7-8 収穫の時

《…なるほどね…どう、ウィクリフ?》

 「心の中」―突拍子もない案ではあったが、誰もがその可能性を感じつつも、無意識のうちに「あるわけない」と否定していた場所であった。

《有り得る話だ。特にフィエンツの住民は心理的な画一化が進んでいる。その画一性を利用して、不在の跡塔を構築することも可能だろう》

 夜の帳が空を覆い始めるフィエンツ西端の市壁周辺では、巨狼から広がる結晶が都市外へ進行しようとする住民の足を固め、その周囲では蟲達が住民の足や身体を掴み、さらに北側の市壁の切れ間ではグリフォンが風の壁を作り、歩み出ようとする住民を抑え込んでいた。

 魔物に対峙し足や身体を拘束されている住民達は、相変わらず無理に抵抗しようとはせず、鍬や籠を手に穏やかな表情を保ち続けている。時折、魔物に優しく話しかけてくるという挙動も変わらない。

《でもよ、心の中の跡塔なんてどうやって破壊すればいいんだ、お得意の“啓発”とやらでやんのか?》

《いや、奴等に俺の“啓発”はもはや通用しないだろう。しかも教会の眼につきやすいこのような場であからさまな啓発者の力を使うべきではない。そのような事をせずとも全ての住民を皆殺しにすればよい。基盤となる心が無くなれば、跡塔は全て消失する》

《しかし、殺すほど修道院での儀式が進行するのではなかったか?》

 グリフォンの両翼が巻き起こす風圧が迫る住人を押し返していく。

《殺しても駄目、殺さなくても駄目、ってやっぱりどうしようもねえじゃねーか》

《集約、回収という跡塔の持つ性質から、恐らく構築するための核となっているのは一部の住民だけだろう、他の大多数の住民は構築された跡塔に信仰を与え支えるだけの信者に過ぎん。よって、跡塔の核となっている一部の者を見つけ出し、それのみを殺せばいい》

《なるほど…しかし、押し寄せる住民を殺さずに押し止めつつ、その核となる者を見つけ出して殺していく…として、修道院の危険な儀式とやらが発現する前に間に合うのか?》

《なんとも言えん。これまでの殺戮によって奴等の儀式に少なくないの量のリソースを与えてしまっていることは事実だ、今は危険な状況にあると認識すべきだろう》

《それで、どうするの?》

 北西の林より新たに飛来した十匹の蟻異種フルミナの群れと何匹かの百足異種ミルパットが、より南側に逃れようとする住民に取り付き自由を奪う。

 これだけ魔物達が展開しているというのに、肝心の魔脈はフィエンツの崩れかけの市壁に近づけずにいた。

《ウェルテ、お前の蟲を通して啓発者から住民の心の中に干渉する。脳髄に刺せるような細長い針を持った蜂異種ビネを用意しろ》

《了解…だけど…教会の精神的領域にそんな密着するような事をして大丈夫なの?》

《深入りはしない、心の中といってもあくまで思考を読み取るだけだ》

《それじゃあ一旦、蜻異種リベレの哨戒はやめて産卵に専念するわ、特異な個体を作るのには集中力がいるから》

 蝕痕の蔓延した昏い林の中で充分に肥大化した繁殖胞に取り付く女王蜂の魔物は、ゆっくりと、液胞の中に卵を産み落としていく。

 皮膜のような殻を裂いて生まれるのは、一回り小さく酷く細長い身体の蜂異種ビネ、同じ種とは思えない程に異なった体型の個体だった。

《とりあえず、手近なところから始めるわ》

《前頭部に針が達するように射ち込め》

《眼から届くかしら》

 結晶で抑えつけられた十数人住民の顔に難なく取り付き、腹部の先端の細長い針を眼窩に突き刺していく。

 顔に張り付いてくる巨大な蜂の魔物に、さして抵抗する様子も無い住民は、眼窩から脳に達する針を突き刺されると、大きく痙攣し眼を見開いてその場で静止していく。

《十分だ、干渉と分析を開始する》

 周囲の住民に、その様子に何か反応を示す者は一人もいない。


 ウィクリフは薄暗いハイブの中で一人、啓発者の頁を捲る。筋ばった右手の甲には、干渉能力をより強化するための小さな光輪が浮かんでいた。

 白紙の頁には、次々と蜂異種ビネから送られてくる住民の思考パターンの情報が文字として書き込まれていく、文字は所々掠かすれていたり欠けているが、意味を理解するには十分だった。

「対話、融和、許容、信仰、理解、平和、貢献。似たような価値観が特定のパターンで意識に表出している…どの住民の思考も些細な揺らぎはあれど、決定的な差異は無い、か」

 都市に住む者、特に半依り代化しているようなフィエンツの住民の心理を覗くという行為は、教会の中を堂々と物色する行為に等しい。“教会の有する聖域の一部にあることによって、その警戒の埒外らちがいにいられる”という特性を有する啓発者といえど、あまりにも不自然な働きをすれば露見は免れない。

 ウィクリフは今、フィエンツの聖域を満たす信仰の微かな揺らぎに合わせて緩急を付けつつ、警戒を招かないギリギリの階層に干渉していた。

《該当なし。次だ》

 結晶の霜に足を固められている住民に取り付いていた蜂異種ビネの群れは、針を抜くと、次の標的に向かって飛んでいく。次は蟲達が押さえつけている者達の顔に取り付き、針を突き刺す。

《違うな、次だ。市壁の周辺ではなく、家の中にいる者を狙ってみろ》

《了解よ》

 先に蜻異種リベレが、より都市中央に近い家屋の中を捜索する。

 まもなく、大通りに面した大きく壁に穴の開いた家に一人の老人、その家から南に二つ通りを挟んだ所にある一際背の高い家に親子が二人それぞれベッドで寝ているのを発見した。

《三人くらいしか見つからなかったけど、もうすこし捜索範囲を広げる?》

《構わん、そいつらに針を射ちにいけ》

 それぞれ三人の住人に向け、細身の蜂異種ビネが遣わされる。

 魔脈との繋がりが細くなる都市内で、精密な操作をさせねばならないため、市壁にて住民の進行を抑えている蟻異種フルミナ百足異種ミルパットの操作が疎かになり、数人の住民が蟲の戒めを解かれて西に向けて歩み始めてしまう。

《心の中ねぇ…このまま何も見つけられずに、沸いてくる住民の相手をしてたらいつの間にか取り返しのつかない窮地になってました。なんてことにならなきゃいいんがよ―》

 都市外へ歩みだした住民が、浄化の花を植えようとする前に、周囲よりも微かに濃い影が住民の足元を通り過ぎる、数秒後には胴と首が別れた骸が数体出来上がる。

《本当に見つけられんのか?》

 ラルマの懐疑への答えは早かった。

《子供の住民から今までにないパターンを発見した。純粋な献身、それのみしか心の中にないという異常な状態だ。無茶な価値観を信じさせるには子供は都合の良い存在と言えるだろう》

《そういえば…進行してくる者の中に子供は見当たらないな》

 一度、大きく風を巻き起こして住民を押し返したグリフォンは、高度を上げて市壁周辺を俯瞰する。

《へえ、じゃあ子供の住人を見つけて殺していきゃ、跡塔がどんどん消えていくってわけか》

《いや一人殺せば、一つ減るという単純なものではない。全ての核となる者で同一の心象を共有していると考えられる、その共有された“場”自体は一人でも存在するかぎり減衰せずに維持されるはずだ》

《あーつまり?》

《つまり、核となっている者を全員殺すまでは、跡塔は一本たりとも無くならないってことでしょ》

《そういうことだ。ウェルテ、その子供の住民への蜂異種ビネは維持し、他は撤収させていい》

《了解、この子供はどうするの?》

《思考パターンを監視し、共有の場がどれだけ維持されているかの指標にする、それを殺すのは最後だ》

 眼窩に突き刺していた針を抜いた蜂異種ビネは、家屋から出て市壁外へと一時退避する。代わりに蜻異種リベレが都市内へと舞い戻っていく。

《脆そうに見えて、なかなかに堅牢だな》

《でも、魔脈を都市内へ伸ばせないよ、このままじゃ都市内で広く活動するのは無理じゃないかな…》

 界域の中の水竜は魔脈を伸ばそうと何度か試みたが、その度に魔脈の先端から感じられる火傷のような痛みが不可能であることを示していた。

百足異種ミルパットを何体かなら都市の中央まで送り込めるけれど、そんな悠長な事で間に合うかは疑問ね…魔力の薄くなる東部でちゃんと操作できるかも怪しいし…》

《どーするよ?》

《……結節を空に持って行ってもいい?空中からなら都市内で活動するみんなに魔脈を伸ばせると思うんだ》

《何言ってるの、そんな無謀なマネさせられるわけないわ》

 魔力の供給と調整の要であるティーフが空に無防備な姿を晒す場面を想像したウェルテは、即座に否定の声を挙げる。

《空中への脅威がほぼ確認されない現状、無謀な作戦ではない》

 しかし、ウィクリフは断固とした口調でティーフの案を肯定する。

《…でも、酷く不安定な状態に代わりは無いわ。そんな不安定な経路に頼って都市に侵入している間に修道院に集積している脅威が発現してしまったら、取り返しのつかない事態になるんじゃないかしら?》

《状況はそれだけのリスクを負わねばならぬ程に逼迫ひっぱくしているということだ、もはや議論している時間はない》

 ウィクリフは果断に指揮を進める。

《ティーフ、市壁に近い位置に作った第二の肥大化結節を引きずり出せ。ウェルテは林の中に作った第一の結節を造血胞に変異させろ。可能な限り速やかにな》


 界域の中で鼓動する水胞に巻き付いている水竜は、その水胞の皮膜を鋭い牙で裂き中央にある薄赤い核を飲み込む。赤い輝きが水竜の喉を通り腹部へと流れ着くと、滑らかな流線を描いていた腹部が何かを孕んだかのようにぽっこりと膨れ上がっていく。

《こんな感じかな…よし!》

 ティーフは己の体内という擬似的な界域に結節の核を取り込むことで、外界へ持ち出す事を可能にしていたのだった。

 フィエンツ西部の市壁から三百メルト程離れた場所にの草地を塗り固める巨大な蝕痕の塊が泡立つ、黒い水面みなもを弾いて、腹部を膨らませた水竜の姿が闇夜の空に浮かび上がった。



 フィエンツ光域西北に広がる横長の林の上空に紅い影が飛来する。

《遅れました、このまま都市に向かったほうがいいですか?》

《いい、右翼側を見てみろ》

 飛竜は視線を右側に向ける。視線の先、月明かりに照らされる暗い平地の遠くから、小さな人影の群れがこちらに向かってぞろぞろと進行しているのが見えた。その群れは白い明かりを地に灯しているのもおぼろげに確認できる。

《あれは周辺の町や村の住民ですか?》

《傀儡になった住民だ、浄化の花を植えながら進行している。殺せば厄介な事になる、大地を爆撃して進行を遅らせろ》

《分りました》

 緑の絨毯に覆われたなだらかな丘陵の牧草地帯に大玉の火球が撃ち込まれていく。

 燃え盛る火球は轟音と共に地表を捲り上げ、いくつもの巨大なクレーターを作り出した。進行する住民の群れは、滅茶苦茶になった地形を迂回もせずにそのまま進もうとするため酷く渋滞し、その進みを大きく遅らせることになった。

 しかし飛竜は、翼を翻し東部に向けて飛行をしようとしたところで、林の外に墜落気味に着陸し、ぐったりと首を降ろして草地に伏せてしまう。

《すいません、ちょっと眩暈が…せっかく来たのに》

《良い、そこで寝ていろ。周囲の蝕を安定化させるくらいの役には立つ》

《はい…そうします》

 飛竜は地に伏せながら高熱の息を吐く。息が放射される範囲にある草が、呼吸に合わせて赤く焼け散っていく。



「生とは有限であるからこそ美しい。時は戻らぬからこそ尊い。いずれ老い、死ぬという事実は人が善き生を送るための原点となりうる」

 フィエンツの聖室には、水銀の滴る水時計の前で跪き両手を組み合わせている代行者の姿があった。

現世うつしよのあらゆる生命にただの一つも例外なく適用される究極の平等、それが死だ」

 背の高い水時計の頭上にうっすらと光の輪が顕現する。

「蓄積が遅くなったな、危険を察知して住民の殺戮を止めたか。まあいい、夜明け前には顕現しよう」

 無機質に滴り落ちる銀色の魂の雫に、淡い光が宿っていく。



《このあたりでいい?》

 フィエンツの西部上空には、腹部を赤く膨らませた蒼い鱗の水竜が静かに浮かんでいる。

《十分だ、あまり深入りすれば循環の効率にさわる》

《こっちも造血胞への変異は完了…もう本当に、後戻りはできないわよ》

 ウェルテの報告。フィエンツ光域西部の林の中に作られた巨大な結節は赤い輝きを帯びた半球状の胞体に変異していた。

《魔力の循環を解放、作戦を開始しろ》

 同時に、巨狼が夜空に向けて雄叫びを上げる。造血胞から産み出される魔力の大半を得たネーヴェが作り出す結晶の壁は、西の市壁の崩れた箇所を全て充填し、拘束している住民を飲み込みながら、フィエンツの西部を囲い込む長城を築き上げた。

《頼んだぜネーヴェ。あのお花畑、しっかり止めといてくれよ》

 一筋の黒い影とグリフォンが結晶の壁を越えて都市内へと侵入していく。

《うん》

 住民の拘束をする必要の無くなった多数の蟻異種フルミナは、その場を離れ二体で一組になるように腹部を寄せ合うにくっつく。見る間に二体の腹部が融合しながら倍以上の大きさへと膨張していく。甲殻の隙間から見える皮膜の内部では百足や蜻蛉の影が蠢いていた。

百足異種ミルパット蜻異種リベレへの変異を終えたらすぐ向かわせるわ、アルクスは空からの目視、ラルマは音や匂いで目標を探ってちょうだい》

《了解》

 灰色の結晶の壁によって行く手を完全に阻まれた住民はただ立ち尽くすだけに見えたが、鍬を持つ者が結晶の壁の前に出てくると、それを壁に突き立て削り始めた。ほんの微かに灰色の表面に亀裂が入る、大したダメージでは無かったが、それが展開している壁の全面的に発生するとなるとなると、ネーヴェにかかる負担は無視できないものとなった。

 その後ろでは花を植える役の女の住民が、持っていた籠を床に置き、祈りの姿をとる、まるで鍬を振るう男たちに願いをすかのように。

《魔力供給の根元となる結節を造血胞にした。これが消耗しついえれば、もはや市壁周辺で押し寄せる住民を抑えつける事は不可能になるだろう。なんとしてもそれまでに跡塔を破壊しろ》

 ウィクリフの低い声が皆の意識に届く。


 黒い影が荒廃した都市の道を滑り抜け、一際大きな家の壁に張り付き静止し、破れた窓から中へ侵入していく。部屋の中は埃に塗れた寝室。人の気配はない。

《匂うな》

 影から実体を取り戻した黒豹は部屋の隅の床板を切り裂く。その下には地下室があり、白い花に囲まれて眠る少年と少女がいた。二人は白い花の淡い光の中で互いに手を取り合い寄り添うように寝ている。

《一軒、一軒にこんな隠し部屋があったんじゃキリがねーな。まぁ、しらみ潰しにやるしかないんだけどよ―っと》

 白い花は少年と少女の首筋から噴き出した血で赤く染まるが、直ぐに乾いていった。


 都市内北西部、所々に蔦が這い伸び、割れた石畳の間から木々が生え育っている区画。建ち並ぶ寂れた家の一つ、テラスに白いローブ姿の少年が立っているのをグリフォンの眼が捉えていた。

(―上空にいれば、ほぼ浄化の効果を受けないな…これなら、心臓だけを狙い撃つのもそう難しくはない)

 グリフォンは両翼で大きく羽ばたく、翼から放たれた羽根の矢は少年の胸を正確に貫いた。

 割れた石畳の通りに佇む少年。北部の跡塔のある場所で祈る少女。北の歩廊の上に座る少年――グリフォンは都市内の北から東にかけて目につく子供らの胸を一枚の羽根の矢で正確に撃ち抜いていく。撃ち抜かれた子供は皆、力なく倒れると、口元と胸から血を滲ませ白い土へと変じていく。

《意外に順調そうね、西と南側から蟲を送るわ》


 地上を駆けるラルマと空を巡り目標を探し出すアルクス。更に加わった蜻異種リベレ百足異種ミルパットの補助もあって、目標の処理は障害なく進んでいく。


《全くどいつもこいつも食い物の匂い一つしねえ空家みてえなとこに住みやがって。人を殺してるんだが、人の形した物を壊してるんだかわかんねぇよ》

 天井の薄い板を割って、埃っぽい室内に降り立つ黒豹。天井からはぼたぼたと赤い血が床に洩れ落ちている。

《なぁ、いま何人くらいやったんだ?》

《今お前が切り裂いた者を含めて二十五人だ。作戦を始めてから跡塔を顕現させる共有の網はおよそ八割減衰した、つまり残りの目標は五人程度だと考えられる……が、どうやら、教会も対抗措置を取ってきたようだな》

《対抗措置…?げ…》

 窓枠に置かれた花瓶に活けられたの白い花が淡い光を纏っていた。黒豹は後ずさり、影と同化すると別の出口を求めて廊下へと流れていく。

《浄化の花だ、フィエンツの西側で祈る女達の奇跡に因るものだろう、都市内の到る所で浄化の花が芽吹き、あるいはただの白い花だったものに浄化の力が付与され始めている》

《ああ、気のせいか少し身体が重くなってきたぜ…魔力の循環、やばいのか?ティーフ》

《うん、思ってたより消耗がはげしいよ…みんな…急いで》

 水竜の膨らんだ腹部はゆっくりと胎動しているが、時折、苦しそうに痙攣していた。

《言ってる傍から、あちこちにどんどん生えてきやがるぜ…クソ》

 石畳の切れ目や、煉瓦の割れ目から次々と白い花の小さな芽が現れ、開いていく。

《後は東部の修道院周辺だけよ。大丈夫、間に合うわ…。私は東部のより外縁に蟲を向けるから。二人は修道院の近くを探してみて》

 闇夜の廃都市フィエンツを姿のない跡塔と都市内の到る所に咲く白い花の光が照らし出す。都市内の各地では、地面や屋根の上に制御を失った蟲達がふらふらと剥落し始める。

 少しずつ掘削されている結晶の壁はちらほらと小さな穴が開き始めていた、まだ人の通れる大きさではないが、決壊は時間の問題という状態だ。


 フィエンツ東部にある修道院は、その配下にある町並みと同様に退廃的な有様だった。北側の寮棟の白い煉瓦の屋根と外壁はひび割れており、その割れ目からは緑の蔦が這い伸びている。南側の礼拝堂も同じく無残に破損した外観を晒していた。

 そんな吹けば崩れそうな外観なのにも関わらず、白い建造物からは魔物に対して近寄りがたい圧迫感を放っていた。

《後は…ここだけだな》

《あーあーまじで花畑だな、こりゃ》

 しかし、修道院を望める高い家の屋根の上に構える黒豹と、その上空に滞空するグリフォンが注目しているのは廃れた修道院ではななく、その手前の広大な円形の霊園だった。

 白い石の塀で区切られた空間の中には、白い円盤状の墓石が霊園の中心に建てられた円筒型の東屋あずまや十重二十重とえはたえに囲うように並べられている。

 そして霊園の中は所狭しと白い花が群生しており、ほとんど花畑の中のような状態だった、地上から近づくのは困難だろう。

 しかし、その花の結界の中心、東屋の中に三人の子供が立ちながら祈っているのを、二頭の魔物の眼がしっかりと捉えていた。子供らの足元にも茎や蔦が這っており、足首まで絡まっていた。

《ウェルテ、お前の蟲ならあそこにいけるんじゃねえのか》

《見つけた目標を二人処理した所で、百足異種ミルパットに使っていた魔脈が完全に破損したわ…私がそこに差し向けれるのは蜻異種リベレが数匹が精一杯ってところ。アルクスとラルマでなんとかして》

《任せてくれ、十分、狙い撃てそうだ》

 射線の通る位置に滞空しながら調整するグリフォン。間を空けずに羽根の矢を放つ。羽根の矢は見事に東屋の中で祈る一人の子供の胸を打ち抜く、が撃ち抜かれた子供は少しよろめいただけで、血を流さず、倒れもしなかった。

《ウィクリフ、説明してくれ》

 グリフォンは滞空して様子を伺う。

《あれらは長らくあそこに配置されているようだ。互いが互いに不滅イモータルの奇跡を掛け合っている。だがあくまで状態を保持する事が目的で、魔物に対して抵抗できるような強靭なものではない、三人同時に殺せば容易く瓦解するはずだ》

《しかしそうなると、難しいな…空からでは三人に同時には射線が通らないし、浄化の影響で射線を歪曲させるような操作も難しい、しかも今、浄化の花の蔓延する地上に降りればまた空に飛びたてるかも怪しいほどだ》

《そういうことなら俺がやるよ》

 屋根の上から下りた黒豹は霊園の入口に走り、白いアーチの上に飛び乗る。

《アルクス、足場頼むわ、できるだろ?》

《…なるほど、やってみよう》

 しなやかな身体を縮ませ全身の筋肉に力を溜め、跳躍の体勢をとる黒豹。

《いくぜ》

 白いアーチの上から黒豹が跳躍するのと、滞空するグリフォンが大きく翼を羽ばたかせたのはほぼ同時だった。黒豹の跳躍は凄まじく、およそ五十メルトは空を跳ぶ、が、それでも東屋までは半ば、黒豹は白い花畑の中に落下する。――否、落下しかけた黒豹が空中で再び踏ん張り、空を蹴って跳躍し、見事に東屋の白い半球状の屋根に着地した。

《ふー、危ねえ…まぁやばい橋ほど渡る価値があるってもんだ》

 黒い影が東屋の屋根から裏側へと滑り込んでいく、数秒後、東屋の中は鮮血に塗れ三人の子供らは地に崩れ落ち、起き上がる事は無かった。

《よくやった。共有の網は一つの点に収束した。アルクスは都市内の西部、背の高い家に向かい最後の基点となっている子供を殺せ。それですべての跡塔が消失する》

《俺は?》

 黒豹は周囲を浄化の花畑に囲まれた東屋の屋根に取り残されたままだ。

《そこで待機だ、跡塔が崩壊すれば花に付与された浄化の力も消え去る》

《んじゃ、はやくしてくれよアルクス。ここにいると頭がおかしくなりそうだぜ》

 翼をひるがえし、グリフォンは都市の中央を目指す。


《あの家か》

 大きな窓を鋭い鉤爪で叩き割り、グリフォンの巨体が背の高い家の最上階に躊躇なく飛び込んだ。部屋の中に散乱していた大量の白い花弁が、舞い上がり部屋の隅に押し流されていく。

 グリフォンは白い床の割れ目から生えた白い花を蹴散らしつつ、部屋の奥の質素なベッドに近づき、鉤爪を振り上げ――静止した。何らかの攻撃を受けたのではなく、アルクスは自らの意志で攻撃を停止していた。

 長い栗色の髪、小さく頼りない身体、整った目や口元、細い手足。そこにはあまりにも、自分の妹に似た栗色の髪の少女が寝ていた、まるで蝕痕の無くなった健全な状態の妹が、白い花に囲まれてそこで寝ているのだと錯覚する程だった。

(―違う…ラウラではない、解っている…しかし……)

 瓜二つの姿や顔の他人がいる、という事など特に不思議なことでもなんでもない、ちょっとした偶然だ、十数万の人を探せば一人くらい見つかるだろう、しかし、今、ここで、アルクスが殺すべき対象が自分の妹にあまりにも似ているというのは、奇跡…いや悪夢という他なかった。

 ふとアルクスは、自分の頭の中に声が語り掛けてくるような錯覚に陥る。

『力に頼り、対立する意見を封殺するのは簡単です。しかし、それは必ずやより大きな不幸を呼び寄せることになります』

《どうしたアルクス、早く殺せ。補完の干渉波を許しているぞ》

『どうか貴方に対話をする術があるなら、民を傷付けるのを止めて下さい』

《あ…あぁ、分っている…》

 しかし、グリフォンは振り上げた鉤爪を降ろし、ベッドの前でただ少女を見つめて佇むだけだった。

《もういい。ティーフ、残存する魔力を全てネーヴェに回せ。ネーヴェは結晶の壁を放棄、直ちに中央に走り、アルクスに代わり目標を殺せ。お前の足なら、住民の群れが第二結節に達するよりも先に目標を殺せるだろう》

《わかった》

 長大な結晶の壁の全体に内側から細かな亀裂が走り、薄氷のように砕け散り、霧散する。障害の無くなった白い群れは、粘性の液体が広がるようにゆっくりと都市の外へと進行を始める。

 灰色の巨狼はその群れを一直線に貫くように蹴散らしながら、都市の中央を目指して走る。その後ろ足が石畳を蹴る度に、薄い石畳は叩き割れ捲れあがっていた。


 薄い壁が砲撃でも喰らったかのように叩き破られる、空いた大穴から巨躯の狼が部屋の中に侵入してきた。

《どいて》

《…》

 ベッドの前に佇むグリフォンは力なく部屋の隅に身を寄せる。

 灰色の毛皮に覆われた剛腕は、花の茎を手折るように容易く少女の細首を胴体から切り離した。

 巨狼は一度、動かぬグリフォンを睨み付けると、壁に開けた大穴からまた飛び出していった。

 跡塔の光と白い花は纏っていた光が消失し、住民は歩みを止め、ばたりばたりと倒れていく。



 フィエンツ修道院の聖室の中央に鎮座する大きな水銀の水時計。その下半部は今落ちた一滴により満たされた。もう逆転させなければ何も計らない単なる置物でしかなかった。

 代行者の手足は、まるで生気を吸い取られたかのように萎れており、息も絶えだえという状態だった。

 代行者は震える手を組み合わせ跪き、最期の力を振り絞って顕現の言葉を唱える。

『主よ…我々の願いと行いが光の下にあるならば、我々にあなたの収穫の鎌を授け……たまえ…』

 唱え終えた代行者の身体はぐらりと傾き、白い床に倒れ伏す。

「はぁ…なるほど…これが、死か…。思っていたよりも心地よい…な――」

 そして、光の粒になって霧散した。

 同時に水銀の水時計に大きな亀裂が走り、弾けるように割れた。

 洩れ流れた水銀は、まるで意志を持つように床に彫られた図形を象る細い溝に過不足なく流れ込むと、白い輝きを放つ。



 東屋の屋根から白い花畑の霊園に飛び降りる黒豹。相変わらず身体に纏わりつく不快感は消えないが、体力を削り取られるような冷気は消え去り、目の前の修道院から放たれる圧迫感も霧散していた。

《そのまま真っ直ぐ走れば礼拝堂だ》

 ウィクリフの指示を待たず、影に同化した黒豹は寂れた礼拝堂に向けて走り始める。

《脅威とやらはどうなった、このまま突っ込んでいいのか?》

 草が生え放題の庭を横切ると、草木を受け入れ共存するように聳える礼拝堂の姿が見えてくる。

《跡塔の破壊と同時に聖室に蓄積されていた反応は全て消失した。失敗したとは考え難いが、まだ準備段階の可能性もある。先に修道院長を殺してしまえば如何なる企みを全て水泡に帰す》

《そりゃそうだ》

 月明かり照らされる礼拝堂の中に、一際ひときわ黒い影が滑り込む。

 礼拝堂の奥。日輪のシンボルが飾られた台の前には、金糸の装飾の施された法衣に身を包んだ長い黒髪の妙齢の女性がたたずんでいた。ラルマは一目みて、それが修道院長であると理解する。

 女性は魔物の気配のするほうに顔を向け、恐怖でも、敵意でも、諦観でもなく、ただ友好的に微笑んでいる。

《チッ…下らねえ平和主義は、お前らの好きな天国でやってろや》

 黒豹はしなやかな身体を跳躍させ、礼拝堂の入口から奥まで一気に迫る。

 赤黒い血が飛沫し、アマリアの白い法衣と頬を染める。


「ごめんなさい…私には貴方達を理解しようとする力が足りませんでした」

 ひび割れた床にどっと倒れ伏したのは、巨躯の黒豹だった。

 その胸元から肩口にかけて白い筋が入っており、そこから赤黒い血がどくどくと溢れだしていた。そのかおは驚愕で固まっている。

「可哀想に…でも、すぐに痛みは和らぎます…」

 アマリアは黒い獣の頬に白い掌を優しく乗せる。



《あれ、ラルマの鼓動が希薄になったよ…?》

《撤退だ。全員、都市外へ離脱しろ!》

 白い筋が一閃、結節を内包して膨らんだ水竜の腹部に走る。

《え…?》

 一瞬後、一閃の白い筋から大量の鮮血が噴出し、白い屋根や壁、石畳に雨のように降り注ぐ。浮遊を保っていられなくなった水竜は、血を撒き散らしながら街の中へ墜落する。


 何らかの攻撃を受けていると察したネーヴェは、直ちに結晶の盾を四方に展開して、毛皮を硬化させるが、次の瞬間、鋭利な刃物で裂かれたかのように首元から血を噴出する。

《殺して、や…る…》

 結晶の盾が割れ霧散する。巨狼は血に濡れる石畳の上にその巨体を倒した。


 背の高い家から飛びだしたグリフォンは都市外へ逃れようとする。

《皆の鼓動…魔力が、何が起きてい―》

 高度を上げようと強く飛翔したグリフォンの胸元から大量の血が噴出する。

 風を操るための魔力を喪失したグリフォンは山なりに降下し、ひび割れた煉瓦の壁に頭から突っ込む。


 唯一逃れたのはウェルテの蜻異種リベレ達だけだった。

 壁や屋根に張り付き、魔力の回復を待っていた蟻異種フルミナ百足異種ミルパットたちは干からびて死滅していく。

《そんな…どういうこと、ウィクリフ!ティーフからの魔力の供給が途絶えて、アルクスもネーヴェも正体のわからない攻撃を受けて…ラルマは目標を殺せたんじゃないの?》

《一手、遅れたようだ。集積されたリソースから“収穫者リーパー”の顕現を許してしまった。物理的な力を一切持たない、蝕の浄化に特化した使者だ。現時点で収穫者に対応する術は、修道院長の殺傷による聖体の破壊以外に無い》

《だからそれを目指してあらゆるリスクを犯したんでしょう。もう林の中の肥大化結節は造血胞に変異させてしまって、さっき消滅したのよ?ティーフの保持していた結節はどうなったの?》

《収穫者の攻撃を受けて破壊された》

《破壊ってそれじゃあ…もう、どうしようも…ないじゃない》

《ああ、フィエンツの侵攻は失敗だ…作戦を終了とする、ウェルテ、トーマと共に血潮の山へ帰還しろ。今ならまだ奴に捕捉されず逃れられる》

 ウィクリフは硬く握り締めた拳を机に付け、四体の魔物がほぼ機能停止状態にあることを告げる啓発者の頁を睨むしかなかった。



 フィエンツの夜空に白く長いローブを纏った数メルト程も背丈のある大きな人型が浮かび上がる。

 金糸の装飾の施された白いローブの裾には、死人に手向けられる白い花が列になるように飾られている。足は無く、ローブの隙間から伸びるのは異様に細長い白い腕。目深にかぶったフードからは中の顔を伺い知ることはできない。

 だらりと地に向けて垂らした両手は、三日月の如き巨大な白銀の刃を持つ大鎌の長大な白銀の柄を携えていた。

『どうか憎しみを忘れ、安らかに眠って下さい』

 都市の中で倒れる四体の魔物の心の空隙を“補完”の奇跡が埋めていく。

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