7-9 侵蝕

 大丈夫。

 きみの心臓は、まだ動いてるよ。

 だから…諦めないで。






 どくん…




 意識の手綱を手繰り寄せ、最初に気づいたのは、随分と呼吸が楽になっていたこと。

 次に気づいたのは、魔脈の感覚がいつになく鮮明になっていることだった。

 まるで風景をみるように脈動の感触を知り、撫でるように容易くそれらに干渉することができた。

 改めて、周囲の土地や空間を駆け巡る不可視の流動体に感心する。よく耳を澄ませば脈動の音を聞けるんじゃないかと本気で思うほどだ。

 辺りを見渡すと、夜闇の草地の上で鍬や籠を持った住民がばたばと倒れている。その向こう側には白い花が点々の植わっていた。

《――トーマと共に血潮の山へ帰還しろ。今ならまだ奴に捕捉されず逃れられる》

 ウィクリフの指示が聞こえる。

 おぼろげながらそれまでに聞こえていた会話から、ラルマもティーフもネーヴェもアルクスも、みな戦闘不能の状態に陥っているのをは知っていた。魔力の循環の基点となる二つの肥大化結節を失っているのもすぐに感覚された。しかし、それでも―。

《あの、待って下さい》

 横たえていた身体を起こして立ち上がり、翼を広げる。骨格から翼膜の隅々まで魔力が行き渡っているのを感じる。

《なんだ》

《今、すごい身体とか魔力の調子がいいんです…熱が急激に冷めたっていうか、身体の中の余計な魔力が無くなったみたいな。もう跡塔は破壊されてるんですよね》

《だが恐ろしく危険な使者が顕現している》

《僕が目標を殺しに行きます》

《駄目だ。ウェルテがいれば魔動脈の起動もできる、今は退け》

《ここから退いたら…都市の中で魔力の供給を失って倒れている皆はどうなるのか教えて下さい》

《補完の干渉波に精神を蝕まれて、フィエンツの住民のような生ける屍の如きモノになるだろう》

 足元にあった結節に意識を向ける。すぐに奥底に眠る巨大な脈動を感じ取ることができた。

《…これが魔動脈ですよね…少し借ります》

 鼓動を合わせ、一体化する、全体が起きないように優しく、少しだけ。

 自分が大きな魔力の流れの一部になっていくのがわかる、それでも違和感や興奮は特に感じない。

《何を言っている、界域にも入らずに繋がれるはずは―》

 トーマの体内に圧縮された高濃度の魔力が送られていくのウィクリフは確認する。

 周辺に造血胞もない今、これほどの魔力を得るには魔動脈以外に経路は存在しない。

《皆を助けて、目標を殺しに行きます。いいですよね?》

 啓発者にトーマの魔力循環効率、魔脈への干渉精度、魔物肉体への親和性、全てにおいて今までにない高い数値が記録されているのをウィクリフは無視できなかった。

《……いいだろう。敵は物理的な知覚をくぐり抜け、お前の魔脈を直に攻撃してくるぞ、気を付けろ》

《はい、大丈夫です。きっと上手くやれます》

 飛竜は勢いよく地を蹴り飛翔する、と、そこへ蜻異種リベレが飛来してきた。

《ウェルテ…?》

《こっち来て》

 林の中へと飛んでいく蜻異種リベレの後についていく飛竜。

 二体の魔物は蝕痕が蔓延する暗い林の降り立った。

 蜻蛉の魔物は林の中で蝕痕がぽっかりと失せている場所へと進む、そこには人一人が浸かれるくらいの水溜りがあり、その水面には拳大の透明な橙色の卵のようなものが浮かんでいた。

 そして、水溜りの縁には甲殻の枠に守られた橙色の大きな卵型の液嚢が張り付いている。中にはうっすらと足を畳んで丸くなる女王蜂の魔物―ウェルテの本体の姿が覗いて見えた。

《それ、食べていきなさい》

《これは…なんでしょうか?》

 飛竜は水溜りに浮かぶ橙色の卵のようのなものに首を伸ばす。

《ここにあった結節が消滅する前に何とか作り出した魔力の源よ。食べれば、少しは魔力の足しになるわ》

《ありがとう、助かります》

 一口にそれを飲み込む。生きた物をそのまま飲み込んだような不思議な感覚を喉に感じたけれど、それは直ぐに消え、身体の中に馴染んでいった。

《それじゃ、いってきます》

 林の中から飛びあがった飛竜は、東へ向けて飛ぶ。



 白くか細い手が、大きな身体に比して意外に小さい黒い獣のかおを優しく撫でる。

 その手触りは普通の獣と変わらない、滑らかで柔らかなものだった。

「貴方達は決して呪いから産まれた存在ではありません。そうでなければどうして、こんなにも補完の奇跡を受容できるでしょうか…」

 黒い獣はもう安らかな表情で微睡まどろんでいた。

「満たされる事を望む欠けた心…それは、人にしか持ち得ぬものです」



《言っておくけど、私の援軍は期待しないでよ。蜻異種リベレを偵察に出すくらいが限界だから》

《大丈夫です、蜻異種でウェルテの本体の周囲を哨戒していてください》

《…確認するけど、自暴自棄になってるわけじゃないわよね?》

《もし自暴自棄な考えを持っていたら、たぶん、何もかも放り投げて逃げ出してる…と思います》

 視界の遠方。荒廃した街並みの上空に、白い霊体のようなものが浮かんでいるのを見つける。しかし、白い影はすぐにぼやけるようにして見えなくなった。

《気を付けろ》

《はい、大丈夫です》

 身体の中に意識を向けてみる。全身を駆け巡る血が、熱や魔力を臓器や筋肉に送っているのをつぶさに感じ取ることができ、それらの魔力に意思を伝えると、今までには想像もしなかったほど精密に動いてくれるのを感じた。

(―不思議な感じだ…魔力ってこんなに自由に、複雑に動くものだったっけ…)

 炎嚢えんのうの中で分化するような炎を作り、口腔では推進する意思の込められた核となる血印を一つ、放射する意思を込めた補助となる血印を四つ作り、炎を纏わせる。それらの工程をさして時間を掛けずに済ませる。

 そして、前方、西の市壁の上空に向けて、口腔に溜めた複雑な機構を持つ炎を撃ち放つ。

 火球は西の市壁周辺まで燐火を撒き散らしながら直進し、燃え尽きる。

(―よし…いい感じ)

 夜空に広がった無数の燐火はすぐに落下せず綿毛のようにゆっくり空を漂う。

 飛竜はその燐火の舞い散る空間の中を泳ぐように進む。更に羽ばたくたびにその翼からも燐火が放たれる。

 燐火の一粒一粒に込められた温度を意識すると、空間の中にいくつか不自然に冷たい点が集合しているのが感覚された。飛竜はそれを上下、あるいは左右に回避しながら進む。

 冷たい点の集合する空間を回避する度に、銀の刃が自分の身体の近くを薙いでいくのを眼の端で捕えるが、飛竜はそれに構わずフィエンツの空に第二、第三の燐火の榴弾を撃ち、魔力の認識空間を作りながら都市内へと進む。

《いた、ティーフ…!》

 何軒かの小さな家を押し潰し顔を小道に投げ出すようにして、水竜がその上に横たわっていた。

 周囲の家の屋根は、横たわる水竜が撒き散らしたであろう血で、斑に赤黒く染められていた。

《これで、助けられるはず》

 薄く口を開く、歯列の隙間から除く舌の上には紅い硝子玉―小さな血印が作られていた。それを、そのまま水竜の胸に向けて放つ。

 血印は水竜の胸元に紅い筋を作りながら吸収されていった。

《どうですか?》

《最低限、補完の干渉波に抵抗する力が復活している。いくらかの猶予は得た》

《…はい、でも魔脈はまだ途切れかけの状態ですね》

《完全に繋ぎ直して魔力の循環を元に戻すには、補完の干渉波を消滅させ、皆の意識を安定させねばならん。だが応急処置として上等だ、都市中央で倒れているアルクスとネーヴェにも射ち込め》

《了解です》

 飛竜はそうして、壁を突き破って家の中で倒れているグリフォンと、石畳に横たわる巨狼を見つけ、それぞれに血印を射ち込んでいく。

 その後、燐火の榴弾を東に向けて放つと、修道院を目指して東へ飛ぶ。

 その様子を一匹の蜻異種リベレが確認していた。

《それにしてもトーマ…あなた、いつのまにそんなこと出来るようになったわけ…?》

《なんででしょう、自分でもよく分かりません…》

 心当たりが無いわけではなかった、“あの崖の上で、あの少女と手を繋いだ時”から自分の中の何かが明確になり始めた気がていたからだ。

 しかし今は、そんな疑問を思うよりも目の前の事に意識を集中させる。

 白い花の群生する霊園、そしてその先にはボロボロの寂れた修道院の姿があった。

 今までと同じく、飛行しつつ燐火の榴弾を放ち、そのまま修道院へと進もうと思っていたトーマだったが、翼を翻して後方へと舞い戻る。

 修道院の周辺にはびっしりと冷たい点が覆っているのを感覚したからだった。

《この先って…まずいですよね》

《ああ、不用意に突っ込めば間違いなく八つ裂きだ。どうやら、収穫者の正体は空間に散らばる微細な粒子であるとみて間違いない。修道院は本体によって厳重に守られている》

《じゃあ最初に見た、巨大な浮遊するローブ姿の死神みたいなのは…》

《本体が映し出した偶像に過ぎん。収穫者の攻撃を物理的に防御するのが不可能なのは、その極小の粒子が物理的領域を突破するからだ》

《…どうすれば、修道院を覆ってるあの収穫者を排除できるんでしょうか》

《手段は二つある。一つは、聖室を攻撃し中の聖体を破壊する》

 これ以上の魔力を引き出そうと魔動脈に負荷を掛ければ、必ずどこかが破損する。

 身体を巡る魔力がそう訴えていた。

《もう一つは…?》

《侵蝕だ》

《それは…ラルマがやっているような、物理的な攻撃じゃなくて、奇跡や信仰に直接ダメージを与えるようなものですよね》

《そうだ、お前達魔物が持つ魔力には信仰や奇跡に対する耐性が備わっている。その性質を利用して収穫者の構成要素を蝕むのだ。成功するか否かはお前の魔力次第だが》

《やってみます》

 “できるだろうか”という思いよりも先に言葉を放っていた。いや“できるかどうか”というよりも、“やってみたい”という思いの方が先にあったのかもしれない。

(―ラルマは爪痕で蝕を刻み付けていた…僕に蝕そのものを植え付ける力はない、けれど、魔力の込められた血のしるしを撃ち込むことはできる)

《修道院の中で、最も状態の良い場所を探せ》

 飛翔し、高度を上げる。寂れた修道院の全景が良く見渡せた。

《いちばん東に見える円筒型の塔だけが、綺麗なままですね》

《可能な限り近づいてみろ》

 礼拝堂や寮棟を右翼に見ながらの西から北側へと迂回し、大きな円筒型の塔に接近する。悪寒を感じて反転すると、身体一つぶん先の空間で銀の刃の切っ先が煌く。

《間違いない、あそこが聖室だ。持てる手段で内部を侵蝕しろ》

《はい》

 薄く開いた飛竜の口の中から、沸き立つ紅い血が覗く。

 口腔に溜まった血をくさび型に凝縮させ、それを芯にして炎を纏わせる。

《かなり厚い外壁のようだ》

《大丈夫です》

 臆することなく白い外壁に向けて炎弾を一発、放つ。

 飛竜の口腔から放たれた炎弾は爆音と共に円塔分厚い外壁を抉るが、大穴が空いたわけではない、しかし、炎弾の芯となっていた血印が壁内へと侵徹していた。

 白い床に描かれた図形の中心に紅い楔が突き立ち、衝撃で中央に転がっていた水時計の残骸が弾き飛ばされる。

 床の上に浮かぶ大きな光輪は、突然の濃い魔力の干渉を受けて微かに震える。

 真っ白な床の中心に突き立った紅色の楔から、血管のような枝分かれする筋が這い伸び、日輪を模した図形の描いている銀の線に触れていく。

《ぐう…!》

 冷や水の中に突き落とされたのかと錯覚する。それはすぐに刺すような痛みに変わり、統一された生に対する諦観と限りない死への受容の思考が意識の中に流れ込んでくる。

 その冷たい思考は、“自分は生きている意味なんてないんじゃないか”と 考えていた頃の自分を思い出させた。

(―意味はなくても、それでも、、死ぬわけにはいかない…)

 持てる限りの希望を胸に思い描くと、刺すような冷たい痛みが和らいでいき、内から熱が沸き上がってくるのを感じる。

(―僕は…僕らの心臓は、まだ動いている)

 枝分かれしながら放射状に広がる血の筋の先端が、床に描かれた日輪を模した図形全体を覆っていく。

《収穫者の防御に隙間ができた。礼拝堂に向かえ》

 修道院周辺に撒き散らされた燐火の温度を今一度詳しく感覚してみる。確かに冷たい点は減じていた―が。

《あれ…は》

 青白いオーブがぽつぽつと修道院周辺に灯り始めていた。

 音も無く漂う白灯は飛竜に目掛けて滑るように接近してくる。

《自らの存在を揮発させてでもお前を排除するつもりだ。案ずることはない、攻勢に出てきたということは、それだけ追いつめる事ができているという事だ》

《どうすればいいですか》

《回避し続ければいずれついえる》

《分りました》

 すぐさま翼をひるがえし、燐火を撒き散らしながら後退する。無数の青白い灯は、意思でも持っているかのように飛竜へと吸い寄せられていく。

 都市の中央に向かって飛翔する翼の先が屋根に付きそうなくらいの低空を飛ぶ、青白い灯の群れは屋根や壁を悠々とすり抜けて迫ってくる。

(―やっぱり…、物理的な灯なんかじゃないよね。けっこう早いな)

 翼から撒かれた燐火から徐々に青白い灯の群れとの距離が縮んでいるのがわかる。

 一つの青白い灯が身体二つ分ほどの距離まで接近し、一筋の光を前方に放って消えた。

(―…!)

 悪寒を感じ、足元を通り過ぎていった光の筋から距離を取る。同時に、その軌道上に銀の刃が一閃し、太ももの鱗をかすめていった。

(―直線的に逃げちゃだめだ…もっと、上手く飛べたら…!)

 身体を巡る熱、身体を滑りぬけていく空気と、全身の表皮や鱗をより詳細に意識する。

 背や腰、脚の辺りの鱗の隙間が僅かに広がる。両翼の翼手の中指と小指の関節に長い切れ目ができる。肉体を変質させた痛みが走るが、すぐに消え去り気にならなくなった。

《っう…これなら!》

 それらの隙間や切れ目から飛竜の体内で作られ圧縮された高温の熱が噴出し、飛竜に更なる飛行能力を与える。

 飛竜はにわかに加速し急激に高度を上げる。その後を辿る様にして、青白い灯から光の筋が走り、銀の刃が煌く。

 熱の噴出は常に発生しているわけではなく、特に翼手の切れ目からの噴出は飛翔の邪魔にならないように滑空時に顕著になり、背や腰、脚の鱗の隙間からのものも旋回や高度の上下に合わせて強まり、あるいは弱まるような挙動を見せていた。

 飛竜は銀の刃を躱しつつ、速度を維持したまま上空で旋回すると、そのまま一気に落下し地面や家屋のすれすれで加速する。青白い灯の群れは飛竜の自在な軌道に翻弄され、虚空に光の筋を放ち続けていく。

 飛竜は都市中央の背の高い家の壁面を滑るようにして急激に高度を上げていく。

 灼熱の魔物の身体から放たれる高熱で乾いた木製の壁に火が付き、背の高い家は見る間に炎に包まれていった。

 夜の廃都市の街並みは、飛竜から撒き散らされる燐火と、家屋から上がる炎でほのかに照らされていく。

 青白い灯はもう最初の頃の半分以下、十指で数えられるほどに減っていた。

 ふと、その灯たちが一つに収束し始め、燃え尽きた。

 青白い火の衣が消えた灯は、白い球体の姿を空中に晒し、吹き抜ける一陣の風によって砂となって跡形も無く消えてしまった。

《終わった…いや、おかしいです。なんか視界が白いもやがかかったように狭くなっていって…》

 更に、まるで冷気でみたされた洞穴に閉じ込められたような錯覚に陥る。慌ててその場を離れようとするが、身体はゆっくりとその場で飛翔し滞空することしかできなかった。

《まずいな…残りの存在を全て揮発させてお前を刈り取るつもりだ。次に来る攻撃は絶対に回避できん。いいか、

《どういう事ですか、それ――》

 一気に視界が晴れる。一瞬、どこか別の場所に移動したのかと考えたが、そうではなかった。

 いつの間にか眼下に広がる街並みが、端正で美しいものに代わっていたのだ。ひび割れや欠損の一つも無く敷き詰められた石畳みの道が伸び。所々に置かれた植木鉢には美しい白い花が植えられている。白い煉瓦と樫の木で作られた家々はどこにも崩れた跡もない、磨かれた窓からは温もりのある光が洩れていた。

 視界の右端。背の高い家の窓から白い鳩が夜空に飛び出し、フィエンツの東に向かって飛んでいく。

 飛竜は、なんとなくそれを追う。疑問とか警戒といった意識がなぜか麻痺してしまっていた。

 鳩は白い花が咲き乱れる霊園の東屋の屋根に止まる。

 飛竜もまた東屋の横に、どすりと降り立った。周囲の白い花は淡い光を纏い、悠然と白い絨毯を織り成していた。

 東屋の中から一人の少女が歩み出てくる。栗色の長い髪、鋭い眼。なんとなく、アルクスを二回りくらい小さくしたらこんな感じかなという雰囲気だった。

 少女はおもむろに口を開く。

「知ってる?人はね、みんな死ぬために産まれてくるの。生きているということは、呪いなんだよ。だから教会の人達は、その呪いを解くための手伝いをしてくれてるんだって」

 使者の攻撃かと判断し、少女に向けて吐息ブレスを吐こうとしたが、自分の口から放たれたのは火炎ではなく言葉だった。

「それは違う…と思うよ」

「何も違わないよ。キミはたくさんの人を呪って、たくさんの人から呪われてきたんだ」

 今度は右側から声を掛けられる。そこには白い服を纏った少年が立っていた。

「違う…僕は」

「この世界は呪いで出来てる、全ての尊いもの、美しい潔白なものは死によってしか体現されない。でも大丈夫だよ、僕らが今、解いてあげるから、その呪いを」

 左側にも同じく白い服を着た少年がいた。

「違う!生きている事は…それだけで…そう、たぶん“奇跡”…なんだ」

 悪寒を感じて動こうとするが身体は金縛りにあったように動かない。

 飛竜の背後に現れた収穫者が白銀に輝く大鎌を振りかざす。

 身体の中を冷たいものが滑り抜ける嫌な感覚を共に、視界は暗転した。


 ―後は任せたわよ、トーマ。


 直ぐに暗転した視界に光が戻る。周囲は白い花が所狭しと咲き乱れる霊園だった。

 が、自分の周囲の花は焼け焦げ、燻る赤い熱の中で白い煙を上げてた。そして、遠目に見える花も生気が無くなったように萎れていた。花の焼け跡から、自分のブレスがやったのだと理解する。

《今…何が…収穫者に切り裂かれたはずなのに、身体は、魔力の循環は全く異常ない…》

《フィエンツに向かう前にウェルテの作った“魔力の卵”を食べただろう、あれは正確には“蟲の女王の魔力の核となる臓器”だ。収穫者に攻撃される直前に、ウェルテはお前の体内にある己の核に魔力を集中させ狙いをお前の心臓からずらしたのだ》

《じゃあウェルテは今…》

《他の攻撃を受けた者達と同様に魔力の循環が途絶えた状態にある、予め身体を魔力の繭で包み保護していたため衰弱はしていないが、長くは持たんだろう。直ちに目標を達成し、都市を覆う補完の干渉波を消滅させろ》

《はい》

 自然と答える声は強くなった。


 蔦と草木の茂る礼拝堂の南側の屋根を両足で叩き割り、中に突入する。火球で屋根を吹き飛ばそうかとも思った、中にいるラルマに被害が及ぶ可能性があるのと、ボロボロの屋根くらい踏み抜いてしまったほうが速いと考え止めた。

 寂れた礼拝堂の中には、黒い獣の頭を膝に乗せ、その頬を撫でる白い法衣を纏った女性の姿があった。まるで我が子を愛おしむような様子に、敵意や悪意の影は感じられなかった。

 飛竜は横たわる黒い獣の旨に血印を一発射ち込むと、アマリアに迫る。

 アマリアは自らに迫る飛竜に向かって穏やかに声をかけた。

「私達はあなた方を受け入れます。どうか私達に、あなた達の憎しみや苦しみを消させて下さい」

 飛竜の足取りが微かに鈍る。

《惑わされるな、それの正体は住民に毒を飲ませ身心を腐らせ支配する最悪の統治者だ。容赦する必要は欠片も無いぞ》

《大丈夫です…躊躇うつもりなんてありません…!》

 一気に距離を詰めた飛竜は、その顎でアマリアの肩口に噛み付く。

(―!…堅い…?)

 その感触は人の肉や骨のものではない。まるで恐ろしく靱性の高い金属のようだった。

《肉体の組織の大部分が粘度のある金属に変質している。全力で破壊しろ》

《はい》

 飛竜はチラリと横たわる黒豹の魔物を見やると、アマリアを口に咥えたまま、礼拝堂の屋根に空いた大穴から飛び出す。

 霊園の上空に咥えたアマリアを放り投げる。直後、投げ出されたアマリアに飛竜の放った火球が直撃し、その炸裂によって更に上空に打ち上げられる。纏っていた衣服は吹き飛び、白い肌は焼けただれ、黒いすすに塗れていたが、それでもアマリアはまだ人の形を十分に保っていた。飛竜は上空から落下してくるアマリアの横腹を、硬く強靭な尾の先で思い切り打ち据える。萎れた白い花畑の中に黒い人型が土煙を上げて叩き付けられた。

 更に飛竜は霊園の中に叩き落とした黒焦げのアマリアに向けて、三発の火球を撃ち込む。土が弾け飛び、空気が揺れ、爆煙が立ち込める。

 煙が晴れると、凹んだ地面に中心に指も足も無い焼け焦げた黒い焼死体のようなものが露わになった。しかし、飛竜は、その黒焦げの人型が指の無い手を空に掲げようとしているのを視認する。

《ブレスでは殺し切れんな。足を使え》

《はい》

 飛竜は勢いを付けて黒焦げのアマリアに向かって急降下し、その大きく強靭な後ろ足でアマリアの顔と上半身を踏みつける。想像を絶する過重を受けたアマリアの上半は、ついに砕け潰れた。肉のような鉄のようなものがひしゃげて潰れる感触が足の裏に広がる。アマリアは飛竜の足の裏で灰色の粉になって崩れ落ち消えていった。

《よくやった、トーマ。フィエンツの聖体、及び補完の干渉波は消失した、じきに皆の魔脈も再生するだろう》

《……少し疲れました。ここで休んでもいいですよね》

 魔動脈との繋がりが薄れていくのを感じる。重い眠気と気怠さが身体の中に溜まり始めていた。

《構わん、だが休むならラルマの隣に行け。あいつはこの中で最も疲弊している。お前が傍にいれば回復も早まるだろう》

《分りました》

 飛竜は再び礼拝堂に舞い戻り、脆い木の床を軋ませながら黒豹の横に歩み寄ると、その翼と尾で黒豹を囲うようにして横たわった。



 何もない、どこまでも白い地平が広がる空間。

 白い空間の中に高い脚のついた揺り籠が五つ、五角形を成すように置かれていた。揺り籠の上には大きな光の輪が浮かんでいる。

 その五つの揺り籠の前で、金糸の装飾の施された法衣を纏った青年が両手を組み合わせて跪いていた。

 齢は三十頃。金の髪に青い瞳。背は高めで、全体は細身。一切の隙なく整った顔立ちからはどことなく近寄りがたい超然とした雰囲気を纏っていた。

 青年は立ち上がる。すると、周囲の白い空間は幻のように溶け消え、代わりに薄明りに照らされた白い煉瓦の壁が浮かび上がった。

 床に銀色の円が描かれた、白い部屋に青年は立っていた。

 高い採光窓から射す青白い月明かりが、青年の纏う白い法衣に施された金糸の装飾に反射に煌く。

 部屋の隅には白いローブをまとった子供が控えていた。

「ご報告します我が主よ。フィエンツが落ちました」

 白いローブをまとった子供は淡々とした報告を青年は涼しげな顔で受ける。

「うん、そうみたいだね」

「都市そのものを犠牲に収穫者を召喚し、魔物を撃滅するという計画は辛くも成功したかに見えましたが、現れた竜の魔物の驚くべき能力によって収穫者の攻撃は回避され、更に聖室に描かれた構成式の侵蝕までも始めます。その後、攻勢に出た収穫者による刈り取りの一撃を与えたのにも関わらず竜の魔物は再起。防衛手段を失ったアマリアは殺戮されフィエンツの聖体は消滅しました」

「そっか、残念だね」

 そう言う青年の顔に特に感情の揺らぎは見られない。

「光の座へ伝令を飛ばすつもりでいましたが…ここに降りられたということは、浄化者の揺籃は十分であると見てよろしいのでしょうか」

「うん、後は自分の力で大きくなるよ。預言の魔物達が都市を破壊して回ってくれるおかげで、予想以上に多くの強く純粋な信仰が集まっていてね、あの子達の成長も早いし安定してる。こうなると、魔物達もまた大浄化を実現させるための協力者と言ってもいいのかもしれないね」

「…首都外縁を守る大規模浄化結界は、楔の役目を担っていた地方都市の聖体を失ったため、間もなく消失します」

「うーん。ちょっといいかな」

 青年は代行者の額に軽く右手の掌の先を当てる。

 代行者が記憶した事柄を、より鮮明に読み取っているようだった。

「…んー…おや、おかしいね。魔物というのは人間の心を覗き見て、理解する能力があるのかな?」

「そのような事がありましたか」

「いやぁ、君達にはもう少し、自分とは異なった者でも理解しようとする心を持たせるべきだったかな。そうしたなら、もっとずっと楽に事を終えていただろうに。理想の追求と現実の許容を丁度良く均衡させるのは本当に難しいね、私の失敗だ」

「全ての失態は我らの不足によるものです…どうかお許し下さい。奴等は各地に広げた蝕から力を得て、恐ろしい能力を発揮します。しかし、フィエンツの住民が到着しさえすれば我が“処罰者エンフォーサー”の準備は完了します。必ずや魔物共に然るべき罰を与えてみましょう」

「誰かが私に許しを請うなら、私はその人をただ許すだけだよ。そうだね、処罰者の準備はそのまま進めてほしいな。でも、私も、私に出来る事をさせてもらうよ」

「何をなさるおつもりですか」

 代行者の問いに、年若い教皇はにこりと微笑んで答える。

「もちろん、彼らと話して、分かり合うんだ。当然だろう?」

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