7-6 フィエンツ

 一面に広がる緑豊かな牧草地帯に気持ちの良い微風が通り抜け、青い草を揺らす。遠目にポツポツと見える白い群れは、草をはむ羊や牛だ。

 不気味な程に何もない、誰もいない。穏やかな正午の陽の光に照らされ、あらゆる争いと病苦から解放され、真の平穏が実現されたかのような世界が、ここに広がっていた。

 その完成された平穏をかき乱すように、蜻蛉に似た蟲の魔物達が飛来していく。“蟲の魔物は災いの先触れ”という迷信を信じる者は少なくないが、今は迷信ではなく、事実として災いを運んで来ていた。それも、光域を破壊せんとする最悪の災いを。

 小さな村を見つけた蜻異種リベレは、住民に見つからないように牛小屋の陰から接近し、小さな村の中を偵察する。

 そこにあるのはいつもと変わらぬ酪農を営む村の日常の風景だった。

 牛舎で牛の世話をする者、藁や肥料の運搬、整理をする者、痛んだ農器具や荷車を修理する者、鶏舎から飛び出した鶏を追いかける子供、納屋の中では収穫した麦の穂を木の棒で叩いて脱穀が行われていた。時折、笑い声や誰かを呼びつける声が聞こえる。

《本当に平和そのものね。光域に入っても何の御咎めも無かったし…危機感というのものは無いのかしら、ここの人達は。教国最後の地方光域なのよ、フィエンツの修道院長は何をしてるの?》

《だが、浄化の力は光域の外縁に至るまで過不足無く注がれている、何が潜んでいるか判らん、決して警戒を怠るな。また、どんなものが待っていようと、魔力を維持し、魔脈の成長させ、跡塔の破壊し、使者を退け、そして修道院長を殺害するという基本は変わらない》

 ウィクリフは淡々と答える。

 その牧草地帯の北に横長に広がる林の中を影に同化した黒豹の魔物が、しなやかな四肢を淀みなく動かし、滑るように走り抜けていく。黒い影が通り過ぎていった跡には、じわりじわりと小さな蝕痕が湧き出していた。

《その基本で終わってくれる事を祈ってるぜ、割とマジで》

《まずはこの林の切れ目まで一気に進むぞ》

《了解》

 広範囲に展開する飛行型の蟲達と林の中を先行する影の魔物、後ろから遅れて灰色の巨狼とグリフォン、そして女王蜂の魔物が林の中を進み、大海蛇の如き水竜は界域を進んでいた。

 慎重に進む魔物達だったが、しかし、使者の一匹すら出てくる気配はなく、何か仕掛けられた奇跡が発現する様子もなく、無事にフィエンツ光域の外縁から都市周辺まで迫る事に成功した。


 緑の苔に覆われた岩や朽ちた木の株、積み重なる落ち葉から作られた柔らかな土の中には普通の小さな虫や菌が息づいている、静謐な原生林の中に集まった魔物達は、周囲に蝕痕を撒き散らしていた。

 魔物達が集まっている場所の中心には、窪みにできた小さな水溜りがあった、透明な清水は薄赤色に濁り、水溜りの底は黒く染まり結節が生まれる。その異形の水溜りの中に、巨大な女王蜂の魔物が橙色の透明な水胞―繁殖胞を産み落とす。薄赤い水溜りの中で橙色の水胞はゆっくりと肥大化していく。女王蜂の魔物は肥大化した繁殖胞の上に取り付くと、液胞の中に白い卵を産み付けていく。

 巨躯の黒豹は、その様子を隣で眺めていた。

《なぁ、卵を産み落とすってのは、一体どんな感じなんだ?》

 ラルマの素朴な疑問に、ウェルテはばつが悪そうに答える。

《別に…ポケットから小石を取り出すようなものよ。お望みなら、あなたの腹部に産み付けてあげるけど》

《いや、遠慮しとくぜ…ってか、ここを最初の拠点にしてよかったのか?ちょっと、フィエンツまでは遠いぜ》

 黒豹は顔を東へと向ける。

《どこに罠があるのかも判らない状況で、都市近郊まで細いティーフの魔力調整だけを当てにするのは危険すぎるわ。それに、ここを過ぎれば後は、光が遮られるような濃い林は無いし、妥当な所よ》

《うん、僕も頑張って調整するから、慎重にいこうよ》

 薄赤い界域の中では、いつものように魔脈の成長と魔力循環の調整の能力を強化補助する巨大な水泡を抱える蒼い鱗の水竜の姿があった。

《頼むぜティーフ。そういやお前、ずっと魔物のままだけどよ、記憶が無くなるとか、言葉が理解できなくなるとか、そういう変調はあったりしねーのか?》

《全然、何ともないよ。本当にずっと気分がいいんだ》

 あっけらかんと答えるティーフ。声色は自然体で無理をしているような感じはない。

《ならいいけーどよ》

 そんな会話をしているうちに橙色の液胞の中から多数の蟻異種フルミナが産まれ、土の上に這い出て行儀よく整列していた。

《それじゃ、アルクスと一緒に食糧取ってくるから。皆はここで結節の管理、頼んだわよ》

《行ってくる》

 産み落とされた蟻異種フルミナ達は、グリフォンと共に林を出て、南へと向かった。


《アルクス、来てるわ》

 林を抜け、その先にある岩だらけの丘陵を越えたあたりで、南の方から白い小さな影が近づいてくるのを、蜻異種リベレとグリフォンの眼が捉えていた。

《ああ、見えてる。伝令者だな》

 グリフォンは大きな鷲の翼をはばたかせ滞空し、周囲に鋭い風を纏い、迎撃の構えを作る。

『私達はあなた方を受け入れます。どうか私達に、あなた達の憎しみや苦しみを消させて下さい』

 しかし、伝令者は何か攻撃をするのではなく、逃げるわけでもなく、語り掛けて来た。優しそうな女性の声で。

《撃ち落とせ、アルクス》

 短く指示を出すウィクリフ。

《了解》

 グリフォンが大きく羽ばたくと、二枚の羽根がグリフォンの周囲を漂い回り始める。

『どうか私達に、あなた達の憎しみや苦しみを―』

 もう一度、大きく羽ばたくと、二本の緑の羽根は矢のように伝令者へと向かって飛んで行き、白い身体に直撃すると乾いた音を周囲に響かせて凝縮された風圧を炸裂させる、二発の風圧の炸裂を受けた伝令者は光の粉になって消失した。

《今のは、精神的な攻撃の類か…?》

《いや、ただ単に語り掛けて来ただけのようだな》

《まあいいわ…食糧の調達、手早く済ませるわよ》

 蟲の群れとグリフォンは南へと目指す、遠くに小さく家屋の建ち並ぶ影が見えていた。先行する蜻異種リベレは既に、その町の中の様子を確かめている。町を守るための防護柵も、石垣や塀の類も一切作られておらず、光域の中程にある町という事を加味しても、あまりにも防備の意識の薄い町だった。

《なんだか妙な町よ…、跡塔は見当たらないし。どうする?》

 町の中はまだ昼過ぎだというのに活気がない。家屋の中、住民の多くは寝たままだった。活動しているのはおよそ全住民の四割程で、それぞれ鍛冶仕事、機織り、写本、醸造等の仕事に従事していた。町の中心からは浄化の力が確かに放たれているが、その中心に跡塔は見当たらなかった。

《蟲だけで制圧しろ、アルクスは町の周辺で待機だ》

《了解》

 小さな町に多数の蟲の魔物が忍び込み住民を襲い始める、しかし、悲鳴を上げる者はいない。抵抗する者もいない。一人たりとも逃げるそぶりすら見せずに蟲の魔物に襲われ、麻痺毒を首に撃ち込まれ気絶していく。そうして、フィエンツ光域内のとある小さな町は、蟲の魔物の群れによって瞬く間に壊滅した。

《アルクスも一人持っていって、あそこの鍛冶屋のおじさんを頼むわ》

 鍛冶屋の前には、髭を蓄えた筋骨逞しい男が白目を剥いて倒れていた。

《判った》

 グリフォンの前足の鋭い鉤爪が男の肩と腹部を掴み、悠々と空へと持ち上げた。

 十数人の住人は生きたまま、蟻異種フルミナとグリフォンによって、町の中から北の林の中へと運ばれていった。


 林の中はもう十分に蝕痕が展開されており、ベリダ周辺にあるような森に似た様相を呈していた。グリフォンが器用に木々を避けながら進み、蔓延する蝕痕の中心に降り立ち、運んできた人間を置く。遅れて数匹掛かりで人間を運ぶ蟻異種フルミナ達も続々と林の中に集合する。

《よお、早かったじゃねーか》

《…ええ、なんだか拍子抜けするくらい何も無かったわ》

 蝕痕の這う土の上に積まれていく町の住民達、肉の小山が出来る。

《まあいいや、さっさと食おうぜ―》

 黒豹が肉の小山に近づこうとすると、林の奥の岩の上に立つ巨狼の太い前足の元から結晶の霜が走り、肉の小山を取り囲むように灰色の結晶の細い柱が生える。

《おい、ネーヴェ。何のマネだこりゃ、全部喰わせろとかいうつもりか?》

 岩の上に構える巨狼を黒豹の金色の双眸が睨み付ける。

《なんか、普通の人間とは違う匂いがする、食べない方がいい》

《……ウェルテ、運んできた住人達から血を採ってみろ》

 異変を感じ取ったウィクリフはウェルテに指示を出す。

《血…ね、やってみるわ》

 繁殖胞から這い出た一匹の蜂異種ビネが、肉の小山に向かって飛ぶ、そして一番上に積まれていた青年の首筋に止まると皮下の太い血管に針を突き刺し、針から血液を抜き取り甲殻と皮膜に覆われた腹部に収めていく。

《なに…これ…?なんか、冷たいような、温かいような…》

《ウェルテ、直ぐにその個体から魔脈を切り離せ》

《おかしいの…切り離したくても、できない》

 即座に動いたのはラルマだった。黒い身体は弾かれたように跳躍し、その爪で肉の小山の頂点に止まる蜂異種ビネの身体を切り裂きバラバラにした。自然、ウェルテ本体と採血していた蜂異種ビネとの魔脈は途絶する。

《何なの、今のは?》

蜂異種ビネが採取した血液から多量の特殊な水銀を確認した》

《水銀って儀式に使う液状の金属よね…人体には猛毒だと言われているけど》

《こいつは“水銀の祝福”だ。聖別され補完アペンドの奇跡が込められた水銀を住民に飲ませ、その者のあらゆる苦痛や苦悩、悲しみや恐怖を恒常的に抹消させているのだ。代償として、徐々に自我が希薄化し思考や記憶を任意のものに塗り替えられていく。行き着く先は“依り代”、即ち奇跡を起こすために消費される触媒だ》

《生きながらに依り代にしていく奇跡か…残酷な事をする》

 呟くアルクス。

《残酷ってお前、俺らはあそこで泡吹きながら山になってる奴等を喰おうとしてんだぜ、いい加減聖人ぶるのはやめろよ》

《……》

 いつもの軽口のつもりで言ったラルマだったが、アルクスは不機嫌そうに翼を一度羽ばたかせるだけだった。

《なんだよ、ヘソ曲げたか?》

 横倒れになっている大木の幹に姿勢よく座っているグリフォンの横顔を睨み付けながら、近くににじり寄る黒豹。

《作戦中なのよ、やめなさい》

 黒豹の鼻先に蜂異種ビネが飛び出し嗜める。黒豹は顔を背けて、近くの樹の太い枝に飛び移った。

《それでウィクリフ、これらは私達を嵌めるために仕組んだものなの?》

《フィエンツ光域は、何等かの事故やショックによって生きる意欲を失った者や不治の病によって普通の生活を送れないようになった者達を受け入れる療養地という側面がある。水銀の祝福は光域に住む者全体に付与されていると考えたほうがいいだろう》

《早い話、奴等の隔離都市って事だろ、ベリダと似たようなもんだな。んで、あの毒入りの肉共はどうするんだ?》

 黒豹は鼻先で肉の小山を指す。

《奇跡の残滓を持つモノを拠点に置いておくわけにはいかん。残らず林の外、南の丘陵辺りに運んで殺せ、水銀の祝福の効果で毒で殺し切るのは難しいはずだ、首を落して血を抜け》

《了解。私がやるわ、蟻異種フルミナ百足異種ミルパットならそう時間は掛らないから》

 蝕痕の蠢く林の中から運び出された町の住人達は、丘陵の西側、東からは影になる場所に運ばれ、蟻の魔物と百足の魔物によって首を切り落されていく。ウェルテの言葉通り、凄惨な血の池ができあがるのにさして時間は掛らなかった。

《結局、俺らは何も食えず終いか》

《しかし、敵の手の内は一つ見えた。ここから先、可能な限り魔力の消耗に注意しさえすればいい》

《でも…ちょっといい。さっきの町、跡塔が無いのに浄化の力だけは注がれていたけれど、あれはどういう事。秘匿の奇跡か何か?》

《秘匿を効果を付与するなら、町そのものを認識されないようにしていなければ意味がない。…不明な現象ではあるが、浄化効果の範囲、位置、強度、いずれも予定している魔脈の成長経路には関わらない。今は先へ進もう》

《了解よ…》

 丘陵の西側に生まれた血の海が急速に乾いていくのを蜻異種リベレが視界の端で捉えていたが、ウェルテはそれを意識の俎上そじょうに上げるには至らなかった。



 床に描かれる大きな日輪の図形と、それに添うように彫られた文字の中を水銀が流れていく。聖体の光が注ぐフィエンツ修道院の聖室、その中央には、自分の背丈程もある8の字を縦に伸ばしたような硝子の容器に、それを囲うような縦長の長方形の銀のフレームを付けた水時計が置かれていた。代行者はその水時計の前で微笑んでいた。

「水銀の祝福を嗅ぎ分けたか。やはり不自然なほどに小賢しい奴等だ。まあ良い、お前達がそうして踏みにじる全ての命が収穫者の糧となるだろう」

 代行者は屈み、床に描かれる図形の一辺にそっと指先を当てる。

『敬虔なる者達よ、その身とその心を以って我らの地を耕し清めたまえ』

 小さな少年の声が聖室に響く、その声に呼応するように、床に描かれた図形が微かな光を帯びた。

「致命的な危険や悪意が迫れば、人はそれに抵抗し、可能なら撃退する。それが自然の摂理だ」

 水時計の中を銀色の液体が滴り落ちていく。



 薄暗いハイブの中で啓発者の頁をめくりながら、そこに書き記されている文字を忙しなく眼で追うウィクリフ。淡い光を纏う頁は魔物達から得た視聴覚の情報に、啓発者でなければ認識できない情報が追加されて書き記されていく。フィエンツ侵攻の指揮、及び脅威の分析をするウィクリフは、低い声でハイブの入口に現れた人の気配に向けて問う。

「何をしに来た」

「…僕も、戦います」

 僅かに振り返るウィクリフ。そこには皮膜服に着替えたトーマが、蝕痕の這う壁に手を付けて立っていた。その顔は赤みを帯びており、額からは汗が噴き出している。

「寝ていろと言ったはずだが」

「少し調子が良くなりました、戦えます」

 トーマはウィクリフの眼を見て答える。

「…来い、枷を着けてやる」

 覚束おぼつかない足取りで締結器の前に向かうはトーマは、ウィクリフの手を借りて鎖の繋がる枷と装具を身に着けると、結節の中に飲み込まれていった。


 崖の上から薄闇の中に沈むアンヴィルの村を眺める。僅かなかがり火に照らされる村の中はいつもと変わらない落ち着いた様子だった。

《フィエンツでは既に侵攻が進められている。お前がどんな状態だろうと、そこでは戦力の一つと考えるぞ》

《はい…きっと、跡塔に炎を撃ち込む砲台くらいには成れます》

 飛竜の身体に戻っても身体が火照る感じはそのままで、事実、熱気を纏っているのか、自分が身体を預けている草地が少し焦げていた。胸の内から感じる鼓動はいつもより大きい。

 身体を起こし、翼を広げ、崖の上から飛び立つ紅い鱗の飛竜、その直前、見張りの櫓に視線を向ける。櫓の中から自分を見つめるユーリの姿が見えたような気がした。

 竜は東の空へ向けて高度を上げ、飛行する。

 熱と気怠けだるさで、身体はいつものように滑らかに動かすことは出来ず、飛行の軌道は緩やかに蛇行している。

(―なんだか今は、あまり人を食べたり、殺したりしたくない…必要な目標だけを破壊して、すぐに終われる戦いだといいな)

 昏い陽の光に照らされる薄闇の中に東から冷たい風が吹く。

 熱された外皮や鱗が冷まされていく心地よさを頼りに、トーマは遅れてフィエンツを目指した。

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