蘇生された心 Rebirth eucharist

終章

8-1 私は拳ではなく言葉を交わしたい

 ベリダの大司教の言葉が大聖堂の中に響き渡る。

「大浄化の日は近い」

 朗々たる声に迷いはない。自分よりも低い身分や地位の相手を前にした時だけは堂々たる大司教として振る舞うことができるのがこの恰幅のよい大司教の特長であった。

「預言の通り、恐ろしき魔物が五つの都市を破壊しました。悲しいことに我らの中には教会の力を疑い、魔物を恐れる者もいます」

 大司教は参列する蝕人たちを睥睨し、

「我らにできることはただ一つ、信じることだけです。さあ信じましょう」

 語気を強め、言う。

「信じる力が奇跡を起こすのです」

 椅子を埋める蝕人たちは黙々と祈りをささげる。

 奇跡が全ての呪いと蝕を消し去り、浄化された世界で自分たちも暮すことができるという未来を信じて。



 “意識の戻った者から自分の領域に戻り、そこで魔力の循環に違和感を感じなくなったら帰化を解除しろ”

 との指示に従い、皆、意識を取り戻した後、自分の領域に戻り魔力の循環を整えた。トーマによる魔力の注入もあってた、補完の干渉波による被害は魔力の循環の阻害に止まり、根幹的な心理や精神に大きな後遺症が残ることはなかった。ただし、魔物と一体となっているティーフだけは補完の干渉を拒絶しきれず、自分の領域に戻った後、すぐに曖昧な意識のまま眠りに落ちてしまっていた。

《いいだろう。アルクス、ラルマ、お前たちも帰化を解除していい》


 界域から上がったラルマはすぐさま装具を外すと、同じく界域から引き揚げられたばかりのアルクスに詰め寄った。

「お前、どいうつもりだよ、アルクス。トーマの奴が助けに来たから何とかなったけどよ、そうでなけりゃ今ごろ全員、テメエのせいで仲良く地獄行きだったんだぜ。今更、“人を殺してまで生き残りたくない”なんて下らねえこと言うつもりじゃねえよな」

「………すまない」

 俯き、憮然とした態度のアルクスはようやく一言を零した。

「それだけかよ」

 ラルマはアルクスの皮膜服の胸倉を左手で掴み上げる。抵抗する素振りはない。

「…」

 舌打ちラルマは、沈黙するアルクスを殴ろうと拳を振り上げる。

 しかし、振り上げた拳は筋張った大きな手にがちりと掴まれた。

「離せよ、ウィクリフ」

「離すのはお前だ。一方的な私憤で仲間を恫喝するような行為を、俺は見過ごすつもりはない」

「これは私憤じゃねえ、制裁だよ」

 苛立つ声でラルマは答える。対してウィクリフは岩のような冷静さで諭す。

「ではなぜアルクスだけに責めを負わせる。そもそもトーマが不調でなければ跡塔の破壊は、素早く終えていたはずだ」

「そりゃ仕方ないだろ。身体の不調は気合でどうこうなるもんじゃねえ」

「アルクスの思想や信念もまたその様に簡単に動かないものであると理解できないのか。その“仕方ない”という言葉をアルクスに掛けてやれないのは、なぜだ」

「ウィクリフの言う通りよ。あの時、誰かが、こうだったら――なんて言い出したらキリが無いわ、私だって最初に処理した村人達をよく観察していたら、もっと早くに住民を無闇に殺すべきでないと気付けたかもしれないし」

 先にハイブから上がり、ウィクリフの後ろに控えていたウェルテもまた、場を収めんとするウィクリフに加勢する。アルクスを擁護するためというよりは、無駄ないさかいを嫌ってのことだ。

「…チッ」

 ラルマはアルクスの胸倉を突き放し、ウィクリフの手を払い退けると、足早にハイブから出ていった。

 無言で装具と枷を外すアルクスにウィクリフは声を掛ける。

「アルクス、お前が守りたいものは何なのか、いま一度理解しておけ」

「…二度とあのようなことがないよう十分気を付ける」

 ようやくそれだけを言ったアルクスは、力ない様子でハイブから出て行った。

「後は首都を攻め落とすだけだってのに…嫌な感じね」

 誰にともなく呟くウェルテに、ちらりと切れ長の眼を向けたウィクリフは、薄暗い空間の中央に置かれた机の前に戻り、広げられた啓発者の頁に手を置く。

「俺はティーフの心の中に残留する補完の奇跡の除去を手伝う。フィエンツ侵攻の影響で犠牲になったベリダの者達の葬送の手続きは任せた。必要な書類、手形、印は全て執務室にある」

「…了解。ティーフの容態が良くなったら知らせて、本格的に魔動脈の結合、調整はじめるから」



 フィエンツで目覚めた時、周囲には誰もおらず、自分が最後だとウィクリフから聞かされた。ジェハノの侵攻を終えた時と似ているな――なんて考えながら、翼を動かし、風を滑り、暗闇の空を下、アンヴィルの村の崖の上へと戻ったのだった。

 いつもと変わらない村の灯を眺めつつ、帰化を解除しハイブに引き上げられると、すぐに空間の中央で啓発者を捲るウィクリフからこれからの動きを聞かされ、休むように言われた。指先の感覚は相変わらず曖昧で、締結器から伸びる枷や装具を外すのにもたつきつつ、ハイブから出る。

 階段を上る時などに微かに眩暈を覚えたが、熱や頭痛は感じなかった。


「あ、そういえば…ジャム、貰ったんだっけ」

 そして、自分の部屋に戻ると、サイドテーブルの上に置かれていたジャムの小瓶を見つけ、小瓶を手に取るとそのまま台所に足を運んだ。そんなにお腹が空いているわけではない、ただどうしても、“人らしい食事”をしたくなったのだ。

 しかし、静かな薄暗い台所の中に置かれた机の前に一人座っていくらかの時間を過ごしたトーマは、思わず弱音を吐いた。

「やっぱり…だめだ」

 コルクの蓋から手を放し、小瓶を机に置く。さっきから何度試しても、小瓶の蓋を開けることができなかったのだ。

 机の上に置かれた小瓶を眺めていると、目の前をめまぐるしく通り過ぎて行った今までのコト、人、モノ、言葉が意識の水面に打ち上げては揺らぎ、収束し、拡散し、沈んでいった。

 ユーリの手の感触。

 自分に立ち向かってきた幼い少年。

 不思議なほどに自由自在に干渉、操作できた魔脈。

 足の裏に残る、フィエンツの修道院長を踏みつぶした時の感触。

 そして、揺らぐ意識は一つの言葉を捉える。

 “生きていることは呪い”

 確かに聖書の一節ではそう教えている…。

 “人が争い、殺し、奪い、弱い者を虐げるのは、その生が呪いから産まれたものだからだ。その呪いと決別するには、天からの光を信じ受け入れるか、死によって自ら天に往くか。そのどちらかしかない―”

「…いや、違う。そんなわけはない」

 そんな沈殿する欠片ような思考は、台所に顔を出したラルマのおかげで霧散した。

「お、なんだよ、お前もつまみ食いか」

「はい、このジャム、僕の領域の村で貰ったものなんですけど、開けられなくて…」

「貸してみな」

 小瓶を受け取ったラルマは、コルクと硝子の擦れる快い音を鳴らして軽く蓋を開けてみせた。

「ありがとうございます」

「これからの動きは聞いてるか?」

「ティーフとウェルテが魔動脈の調整をする。その間、他の四人は、交代で魔物に帰化し、教会からの攻撃や干渉があれば即座に対応できるように警戒する。でしたよね」

「んでもって、ティーフが本調子じゃないらしく、回復するまでろくに魔動脈の調整も始められない状況だとよ…。分け前貰うぜ?」

「ええ、是非食べてみてください。きっとおいしいと思いますよ」

 ラルマは丸い大麦パンをひと欠片切り取り、銀の小匙で小瓶からジャムを掬って塗りつけると、それを洗い場に置き。

「新しい匙使えよ、カビやすくなっちまうからな」と、言いつつパンを齧る。

 食器棚へ新しい匙を取りに行くトーマは、おもむろに切り出す。

「僕、決めました。この戦いが終わって、魔脈を全て回収し終わっても、許されるなら、魔物の姿で弱い人を守ったりして生きていたいです」

「んなこと続けてたら、いつか本当に竜になったまま人へ戻れなくなるぜ」

「その時は、それで別にかまわないです。でも、やっぱり甘いかな、こんな考え」

「いや、いいんじゃねえの……でも、どういう風の吹き回しだよ。ちょっと前は“何ともいえません”なんて歯切れの悪い調子だったのによ」

 いぶかしげトーマの横顔を見るラルマ。

「ラルマは、何もかもが終わったらどんなふうに生きていくつもりですか」

「俺は…まあ、ここらへんでダラダラとなんでもない日々を過ごせりゃそれいいさ、これっていう目標はねえよ。そのジャム、美味かったぜ」

 言いつつ、壁際の棚から吊らされていた干し肉をひとかけら切り取ると、ラルマはそれを咥えて台所から出て行った。

 トーマもパンを切り取り、ジャムを塗ったが、ふと手を止めた。

 崖の上で林檎を咀嚼した時の事を思いだし、

 “もし、これがおいしく感じられなかったらどうしよう―”

 そんな考えが頭をよぎったからだ。

 自分の感覚が人の姿のときでも魔物――竜のものに近づいているのは分っていた。ならば、その味覚が調理された食物よりも生の血肉をおいしいと感じるようになっていても不思議ではない。しかし、もしそうだとしたら、もう既に普通の人として生きていくのは難しいのではないか――。

 今さっきラルマに向かって威勢の良いことをいったが、実感を伴う目の前の出来事となると、やはり話は違った。

「…いや、考えてもしかたない」

 恐るおそる口に運ぶ。

 そして――口に広がる甘酸っぱいリンゴの味とパンの香ばしさを、素直においしいと感じられたことに無性に安堵した。

「いつかまた、お礼、言いたいな。神父さんや村の人たち、イルダさん…なによりも、ユーリに」



 首都直下の広大な地下空間の中心。

 幾本もの銀の槍が突き立てられ、円形の檻を成す場所。

 白い光を纏う球体の前で一心不乱に祈りを捧げるダニロの前に、光の集積と共に教皇が降り立った。

 教皇はダニロに近づきつつ穏やかに言う。

「魔物を見つけるための眼が急ぎ必要になった。もしよければ、君の眼を一つ貸してもらえないだろうか?」

「承知…いたしました…猊下…」

 茫洋とする様子のダニロは答えると、ためらうことなく左目に手を入れ、眼球に繋がる神経を千切り、眼を抉り出した。

「是非、お使い下さい…」

 震えるダニロの掌の上に乗った血と液体に濡れた眼球を、教皇はひょいと取り上げ、

「ありがとう。君の献身に感謝する」

 微笑み、礼を一言いうと光の粒になって消えていった。



 ――おねえちゃんの手、大きいね。

 アルクスは蝕が渦巻く小部屋で一夜を過ごしていた。妹の眠るベッドの枕元に腰かけ、その右手で妹の小さな左手を握りながら、器用にその体勢のまま眠っていたのだ。

「気のせい…か」

 アルクスは、反応の乏しい妹の左手を優しく放し立ち上がり、ベッド脇に置かれた椅子に座りなおす。妹の寝顔は、嫌でもあのフィエンツで手を下すのを躊躇った瞬間のことを呼び起こさせる。

 部屋の中に張り巡らされている魔脈から感じられる魔力の拍動は明らかに強まっているのがひしひしと伝わってくる。

 しかし、だからどいってどうすることもできなかった。いや、グリフォンの姿でここに押しかけ、無理やり妹の魔力循環に干渉するということもやろうと思えばできる。だがそんなことをした所で、何も解決しないことは明らかだった。作戦を放りなげて、多くの労力をかけて厳守しててきた秘匿性も放棄して、魔物の姿で妹にずっと寄り添うことなどできるはずもないのだから。

 いずれにせよ大浄化を阻止できなければ、蝕人はみな死ぬ。

 だが、それまでにラウラは生きていられるのか――?

「ラウラ、私は何か間違っているのかな…。自分にできることをやり、叶わぬことは受け入れてきたつもりだ…だが今になってどうしようもなく、今まで進んできた道が正しいのか判らなくなってしまったんだ。教会の権威による統治でもなく、隣国のような武力を用いた支配でもない、何かもっと別の方法で多くの人が幸福になることはできないのか…教えてくれ、ラウラ」

 ベッドに横たわる妹からは、返事はない。

 代わりに聞こえたのはコンコン、とドアを叩く音だった。

「入ってくれ」

 ドアを開き、部屋に一歩、踏み込んできたのは隻眼の少女、ネーヴェだった。その表情は相変わらず憂鬱そうだ。

「哨戒の時間。ハイブに来て」

 指示を端的に伝えるネーヴェに、アルクスは少し間を置いてから言葉を返す。

「…すまない、すぐ哨戒に出よう」

 アルクスは、ラウラの額を撫で、頬に手を添え「言ってくる」と小さく呟いて立ち上がる。

「くれぐれも異変を見逃さないように。だって」

「了解。大丈夫だ、眼には自信があるからな、鳩の一匹も見逃しはしない」

 ドアに向かうアルクスは、すれ違いざまに顔を合わせずネーヴェに問いかける。

「ネーヴェには自分の他に大事な存在とか、守りたいものとかあったりするのか」

「無い」

 即座に返ってきた答えは、あまりも簡潔だった。

「そっか…私は、誰かのための私でありたいな」

 アルクスは扉から出て行く。



「突拍子もない頼みごとをしてもいいか」

 締結器から伸びる枷と装具を身に着け結節の上に立ったアルクスは、蝕痕の蔓延る地下空間の中心で白く輝く洋書を広げるウィクリフに問う。

「なんだ」

「魔物に帰化した後、その姿のまま、この審問の院に来たいのだ」

「…ラウラのためか」

 ウィクリフは顔を上げ、拳を握り俯くアルクスを見る。

「ああ。もちろん、簡単なことではないのは判っている、だが、魔物の姿ならラウラの魔脈に精密かつ強力に干渉して、体調を改善させてやることができるかもしれないだ」

「……だめだな。まず一つ、お前達魔物の姿を隠し得ているのは、お前達の領域に設置された秘匿の奇跡を強く刻み込んだ石碑の補助があってこそだ。そこから離れれば当然、人目につく。お前をここに来させるということは、我々を守る秘匿性を捨て去ることに他ならない。もう一つ、ラウラは周囲の魔脈に密接に繋がった状態にある、よって、これに深く干渉するということは、ラウラを補助する器官の一つとして組み込まれることを意味する。つまり、お前は妹のために長期間そこに縛り付けられることになるのだ。以上の二点は、これからの戦略、作戦を破綻させる危険がある、よって、お前の頼みを聞くことはできない」

「分った…では、ラウラが近く命を落とすことを覚悟しておけ、と言いたいわけだな」

「そう悲観的に考えるな。蝕は肉体よりも精神の状態に大きく左右される。年齢、性別、体格、病気の有無に関係なくその者が生きることへの望みを捨てない限り、蝕にとり殺されることはない。確かに、多くの者が蝕の広がりと共に絶望し生を放棄してしまっているのは事実だ、しかし、ラウラもその通りだとは限らん」

「ラウラを信じろ、ということか」

 アルクスは顔を上げる。

「できないのか」

 ウィクリフは鋭い眼差しでアルクスを見つめていた。

「できるさ。私はこの世の誰よりも、ラウラを…信じている」

 アルクスは跪き結節に手を乗せる。

 黒い皮膜が少女の身体を包み、飲み込んでいった。



 ハイブで啓発者を広げるウィクリフ。

 トーマは締結器の前、結節の上に装具と枷を嵌め、皮膜服姿で膝を抱えて座り、アルクスが戻って来たらすぐに潜れるように待機していた。

 ハイブの中の六つの結節の縁に建てられた六つの十字架と鎖で出来た牽引装置―締結器のうち、一つは鎖が断ち切られており、三つは結節の中に鎖を垂らしている。

 ベリダ属下の村を己の領域としている、アルクス、トーマ、ラルマの三者でローテーションを組み一日ごとに夜に交代しつつそれぞれの村の周辺を警戒を任されており、血潮の山の麓を領域にしているネーヴェは三日に一度は人の姿に戻りつつ山の麓の警戒を一手に引き受けていた。

 そして、血潮の山、ベリダ、属下の村をすべて取り囲むようにウェルテの蟲が疎に配置されていた。

「体調はどうだ」

 ぽつりと問いかけるウィクリフは、淡い光を纏う大きな洋書に顔を向けたままだ。

「えっと、指先の感覚が曖昧なのと、少し眩暈がするくらいです。熱や頭痛は無い、と思います」

「そうか」

「ティーフは、もう大丈夫なんですか?」

「既に回復し、魔動脈の調整に取り掛かっている」

「そうですか、それならよかったです」

 少ない会話の後は、沈黙が満たす。気まずさ、というよりは、トーマはなんとくウィクリフの不器用さを垣間見た気がした。

 そんなハイブを満たす微妙な沈黙は、階段を下りてくる足音によって流れていった。

「次の哨戒は俺がやるよ。トーマも体調は万全ってわけじゃねーんだろ」

「はい」

 ウィクリフは面を上げ、鋭い眼で締結器からぶら下がる枷に手を掛けるラルマを見やる。

「睨むなよ。少し腹ごなししたくなっただけだ、それに…アルクスの奴に詫びの一言くらい言ってやろうと思ってな」

 ラルマは目を背けつつ言う。

「…じゃあ僕は、休んでいたほうがいいかな」

 立ち上がるトーマをウィクリフが制す。

「いや、ちょうどいい、そのまま二人とも待機だ。ベリダに向かって進行してくる多数の人影があると、ウェルテから報告が入った」



 ベリダの西方に位置するハンドミルの村、その北にある小高い丘の上に生えた一本の木の根元にグリフォンは翼を畳んで座り、周囲を見渡していた。

 特に異変はなく闇夜に吹く風を感じながら、その思考はふと南に広がる村に及んだ。

(―兵士長たちは元気にやっているだろうか)

 この場所で、危篤状態だった兵士長の娘を助けたのが遠い昔のことのように思える。村の安全は自分が守っている、だから、兵士長には一人の子の父親としてできることをしていてほしかった。

(―大丈夫…きっと、仲良くやっているはずだ。少なくとも、単騎で村外をうろつくような者は見ていない)

 ふと、視界の隅に違和感を感じ、そちらに焦点を当てる。夜空の中に白い影が一つ浮かんでいた。

《アルクス、そちらに異常はないな》

《西から伝令者らしき白い影が一つ接近してきている。迎撃するか?》

《必要ない、秘匿の状態を破って、わざわざ情報を提供してやることはない》

《しかし、南に迫っているという人影が気になる、伝令者一匹のためにここで釘づけにされるのはしゃくだな》

《そちらの対応はウェルテに任せてある、お前は下手に動かず伝令者をやり過ごせ。もし、ベリダ南の対応がウェルテの手に余るようならすぐに指示する》

《了解》

 視界の中に捉えていた白い影が徐々に大きくなり、鳩の輪郭が明らかになる。そして、それは明らかにこちらに向かって飛行していた。

《ウィクリフ…どうも、様子がおかしいぞ…――!》

 白い鳩は村の上で強く輝くと、身構えるグリフォンに向かって光の筋となり突き進む。回避する暇も与えず、光の筋はグリフォンの胸元を貫いた。



 どこまでも白い地平が続く漂白された空間に立っていた。

 界域に潜る時の黒い皮膜服姿、両手両足と首には鉄輪が嵌められておりそこから伸びる鎖は背に建つ鋼の十字架に繋がれていた。

(―また、この空間か…)

 ジェハノやフィエンツにて致命的な攻撃を受けた時も、このような空間にいる夢を見ていた記憶はある、しかし、何の干渉も受けず、ここまではっきりと意識を保っているのは今回が初めてだった。

 目の前に、霧の中から現れるようにして白い法衣に身を包んだ青年の姿が浮かび上がる。

 整った顔立ちに穏やかな表情からは、どこか人の気を許させるさせるような余裕があった。

「初めまして、こんにちは。君の意識をこのような場に呼び込んだのはほかでもない、君と話し合いをしたいんだ」

「…」アルクスは眼をつむり沈黙する。

「では訊こう。君は、いままでしてきた自分の行いが本当に正しいと思っているのかな?」

「…」

「ふむ…君は、暴力よりも対話を望んでいるのだと思っていたのだけれどね。話す事が無いというなら、私は引き取るよ」

「…自分の行いに疑問があれば、ここにはいない」

 ついにアルクスは渋々といったように、答えを返す。

「成る程、人々を殺し、喰らい、その住処を破壊し、蝕の中に沈めるという破壊行為が本当に正しいと?」

「私が蹂躙してきた人やものについては何度も考えた…。確かに私は目的のためなら無抵抗な者にも手をかける、しかし決して、無意味な殺戮をしたりはしない。それらはすべて大浄化という蝕人を抹殺する儀式を阻止するための止むを得ない犠牲だ」

 アルクスは毅然とした態度で睨みつける。

 対する青年はあくまで穏やかな表情のままだ。

「ではもし、その大浄化で蝕人が死ぬという話がただの虚偽だったとしたらどうする?例えば、君は魔物ではなく蝕に耐性があるだけの普通の少女で、何者かに利用され、魔物になって都市を襲うよう扇動されているだけだとしたら?」

「下らない。それこそ根拠のない流言だな。どのみち私はもう引き返すつもりはない、そのような道など残されてはいないのだから」

「いいや、できる。君にはその道を引き返す事ができる。いつだって、やり直す事はできる」

 真正面から自分を見据えるその眼は、静かな確信に満ちており、到底、嘘を言っているようには見えなかった。

「ふざけた事を…」

「君には確か妹がいたはずだ、ラウラという名だったかな」

 その名を聞いた瞬間、並々ならぬ殺気を放つアルクス。

「彼女は深く強い蝕痕によって苦しんでいたはずだ。私なら、それを直してやれる」

「口先だけの嘘を言うな!教会のいかなる奇跡をもってしても蝕を完全に純粋に消し去ることはできないはずだ」

「ならば試しに、私の手に触れてみるといい。触れた方の君の手の蝕痕を消し去ってみせよう。私にはその力がある」

「貴様は…何者だ」

「私は、教皇ゲオルギウス。教会の頂点に存在し、全ての奇跡と法を体現する神の代理人だよ」

 教皇は穏やかに微笑み、右手の掌を前し差し出し、あとは何も言わず、ただその姿のままアルクスを待つ。

 アルクスは長い沈黙の後、ついに差し出された手に、恐るおそる右手を乗せる。たちどころに、まるで嘘だったかのように、右腕の蝕痕は消えた。もちろん、手の感覚は自分のものだ。

「これなら、ラウラを助けてやれるのか…?」

「もちろんだとも。忌まわしい呪いを浄化し、泣き、笑い、時に喧嘩し、あるいは励まし、共に生きる。そんな妹の日々を取り戻すんだ、君の力で」

「しかし、私とラウラだけでは…」

「安心してほしい、これと同じ奇跡が大浄化には込められている、皆やり直せる。この世に蔓延する呪いも、呪いが撒き散らす不幸も全て消え去るんだ。我々、教会はそのために多くの犠牲を支払ってきたのだから」

「そう…か」

 何かが崩れたように。胸の内に秘め続けた想いが溢れるように、涙がアルクスの眼から溢れる。

「さあ、君に私と共に行く意志があるのなら、両手を、ここに。大浄化が決して蝕人を抹消するような恐ろしいものではないと証明しよう」

 白い両手の掌を差し出す教皇。

「わかった、貴様を信じよう…。妹を、皆を助けるために…」

 両手を置くアルクス。

『主よ、我々の願いと行いが光の下にあるならば、我々にあなたの目と耳と口を授けたまえ』

 教皇は微笑みながら顕現の言葉を唱えた。

「あ…」

 アルクスの身体に刻まれた蝕は全て消え去り、同時に彼女の精神は鋳直されていく。

「そう、君はやり直すんだ。何の不自由も苦痛も悲しみも憎しみもない天の国で」

 グリフォンの身体を覆う体毛と羽根が真っ白に漂白されていく。

 その背に大きな光輪が現れ、四本の足首には銀の腕輪が嵌められた。

 使者と化したグリフォンは、丘の上の木の根元から飛び発つと、東、ベリダへと向かって、夜闇を照らしながら飛ぶ。


「さあ、皆を助けにいこう。大きな伝令者さん」

 白い円形の部屋の中で教皇は一人、嬉しそうに呟いた。

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