の少年の名前を心の中で叫んだ。

(―助けて…トーマ)

 自分の近くで何かが炸裂する。衝撃で地面に倒れ込む。続けて、熱を持った大きな突風が吹き、どすんと何か巨大なものが近くに落ちたような音が空気を揺らす。

「何が、起きたの…?」

 恐るおそる起き上がり、目を開くと、目の前に紅い鱗を身にまとった大きな飛竜が、まるで自分を庇うかのようにして佇んでいた。その瞳は間違いなくトーマのものだと感じた。

「トーマ…」

 紅い飛竜は唸り声を上げながら、長い首を少女の前に横たえる。

「“乗れ”って言ってるの?」

 自分を見つめる竜の紅い瞳は一度瞬きをしただけだった。

 意を決して、竜の首元に跨る。飛竜はゆっくりと起き上がり、村の中から飛び立った。自分の住んでいた小さな家、教会、墓地、村を囲う高い木の柵、そして村の北にある崖が、見る間に足の下で小さくなっていく。

「イルダさん…神父様…、みんな、ごめんなさい…何もできなくて」

 輝く白い鳩が少女を乗せた飛竜を追い落とさんと迫ってくる。

 紅い大きな翼が羽ばたくと、夜空に火の粉が舞い散る、一瞬後、後方に流れた無数の火の粉は、小さな爆炎へと変わり、白い鳩を巻き込んで消滅させた。

 少女を背に乗せた飛竜は、ベリダを越え、ぐんぐんと高度を上げ、血潮の山へと向かう。振り落とされないように必死で掴まっていることしか考えられなかった。

 そして、血潮の山を山頂に達すると、赤黒い皮膜で蓋をされた火口、その中央にある小さな祭壇の前に降り立った。

「こんなふうになってるんだ…知らなかった…でも、なんか初めて来た気がしない…ずっと前からここにいたような」

 竜は首を下げ、降りやすいようにしてくれた。

「ありがとう…助けてくれて」

 ゴツゴツとした首元から降り、その瞳を覗こうとしたが、竜は鋭い顔を下げ、瞳は閉じられていた。

「聞きたい事が沢山あるんだけど…きっと君は答えてくれないよね…だから、少しでも私の話し、聞いてくれる?」


《どうした、トーマ》

《…》

 目の前の少女は、沈黙する自分に対して話しかけてくれていた。

「本当はユーリっていう名前、男の子に付けるものなんだよ、でも私の産まれた村ではね――あ、アンヴィルの村じゃなくてもっと血潮の山の北側にある小さな村なんだけどね――そこでは魔除けのために女の子は男の子の名前をつける習慣があったの…変だよね、でも、気に入ってるんだ、この名前」

《その少女は、魔脈の心臓を持つ者だ。その少女を喰らう事で、お前は究極の魔物になることができる、そう教えたはずだ》

 ユーリは鋭い歯列の並ぶ大きな顎、温かな硬い鱗に手を添える。

《僕がこの子の事を好きだから、それが僕でなければならない理由…なんですね》

 竜は微かにビクリと身体を揺らす。

「…あの林檎ジャム食べてくれたかな、どれくらいのペースで食べてくれるか判らなかったから…かびが入り難いようにお砂糖多めにしたんだけど、甘すぎなかったかな…」

《そうだ、“魔脈の心臓”を正しく取り込むには、それに対して最大限の興味と感心を抱いていることが必須条件だ。一体どうすれば魔脈の心臓などという不確定な存在に興味や関心を抱けるのか苦慮していたが。その少女の魂が魔脈の心臓と根底部で繋がっていたのは、好都合だったな》

 竜は動かずに顔を下に向けている。

「あのね、私、なんとなく気づいてたんだ。自分が普通じゃないこと。そう…きっと、君は私を助けてくれたわけじゃないんだよね……」

 少女は優しくも悲しげな目で竜を見つめた。

《やっぱり、できません》


「よろしい。ならば、“手を”貸そう…」

 机の上に広げられた啓発者の頁は紅く染まっていた。ウィクリフの血ではない、トーマの魂の情報が書かれた魔力を多分に含んだ頁であるために、紅く変色しているのだ。

 ウィクリフは、その紅い頁の上に掌を置くと、その上からナイフを突き立て、短い言葉を唱えた。

『主よ、闇の中に迷える子に勇気の光を与えたまえ』


 どくん…


 にわかに竜は獰猛な眼を見開く。そして、

「ベリダに住む人達を、みんなを、助けてあげて、トーマ――」

 少女の肩口からかぶりつき、その心臓を喰らった。

 白い祭壇が少女の骸から溢れた夥しい血で赤に染まっていく。

 少女の心臓を喰らった竜は、天に向かって一際大きな咆哮を上げた。

 その声に反応するように火口を覆う黒い膜に這う赤い筋がミチミチと音を立てて肥大化し、どくどくと活発に脈動を始める。

 紅い竜の身体は、脈動する蝕痕の膜に覆われ、火口の中へと飲み込まれていった。

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