7-4 それぞれの領域より

 血潮の山。北側の麓の森の中。

 暗闇の中、天を突くような大木が群生する一帯。いずれの木々の幹や枝、葉には、濃さ、太さの違いはあれど、例外なく蝕痕が刻まれており、不気味な威圧感を放っている。

 暗い静寂をドゴンという轟音が引き裂く。

 蝕痕の刻まれた大木の一本が、メリメリと音を立てて根元からへし折れ、大地に向かって倒れていく。

 へし折れた木の下で猛る息を大きな鼻から吐き出すのは、規格外の巨大さの猪の魔物だった。その体高は二メルト以上、全長は三メルトを越えていた。小山のような身体が焦げ茶色の毛皮には蝕痕が刻まれており、隆起する筋肉の鎧は明らかに普通の獣とは異なった獰猛さを秘めていた。

 へしおられた木の幹の後ろから人影が飛び出し走る、その小さな影の正体はネーヴェだった。

 ネーヴェは、軽快な身のこなしで近くの岩の上へと飛び移る。

 数歩後ずさった猪の魔物は、少女の飛び乗った大岩に向かって突進する、バゴンという轟音を響かせ、真っ二つに叩き割ってみせた。

 ネーヴェは猪の突進の挙動をみるやすぐさま岩から飛び降り、逃げる。

 もしあの突進が直撃していれば、自分の身体がどんな無残な状態に変わり果てるか、想像するのは容易だった。

 そんな危機的な状況下でもネーヴェは、顔色一つ変えず、冷静に猪の動きを読み、木陰や斜面、倒れた大木や岩などの地形を利用して、破城槌の如き突進を避け、逃げていた。しかし、その足取りは明らかに何処かへ誘導しているような意志を伴っており、決してでたらめに遁走しているのではなかった。

 気が付けば、猪の魔物の足が少し鈍っていた。丸太のような四つの脚に、微かに結晶がまとわりついていたのだ。

 しかし、ネーヴェは今、その猪の魔物によって、崖と崖の間に追いつめられていた。両側の土と石でできた崖は高く、手を掴めそうな蔦や枝もない。

 少女に向かって、猪の魔物は猛然と突進する。動きが鈍っているとはいえ、その突進には、骨を粉々にするくらいの勢いは十分にあった。

 ネーヴェはしかし、避けるそぶりを見せるどころか、むしろ落ち着いた茫漠した表情で立ち尽くすだけだった。しかし―

「おいで」

 その一言と同時に、崖の上から灰色の影が飛び出し、死の突進を受け止めた。

 それはネーヴェの本来の身体、結晶を操る灰色の巨狼だった。

「グルル、グルルル、ウウウ!!!」

 巨狼は、猪の首元にその獰猛なあぎとを喰い込ませていた。

 猪の魔物はなんとかもがき、首に食い込む咢から逃れようとするが、脚に纏わりついた結晶のせいで、全く身動きの取れない状態になっていた。

「ガフッ!!ッフヴゥ!」

「グルルルル!」

 灰色の巨狼は猪の首ともに喰らい付いたまま、その膂力りょりょくで、メリメリ、ブチブチと皮や筋組織が潰れ、裂ける音を立てながら、焦げ茶色の巨躯を大地へと押し倒す。そしてゴキンと骨が断ち折れる音が響いた。

「ギイ”イ”―!」

 猪は断末魔を上げ、首元から鮮血を吹き出しながら、その四肢をダラリと地に横たえた。

 屠られた猪の骸の元へと歩み寄るネーヴェ。

「食べよっか」

 杭のような牙で皮を引き裂き、ベリベリと剥いていく巨狼。

 表になっている側の皮を剥いだ後、その顎で器用に猪の太い前足をバキリと外し、ネーヴェの前に置く。そして肋骨を噛み砕き、肺を潰し、露わになった心臓に食らいつく。巨狼はその顔を紅く染め、溢れる血を喉を鳴らして飲み込みながら、大きな心臓を引きずり出し、太い血管を引き千切り、弾力のある肉を咀嚼する。

 開かれた巨大な猪の体内からは薄らと湯気が昇っている。

 これだけ大型の魔物であれば、その心臓を喰らう事でかなり多くの魔力を摂りいれることができる。しかし、獲物の体内に滞留する魔力が拡散する前に可能な限り早く喰らう必要があった。

 骨を砕き、肉や筋を引き裂く音を立てながら猪の骸を豪快に喰らっていく狼の隣で、ネーヴェもまた腰に提げていていた厚手のナイフを取り出し、巨大な前足の赤黒い肉を削ぎ切り、そのまま血の滴る生肉を喰う。

「甘くて、美味しい」

 常人であれば、強い血と肉の生臭さのせいで、とても満足に食べられないはずだが、変成したネーヴェの味覚は、甘く芳醇な果実を食べているように感じていた。


 猪の巨体が半分にも減った頃、巨狼がピクリと耳を立てて、警戒するように首を上げて横を睨む。

 数秒後、一匹の蜂の魔物が、巨狼の睨んだ方向から飛来してきた。それを見た巨狼は警戒をやめ、また肉と骨を貪る作業に戻る。ここを飛来する蟲の魔物といえば、もはやそれはウェルテの操る個体意外には存在しえないからだ。

 ネーヴェもまた、巨大な蜂を敵だとは全く認識しておらず、自分に向かって飛来してくるというのに、顔を向ける素振りすら見せず、手と口元を血で濡らしがら肉を食んでいる。

 ネーヴェの細い肩に止まった蜂異種ビネは、右前脚で二度程、肩口の袖を引っ張るとまた飛び立ち、生い茂る闇の中へと消えていった。

「帰還の…合図」

 隻眼の少女はポツリと呟き、立ち上がると、口元にべっとりとついた血を手の甲で拭った。



 住人達が寝静まった夜闇のトポール。

 村の東部、納屋の影でラルマは一人、屈伸運動をしていた、視線の先には二メルトを優に超す高さの生垣が聳えている。

「うっし、いきますか」

 両手の指先を芝生に付け、姿勢を低くしたラルマは、納屋の影から一気に駆け出し、生垣の手前で跳躍する。空中で流れるように姿勢を倒し、生垣の頂点をすれすれで飛び超え、菜園の中に音も立てずに見事に着地した。その動きは、猫のようなしなやかさと機敏さだった。

 細い一本の杖の上に乗った緑の玉のような姿の芥子の蕾が鬱蒼と茂る小さな畑の中には一人、芥子の蕾からヘラで樹液を採取している男の姿があった。ラルマは、姿勢を低くすると、音も立てず、するする器用に男に忍び寄っていく。

 そして、背後から右手を掴み背に回して捻り上げると同時に、首筋に鋭いナイフをピタリと当てた。

「―…なっ!?」

「シー…静かにしろよ。騒げば、吹き出す自分の鮮血を拝む貴重な体験ができちまうぜ」

「貴様…教会の手先か?…いや、違うな」

「そうとも、教会の奴等なら、こんな回りくどい事なんざしないで、もっと堂々を踏み荒らしに来るさ」

「ならば…何者だ」

「非道の行いを許さない一人の少年。とでも思ってくれりゃいいさ」

「何が望みだ…」

「ここでコソコソ集めてる樹液の保管場所と流す場所を教えてくれよ。知ってるぜ、快楽の代わりに心を壊す危険な薬になるんだろ」

 首筋に当てられた冷たいナイフの感触に恐怖していた男は、その言葉を聞くと口を緩ませ妙な余裕を見せる。

「ふふ…もし勘違いしているようなら言っておく。これは決して遊興の具にするためのものではない」

「…はぁ?じゃあ何に使うんだ、言ってみろよ」

 苛立つラルマは、刃をすこし食い込ませる、男の首筋に赤い血の筋がうっすらと滲む。

「鎮痛剤だ。昔からそういう者はよくいたが、蝕の暴走で死ぬ者が急激に増えているのは知っているだろう。彼らの命を救う事はできずとも、せめて、死の痛みと苦しみを忘れさせるために、ここで鎮痛剤の材料となる芥子を栽培しているんだ」

「本当だろうな?」

「東の納屋の荷物の無い小部屋の隅に床板が外せる場所がある、その下に集めた樹液が保管されている。俺の言葉が信じられないなら、ここで俺を殺してから、この畑と、その保管場所に火を放つなり、教会に申告するなり好きにすればいい」

「………」

 沈黙し逡巡するラルマに、言葉を重ねる菜園の男。

「ベリダに戻った後に、魔女を訪ねてみるといい、全て彼女からの依頼なんだ。鎮痛剤の精製や保管、使用も全て彼女が厳密に管理している。濫りに使われる事は無いだろう」

「魔女のとこに行くつもりはねーが……信じるぜ」

 ラルマは男を解放して、身を引き、くるくるとナイフを手中で回して腰の鞘に納めた。

 もし全てが嘘だったとしたら、魔物の姿に戻った時、芥子の栽培、採取に関わっている奴を見つけ次第、喰ってやろうと考えていた。

「最後に一つ教えてくれよ。そういうことならどうしてこんなコソコソやってる?教会に認めて貰って、村ぐるみで大々的にやりゃあいいじゃねえか」

 ラルマの言葉に、男は悔しそうに歯噛みし、俯く。

「私だってそうするために教会に栽培の許可を何度も求めた!しかし、必要性をいくら説いても、奴等は栽培を認めてはくれなかった。“容易く苦痛を忘れる事ができる薬があれば、蝕人共は必ず、死の苦痛を忘れるためではなく、生きる事の苦痛を忘れるために使うだろう”と言ってな」

「じゃあ俺が、教会に怯える必要のない世界にしてやるよ」

「は…?どういう―」

 男が顔を上げた時、もう少年の姿はどこにも見当たらなかった。



「あなた…ロレナの調子がちょっと悪いみたいなんです。せめて、今日は一日傍にいてやってはくれませんか?」

 朝早く起き、食事も一人で済ませ、家を出ようとする兵士長は、妻の不安な声に呼び止められる。

「ならば尚更、止める事は出来ない。一刻も早く魔物を見つけ出して狩る」

「そうですか…どうか、お気をつけて」

 兵士長の家の寝室では、少女が一人、苦しそうに息をしながら眠っていた。


 ハンドミルの村と、その周辺の麦畑からかなり離れた昏い平野部。

 蝕痕の刻まれた草が所々に列を成すように群生しており、それはさながら緑の海に伸びる太く黒い触手のようでもあった。それら平野に生い茂る草木は、北からの微風に身体を委ねていた。

 そして今、三頭の馬がその暗い平野を北に向けて駆けている。

 東の空には大きな月―いや、蝕によって輝きを減衰させられた日が昇っている。時刻は朝だ。

 先頭を走る馬に跨るのは、がっしりとした体格に軽装の防具、そして背には鋼の丸盾、腰からはウォーピックを下げていた。

 後方から続く馬の一方に跨るのは、精悍な顔に艶のある長い栗色の髪の少女、しかし少女といっても、弓兵用の軽装に身を包んだ姿は十分に兵士として見られる雰囲気を伴っていた。少女の背にはロングボウが掛けられていた。

 そして、もう一方の馬には、軽装に丸盾と直剣を佩いた若い義勇兵の青年が跨っていた。

 先頭の騎馬が少し高い丘陵の上で止まる。後方を走っていた少女の繰る騎馬も追いつき、並ぶ。

「兵士長、いくらなんでも、村から離れすぎではないか。魔物に対して馬の足をアテにするのは危険に過ぎる」

「いや、奴等は意外と目が悪い、対して音と匂いは敏感だ。村に向かって吹く風で、この開けた視界なら、気づくのは俺達が先だ、この距離ならギリギリ逃げ切れる。それに、これくらい村から離れなければ大型の魔物と接触することができないのは、もう調べがついている」

「何か、大型の魔物を見つけるための手がかりはあるのか?」

「蝕痕の中心だ。自然物に刻まれる蝕痕への接触が禁忌とされているのは、それは、触れると魔物を反応させてしまうからだ。そして巨大な蝕痕であるほど、それに触れた時に反応する魔物も、より大きな個体になる。俺は逆にその性質を利用する」

「わざわざ魔物を呼び込むような真似は、やはりすべきではないと思うが…」

「たとえ危険な事であっても、それで蝕の暴走によって命を落とす者が減るのなら、俺はやる」

魔物を殺したからといって、蝕の暴走によって命を落とす者が減るとは限らないのではないか。その台詞を何度も言おうと思ったが、兵士長の眼に宿る、一切の助言を跳ね除けるような昏い決意を見ては、止めるのだった。

「しかし、中心なんてあるのだろうか」

 黒い筋は葉脈のように枝分かれして伸びているが、中心らしき位置は見当たらない。あるとすれば、アルクスの魔物たるグリフォンが待機する場所にある結節だが、それはウィクリフが施した秘匿によって、いかなる手段でもアルクス以外の村人には認識はできないようになっていた。

「ある。そこさえ見つければ、必ず魔物を誘き寄せることができる…―ん、おいあの低木を見てみろ」

 東を指さす兵士長。その方向を見るアルクス。

「あれは、蛇の魔物…か」

 二百メルト程離れた位置にある低木の枝に、巨大な瘤でもできたかのように、蝕痕の這う大蛇が巻き付いているのが見えた。

「狩るぞ、ウバルド、アルクス、下馬して交戦の準備だ」

「はっ!」

 若い義勇兵は直ぐに兵士長の指示に従うが、アルクスは難色を示す。

「待ってくれ兵士長…わざわざ敵意を持たぬ対象に、あえて手を出す必要性を教えてほしい」

「寝ぼけた事を言うな、奴が村を襲い来る前に先手を打つだけだろうが。お前の腕を見せてみろ」

 アルクスだけには、あの蛇がただ休息しているだけであり、人や村に対して興味を持っていないという事が解っていた。しかし、それは説明のしようもない事だった。

「…承知した」

 馬を降りたアルクスは、弓を構え、腰の矢筒から矢を抜き、弦に番え、ゆっくりと引き絞る。その状態で静止し、風を読みながら、最適な瞬間を計り―放った。

 射程ギリギリから放たれたアルクスの矢は、二百メルトも離れた位置にいる蛇の魔物の右目を見事に貫いた。

 空気の擦れるような叫び声を上げて木から飛び降りた蛇は、蛇行しながら、目を見張る速さでこちらに這い進んでくる。

「いいぞ、来い、化け物!」

 大蛇の魔物は、兵士長の傍に這い寄ると、身体をバネのようにしならせて、その大口を一気に兵士長の喉元へと投げつけるように伸ばす。

 兵士長は左手に装着した丸盾で蛇の顎を強打し、蛇の魔物が怯んだ隙を逃さず、右手のウォーピックを、その頭蓋を叩き込む。

 蛇の魔物は少し痙攣すると、動きを止めた。

 兵士長の腕前は、魔物討伐への傾倒が確かに伊達ではない事を示していた。

「さすが、兵士長殿!このような魔物など、一捻りですね」

 若い義勇兵が蛇の骸に近寄ろうとする。

「不用意に近寄るな、魔物は心臓を潰すまで油断でき―」

 兵士長が言い終わる前に、長い蛇の胴体が、ぶつりと胴の中程で切り離される、うねる尾が若い義勇兵の身体に巻き付き、その首元に尾の棘を突き刺した。

 次の瞬間、アルクスの矢が尾の先端を撃ち抜く。棘が深く刺さるのを防ぐ事はできたが、若い義勇兵はその場に崩れ落ちる。

 草地の上で未だうねる蛇の尾に向けて、アルクスは第二、第三の矢を撃ち込むと、ようやく動きを止めた。

「ウバルド!」

 兵士長は血相を変えて倒れる若い義勇兵に駆け寄り、口元に耳を当て、次に首筋に手を当てる。微かだがまだ息と脈はあった、しかし目の焦点は定まらず、動く事も返事をすることもままならない様子だった。

「兵士長、直ぐに村へ帰ろう、教会で診てもらえればまだ助かる可能性はある」

「こいつは俺が背負っていく。俺の馬の鞍にロープがある、取ってこい」

「了解だ」

 兵士長は若い義勇兵の防具を外した後、ロープで身体に巻きつけて、馬に跨る。

 昏い平野を南に下り、二人はどうにか村に帰還したが、若い義勇兵は既に事切れていた。


 遺体を教会に預け、祈りを終えた二人は、装備を置きに兵舎へと向かう。

「おいアルクス、少しは俺をなじってくれ。敵意もない魔物にお前をけしかけて、ウバルドを死なせた、間抜けな俺を」

「それで彼が生き返るのなら」 毅然と返すアルクス。

「生意気なガキだ…」 兵士長は額に手を当て、力なく呟いた。

 アルクスは、数日間、兵士長と共に哨戒をしていたが、ここまで気落ちした姿を見たのは初めてだった。

 兵舎に入ろうとした二人の元へと、駆け込んできたのは、兵士長夫人だった。

「ロレナが…あなた…!」

 その形相は今までになく悲痛に歪んでいた。


 帰宅した兵士長は居間に武具を乱雑に投げ出し、寝室へ急ぐ、アルクスもそれに続く。

 ベッドの上に横たわる少女は、目を瞑り、もう息をしていなかった。

「せめて、一言だけ、一言だけお前にありがとうと言いたかった…俺は一体いままで何をやっていたんだ…」

 兵士長はベッドの傍の椅子に抜け殻のように座り、少女の小さな手の甲に自分の傷痕に塗れた大きな掌を重ねた。

「…失礼…」

 ヘッドへと近づくアルクスは、少女の胸に手を当てた。よく見ると、初めて会った時よりも、明らかに細い腕や小さな手に刻まれた蝕痕が濃くなっているのが判った。

 確かに息はしていない、しかし、アルクスは、自分でしか感覚できないような極僅かな鼓動があるのを感じ取っていた。

「私を信じてくれるなら、この子をしばらく預けてほしい」

「何をする気だ…?」

「この子を蘇生させる。今ならまだ間に合うかもしれない」

「下らん慰めはいらん…俺は、もう疲れた、そっとしておいてくれ」

 アルクスは、力なくうな垂れる兵士長の胸倉を掴み上げる。

「兵士長、あなたが諦めるのは勝手だが、この子はまだ生きる事を諦めてはいないぞ」

 その鋭い眼は静かな怒りに燃えていた。

「……判った、一体何をするのか話してみろ」

 兵士長の武骨な手が、胸倉を掴むアルクスの細い手首を掴み返した。


 少女を背負い紐で固定したアルクスは、兵士長を伴い村を発ち、北へ向けて馬を走らせていた。

 そして、二頭の馬は、薄闇の中、一本の枯れ木の生えた小高い丘の上で止まった。

「なんだ、ここに何がある…?」

 枯れ木の横にはグリフォンが翼を畳んで伏せ、休んでいた。しかし、それはアルクス以外には認識できない。

「兵士長は周囲を警戒していてくれ」

 馬から降りたアルクスは、ロープを緩め、背に固定していた少女をゆっくりと地面に降ろすと、抱きかかえてグリフォンの下へと連れて行く。

 グリフォンの横に少女を寝かせると、アルクスはその胸に掌を置き目を瞑る。代わりにグリフォンの瞼が薄らと開く。

 アルクスは周囲の魔脈と、少女の心臓、そしてグリフォンの心臓に意識を集中する、アルクスの干渉によって、その二つの心臓の間を魔力が循環する。

 ラウラの部屋(滞留する魔力の循環を促し、正常に保つ機構が組み上げられた場所)にいつものようにいたアルクスは、この症状の特徴や処理方法を感覚で体得していた。しかしそれは、魔物を力を借りなければ到底再現できないものであったため、人に試した事は無かった。

 小高い丘の上に、にわかに周囲に風が巻き起こった。

「お、おい何が起きてる…?」

 巻き起こる風の中、娘の胸の上に掌を乗せ、眼を閉じて微動だにしないアルクスの様子を見て、兵士長は不安を隠せずにはいられなかった。

「集中している、静かにしていてくれ」

 構わず、アルクスは少女の体内に滞留した魔力をグリフォンの中へと押し流し、過剰な魔力の滞留によって硬直していた器官の回復を図る。

 しばらくすると、青白い少女の顔に血色が戻ってきた。

 滞留していた魔力のほとんどを除去できたと感じたアルクスは、掌を握り、人差し指と中指だけを伸ばす、束ねた二本の指で、トンと強めに少女の心臓のある当たりを叩いた。

「は…けほっ…ん」

 少女は息を吹き返した。

「ロレナ…!」

 小さな娘の元へと駆け寄る兵士長。その太い腕と手で優しく娘を抱き抱える。その眼には涙が滲んでいた。

「水を差すようで済まないが…彼女に施したのは、あくまで応急処置に過ぎない。いつかまた様態は悪化するだろう、そして、次にそうなった時、私はもうこの村にはいないはずだ…」

「いい…十分だ、これで十分だ…ああ」

 周囲に逆巻いていた風は、いつのまにかいでいた。


 村に戻ると、教会からの使いの者がアルクスを待っていた。そして、“ハンドミルの村への移住期間の終わり”と、“ベリダへの帰還の指示”が届いている事を伝え去って行く。家へと戻った二人は、まず少女をベッドに寝かせる。

「随分と急だな、今日は休んで、ベリダに戻るのは明日でもいいんじゃないか」

「いや、すぐにでも帰る支度をする、近頃の教会は妙に苛立っていると聞くし、この村に迷惑は掛けたくない」

「そうか…どんな奇跡を使ったのかは聞かない。しかし、一つだけお前に伝えたい。アルクス、お前は必ず魔物を退け、村を守る優秀な兵士になれる。その手で、一人でも多くの者を助けてやってくれ」

「…一匹でも多くの魔物を討ち、弱き者を守る力になると、約束しよう」

「期待しているぞ」

 穏やかに寝息を立てる娘の手を握る兵士長の横顔に、もう魔物を求めてさまよっていた時の暗いかげは無かった。


 兵士長の家にあった自分の荷物を纏め、最後に兵舎にて使った武具の整理をしていたアルクスを、兵士長夫人が訪ねてきたのは、空が黒く塗り込められた夕刻の頃だった。

「ロレナの事、ありがとうございます…もう何とお礼を言ったらいいか」

「礼はいらない、一歩間違えば魔物に襲われ一大事になっていたのだ、そんな危険な事を許してくれたあなた達に感謝したいのは私の方だ。それより、どうかあの子に残された時間を大切にしてほしい」

「分りました…ではどうか、これを持っていってください」

 兵士長夫人は麻の小袋を手渡される。

「これは…?」

「あなたにも、蝕に苦しむ妹がいると言っていましたよね。この村の麦の粒が入ったお守りです、健やかに育つようにとの祈りが込められています」

「ありがとう、大事にする」

 アルクスは麦の粒が入った小さな麻袋を握り、祈るように額に当てると、少しだけ涙を滲ませた。



「―何故、蝕人はベリダに集められているのか、疑問に感じた事はあるかい?」

 礼拝堂に飾られている輪のシンボルを眺める神父は、トーマにそう問うた。

「いいえ、特に。蝕人が不当な差別や迫害を受けずに安全に暮らせるようにするための施策…ですよね」

「その通り。でも、おかしいとは思わないかな。ベリダはあの呪われた血潮の山の麓に位置している。言ってみれば、教国の中で最も蝕の影響を受けやすい危険な街だ。安全にというなら、それこそ首都の近郊などに住まわしてあげてもいいんじゃないかな」

「無理ですよ、だって、蝕人は光域の厚い場所で暮らしていたら、光域の浄化の力を阻害してしまうんですから」

 トーマは巻いた布の上から腕を握る。

「うん、多くの人はそう信じているけれどね、本当にそうなのか疑問に思ってしまうんだ。本当は蝕人に浄化の力を阻害するような影響力は無く、教会は蝕人という分かり易い排斥者を作り上げることで、民の不平や不満をそこに向けているだけだったら…なんてことをたまに考えるんだ」

「教会がそんなことするはずありません、異端者の歪んだ考えです」

「トーマ君は、今の生活に満足しているのかな?」

 神父は落ち着いた様子でトーマを見る。

「たとえ住む場所が少し不自由だったとしても、僕は平穏に暮らせるならそれでいいです…」

 トーマは神父に目を合わせず、伏せ気味に言葉を返した。

「分かった、この話はこれまでにしよう。私は教会に歯向かう異端者になりたいわけじゃない、ただ真実はどちらなのか、そしてそれが歪められているとしたら、それは何故なのか、知りたいだけなんだ」

「どちらなんてありません、教会の定めた事が…真実なんですから」

「真実は誰かから与えられるようなものではないと、私は思うけれどね」

 神父は寂しそうに微笑んだ。

「さあ、引き止めて悪かったね、今日は見張りの仕事を頼まれているんだったろう」

「はい」

「風が少し強いから、気を付けるように」

「はい、行ってきます」

 屋根の修理を終えた翌日、頼まれた書類や聖具の整理を手際よく片付けてしまったトーマは、村に来てから四日目にして教会での仕事は特になくなってしまっていた。

 話し相手になってくれるだけでも構わないと神父は言ったが、トーマは「何かしていないと落ち着かない」とそれを固辞し、自分にできる仕事はないか求めた。

 それならばと、神父は日照のある時間帯の見張り番の仕事を紹介していたのだった。

 櫓は村の中央付近に建てられており、木を組み合わせて建てられた脚の部分は八メルトを越える。しかし、全体として細く、櫓部分も人が二人乗れるのがやっとという狭さで、上から矢を射るような防御用ではなく、純粋に見張りのためのものであることが見て取れた。

 トーマは、時折強く吹き抜ける風に気を付けつつ、櫓の長い脚に取り付けられた木の梯子を登る。そして、登った上には、退屈そうに外を眺める村の青年の姿だった。

「初めまして、トーマといいます」

「ああ、君ね、よろしく。まあ何をするかといっても簡単さ、魔物の姿を見つけたら、全力でこの鐘を鳴らして、方角と数を大声で叫ぶ。といっても、こことこずっと魔物なんて出てないから、俺は陽の出ている時は見張りなんていらないんじゃないかって思うけどね。まあ頼んだよ」

 それだけ言うと、青年はあまりの杜撰な説明に面食らうトーマを置いて、そそくさと櫓から降りて行ってしまった。

 櫓に立ち、始めこそ「もし、気を抜いて魔物を見逃したら」と考えて緊張していたトーマだが、何の異変もない平和な村の景色を眺めていると、いつのまにか意識は先の神父との会話を思い出していた。

 その視線は村の北西に見える崖へと向けられている。

「あそこに飛竜の身体が眠っている…、ほんとに実感、湧かないな」

 しかし、秘匿の力の枠外にいるトーマは、微かな魔力の流れを伝って、崖の上の強力な存在を意識することができていた。

「あれ…鳩…いや、使者?」

 そんな事を考えていると、崖の上の空に、白い鳩が飛来するのを見つける。

 白い鳩は村の上空で旋回し、降下すると、鐘から垂れている紐に手を掛けているトーマの目の前を通り過ぎ、村を去って行った。


 昏い陽が沈み、空には一回り小さな欠けた月と星々が浮かんでいる。

 トーマの立つ櫓の上に、次の見張り役の男が、長い梯子を上って顔を出した。

「あ、もう交代ですか?」

「ん、まぁそうなんだが…ちょっと相談がある。今日の夜中から朝までの見張りを代わってくれねえか、もし出来るならだが」

「えっと…突然ですね」

「頼む!この通り」

 男は両手を組み合わせてトーマに祈るような仕草をする。

「判りました、夜中から朝までですね」

「いやぁ悪いね、助かるよ」

 櫓を降りたトーマは、教会へ戻る。歩きつつ、夜中の見張りの仕事を請け負ってしまった事を神父に報告して、時間まで少し寝ようかと考えていたが、その考えが纏まる前に、トーマの意識は、教会の入り口で籠を持って待つ頬に蝕痕のある少女、ユーリに向けられた。

「あの、神父様に用?」

 ユーリは、トーマににこりと笑みながら答える。

「違うよ、これ、いつもの差し入れ。神父様、出かけているみたいで教会の中にいなかったから困ってたの、置いていっちゃうわけにもいかないから」

「あ、ありがとう」

 差し入れのパンやチーズの入った籠を受け取ったトーマは―

「崖の上に何か見えるの?」

 というユーリの言葉を聞いて、籠を抱えたままピクリと一瞬、動きを止めた。

「―え、なんで」

「君が見張り台で、ずっと崖の方を見てるが見えたから」

「別に…あの崖が崩れたら危険だなって思ってただけだよ、防護柵からは少し離れてるけど、結構高いし…」

「元々ね、あそこは高い丘だったんだよ。良質な鉱石が採れるからって丘の裾野を削っていたみたい。それでね、ある日の晩、猪の魔物に村が襲われそうになったとき、裾野の支えが無くなった丘が崩れちゃったんだって、その土砂崩れのおかげで猪の魔物をやっつける事ができたんだけど、それ以来、切り立った崖になったあの丘に近づくのは禁じられるようになったっていうわけ」

「そっか…たまたま魔物を巻き込んだから良かったけど、やっぱり、危ない場所だ」

「うん、でも私はね、あの崖の上にこの村を守ってくれる何かがいる気がするんだ。なんだか恐ろしいけど、優しい存在がきっといると思うの」

「まさか、そんなことあり得ないよ。崖の上には、もう近寄らないほうがいいよ」

「そうかな、そうかもね…引き止めちゃってごめんね、またね」

 ユーリは、小走りで去っていく。

 それと入れ違いで神父が教会へと戻ってきた。

 トーマは夜中の見張りもすることになったと報告した。

「おや、そうかい。ようやく丈夫な柵の補材の手配ができたから、明日は朝から柵の破損個所の修復を手伝ってもらおうと思ってたんだけれど―」

「丁度良いです、見張りを終えてから僕も手伝います」

「馬鹿言っちゃいけない。人はそんな立て続けに働けないよ。君は、夜中の見張りを終えて帰って来たら、しっかり休んでもらうよ」

「判りました」

「じゃあ、夕食しよう、おいしそうなパンとチーズもあるみたいだしね」

 それから夕食を終え、少し休んだトーマは、また村の中央の櫓へと向かった。


 小さな家の中、蝋燭が照らす薄明るい居間で。頬の蝕痕のある少女と、小柄だが年長者の風格を持った老婆は、静かに質素な食事を摂っていた。二人が囲う机の上には、ライ麦のパンの載せられた木の皿(皿の縁にはバターの欠片が乗せられている)と、具は刻んだ人参とインゲン豆だけの鶏の骨から作った薄いスープが注がれた丸い深い木の皿が、それぞれ並んでいた。

 ユーリは、パンをかじりながら、トーマから言われた台詞を反芻していた。

(“もう近寄らないほうがいい”って、言ってたよね…)

 自分が崖に行った事があるのを見知っている者でなければそんな言い方はしない。それがどうしても気になっていた。彼が来てから崖の上に行った事はない。一度だけ、柵の外から帰って来た所を神父様に見られてしまった事はあったが、柵を出てどこへ行っていたのかまでは問い詰められてはいなかった。そして、崖の上は見張りの櫓では見えない高さだから、崖の縁から顔を出しでもしないかぎりは見つかる事はない。

 木のスプーンを片手に、薄いスープの界面を眺めて考えを巡らすユーリ。

 イルダはそんな様子のユーリをチラリと見ると、おもむろに口を開く。

「―そうそう、ようやく明日、あの柵の隙間が補修されるんだってね」

「あ、そうなんだ…あの時は本当に助かりました」

「なあに終わった事なんてもう気にしてないよ。それより、あたしゃ、村の男共が仕事を怠けて、いつまでもあの柵をほったらかしにしていた事の方が腹立たしいね」

「そんな、怠けてたわけじゃないと思いますよ、蝕痕の少ない丈夫で大きな木って簡単には用意できないって神父様も言ってましたし…でも、危ないよね、村を守る防護柵に穴があるなんて」

「そうさね、さっさと塞いでほしいもんだよ」

 今日の夜中を逃せば、もう誰かに見つからずに一人で抜け出して、あそこに行く事はできないだろう。

「…よし」

 小さく呟くユーリ。心の中では、最後に一度だけ、あの崖の上に行くと決めていた。

「ん、どうかしたのかい?」

「あ、なんでもないの」

 笑顔で取り繕うと、食事の手を早めるのだった。


 夜中、ユーリは見張りの人に差し入れをすると言って、一人家を抜け出していた。ベッドで寝るイルダにも声を掛けたが、短く「気を付けて行きなよ」という言葉が返ってきただけだった。

 見張りの櫓から見られないように 暗い北の林の中に入り、足元を滑らせないように、微かに漏れる月明かりを頼りにしつつ崖の上を目指した。

「やっぱり…何もない、よね」

 せっかく来たのに、驚くほど何も感じなかった。いつもは感じているはずの微かな、強い存在の感覚すら今は感じられない。

 ユーリは一人、風が吹き抜けていく切り立った崖の上に座り、じっとそこから見える景色を眺めていた。

 ひらすら黒い南の森の中にぽつんと立つ、白い灯が跡塔だとわかる。大きな月の明かりに照らされて、木々や岩、草地などの上を這い伸びる蝕痕がくっきりと見えた。

「いつか、もっと明るい、安全な場所で暮らせる日が来るのかなぁ」

 そんな思いに耽っていると、一陣の風が吹く、隣りに置いていたパンの入った籠が転がっていってしまう。

「あ――」

 思わずそれを拾おうと崖の縁に向かった所に、さらに強い風に背を押される。

「えっー!」

 ついに体勢を崩し、足を滑らせて崖の上から投げ出されてしまった。

 しかし、夢中で伸ばした手が、奇跡的に崖肌から生えた木の幹を掴んだ。

「いや…こんな、死にたく、ない…」

 崖下までの距離は十数メルト以上ある、落ちれば死は免れないだろう。

 細い木の幹はミシミシと悲鳴を上げ、ユーリの体重を支えるような強度は無いと訴えていた。


 少し前。ユーリが、崖の上を目指して北の林の中を歩いている頃。

 教会に一人になった神父。資材を確認する。

「ふーむ。大きさはこれくらいで良かったかな…ちょっと不安になってきたぞ。もう一度、補修箇所を確認しておこう」

 教会から出たあたりで、神父は呼び止められる。ユーリの養母となっている老女、イルダだ。

「おや、イルダさん。こんな夜更けにどうかしましたか?」

「ちょっと、腰が痛くて、寝付けないんだよ。なにか良い薬はないかね」

「そうですか…申し訳ないのですが、ちょっと今から、防護柵の見回りに…」

「あててて!!頼むよ神父様」

「判りました。薬草で作った軟膏があったはずなので、客室で待っててください」

 そう言って教会の中に戻る神父。


 夕刻の時、トーマに見張りの仕事を代わるよう頼んできた男がのらりくらりと櫓の梯子を上っていた。

「ったく、イルダさんもわざわざこんな夜更けに人の家に叩き起こしに来るこたねえよ…夜中の見張りは、ほんとにきついんだぜぇ。体力のある若者に任せてやりゃいいんだよ、っと」

 一人文句を垂れる男の顔は少し赤らんでおり、微かに酒気を帯びていた。そして、梯子を登り終え、櫓の上に顔を出す。

「おーい、やっぱり俺が見張りやるよ、帰って寝な―…」

 が、そこにあの少年の姿は無く、櫓の中は空っぽだった。

「…おいおい困るなぁ、頼まれた仕事をすっぽかすなんて、いや、まあ人の事は言えねえけど」


 ベキリと嫌な音と感触が手から腕に伝わる。崖肌の細い木の幹は、ユーリの全体重を支え続けられるわけもなく、ついに根元から折れた。

 繋ぎ止めるものの無くなった身体は、自然の法則に従い落下する。

 しかし、落下の速度がつく前に何か紅い影が足元に現れ、身体を受け止めた、少女は突如現れた足場に必死でしがみ付く、それは妙にゴツゴツとしたものに覆われた大きな背中のようだった。その大きな背中は、そのまま中空を飛んで、自分を崖の上に運んでくれたのだった。

 何とか動転する気を落ち着け、自分が乗っているモノをよく観察するユーリ。

「紅い鱗の…竜…、この感じ…トーマ?」

 ユーリは、この竜から感じられる温もりが、なぜか、あの気弱そうなベリダから来た少年、トーマのものであると錯覚した。そんなはずはないのに、そう感じることがとても自然なように思えてしかたなかったのだ。

 紅い飛竜は崖の上へと舞い戻ると、翼を畳んで身体を伏せる。

 ゴツゴツとした紅色の背から降りたユーリは、崖の上の奥に、人の気配を感じた。

「誰かいるの…?」

 そこには大きな木の幹の蝕痕に、息を切らしながら掌を付けている少年、トーマの姿があった。

 ユーリは、林の中によろよろと逃げようとする少年の背に声を掛ける。

「待って!トーマだよね。君が助けてくれたの?」

 びくりと立ち止まる少年に、ユーリは駆け寄る。

「ねえ、教えて…この紅い竜と君のこと」

 トーマは恐る恐る振り向き、答える。

「教えられない」

「じゃあ、村の人に話すから。放っておけないもの、村の近くにこんな竜が棲んでいるなんて」

「…好きにすればいいよ、きっと村の人は君がおかしなことを言ってると思うだけだから」

「あのね……どうしてか判らないけど、分るの、飛竜と君が同じ存在だって、だから、教えて」

 ユーリの真っ直ぐな目に貫かれるトーマ。その黒い瞳と声には、どうしようもない抗いがたい力が秘められていた。まるで、世界そのものが自分に対して命じているような、そんな気がした。

「わかったよ…」

 ユーリは安堵の表情を作る。

「よかった…、別にね、問い質してどうこうしたいわけじゃいの、ただ、本当に気になるだけ、君のことが」

「何でもは教えられないから」

「うん、それでいいよ、じゃあまず、この竜と君はどんな関係なの?どうやって操っているの?」

 ユーリは崖から落ちそうになったショックに浸るよりも、自分を助けてくれた不思議な竜と、トーマの事で頭がいっぱい、という様子だった。

「詳しくは言えないけど、同じもの、竜も僕も同じ存在なんだ、だから使役してるわけじゃない、自分の身体を動かしているだけ…」

「そうなんだ…不思議だね。君は、この竜は、この村を守ってくれてるの?」

「そうだよ、あの竜の力で、周囲に他の魔物が寄り付かないようにしているんだ。少なくとも、村の人たちに危害を加えるつもりは無いよ」

「あなたの他にも、そういう人はいるの?その、魔物と人の二つの姿あるような人」

「教えられない」

「…私には行方の分からなくなった兄さんがいるの、ルミロっていう名前なんだけど、何か知ってたりしない?」

「……崖の北側で蝕痕と一体化して苦しんでいるのを見つけたから、楽にしてあげた。君の事、とても心配してる様子だったよ」

 トーマは少し逡巡した後、淡々と事実を告げた。

「そっか…そんな気はしてたの、うん……君は、この竜の姿の時に人を食べたことはあるの?」

「…あるよ」

「何人くらい…?」

「教えられない…もう、いいだろう、僕は人を喰って生きる魔物なんだよ。もうすぐベリダの中に帰る予定になってる、それでもう二度と合う事も無いだろうから。今聞いた事は全部、忘れてよ」

「ううん…忘れないよ。君が、自分の秘密が知られるのを覚悟で、崖から落ちそうになる私を助けてくれた事、そして今も村を守ってくれている事」

 ユーリは、少年の手を取り、握る。

 少年は、はっと顔を上げる。照れるように微笑む少女と目線が繋がれる。白い頬や耳がにわかに熱くなる。櫓を降りてから、崖の上へと駆け上がって来てから、どくんどくんと脈打っていた心臓の鼓動は、鎮まるどころか、むしろ大きくなっていた。

「私はただお礼を言いたいだけ…ありがとう。これからも、この村を守ってね」

 トーマは、喪失のような充足のような、膠着したような融解したような、綿のような棘のような、不思議な熱を持った感覚が胸の内に宿るのを感じていた。

「うん…判った。守るよ、何があっても」

 月の明かりに照らされた崖の上で、トーマはユーリの手を優しく握り返した。

 頼りない少女の手の平のはずなのに、その柔らかな感触からは、世界から祝福されているような大きな充足を感じた。

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