8-2 仲間

「トーマは、直ちに魔物に帰化してベリダ西部上空へ来い」

「はい――え、ベリダの上空に…ですか?あの、さすがに人目に付きすぎるんじゃ」

「早くしろ」

「…了解しました」

 有無を言わさぬウィクリフの圧力に押され、結節の中へと潜っていくトーマ。

「ラルマ、アルクスの使っている締結器の背に回り、レバーを降ろせ」

 ウィクリフはあくまで淡々と指示をするが、その表情には隠せない焦燥が滲み出ているのをラルマは見逃さなかった。

「締結器の背のレバーって、鎖を断ち切るやつだよな?おい、一体、なにが起きてんだよ」

「アルクスが奇跡の力を前に屈した。身体を界域に逃せば、まだ魔力の核である魂までは浄化されずに済む可能性が高い」

「界域から身体を引き上げるとか、なんかないのかよ」

 枷や装具ハーネスを外しつつ、ウィクリフを睨むラルマ。

「手遅れだ。既にアルクスの精神は聖域と繋がれ掌握されている、無理に引き上げても記憶と人格を破壊するばかりか、浄化を撒き散らす傀儡をハイブに招き入れるだけだ」

 アルクスの身体へと繋がる五本の鎖の沈む結節の黒い表皮には、白い亀裂が入り始めていた。

「クソ…一体なんで――」

 背にあるレバーを掴み、渾身の力で降ろす。締結器の腕部に空けられた鎖を通す穴に分厚い刃が上下からせり出し、ちょうど鋭い歯が噛み合うように鎖に食い込んでいく。

 内部は力を倍増させるような機構が組み込まれているのか、レバーを降ろすために込めた力よりも大きな力が働いているような手応えがあった。

「何のために今まで戦ってきたんだよ…この馬鹿、が!」

 ガチンと言う音と共に五本の鎖は断ち切られ、ずるずると蝕痕の中に引きずり込まれていく。これで、もう二度とアルクスの身体を引き上げる術は無くなった。

 黒い結節の表面にできた白い亀裂は、厚い氷を叩いた時のように広がっていた。

「ラルマ、アルクスの締結器から最も離れた所のものを使って界域に潜れ」

「んで、乗っ取られたあいつをぶっ殺せと?」

 拾い上げた鉄の枷をガチリと腕に嵌めながら不満げに言うラルマ。

「いまベリダに接近しているのは“伝令者”と識別できる明確な使者だ、断じてアルクスではない。トーマ、お前も聞こえているな」

《はい》

 アンヴィルの崖の上を飛び立ち、ベリダの東の空を飛びつつトーマはウィクリフの声を聞いていた。

《あれはグリフォンの姿とアルクスの心を模した傀儡だ。もはや俺達の秘匿性は破れられている、人目を気にする必要はない。真っ向から迎え撃て》

 竜の紅い双眸が、ベリダの西方の空に白く輝くグリフォンの姿を視認する。

《分りました…でも、どうして、アルクス》


 周囲の魔脈を感覚するためにトーマは一度、ベリダ西部の太い路地に降り立つ。

 不規則にうねる路地に敷き詰められた薄汚れた石畳が飛竜の過重を受けて割れ、両翼が生みだす風が砂ほこりを巻き上げる。道端にうな垂れ座っていた左腕に大きな蝕痕のある男は、目を細めながら空から舞い降りる紅色の竜を眺めていた。

《さすがは血潮の山の麓にある街だ、わざわざ遠くから成長させるまでもない…。でも、想像以上に脈の位置が深いですね。このまま身体に魔力を巡らせたら、魔脈よりも先に周辺にいるベリダの人達に過剰な魔力を波及させてしまいそうです…》

 ベリダの路上で逡巡していると、ウィクリフの指示が聞こえてくる。

《造血胞を作れ。そうすれば住民への影響は最小限に抑えつつ十分な力を発揮できるはずだ。ここでは造血胞への変異による魔脈の縮退を心配する必要はない》

《了解です…でも、魔脈が深くて、造血胞にできるくらいの結節を作るのにもちょっと時間がかかりそうです》

 道端に座っていた男は立ち上がると、逃げるでもなく竜に向かって歓声を上げる。

 空から現れた竜が蝕人を守る味方であると確信している様子だった。

「ははっ、竜だ。間違いねえ、預言の魔物だ…。俺たちをこんな狭苦しい汚い場所に閉じ込める教会と戦ってるんだよな」

《ちょうどいい結節の基点が目の前にある。今こそ、有効に活用しろ》

「そうだ、何も知らずに光域で平和に暮らしてる奴等を食い殺してくれ。ほら!あの威張り腐ってる大聖堂をめちゃくちゃにしてやれ!」

 大声を上げながらベリダ大聖堂のある方角を指さす男を、竜の双眸がギロリと睨み付け、赤い口腔を開く。

《…ごめんなさい。あなたの心と身体、使わせてもらいます》

「なんだ…俺を攻撃するつもりか…?」

 そして開かれた大口から放たれた赤色のくさびは、恐怖に青ざめ後ずさる男の胸部に突き刺さり、魔力と魂の基盤である循環系を一気に侵蝕する。

「ッが―!!げ…は、なにしやがった…なんだこれ、蝕痕が…俺の身体が、ひ、誰か…や――」

 血の槍で貫かれた男は、身体に刻まれていた蝕痕が急激に広がるのを見てよろめき、意識を失い倒れた。

 男の骸は瞬く間に黒い蝕痕の塊となって石畳と一体化していき、一つの結節ができあがる。更に、その結節の黒い表皮を破って赤い半球の胞体が顔を出した。

(―よし、身体に高濃度の魔力が巡ってくる…これで十分戦えるはず)

《他の魔物たちも向かわせている。無理に、お前一人で片づける必要はない》

《はい。でも、出来る限りの力で迎撃してみます》

 砂埃を巻き上げ、薄汚れた路上から紅い飛竜は飛び立つ。


 光輪を負った白いグリフォンが悠然と市壁に迫る。

 その姿にはもはや魔物の面影はなく、使者と呼ぶに相応しい神々しさを纏っていた。

 夜空に浮かび上がる白い輝きに向けて、数発の火球が飛来する――が、全て本体に直撃するより前に、周囲に張り巡らされた輝く風壁が大きく軌道を逸らして弾いていく。

《恐ろしく強力な風壁だな。ただでさえ優秀であったグリフォンの防御能力が更に強化されている》

《こんな遠距離からみえみえの射線の攻撃なんて通るはずありませんね…》

 中途半端なブレスは意味をなさない、しかしもうベリダ西部、地下墓地のあるあたりの上空まで来ている。仮にあの強固な風壁を突破するに足る火力を出したとして、それが外したり弾かれたりした時、市中へどれほどの被害を及ぼしてしまうのか想像するのも恐ろしかった。

《私はラウラにもう一度会いたいだけなんだ。通してくれ、トーマ…皆に危害を加えるつもりはない》

 不意に聞こえた声は間違いなくアルクスのものだった。

 グリフォン型の伝令者はベリダの市壁を越え、市内へと迫る。

《頼む、そこをどいてくれ…私にお前を傷つけさせないでくれ》

 悲痛なアルクスの声が意識に届いてくる。


 どくん…


(―落ち着け。大丈夫、惑わされない)

 夜空に浮かぶ白いグリフォンからは、アルクスの鼓動も魔脈との繋がりも一切感じられない、それどころか、代わりに放たれている肌にヒリつく浄化の光が魔脈を衰滅させているのが分る。

 あれは間違いなく使者の一種だ。決してアルクスではない。

 この鼓動と心臓と血の循環は知っている。何が本物なのかを。

 思考は落ち着いているのに、胸の中は猛るような熱が凝縮されていた。それは人の心を弄ぶ行為に対する静かな怒りだったのかもしれない。

 頭の中では既に、市中へ被害を出さずにどうやってこの熱をあの使者にぶつければいいか、その考えがまとまりつつあった。

(―まだアルクスは僕の機動力が高い事を知らないはず…きっといける…!)

 強く飛翔し、白いグリフォンを見下ろせるくらいまで高度を上げながら、口腔から数発の火球を放つ。黒煙を纏った火球は白いグリフォンの手前で炸裂するとベリダ西の空の上に盛大に黒い煙を撒き散らした。

 自ら視界を不良にしてしまったが、目標の位置は肉眼を介すまでもなくはっきりと感じ取ることができていた。

 そして予想通り、下方から黒煙を晴らすための突風が巻き上がる。

(―いま!)

 その瞬間に、両翼を畳み、両足首、胴、背、尾の鱗の隙間にできた気孔から熱を噴射し、全身全霊で急降下して目標に接近し、狙いを定め、

(―これなら、最大の威力を必要最小限の射程と範囲で攻撃できる!)

 口腔から超高温高圧の紅炎の刃を白いグリフォンの胴体に向けて噴射した。

 白いグリフォンは、飛竜の高速の急降下に意表を突かれ、身を守るための反応が微かに遅れる。

 身体を包む球形の風の結界すらも貫き、身体を両断せんと迫る赤色の炎刃をギリギリで躱し、その被害を右翼を捥がれるのに止めた。

(―あの速さでも躱されるなんて…!)

 ベリダの路地に突っ込む前に両翼で風を掴み、気孔からの排熱を利用して急制動をかける。

 巨大な質量が慣性に牙を突き立てた反動で発生した風圧が、周囲の家屋のひび割れた屋根の煉瓦を吹き飛ばし、薄い窓硝子を叩き割った。

 再び飛翔して再び上昇しようと首を上へ向ける。

 上空に舞い散った白い羽が強く輝き細長い杭のようなものに変形していたのを眼が捉えた時には、もう遅かった。

 数十本の輝く杭が五月雨となって飛竜を襲う。紅い鱗に覆われた首、胴、足、尾、そして翼に突き刺さり竜を地面へと縫い付けた。

《ぐ…!移動、できません》

《それで、十分》

 聞こえたのはネーヴェの声。

 右翼を失った白いグリフォンは、バランスを保つために一度地上に降り立つ、その瞬間に石畳の割れ目から結晶の霜が沸き上がり成長し、獅子の両後足を絡め捕る。

 薄い煉瓦の壁を突き破り、突進してきた灰色模様の巨狼が白いグリフォンの細い左前足を噛み付き、巨大な万力の如き咬合で締め上げ、バキリとへし折った。

 致命的な危険だと判断した白いグリフォンは、すぐさまもう一枚の翼を羽根を全て犠牲にして、巨狼に光の杭の五月雨を浴びせ、動きと魔力を封じる。

 わしの右前足で地面を叩き発生させた風圧で、弱まった結晶の戒を砕き割り、逃れた白いグリフォンは審問の院を目指し、折れた足を庇いながらベリダを東へ歩む。

《トーマ、ネーヴェ…すまない…私は、ラウラの蝕を治しにいく…》

 二体の魔物は身体中に杭を打たれていたが、痛みは感じず、代わりに魔力の停滞による眠気や無力感に襲われつつあった。


 満身創痍の姿になりつつも、白いグリフォンはついに審問の院に辿り着く。

 ラウラのいる院の西の寮棟の部屋はもう目と鼻の先だった。

 低く薄い石壁を飛び越え、院の敷地に入った瞬間に首筋に黒く深い裂傷が生まれた、血は出ない。白いグリフォンが反応する間もなく、両目と両の後ろ足首にも同様の黒い裂傷が生まれ、視覚と歩行を封じた。

《手応えはあんだけど、蝕が浸透していかねえな――》

 両翼と両眼を失い、足を折られ腱を切られ、首を裂かれ、それでもまだグリフォン型の伝令者は寮棟に向かって這い進む。

 強い想いが起こす奇跡なのか、身体からは強力な浄化の光を発し、無残にがれた背の二枚の白い翼に光の粒が集まり再生していく。

《―チッ!》

 影と同化していた黒豹は光を避けるように院の影まで後退する。

《いま、いくぞ…ラウラ…》

 しかし、白いグリフォンは飛び立とうとする前に、その手足の下に伸びた灰色の霜によって、その場に硬直することを余儀なくされた。

 後方には身体中に光の杭を刺されながら鋭い眼差しを向ける巨狼の姿があった。その太い右前脚の足首には赤く血管の筋が浮き出ている。トーマの血印による魔力の増幅を受けた痕跡だった。

 そして、次の瞬間、白いグリフォンは地中から飛び出した界水の弾頭の直撃を受け錐揉み状態になって大通りへと弾き飛ばされた。


 (―光の杭が…緩んだ?)

 トーマの周囲には、光の杭で路中にはりつけにされている竜の姿を見ようとするベリダ西部の住民がちらほらと遠巻きに集まってきていた。

 ちょうど射線の通る場所で拘束されており、ずば抜けて強靭な筋組織と再生能力を持つネーヴェならばあるいはと思って、血印を射ち込んだまではよかったが、自分はどうすることもできずに地面に縫いとめられたままだった。

 だが、これらなもしかして、引き抜けるんじゃないか?そんな気がしてならなかった。

 魔力を体内に巡らせ、歯を食いしばり全身の筋肉に力を込める。

《ああああ!》

 周囲に竜の咆哮が轟き、空気を震わせる。

 遠巻きに見物していた住民が蜘蛛の子を散らすように逃げていくのを見てなんとなく申し訳ない気持ちになる。

 耳の奥に響くぶちぶちという繊維の引きちぎられる音と共に両翼と両足、胴体、尾に突き刺さっていた輝く杭から身体を引き抜いていく。

 身体中を血で濡らしながらトーマは数十本の戒めの杭を無理やり引き抜いた。

 すぐに両翼に優先して魔力を送り、破れた翼膜の再生を始める。


 白いグリフォンに半身は潰れもはや動く力は微塵も残されていない、辛うじて息をしているだけだった。

 しかし、強い浄化の光は衰えず、闇夜の中のベリダを強烈に照らしだしていた。

《ネーヴェやラルマで接近するのは危険なレベルの強い浄化の光だ。止めは任せるぞ、トーマ》

《はい、狙うのは心臓ですね》

《そうだ》

 光の杭の戒めを振り解き、空から駆け付けた飛竜は、見るも無残な姿になった白いグリフォンを捉えていた。その口腔の中には既に、血印を芯にした火炎が凝縮されていた。

 射程に入るや躊躇うことなく口を開く、燃える口腔内から飛び出したのは細長い槍状の火弾だった。

 炎の槍は正確に白いグリフォンの胸を貫き、炎で全体を包む。そして、傷だらけになった半鷲半獅子の白い巨体は何度が苦しそうに痙攣すると、動きを止め、

『最後の最後まで、すまなかった…みんな、ラウラを頼む…―――』

 皆の意識に最期の言葉を届けながら白い砂礫になって崩れ落ち、消滅した。

 飛竜の紅い鱗を優しい風が滑り抜けていった。

《…状況は終了だ。ベリダ内にいる三者は、血潮の山、南の麓に退避。その後、全員、帰化を解除しハイブに戻ってこい》


 三体の魔物はウィクリフの指示で急い血潮の山の麓に集結し、帰化を解除してハイブへと引き揚げられた。

 しかし、アルクスの潜っていた結節に残った浄化の痕跡は、消えないどころか広がりつづけていた。

「今後の動きを伝える。締結器の拘束器具を外して、俺の前に集まれ」

 ウィクリフは、ハイブに引き上げられた四人の少年少女に告げた。



「少しくらいは、彼らの心に届けられたかな。暴力というものが、いかに悲しみと虚無に彩られているかということを」

 何もない円形の小部屋の中心で、白い椅子に腰かけていた教皇は立ち上がる。

「さて、場所は判った。おっと、彼らの所に赴く前に、まずはベリダの大司教の所で用事を済ませなくてはね」

 教皇は、光の粒になって小部屋から消失した。

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