7-7 偶像

《で、何事も無く来れちまったわけだが…》

 フィエンツ光域の北西に広がる横長の林から一筋の蝕痕が、夕暮れのフィエンツの市壁に向けて伸びる。影と同化した巨躯の黒豹と蜻異種リベレが、都市の外縁に忍び寄り、その様子を偵察したいた。

《これが、フィエンツなの…?》

 教国最東部の光域、その中枢を担うフィエンツは、四方を疎らな林に囲まれた都市で、その面積はカプアに次ぐ広さを誇っている。

 しかし、都市を囲う低めの長大な市壁は粗い破線のように所々が大きく崩れ落ちており、補修されているような痕跡も見当たらず、もはや壁としての態を成していない。都市内部の石畳の道は欠損や亀裂の無い所を探すほうが難しく、枯れた井戸の周りには乾いた木の桶が転がっている。建ち並ぶ白い家屋はいずれも土や埃で薄汚れており、そのどれもが壁や屋根に穴が空いているか、白い煉瓦が欠けているか、窓が割れている。そして、都市の到る所には草木が無造作に生え伸び、退廃的な雰囲気を更に強調させていた。夕日に照らされるフィエンツは、不気味な静寂に包まれていた。

《放棄された都市、廃墟にしか見えないわね…。都市の構造だけは地図で見た通りだけど、想像していたのと随分違うわ。市壁が崩れているせいで、蝕痕の遮蔽もされてないから魔脈を侵入させるのは簡単そうではあるけれど…》

《なんか、纏わりつくような嫌な圧迫感を中からひしひしと感じるぜ…クラーザやカプアの時はヒリつく感じだったのに、なんなんだこいつは》

《微弱な“補完”の干渉波が都市から溢れている、魔物に対しては不快感を与える程度のものだが、フィエンツに暮す者達には強力な心理的制圧力があるだろうな。ラルマ、ウェルテは警戒を厳に、跡塔の配置を探れ。アルクス、ネーヴェは引き続き後方から魔脈の成長の補助だ》

《了解。とりあえず、住民がいるのか確認してみるわ》

 都市外縁の家へ割れた窓から飛び込む蜻異種リベレ、外観はいかにも荒廃してる様子だったが、家の中は意外にも整えられている、しかし生活感は無い。廊下を飛び、ドアに張り付き、肢を使って器用に開く。蜻異種リベレは偵察用の蟲ではあるが、人間の子供程度の筋力は持ち合わせている。

 寝室の窓際の空間は古びた二つのベッドが占めている、ベッドの傍にある台の上には一輪の白い花が活けられた細い灰色の花瓶が置かれていた。清潔そうなシーツと掛け布の間には、生気に乏しい青白い顔の住民が眠っていた。

《これは、屍…?違う、生きてる》

 蜻異種リベレは眠る住民に取り付き、その青白い口と鼻が微かに呼吸をしているのを確認する。

 ウェルテはフィエンツの東部のいくつかの家に同時に偵察を遣わしていたが、どの家も似たように屍のような寝たきりの住民がベッドの上に横たわっているだけで、他に目ぼしいものや、異変は見当たらなかった。

《あまりにも異様な住民だけど、今の所、脅威には感じられないわね…》

 都市内を偵察する蜻異種リベレ達は家屋の中への侵入を止め、跡塔の探索を優先し始める。

《でも…おかしいわ、これ。ラルマはどう?》

 フィエンツ西部、退廃的な街並みの中を、路地裏や壁、屋根をするすると影が滑り行く。しかし使者が現れる様子も無し。

《あぁ…ビリビリ来るようなそれらしい位置はわかるけどよ、肝心の跡塔の姿は一本たりとも見つからねーよ》

 黒豹の影は、フィエンツ西部に建てられた警鐘を鳴らすための櫓の頂に登っていた。しかし、櫓の木の脚は今にも壊れそうな程に痛んでおり、櫓の中に取り付けられている鉄製の鐘は、赤茶けた錆に蝕まれており、強く叩けばボロボロと崩れてしまいそうだった。

《跡塔は存在しないのに、浄化の力だけは都市内の各所からしっかり放たれている、これじゃ、いくら使者が出てこなくても、都市内に魔脈を伸ばせないわ》

《一応、今のままでも誰か一体を、たぶん修道院の傍にまで送ることはできると思うよ…活動できるぎりぎりの魔力を維持するだけっていう状態になっちゃうけど…》

 恐る恐る提案するティーフ。

《ただ近づいただけで、かすり傷一つも付けられないんじゃ何の意味もないわね…》

《うーん、やっぱりそうだよね》

 魔物達は何の防備が無いが、存在しない跡塔の存在を擁する荒廃した都市を前にして足踏みを余儀なくされていた。

《それらしいところに無理やり攻撃してみるか?“見えないだけ”かもしれないぜ》

《…その必要ないわ、既に怪しい箇所に蜻異種リベレを近づけて感覚情報が改竄されていないかウィクリフに読み込んでもらったけど、そんな痕跡は一切無かったみたいから》

《ああ、これは秘匿の奇跡によるものではない。もっとも、もし秘匿の奇跡を使うなら、浄化の力を含めてあらゆる痕跡を消し去っているはずだがな》

《んじゃ、残る手段はボロ屋の中で眠りこけてる住民共の皆殺しだな。いいだろ?ウィクリフ》

《そうだな…住民が都市のリソースを担う存在である事は間違いない、何か変化があるまで殺してみろ》

 櫓の上の影は音も無く近くのひび割れた白い煉瓦の屋根に飛び移る。

《待って…何か、いるわ》

 都市を東西に貫く大通りの東から、白いローブ姿の老人が一人、歩いてくるのを蜻異種リベレが確認する。老人は都市西部の崩れた市壁の近くに至ると、穏やか表情で語り掛けてきた。

「私達は決してあなた方を害するつもりはありません、私達はただあなた方と対話し、分かり合いたいだけな―」

 言い終わる前に、飛来した百足異種ミルパットが、その大鋏のような牙で老人の首を刎ねる。首を失った胴は、血を噴出してひび割れた石畳の上に倒れた。

《補完の干渉波を流しながら、住民を使って動揺を誘おうとでもしてるのかしら。心理攻撃にすらならない稚拙な手段ね》

《ってか俺らは魔物だぜ?分かり合うとかそれ以前に言葉が通じるかどうかっていう問題だろ、馬鹿かよこいつらは》

 首の無い骸から流れ出た血は、石畳を赤く染めるが、地に吸収されるようにして不自然な早さで乾いていく。残された骸は白く変色しながら土のように崩れ落ちていき、その白い土から時間を急速に進めるようにして、何本かの緑の茎が伸び、芽を付け膨らませ、薄い光を纏う白い花を咲かせた。フィエンツの家屋でよく目についたあの白い花だ。

《なんだ、ありゃ?》

《浄化の力を持った花だ。まだ教国が教国と呼ばれていなかった古い時代、浄化の力の要に石や金属だけでなく植物を利用する事があった。しかし、その維持、管理の手間が割に合わないため、跡塔の普及に伴い今はもう廃れている》

《説明どーも》

 屋根の上の黒い影が大通りへと跳躍する、着地と同時に白い花の生える白い土の上を通り過ぎる、一瞬後に白い花はバラバラになって散った。しかし、細切れになった葉や茎が白い土の上に落ちると、それが新たな苗になり、さっきより小さい白い花が次々と生え始めた。

《無闇に散らすな、高い繁殖効果が付与されている》

《言うのが遅いぜ》

《ちょっと、次々と来るわよ…》

 白いローブ姿の青白い顔の住民達が都市の中から次々と現れ、フィエンツ西部に歩むのを哨戒していた蜻異種リベレが確認する。歩み来る住民は、くわを携えた男、白い花の入った籠を持つ女、白い杖を突いている老人のいずれかに分類された。

 鍬を持つ者がそれを石畳に向けて振り下ろすと、その歯先が当たった箇所が白く変色し柔らかい土のようになって削り取られ、小さな窪みとなる。その窪みに籠を持つ者が白い花を一本、植える。杖を突く者は何もせず歩み来るだけだが、自らの死によって骸を苗床に花を咲かせるのが役目であろうと予想された。

 白い群れは、そのようにして白い花を植え、咲かせながら、浄化の範囲をじわじわと広げフィエンツの西部へと集結していた。

《この群れ、処理するわよ。このまま行ったらせっかく伸ばしてきた魔脈が焼かれるし》

《無論だ。しかし、死を恐れないような存在に無闇に接近すべきではない、アルクスとウェルテで対処しろ。それと少し気になる事がある、対処しつつウェルテは蜻異種リベレを一匹、フィエンツの修道院を目視させておけ。遠目で構わん》

《判ったわ、じゃ私は入り組んだ場所をやるから、アルクスは通りをお願い》

 市壁の外から六匹の百足異種ミルパットが都市内へと舞い込んでいく。

《了解》

 同じく市壁の外に待機していたグリフォンが、市壁の歩廊の上に降り立つ。そして、自らの羽根を軸に風を凝縮させ刃を作ると、迫る白い群れに向けて撃ち放つ。市壁の上から放たれた風の刃は滑るように降下しながら、大通りを一直線に飛び抜け、青白い住民の首や上半をばっくりと切り裂いていく。

 百足異種ミルパット達はグリフォンの狙い難い建物の影や細い路へと舞い込むと、そこから歩み出ようとする者達の首を刈り取っていく。

 市壁の周辺は、瞬く間に切り裂かれた血肉と臓腑に塗れていくが、しかし溢れる血は直ぐに乾き、桃色の臓腑や肉は白い土へと変わり、いくつかの土からは白い花が生え始めるため、凄惨な処刑場はすぐに神秘的な光景に変る。

 市壁周辺の住民をあらかた処理し終わったが、また都市の奥から次の白い群れがぞろぞろ湧き出し、白い土に塗れ白い花の咲き乱れる市壁付近に向けてゆっくりと行進してくるのをグリフォンと蜻異種リベレは確認していた。

 首を刎ねられ、身体を切り裂かれる様子を見ていた者もいるはずだろうに、迫る住民は皆、臆する様子も、怯える様子もなく、穏やかな顔のまま魔物達の構えるフィエンツ西部の市壁へ向けてゆっくりと歩んでくる。

《キリが無いな…これでは》

 嘆息するアルクス、しかしラルマは至って前向きだ。

《向こうから処刑場に来てくれるんだから手間が省けていいじゃねえか。そのまま、皆殺しにしてやれよ》

 市壁の上でグリフォンが再び風の刃を形成し、迫る白い群れに放つ構えを取る。 

 が、ウィクリフの声がそれを制止した。

《待て、住民の処理は一時中止だ。ネーヴェ、可能な範囲でいい、結晶を使って住民の進行を抑えつけろ、ウェルテも手伝え》

 市壁外にて待機していた巨狼は、弾かれたように走り出る。崩れた市壁の切れ目に辿り着くと、一つ大きく遠吠えを虚空に放った。共鳴するように巨狼の足元から市壁に灰色の結晶の霜が広がり、市壁に歩み来る住民達の足元を拘束していく。結晶の霜で捉えきれない者達は、蟻異種フルミナ百足異種ミルパットが牙で足首や胴体を挟んで拘束していた。

「―どうか、あなたの苦しみや悩みを教えてください」

 足元を結晶の霜で絡め取られた住民は、無理にもがく事はせずに穏やかな表情のまま巨狼を見上げ「対話を」「分かり合う」「受け入れたい」といった旨の言葉を語り掛けてくる。

「グルルルルウゥ…!」

 巨狼は獰猛な牙を見せつけ、低い唸り声で威嚇するが効果はなさそうだった。

《何か、新たな脅威を見つけたか?》

 グリフォンは咲き乱れる白い花の光を避けるように、崩れかけの歩廊から都市外へと飛翔し、後退する。

《ああ、急激にフィエンツ東部の修道院にリソースが集約されている。死んだ住民の魂を回収しているらしい、死体から溢れた血が直ぐに乾いているのはそのためだ》

《つまり?》

《住民を殺す程、修道院から巨大な力を持った使者、あるいは奇跡を発現される危険性が増す。我々は住民の殺戮よりも跡塔の破壊、そして修道院長を殺す事を優先せねばならん》

《しかし、跡塔が存在しないのだ、無いものを壊すことはできないぞ》

 グリフォンは眼下に広がる荒廃した街並みを今一度よく観察するが、その中に白い塔の姿は一本たりとも見当たらない。

《じゃあもうさ、今ある結節を全部、造血胞にしてよ、何もかも無視して飛び越えて、一気に修道院を攻め落とすってのはどうだ?》

《えぇ…ちょっとそれは…どうかと思うよ》

 ラルマの強気な提案をやんわりと否定するティーフ。

《今回の敵は数をたのみに魔脈に攻撃を仕掛けるような相手だ、更にそういった電撃的な作戦を行う場合の要ともいえるトーマがいない今、結節の成長を棄てるのは分の悪い賭けとも言えない単なる自殺行為だ》

《やっぱりトーマの回復を待ったほうがよかったんじゃねーの》

《“大浄化”という命の期限が迫っていなければそうしただろう。いずれにせよ、お前達が見つけた跡塔が存在すると思しき場所から放たれている光の質や量、規模は跡塔と全く同一のものだ。多くの住民が確かに“そこにある跡塔”を拠り所としているのは間違いない》

《実体はないのに存在する場所…ね、一体どこなのよ、誰か思い当たるとこは無い?》

 ウェルテは皆の意識に問いを投げかけたが、帰って来るのは沈黙だけ。

 ――否。



 フィエンツ修道院の礼拝堂。

 光域の中心都市の礼拝堂の内装にしては狭く特長のない質素な造りをしている。しかも、その質素な内装の到る所にはひび割れや破損が目立ち、木の床板には穴が開きそこから草が伸びているような有様だった。しかし部屋の中に満ちる空気はとても清浄で、どうしてか荒廃した雰囲気は感じない、むしろ自然との調和を感じる程だった。

 修道院長のアマリアはその礼拝堂で一人、祈りを捧げていた。

 静寂に包まれる礼拝堂に、どこからともなく代行者が現れる。

「フィエンツの住民を使って魔物共に語り掛けるのが、貴様の言う魔物共に戦意を放棄させるための手段か?」

 背後から投げかけられた詰問に、アマリアは丁重に答える。

「はい。彼らはあらゆる存在に対して強く友愛の心を持っています、その言葉は必ず届き得るでしょう。決して“フィエンツの住民に自らの死を恐れる事なく、魔物達が撒き散らす蝕痕に向かって歩み、浄化の花を植え続けさせる”との代行者様の命に反するつはありません」

「当然だ。収穫者の顕現に障る事があれば、その戯れをする自由も無くなると心得よ」

「承知しております」

 代行者は礼拝堂から消える。

「全ての命あるものは分かり合うことがきでます…きっと」

 アマリアは、夕日の射す礼拝堂で一人祈りを続ける。



 教国中東部に位置する細い街道沿いの小さな町。蝕の影響が強いため、まだ夕刻だが、もう陽の光は陰り、闇夜に大きな月のようにみえる陽が浮かんでいる。

 ここは光域外の町ではあるが、主要な街道に連なっているため比較的、手厚い浄化の加護を得ることができていた。

 村の西に建てられた小さな馬房ばぼうで馬の世話をする二人の男の顔は明るくない。

「なんかよぉ、“預言の魔物”共のせいで全く恐ろしい世になっちまったもんだよな。浄化の恩恵が無くなったせいで、今まで安全だった光域に大物小物問わず厄介な魔物が現れるようになってよ、それまで魔物に対処する事なんて考えてなかった元光域の中の町や村ほど手酷く魔物に蹂躙されてるらしいぜ」

「らしいな。でも、元々光域から外れてて、細い跡塔の下で暮してる所は大した変化はないみたいだな。特に街道沿いは案外安全だよ、むしろ前より魔物の被害が減ったくらいさ」

「そうかねぇ…まぁ、なんだっけ、大浄化…?とか言ったか、それで全ての蝕が晴れて、蝕痕も魔物もない平和な世界になるんだとよ」

「あぁ司祭の爺さんが言ってたな、確か“契約の日”に行われるとか」

「契約の日って、始めて奇跡が起きた日だったっけか、まあ近いうちだな」

 馬房に一人の少年が現れる。

「お、どうしたボウズ、今日はもう乗馬の訓練は終わりだぞ。家で大人しくしてろよ」

「ねえ、なんか西の空から何かが飛んで来てるよ」

 二人の男は顔を見合わせ、馬房から飛び出し、西の空を確認する。馬房から世話を途中で放り出された馬たちが抗議のいななきが聞こえてくるが、男たちの耳には入らない。

 闇夜の空の彼方には、確かに小さな赤い影が浮かんでおり、その影はこの町に向かって少しずつ大きくなってきていた。明らかにただの魔物ではないと悟った二人は町の中の教会へと走る。

 小さな教会の中には既に深刻そうな顔の大人たちが集まって、気弱そうな初老の司祭を取り囲んでいた。

「ああ皆さん、どうか落ち着いて…大丈夫、大丈夫です、預言の魔物は都市を破壊する存在です。このような小さな町に手を出したりはしません」

 老年の司祭は顔のしわを引きつらせながら住民をなだめる。

「信じられるか!」

「カプア光域じゃ都市の近くにある村や町が全て滅茶苦茶にされたって聞くぞ」

「ここも、あの魔物に滅ぼされるんですか?皆でどこかへ逃げるべきなんですか?」

「こういう時こそしっかりしてくれよ司祭さんよ!なんとかできないのか?」

 畳みかけるような住民の言葉にたじろぎながらも、司祭は住民たちに冷静になるように促す。

「と、とにかく、落ち着いて下さい…。下手に動けば魔物の目に留まります、跡塔にも近寄らない方がよいでしょう。魔物は跡塔を破壊しようとします、何らかの攻撃に巻き込まれかねません。今は自分の家に戻り…静かに祈るしかありません」

「諦めて、残りの時間を大切にしろって…そういうことか?」

「違います。信じるのです、奇跡を。我々にそれ以外にできることはありません」

 教会は沈黙に包まれる。

「……皆、自分の家に帰ろう…」

 ふと冷静になった誰かがぽつりと言いだす。教会に詰めかけた住民は、力ない様子でそれぞれの家へ戻っていく。司祭の言葉を額面通りに受け取り、奇跡を信じようとする者がいくら居たかは知れないが、こんな所で口だけ達者な老人を無闇にけしかけるよりも、我が子や伴侶と話していたほうが有意義だと考えた者が大半であったのは間違いない。



 冷たい風を両翼に受けて飛ぶトーマは、霧散しそうになる意識を急激に手繰り寄せる。こんなふうに意識を引っ張り上げるのは、もう何度目だったか覚えてはいない。

《あれ…進路がすこし南にずれてる…?》

 それまで、努めて蝕痕の濃い経路を飛んでいたつもりだったが、いつの間にか蝕痕の薄い場所へと流れてしまっていた。蝕痕が薄い原因は直ぐに判る、遠くの街道沿い

に小さな町の明かりと跡塔の輝きが見えたからだ。

(―少し、地上に降りて進路を確かめようかな》

 と、考えたのがいけなかった。気を緩めた瞬間に意識の潮が引くのと、気怠さが圧し掛かるように強まるのと、風の流れが唐突に吹き止むのが重なり、トーマはなんとか墜落しないように高度を下げながら減速するので精一杯という状態になった。

(―落ちる…!)

 紅い鱗の飛竜は意図せずして、街道沿いの小さな町の西にある木造の家を、両足で押しつぶすようにして不時着した。

 飛竜が纏っていた熱波が町の中に広がる、潰された家の瓦礫は燻り燃え始めていた。幸い空家だったのか、人を押しつぶしたような手応えは無かった。

 瓦礫に点いた赤い炎が石畳の街道や隣家の壁を舐めるように照らしていく。

《いけない…町の中に落ちちゃった…》

 ゆっくりと身体を起こし、首をもたげる飛竜。町の中には遠巻きに茫然と立ちつくし自分を眺める者、膝をついて祈る者、町の外へ逃げ出そうとする者など様々だった。なんとなく、申し訳ない気持ちになりつつトーマは、身体を揺らし瓦礫を払う、当たり所が良かったのか翼も腕も問題ない。しかし、すぐには飛び立てず、身体に圧し掛かる気怠さが引くのを待たねばならなかった。

《もう少しだけ…すぐに飛んでいくから…》

 トーマはそれが自分の目の前に来るまで、何か理解できなかった。

 瓦礫の中に倒れ伏し、熱気を周囲に放つ飛竜じぶんの元に、まだ十歳にも満たない一人の少年が駆け寄り、震える手で木の棒を飛竜の鼻先に向けて構えたのだった。

 もし、その木の棒がなんらかの奇跡の付与されたもので、頭部を攻撃されていたとしたら、間違いなく致命的な傷を負っていた事だろう。しかし、小さな少年からは奇跡が付与されたモノから放たれる、刺すような威圧感は感じられない。

《ただの…子供、だよね》

 飛竜は紅色の鋭い瞳で少年を睨む。

 遅れて父親と思われる男が少年の所に駆け付け、竜の視線から庇うように小さな身体を抱く。しかし、少年は父親に庇われながらも、その場で頑として立ち、木の棒の切っ先と強い眼を飛竜に向けて動かない。

(―ああ、この子は僕よりも強い勇気を持っている。この子の心の中には、きっと僕よりも確かな信念が存在しているんだ…こんなに小さな身体の中に)

 ふと、ウェルテの声が聞こえて来た。

《――存在しないのに存在する場所…ね、一体どこなのよ、誰か思い当たるとこは無い?》

(―…存在する場所…)

 トーマは、皆の意識の中に言葉を放つ。

《あの…“心の中”っていうのはだめですか?》

 飛竜は瓦礫の中から身体を起こし、地を蹴り、飛翔する。

《―…なるほどね…どう、ウィクリフ?》

《―有り得る話だ》

 気付けば身体に圧し掛かっていた気怠さは随分と薄らいでいた。飛竜は力強い飛翔で、ぐんぐんと高度を上げていく、勇気ある少年の姿も、少年を守る父親の姿も、遠巻きに眺めていた住民も、街道沿の町並みも砂粒のように小さくなっていく。

 トーマは、熱波を連れ、明滅しそうになる意識を何とか繋ぎながら東へ向けて、夜の空を滑り行く。

 こんなふらふらな状態でも、トーマの胸には何故か妙な確信があった。

 “きっと、自分の存在が皆の役に立つ”

 そんな確信が。

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