7-5 兆し

 二人は村に戻り、柵の前で別れ、それぞれの帰るべき場所へ帰る。

 今更ながら見張りの仕事を放りだして来た事を思いだしたトーマは、まず村の中央の櫓へと向い、やる気なく村の外を眺める男に見張りを抜け出していた事を謝った後、教会へと戻った。

「お帰り、トーマ君。まだ日の出前だけれど、見張りは終わったのかい?」

「えっと…やっぱり眠ってしまいそうだったので、代わってもらったんです。神父様は、ずっと起きていたんですか」

「ああ、ちょっとお客人の相手をしていてね」

教会の奥から現れるイルダ。腰を痛がるような様子はない。

「もう、具合は大丈夫なんですか?」

「薬がよく効いたよ、ありがとね」

 イルダはそっけなく返すと、その両眼でトーマを品定めするようにギロリと睨みつける。

「あ、初めまして…」

 唐突に向けられた年長者の威圧感に押され、委縮するトーマ。

 妙に緊張した空気を緩和するように、少年と老女の間に入る神父。

「ああ、こちらは、この村のご意見番にして一番の古株のイルダさんだよ。ほら、いつもパンとかチーズとか持ってきてくれるあの女の子の保護者でもあるんだ」

「いつも、おいしいパンをありがとうございます」

「ん、トーマ…とか言ったね。まぁ、悪くない眼をしてるじゃないか」

「そうでしょうか…」

 トーマは己の目元に手を沿えるが、そういうイルダの深い皺の中に埋め込まれた小さな青い硝子玉のような瞳の方が、よほど強く鋭い光を湛えているように思えた。

「それじゃ、お世話になったね、神父さん」

 教会の扉へと歩を進めるイルダ。

「いえいえ、またいつでも来てください」

「次来るときはむくろになってるかもしれないけれどね」

「またまた、イルダさんにはもう少しこの村の支えてもらいますよ」

「ふん。わたしゃ、これ以上自分より若い者が死ぬのを見聞きするのは御免さ」

 言いつつイルダは―

「ユーリを頼んだよ」

 すれ違いざまに、トーマにだけ聞こえるように、そう呟いた。

「―え?」

 振り向くトーマだったが、老女は迷いの無い足取りで教会から出ていってしまった。

「ふーむ、あんなに痛がっていたのに、あの薬は速効性のあるようなものじゃなかったんだけどなぁ。まあいいか、それより君だ。帰って来た時から少し顔色が悪いみたいだけど。大丈夫かい?」

「…正直、かなり疲れてます」

「うん、同じ場所でじっと緊張状態を続けるのは、身体もだけど、心理的にも想像以上に疲弊するからね。今は良く眠るといい」

「はい…そうします…」

 堅いベッドに倒れるトーマ。なんとなく、竜の姿の時の湿った柔らかい草地の上で寝る感触を恋しく思った。



 物置を兼ねる薄暗く狭い寝室で起きたトーマは、水を求めて厨房に顔を出した。

「やあ起きたかい。柵の補修はもう終わったよ。これで一安心だ」

 狭い厨房の中では、動きやすそうな服装に身を包んだ神父が、細かく割った薪の整理をしている所だった。

「そうですか、少しくらいは手伝いたかったです」

「大丈夫、私達には私達の、君には君のすべき事があるさ。朝の資材の搬入と同時に、伝令の人がこれを君に」

 神父は懐から出した小さな羊皮紙の書状を、トーマに渡す。そこには村への移住を終え、ベリダに戻るよう旨が、ウィクリフの整った筆跡で記されていた。

「丁度、帰りの馬車がもうすぐ出るけれど…もうしばらくゆっくりしていってもいいんじゃないかな、ベリダには私から言っておくよ」

「いえ、直ぐに支度します」

 トーマは神父の申し出をすげなく断る。

「そうかい…でもまだ君の顔色は良くないように見えるし、少しくらい腹に物を入れていったほうがいい。馬車の出発までにそれくらいの時間はあるよ」

「判りました、頂きます」

 トーマの胃が空腹を訴えているのは事実だった。

 神父が用意してくれた豆と雑穀のスープと、堅いパンを齧っていると、ちらりとユーリの事が頭に浮かんだ、が、トーマはそれをすぐに振り払った。

 “たとえ、人の姿でなくとも、この村を見守ることは出来る。決して離ればなれになるわけではないのだ”と自分に言い聞かせて。


 食事を終え、急いで少ない荷物をまとめ終えたトーマは、教会の礼拝堂の中、聖卓の前で神父に別れの挨拶をする。

「村での生活は、いい経験になりました。ベリダにいる時よりも良い食事をさせてもらいましたし」

「それは良かった…そうだ、この言葉は知っているかな―」

 神父は聖書の中の一節をそらんじる。

「“我々の思いは常に一つの光の下にある。我々がわかたれ、手も足も耳も目も口すらも封じられようとも、その光は決して消えることなく我々の思いを照らしている…”」

「えっと…確か…」

 聞き覚えはあったが、どの巻であったかは思い出されなかった。

 神父は、言葉を続ける。

「受難の書“呪記”の中の聖人の言葉だよ。いかなる孤独にあっても、君を思う人がいる事を忘れないでほしい。大した事はしてあげられなかったけど、僕らのように蝕に囲まれた小さな村でも、諦めずに生きている者達がいるという事を忘れないでほしい」

「はい、忘れません」

 トーマは別れの言葉を言い、神父に見守られながら、薄い光の射す教会を後にした。


 村の西の柵門の前に止まる馬車の元へと歩んできたトーマを、低い声が呼び止めた。

「おい」

 声の主は、村に初めて来たときにも声を掛けてきた、あの壮年の番兵だった。

「あ、はい!」

「イルダさん所のお嬢ちゃんからの預かり物だ、持ってけ」

 番兵はトーマに歩み寄ると、腰に下げた布袋からコルクで蓋のされた小瓶を一つ取り出し、手渡す。中には透き通った濃い黄色の蜜、林檎のジャムが詰められていた。

「ありがとうございます」

「坊主、お前は俺らとは違って、ベリダに住んでる。なら、“解放の儀”に選ばれれば、首都や光域内の都市に移住できる可能性だってあるわけだ。まぁ…強く生きろよ」

 番兵はそれだけ言うと、すぐに持ち場へと戻っていく。

「はい…本当にお世話になりました」

 トーマは小瓶を両手で握ったまま、遠ざかる番兵の背に礼を言った。

 気休め程度の錆びた薄い板金装甲を張り付けた馬車は、一人、蝕人の少年を乗せて村の西門を出ると、暗がりの中、ベリダを目指して走り始めた。


 ユーリは、補修された防護柵の前にいた。

 太い木材の柵はしっかりと補修されおり、以前のようなすり抜けられる隙間はどこにも見当たらない。辛うじて掌を通す事ができる程度だ。

「もう行っちゃったかな…でもいっか。なんだか、不思議だけど、遠くへ行ってしまうような気がしないから。そう、ずっとそこにトーマが居る気がしてならないから、だから、いいの」

 暗がりの中、頬に蝕痕のある少女は、厳しいが優しい老女のいる我が家へと、戻った。



 審問の院の裏手に一台の馬車が止まった。

 中からは一人の少年が降りる。両腕、両足、首に蝕痕を隠すための布を巻き、一般的なベリダの質素な支給服を纏った少年は、小さな鉄柵の門を開け、雑草の茂る敷地に入り、草を踏みながら審問の院の裏手の扉を目指して歩く。

 少年にとっては、久しぶりの“我が家”なのだが、その目はどこか焦点が定まらずに茫洋としている。

「おかえり…―?」

 裏手の扉の前で待っていたウェルテは、少年の様子が少しおかし事に気づく、足取りは少しふらついていて、顔は若干赤みを帯びていた。

「ただ…いま…戻りまし、た―」

 少年は前のめりに倒れそうになるのを、ウェルテが支えた。

「ちょっ…と、トーマ、重い、ってば」

 ウェルテはトーマを床に寝かせ、その額に手を当てる。

「結構な、熱…ね」



 倒れたトーマを自室へ運んだ後、魔物の魂の器たる少年少女らは、雑然とした薄暗い礼拝堂に集まっていた。本来ならここで、次の侵攻作戦の概要についてウィクリフから説明があるはずなのだが、そのウィクリフの姿は無い。

 すぐに魔物になるわけではないと聞かされていたため、集まった皆は、黒い皮膜服ではなくベリダの支給服を着ていた。

「風邪かなんかじゃねーのか」

 中央の円卓に腰かけ、干し肉を噛み千切りつつ咀嚼するラルマ。

「ありえないわ。私達の身体はもう並み大抵の病気など罹らないようになっている、変調を来す可能性があるとしたら魔力の乱れによるものだけよ」

 壁際に押しやられている古びた木の長椅子の端に座り、口元に手を当て思案するウェルテが答える。

 その隣では、隻眼の少女、ネーヴェが腕を組み瞑目しつつ、壁に背をもたれ掛けていた。相変わらず水を向けられない限りは、積極的に会話には参加しないようだ。

「そうかい、んじゃさっさと治してやれよ、魔力に関連するものならどうとでもできるんだろ」

 ささくれた干し肉の先っぽでウェルテを指すラルマ。

「魔力の循環の状態はとても繊細なの、迂闊に弄って悪化する事も有り得る。特にトーマは、今後の作戦にも必要な戦力単位よ、魔力循環に無理に介入して死にましたじゃ済まされないの」

「ではどうする、もし手の付けられないような状態だったとしたら…」

 卓の前に立つアルクスは、人一倍、蝕や魔力による病や不調に敏感なため、珍しく弱気な面持ちだった。

「大丈夫よ、トーマが今どんな状態なのか、ウィクリフが診てくれてるから。ともかく、次の目標への侵攻も、彼の状態次第ね……私、ちょっと様子、見てくるわ」

「あ、待ってくれウェルテ」

 長椅子から立ち上がるウェルテに声を掛けるアルクス。

「何?」

「先に、ラウラの様子を診てほしい。ティーフが人の姿に戻れない今、ラウラの様態を詳しく計れるのはウェルテだけなんだ」

「いいわよ」

「助かる」

 二人は礼拝堂の東側のドアから出ていく。

 薄暗い礼拝堂の中にはラルマとネーヴェが残された。

「あーあ、守る者がある奴は大変なこって…ヒトが抱えられるのは自分一人の命だけなのによ、どうしてあれもこれもと欲張ろうとするかね、おかしいと思わねーか?」

 ラルマは壁に背を預けて瞑目している隻眼の少女に質問を投げる。

「一人は、寂しいから」

 ネーヴェは右目でラルマを睨みつつ簡潔に答えた。

「なるほどね。お前も干し肉、食うか?」

「頂戴」

 ラルマが投げて寄越した干し肉の欠片を、ネーヴェはそのままの姿勢で腕だけを動かして捕えた。



 蝕痕の張り巡らされた部屋、部屋の中央のベッドの上には一人の少女、容姿はちょうどアルクスを三回りほど小さくしたようだ。

 部屋の中を縦横に這い巡る蝕痕の節になる箇所にはウェルテが呼び寄せた蜂が止まっている、蜂異種ビネではない、小指の先程の大きさの普通の蜂だ。ウェルテはそれらの蜂を使って、周囲の魔脈の感覚を補助していた。

 蝕痕の刻まれたラウラの細い手首を掴んでいたウェルテは、口を開く。

「様態はまずまず…といったところね」

「先の視察で部屋の中の魔脈が乱されたと聞いているが…それが原因か?」

「いいえ、なんというか、周囲の魔脈が昔よりも大きく変化しているのが主な原因よ」

「どういうことだ」

 ウェルテはラウラの手を戻すと、弱々しい陽の光が零れている窓際に行き、窓枠に手をかけ微かに開いた。ちょうどよく冷えた外気が、窓の隙間から滑り込んでくる。

「私達が都市へと魔脈を伸ばして侵攻し、教会と戦う上で、このベリダの内部で蝕人達をリソースとして利用しているのは知っているわよね」

 部屋の中にいた蜂は、一匹づつ、窓の隙間から外へと飛び立っていった。

「もちろんだ、そして、ラウラだけはその…リソースとして使われないよう経路を絞っているとも聞いている」

「より強く大きく成長した魔脈が、その経路の絞るための魔力的な皮膜を突き抜けてしまうわけ」

「ではその皮膜を増やす、あるいは強化してほしい」

「これ以上、皮膜を厚くしたら、今度は魔力の供給が途絶する危険性があるわ、今がギリギリの状態なわけ」

「ならば、どうしたら良いのだ、教えてくれ」

「そうね…大浄化を可能な限り速く終わらせる事…くらいかしらね」

「それまで、ラウラの身体は持つのか?」

「保証はできない」

 アルクスの眼を見ずに答えるウェルテ。

「そうか…」

「じゃ、トーマの様子見てくるから」

 ウェルテは逃げるように蝕痕の集積した部屋を後にした。

 ベッドの脇の小さな台の上には、麦の穂の詰められた小さな麻袋が置かれていた。



 最低限の日用品の置かれている小さな部屋。

 部屋の隅のベッドには苦しそうに息をするトーマが寝ている。ベッド脇の椅子に座るウィクリフは、熱を計るようにしてトーマの額、首筋、胸、掌を順に触っていく。

 蝕人の少年を診る黒い法衣の異端者の隣りには、頁を開いた啓発者が、見えない台座にでも乗せられているかのように浮かんでいた。

 広げられた啓発者の真っ白な頁に、インクが滲むようにして、独りでに文章が記述されていく。頁が文字で埋め尽くされると、独りでに頁が捲れ、また真っ白な頁が現れ、そこに文字が書き起こされていく、という事が繰り返されていた。

 部屋の中はトーマの息と、啓発の頁が捲られる微かな音の他は、静謐で満たされていた。が、その静寂は、ガチャリとドアを開く音によって乱される。

「どうなの?必要ならもうすこし魔脈の厚い場所に移せるけど」

「……あぁ、ただの熱だな。トーマはまだ魔物として覚醒して日が浅い、こういうこともあるだろう。気にする必要は無い」

「ふうん、そう」

「俺はフィエンツを事前調査に戻る。皆には、明日の朝、礼拝堂に集まるよう伝えてくれ」

「判ったわ…」

 ウェルテは、そっとトーマの部屋を出ていった。



 その夜。

 トーマの様子を一通り記録し終えたウィクリフは、一人、礼拝堂から暗い階段を降り、ハイブへと向かう。

 蝕痕と結節、そして十字の拘束機具の置かれた地下空間の中央には、大きな机。

 ウィクリフは、その机に啓発者を広げると、今までになく真剣な様子で大きなページを捲っていく。

 そこにはフィエンツの情報ではなく、トーマの肉体、魔力、記憶、魂、アンヴィルの村の少女に関するもので埋め尽くされていた。

 そして、他の頁とは全く異なる蝕痕のような黒い紋の這う紅色の頁で捲る手を止め、呟く。

「きっかけとなったのは…関心、信頼、いや…これは愛と言ってもよいか」

 その頁は、ヤンから譲り受けたトーマの高濃度魔力原質を編み込んで製紙されたものだった。

「…力を持つ者には、それを振るう義務がある。故に、許せとは言わないぞ…トーマ」

 ウィクリフは、その蝕痕の這う紅い頁に、右手に顕現させた白い羽ペンで白い文字を書き記していった。



 翌日、始業の鐘がベリダに響く頃に、ウィクリフと四人の少年少女が薄暗い礼拝堂に集合していた。皆、皮膜服を着ている、この後すぐに侵攻作戦を開始するという事だけは既に周知されているようだった。

「首都の光域に侵入し得た情報によれば、大浄化の準備は既に佳境に入った。また大浄化とは別に、首都内部で何らかの奇跡を起こす準備が為されいるという情報も得た。様々な問題はあるが、これ以上の先延ばしはできない。すぐに第五の目標たるフィエンツに攻め入る」

「トーマを欠いた状態で大丈夫なのか?」

 アルクスが手を上げる。

「問題ない」

「やけに自信満々じゃねーか。フィエンツとかいったか、そこはそんなしょぼい都市なのか」

 ラルマの指摘に、ウィクリフは淡々と答える。

「それも含め、フィエンツ侵攻の概要を説明する。が、その前に、大浄化を阻止した後の事を話しておきたい」

 ネーヴェを除き、アルクス、ウェルテ、ラルマは微かに目の色を変える。

「へぇ、教えてくれよ」

「大浄化の阻止に成功した時、教国内部の光域は消失した状態となっているだろう、しかし、お前達がいる限り教国がそのまま蝕痕に覆われて不毛の土地となる事はない。お前達預言の魔物の強力な魔力の干渉、操作能力を以って、過剰な魔脈を血潮の山へと縮退させるのだ」

「やはり、我々が広げたものは、我々で片づけるのだな」

「ティーフの能力があればおよそ一年前後で回収は終わる、って話よ」

「んで、魔脈の回収を終わらせりゃ、俺らは晴れて、人としての生に戻れるってわけか…」

「そういうことだ」

「でもよ、なんで黙ってたんだ。そういうことなら教えてくれりゃいいだろ」

「士気に水を差したくなかったからだ。今から成長させ展開していくというのに、すぐに縮退させる運命にあると言われては気分は良くする者はいないだろう。よって、ある程度まで作戦を進め、その終了を実感できる状態に至るまでは、言う必要は無いと考えたまでだ」

「別に俺は最初に言ってくれたって、手を抜いたりはしなかったがな」

「どうかしらね」

「へいへい、わかったよ。話しを進めてくれ。」

 ウィクリフは円卓の縁に片手を付き話を続ける。卓の上には、フィエンツの都市と、その周辺までが描かれた大きな地図が広げられていた。

「フィエンツは防備の全くない都市だ。リソースも今までの他の都市に比べれば二回りほども小さい。にもかかわらず、周辺の村や町も魔物の被害があまりにも少ないという特異な状態にある。まず間違いなく、見えざる何かがフィエンツを守っていると予測される。即ち、フィエンツの侵攻においては戦闘能力ではなく、自己防衛、警戒、回避が重要になると予想される」

「それで、トーマはいなくてもなんとかなるというわけか」

「おそらく、今回は上空からの制圧力であるトーマを欠いたとしてもそこまで痛手にはならないはずだ」

「俺は不安だぜ、どんな木偶の棒だろうと、いないよりゃマシだろうよ」

「その分、光域内の行軍は慎重に行う。加えて、もし作戦中にトーマの体調が良くなれば、後から向かわせるという事も有り得る。奴の飛行能力なら教国の東端まで二時ふたときも掛らないはずだ」

「なるほどね、まあ期待しておくよ」

「では、フィエンツ侵攻における概要の説明に移る。今回は特に慎重に、ウェルテの蟲による探査を広く展開しつつ、異変や変調を常に警戒し、安全性を重視する。被害を分散させるためにも、回避能力に優れるラルマを先行させ、アルクス、ネーヴェ、ティーフはより後方から進行する。侵入経路はフィエンツ光域の北西に広がる疎らな森林区画だ、平野部にも目を向けつつ木々に紛れてフィエンツを目指し、魔脈を広げ、侵攻の基盤を作る。事前の説明は以上だ」

「随分と、端的な説明だな」

「フィエンツには実際に対峙しなければ理解、認識できない事態が必ず待ち構えている、特に都市内部に如何なる脅威が潜んでいるかは全く察知できていない。よって、その場の状況判断をより素早くするためにも、大まかな指針のみに止めている」

「…マルフィナでは水の跡塔。カプアでは無敵の盾。そして先のジェハノでは埒外らちがいの砲撃をしてくる城塞。確かに、教会の仕掛けていた予想外の奇跡で何度も煮え湯を飲まされたのは事実よね…。しかも今回は、トーマを欠いた状態で攻めねばならないのだから、慎重に過ぎるということはないと思うわ」

 ウェルテは卓の上のフィエンツ周辺の地図を眺めつつ、ウィクリフの慎重論に納得している様子だ。

「そういや魔動脈とかいうのはどうなったんだ?またあれを使えば、正直、何が出てこようが、もう余裕だろ」

「駄目よ。魔動脈はまだ不完全な状態なの、先のジェハノで予想以上に酷使してしまったから、今は休ませなきゃいけないわけ」

「ウェルテの言う通り、より強靭で安定した状態で最後の首都侵攻に臨むためにも、フィエンツ侵攻に魔動脈を用いる予定はない。クラーザやカプアの時と同様に現地で魔脈の成長、結節の増殖、それらの維持管理が必要になるだろう」

「了解だ」

「では、ハイブに移るぞ」

 踵を返したウィクリフは、礼拝堂の北に空けられた大穴から暗い階段を降りていく。少年少女達もそれに続いた。


 それぞれがそれぞれの思いを胸に、界域へ潜り魔物の姿へと戻っていく、蝋燭の光に照らされた蝕痕の這う地下空間の中、十字架より伸びる鎖で繋がれた枷や装具を身に着けて。

 アルクス、ネーヴェ、ウェルテが手早く界域に潜っていく中、ラルマは一人、枷と装具を身に着けて結節の前に立ったまま、ハイブの中央の机に啓発者を顕現させるウィクリフに向けて質問を投げかけていた。

「そういや、地下墓地の魔女様が、蝕痕の暴走で死ぬ者のために鎮痛剤を作って処方してるって聞いたんだが、本当かよ」

「ああ、治安の悪化を抑止するためにそういった施策をしていると聞いた」

「ふうん…そりゃ、慈悲深いことで」

「早く潜れ、時間が惜しい」

 ラルマは、応えるようにヒラリと手を振ると結節の上で屈み、黒い表皮に手を付く。すぐに結節は反応して黒い膜がラルマの身体を覆い、飲み込んでいった



 フィエンツ修道院の広めの聖室は、天井付近に浮かぶ聖体から放たれる清浄な光で満たされていた。

 漂白された部屋の床には大きな日輪を描くように細い溝が掘られており、その日輪の溝の周囲には日輪の象形に添うようにして、聖書の中の文言が彫り刻まれていた。それらの図形や文字を成すために掘られた細い溝の中は、時折、銀色の液体がどこからともなく湧き出ては滑り流れていく。

 その図形の中心には、高位の聖職者に許された装飾の入った白い法衣を纏う嫋やかで落ち着いた雰囲気の女性、フィエンツ修道院長のアマリアと、修道士の白い質素な服を着た栗色の髪の少女だった。少女は小さな白い杯を両手で持っており、修道院長に無防備な顔を見せていた。

 アマリアは優しく語り掛けるように床に刻まれている文言を唱和する。

『私は血をくべる、肉を塗らし、骨を差し出し、あなたの眼に宿る光をる。悲しみと不信の谷に身を投げる者は、焦げるような熱の道を歩む痛みを知らない。拒絶と排斥の毒を受け入れる者は、突き刺すような光の道を歩む歓びを知らない』

 アマリアはその両手で、白い杯を持つ少女の両手を優しく包む。すると、白い杯の中に輝く銀色の液体が湧き出した。

「ここに我らの祝福は結実しました」

「我らを照らす光に感謝致します、修道院長様」

 少女は感謝の言葉を述べ白い杯をあおる。

「我が命はフィエンツのために…」

 そして、献身の言葉を述べると静かに聖室を辞した。

 少女が退出し、扉が閉じられると同時に、漂白された部屋の中に光の粒子が舞い込む。光はさっきまで少女が立っていた部屋の中央、アマリアの対面に集積し形を作り、収束した。現れたのは白いローブを纏った子供、代行者であった。

「率直に言おう。フィエンツは、魔物を打ち滅ぼすために犠牲になってもらう。我々は既に、君達の生命と住処の保護よりも、魔物共の撃滅を優先すべきと判断した」

 開口一番に代行者が放った容赦無い宣告にも、アマリアは冷静に答える。

「承知致しました。畏れながら教皇の代理である、代行者様に一つお伺いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

「申してみよ」

「このフィエンツは、あらゆる住民に分け隔てなく接する事を第一とする都市です。蝕を持って産まれた者達も受け入れる用意があるのに、なぜ教皇猊下は、それを固く禁じ、ベリダに送るよう取り決めているのでしょうか」

「蝕人は魔物や蝕と同じ忌むべき呪いの存在だ、清浄なる都市のためには、それらは排除せねばならない」

「人も蝕人も魔物でさえも、神の下では平等のはずです」

 アマリアは毅然としているが、あくまで純粋な疑問と対話のみを望んでいるようだった。

「口を慎め。貴様に一つの都市の統治を任せ、しかも多くの面で要求を汲んでやっているのは、貴様の聖体の顕現者としての素養の為だ。決して、貴様の思想や平等論を評価しているわけではない」

「判っております」

「ならば、魔物への対処に関しては、我々の言われた通りにしてもらおう。貴様達の光域は“収穫者リーパー”を顕現させるに足る十分な基盤がある」

「しかし、私共わたくしどもの中には、それを顕現させ操る事の出来るような司教はおりません」

「知っている。私はそれを代行するためにここに来たのだ」

「では一つだけ、約束をしてください。魔物達が侵略の途中でその意思を捨て、我が祝福を受け入れてくれるのなら、それ以上の干渉はしない、と」

 それまで平服する様子を崩さなかったアマリアは、そろりと代行者を睨む。

「ふ、いいだろう。そんな事がもしできるのならな」

 嘲笑うかのように答える代行者を残して、アマリアは聖室から出ていった。



 首都地下に広がる空間、天井から降り注ぐ白い薄明りと、微かに反響する人々の囁きで満たされている。

 魔物の侵攻によって都市を破壊され住処を奪われ移り住んできた者達によって、この地下居住空間のほぼ全ての居住部屋は埋め尽くされていた。総数は十万に届くかという程に膨れ上がっている。

 すり鉢状の中央、即ち、この空間の最下部にあたる場所は円形の広い足場になっていた。そして、その足場を切り取るようにして、柄から切先まで全て銀で造られた歩兵槍スピアが幾本も突き立てられており、まるで檻のような様相を呈していた。銀の歩兵槍スピアには白い筋が刻まれている。それは、何らかの奇跡を発現させるための神聖な祭具である事を示していた。

 広い足場の中央には丸い細い聖壇が備えられている。その聖壇の上には銀の杯が置かれており、杯の中には掌に収まるくらいの鶏卵に似た光を纏う白い球体が入っている。球体の上には、細い光輪が浮かんでいた。

 そして、その聖壇の前では一人の司教が膝を突き両手を組み合わせて祈りの姿をとっていた。

 その司教の背後に白い光の粒子が現れる。粒子は集積し子供程度の大きさの人型を形作り収束する。現れたのは白いローブを纏った子供、代行者であった。

「ダニロよ、順調か」

「はい、必ずや“処罰者エンフォーサー”の顕現を成功させてみせます」

 答えるダニロの顔は食事を摂っていないのか、痩せこけていた。しかし、骨ばった顔にあるその両眼には以前のような茫漠とした曇りは一切みられない、むしろ、強く昏い輝きを秘めていた。魔物を排除するという信念、そして強い憎しみ―それだけが、今のダニロの心を支えていた。

「期待しているぞ」

 代行者はそう言い残して銀の檻の中から霧散した。

「“恐るべき魔物共が我らの街を踏み荒らし、光を喰らい、人の子は再び黒き呪いと闇に晒される。しかし、天より降りたつ光のやりが、魔物を貫き打ち滅ぼすだろう”」

 ダニロは預言の言葉の一節を呟いた。

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