7-3 調査

 ウィクリフ、ウェルテを除く、四人の少年少女がベリダを後にしてから三日目の昼過ぎ。

 シンプルで動きやすそうな白い法衣を纏った、顔にも体格にも特徴の乏しい男が審問の院の裏手に止められた馬車から、守衛を一人伴って降りる。最低限の装飾が施された装いは、異端者のあぶり出しや尋問から、蝕や魔物の調査まで行う、審問官のものだった。

 審問官は審問の院の入口で出迎える一人の少女のもとへと歩みつつ口を開く。

「やあ、どうもどうも。首都から視察に来ました、審問官です。ここに来るまでにもいくつか都市内の施設等を視察しましたよ、いや驚きました、ベリダの人達は勤勉で、信仰も熱心。このような狭く、陰気で、薄暗い都市に押し込めてしまわなくてはならないのが、本当にもう心苦しい限りです」

 いかにも人畜無害を装うが、人を小馬鹿にする態度を隠さない、審問官に似つかわしくないこの男を前にして、ウェルテは警戒心を悟られないよう恐縮した様子を装いつつ答える。

「我らを照らす奇跡に感謝致します。当院で書記等の手伝いをしているウェルテといいます」

 審問官はにこりと笑む。

「おや、可愛らしい蝕人のお嬢さんだ。まあ形式的なものなので、そう緊張なさらないで下さい」

「早速、院内をご案内致します」

「ああ、大丈夫です、こちらで勝手にやりますので」

 ウェルテの案内を断る審問官は、即座に真剣な雰囲気になり、右手を掲げる。その五指には白い筋の刻まれた銀の指環が五つ嵌められていた。

 掲げた右手の手首からは細い鎖が垂れ下がっており、その先に付けられた日輪を模した銀の輪のシンボルが白い光を纏う。

 審問官は定められた言葉を放つ。

『主よ、我々の願いと行いが光の下にあるならば、我々にあなたの目を授けたまえ』

 指環は輝き、光の粒になって爆ぜると、五匹の小鳥を形作った。それは、光を纏い背に光輪を冠した白い小鳥へと変化する。その姿はまさに、伝令者の小型版だ。

 小さな伝令者達は審問官の掌から飛び立つと、窓から審問の院に侵入し、院内のあらゆる廊下、部屋を巡り周り、あらゆるモノ、雑貨から書物、微かな隙間や傷痕まで、隈なく探査していく。

「おっと、驚かせちゃいましたかね」

「はい…使者は、神聖な儀式の時のみ現れる存在だと思っていましたので」

「ええまあ、本来はこんな使い走りのような事をさせてはいけません、でも、今は国の趨勢すうせいが懸かった非常時ですから、許されているんです。もちろん、天より使わされし神聖なる者への感謝や畏敬の心は忘れてはいませんけどね」

「…預言の魔物が現れて、都市を攻撃しているという噂は、本当なのですか?」

 不安そうな顔を装い尋ねるウェルテ―


 小さな伝令者は、光の尾を曳いて院内に蔓延する微かな蝕痕を消滅させつつ、廊下を規則的に飛び進み、扉をすり抜け、各部屋を探査していく。しかし、すり抜けると同時に、その扉や窓に白い文字が浮かび上がり、まるで蜘蛛の巣のように小さな伝令者の体に纏わりついていく。伝令者も、審問官もそれに気づかない様子だった。

 纏わりついた文字は、定められた範囲内にいる限り纏わりつき続け、範囲外に出ると同時に消失した。

 その文字は、一定の範囲内にいる時のみ、必要な情報を改竄する、“欺瞞ディシート”の奇跡を発現させるためのものであり、ウィクリフが啓発者を用いて各要所に転写していたものだった。

 それらの“欺瞞”の奇跡は、魔物の魂の器たる少年少女らの居室している部屋や、彼らが利用している厨房等に残された生活の痕跡を覆い隠す。

 伝令者はラウラの寝ている蝕痕の集中した部屋にも飛び入る。二重に纏わりついた欺瞞の文字が異形に塗れる内部の様子を認識することを阻害するが、その白い身体から発する浄化の力は、蜘蛛の糸のように広がる蝕痕をいくつかせん断していった。

 この“欺瞞”の奇跡は、同じ奇跡を伴う現象に対して特化した内容になっており、実際に扉を空け人の眼で確認するのを欺く力までは、持ち合わせていない。


―「よく御存じで…」

 審問官は視線だけを、ウェルテの顔に落しつつ話し始める。

「教国内の光域はもうめちゃくちゃですよ、預言の魔物共は、まさしく教国という肉体を食らい蝕を押し広げる癌です。この未曾有の窮地に、私でも何か出来る事は無いのかと何度も上司に掛け合ってみたんですが、“大浄化の日に全ては覆る、大人しくしていろ”の一点張り。ろくに首都の外にも行かせてもらえず、意味があるのかないのか、首都の聖職者の方々は皆、上から下まで揃ってひたすら祈りを捧げる日々を過ごしています。何とか私も心を鎮めて祈りを捧げていたところに、ここへの視察を任されたというわけなんですよ。おっと、今のは全部他言無用にお願いしますね」

 立て板に水を流すように喋る審問官が、蝕人の少女などに知られた所でどうなる事でもないと侮っているのは明白だった。

「お勤めに、感謝致します」

「いえいえとんでもない。本当は、今こそ光域を失って困っている村や町の人達のためになる事をしたいんですよ。でも、しかたないですよね、私は怪しい異端的な行為をする者や、隠れ潜む魔物をあぶり出す審問官でして…都市を襲い破壊と蹂躙の限りを尽くす預言の魔物共は―」

 審問官は、口元を右手で覆い、これ見よがしに手首から下げた銀の輪のシンボルを見せつける。

「―いつもこのベリダと血潮の山の近辺で姿を見失っているんですから」

 睥睨するような、獲物を狙うような不気味な眼がウェルテの顔に近づき、覗き込む。

「怪しいですよねぇ。蝕人のお嬢さん、何か、知ってたりします?」

「私は当院のただの手伝いです。そういう事でしたら、ウィクリフ院長やベリダ大聖堂の司教様に尋ねられてはどうでしょうか」

 ウェルテは怯むことなく、すまし顔で答える。

「ご心配なく。どちらも、既に聖堂で上司が直接お話しを伺う事になっていますので」

 顔を上げ、掌を差し出しす審問官。審問の院の内部を洗いざらい調べ尽くした四匹の小さな伝令者達が、光の尾を曳いて主の指へと帰って来る。白く輝く小鳥達は、銀の指輪の姿へと戻った。

 しかし、一匹だけは、ある場所の上に止まったままだった。

「おやおや、何か、見つけたようですね」

 そそくさ灰色の建物の中へと進む審問官。案内など必要としないように、迷いなく礼拝堂へ続く廊下を歩む。ウェルテは静かにその後に続く。

 雑然と荒れた薄暗い礼拝堂内の北。聖卓の置かれているはずの場所。

 その床の上に小さな伝令者は止まっていた、審問官が近づくと人差し指の先に飛び移り、指環の姿へと戻った。

 審問官は、伝令者の止まっていた床板をコンコンと片足を鳴らす。

「薄板を叩いているような音、ですね。隠し倉庫か何かですか?」

「異教徒共が作った地下通路への入口です。危険なので塞いでいますが、確認したければどうぞ」

「守衛さん、お願いしまーす、ここの床、ばきっとやっちゃってください」

「ただいまっ!」

 礼拝堂の入口に控えていた守衛は、審問官の呼びかけに素早く応じ、腰に提げていた鋼のメイスで、伝令者が示していた場所の床板を渾身の叩き割り、剥がしていく。

 割れた床板の下には、地下へ通じる螺旋の階段が広がっていた。

「行ってみますか」

 三人は不気味な暗い大口の中へと進んでいく。先頭には審問官、中央にはウェルテ、最後尾にはランタンを持った守衛が、何かあった時にウェルテを保護できるような隊列を一応は作っていた。段々と蝕痕が濃くなっていく石段や壁は、否が応でも不安を掻き立てるが、審問官は涼しげな顔だ。

 そして、なぜか下から六段程は灰色の煉瓦ではなく、適当な大きさの石を積んで作られていた。

「なんとも、歪な造りですねぇ。まあ、進みましょうか」

 階段を降り切った先の固められた土と石の狭い通路をランタンの明かりを頼りに奥へ進む、すると、今度は灰色の煉瓦で舗装された地下通路へと繋がっているのが見えた。

「お待ちください」

 そこで、ウェルテがあげた声が、前後の審問官と守衛を呼び止める。

「何か…?」

 肩越しに眼の端で背後のウェルテを睨む審問官。

「そこから先には、蝕を強く含んだ苔が生えています。明かりに反応して死の猛毒を吐きますよ」

「審問官殿…確かに、妙な匂いと息苦しさを感じます。ですが、明かりを付けないとなると、進むのは大変難しいかと」

 列の後ろの守衛は、この異様な空間に明らかに怯えている様子だった。

 審問官もまた、五指に嵌る銀の指輪が、怯えるように微かに震えてたのを感じていた。このような闇と蝕が濃い場所に探査用の伝令者を放っても、大した効果は得られないだろう。

「そうですねぇ…守衛さん、ちょっとこちらに」

 ウェルテの背後にいた守衛を自分の横に立たせる審問官。

「なんとか奥まで見に行ってもらえませんかね?」

「え、いえ、しかし…」

 穏やかな顔のまま、すっと守衛の顔に手を翳す審問官。再び、手首から垂れ下がる細い鎖の先に付けられた、銀の輪のシンボルが輝く。

『敬虔なる者よ、その気高い意志を今こそ見せたまえ』

 守衛の両目に白い光が宿る、そして、まるで傀儡になったかのように、ランタンを片手に持ったまま表情を失い微動だにしなくなった。

「さて、僕らは上がりましょう」

「あの…どういうことでしょうか?」

「いいから、いいから」

 蝕痕の蔓延る暗い通路を戻りつつ、ちらりと後ろを振り返ったウェルテは、守衛が暗い通路の奥へと歩みだしたのを見た。

 細い螺旋階段を上がり、礼拝堂へと戻ってきた二人。

 審問官はおもむろに、目を閉じ、眉間に人差し指を当て、熟考するような仕草を取り始める。

「なるほど、蝕人のお嬢さんの言う通り、ただの棄てられた地下通路のようですね……こちらも、何もない、なかなか長いですが、特に怪しいものはなさそうだ……っと、あらら、もう少し頑張ってほしかったなぁ…まあいいです」

「あの、よいのですか?せめて、遺体だけでも…」

 下で何が起きているのかを察したウェルテは、守衛を案ずる素振りを見せる。心の中の審問官への憤慨が気取られぬように注意しつつ。

「ご心配なく、遺体はなくとも、丁重に弔うことは出来ます。彼は蝕人であるのに、努力と才覚のみで聖堂の守衛に抜擢されるような優秀な者と聞いていました。その尊い死を、無下にするわけにはいきませんから」

 言葉では飾り立てて見せるが、その口ぶりはまるで、仕方なくついでに済ませてやるというものだった。

「さて、こんなところでしょうかね。ああ、この穴はすいませんね。申し訳ないですけど、そちらでまた修繕しておいてください」

 あっけらかんと言う審問官に、ウェルテはぽつりと質問する。

「もっと詳しく調べなくてもいいのでしょうか?」

「…それは、私がまだ調べていない場所や、内容がどこかにあると、そう言いたいのですか?」

 審問官は、その質問にそろりと殺気を覗かせる。

「いえ…まだ、実際に院内を見て回ってはいらっしゃらないので…」

「侮らないで頂きたい。ここにある全てに“眼”を通しました。そして、問題は見つからなかった。ならば、これ以上ここにいる意味はありません」

「非礼をお詫びします…審問官様」

「いえいえ、ご協力ありがとうございました、蝕人のお嬢さん」

 にこりと微笑む審問官は、そそくさと裏手に止められた馬車に乗り込む。

 馬車はゆっくりと動き始めた。

「あのような穢れた場所に、もう一秒だっていられるものか」

 馬車の中で審問官は一人、忌々しげに呟いた。



 審問の院の裏手の道から、馬車が去っていくのを見届けた後、ウェルテは一人、大急ぎで礼拝堂に走り、破られた床板から覗く階段を駆け下りていく。そして、階段が煉瓦から細長い石に変る切れ目の辺りの壁に手を付いた。

 煉瓦の壁が内側からボロボロと崩れ始め、隠蔽されていたハイブへ繋がる入口が現れた。壁面には数匹の蟻異種フルミナが張り付いていた。

 ハイブの中の結節の一つに手を付くウェルテ。

 結節の周囲に白い文字が浮かび上がる。ウィクリフが残した“対話”の奇跡だ。

「ティーフ、聞こえる?」

《うん》

 界域の中では水竜が、薄赤い管を内包した大きな水泡を、巻き付くようにして抱え待機していた。

《今、帰っていったわ。すぐに、魔脈の修復と循環を始めて。特に、ラウラの部屋を最優先で》

《りょうかい。結構傷付いてるね、魔脈》

《しょうがないわ、ウィクリフが残してくれたのは、奇跡への欺瞞。実際に傷つけられた魔脈の修復は私達の仕事よ》

《はーい》

 水泡の中の薄赤い管がゆっくりと鼓動する。

 ラウラの眠る部屋の蝕痕が蠢き、湧き上がるようにして、切り裂かれた筋と筋が繋がっていく。

 薄暗い部屋のベッドの上で息苦しそうにしていた少女の表情が少し和らいだ。



 地下墓地の一室。壁に掘られた溝にはズラリと蝋燭が並べられ、全てに火が灯されている。部屋の中央には、大の大人が一人余裕を持って寝ることが出来る大きな台。

 その台の上には蝕痕の刻まれた赤黒い臓物が並べられ、中でも心臓と思しきものは完全に漆黒で塗り固められ、どくん、どくんと脈を打っていた。

 血の匂いと蝋燭の熱が滞留するこの場所で、この地下墓地の主にして蝕の研究者、ヤンは、皮の手袋に、白いローブを血と脂で濡らしながら、鋭い小さなナイフで黒い蝕痕の刻まれた肉や臓腑を解剖する作業をしていた。

 言い逃れのしようのない程完璧に冒涜的な儀式を催しているように見えるが、しかし、その本質は“何かを捧げる”のでも“何かを降ろす”事でもなく、あくまで、“未知の現象を検証し分析する事”であった。

 その部屋に、扉をすり抜け白い小鳥が飛び込んで来る。

 小鳥は、血と臓腑の匂いで満たされた部屋の中をひとしきり飛び回ると、入口の扉をすり抜け飛び出していった。

 少し間をおいて扉が開かれる、今度は、シンプルな白い法衣を纏った大柄な男、審問官が入ってきた。人を見下すような威圧感を纏った審問官の太い指の上に止まった白い小鳥は、白い筋の刻まれた銀の指輪の姿へと戻る。

「あら、御免なさい。ご覧の通り今は手が離せないの、どこでも勝手に調べて下さい」

 ヤンは脈打つ心臓にゆっくりと針を刺しながら言う。

「既に地下墓地内部の調査は終えた。吐き気を催す醜悪なモノにいい加減嫌気が差していた所だ」

「では、お引き取り下さい」

 口元を覆っていた布を外し、振り返りつつ、にこりと言う血濡れの魔女。柔らかに波打つ赤髪は首元で纏められ、背に流れていた。

「一つだけ、調べていない場所がある」

 審問官は憮然と言う。

「はぁ、どこでしょうか」

「貴様の身体、体内だ。貴様が自分の肉体すらも実験道具にしている事は知っている」

「それは光栄ですわ」

「服を脱げ」

「…審問官様のご命令とあらば喜んで」

 ヤンは躊躇うことなく、血濡れのローブを脱ぎ捨て、濃い紺の修道女の服も脱いでいく。

 女性的で曲線的なシルエットの肢体、形の良い大振りな二つの乳房。そして、その白い肌に刻まれた蝕痕と、黒い呪文、身体の要所に埋め込まれた小さな赤い結晶が露わになっていく。

 更に、両手首、両足首、そして首には黒い紋の刻まれた銀の輪が嵌められていた。

「この醜い身体でよろしければ、いくらでもお調べ下さい」

「実におぞましい。貴様のような異形を、ここで直ちに処刑できないのは、我ら教会の唯一の汚点と言えるだろう」

 ヤンは、たとえ異端の限りを尽くしていたとしても、教会に代わり蝕人を囲い、管理する優秀な駒として、例外的に処断する事のできない存在であった。

「私のような蝕人が教国の一助となっている事に感謝します」

 おおよそ羞恥心が欠落しているのか、ヤンは露わになる自らの秘部を隠そうともしない。

「口の減らない女だ」

 屈辱の一つでも与えてやろうと考えていた審問官は苛立ちに顔を歪める。そして、右手をヤンに向けて突き出し、低い声で奇跡を発現させるための言葉を唱える。

『我らを照らす光よ、異形なる者に戒めを与えたまへ』

 突き出された大きな手の五指に嵌められた銀の指輪が輝き光の粒になって霧散すると、中空で五本の細長い刺突短剣スティレットへと姿を変える。それは尋問、制圧のための力が宿っていた。

 審問官が手を薙ぐと、刺突短剣スティレットは弾かれたようにヤン目掛けて飛び、その両腕、両腿、そして胸を貫いた。

「うぅ…あっ、ぐう…」

 四肢を抱えるようにして床に蹲り、全身に走る痛みに耐えるヤン。

 血は出ない、代わりに魔脈の流れが乱れ、魔力に関連する体組織が一部破壊されていく。

「だが、その汚点も大浄化の日に全て消える」

「…蝕が一掃されれば、私達のような蝕人でも…はぅ…平等に生きられる世界になるのでしょうか……くっ…」

「無論だ。その日まで、感謝と敬いを忘れずに生きることができていれば、の話だがな」

 審問官は、床で悶える蝕に塗れた女を満足そうに見下ろしながら答えた。

 ヤンの身体に突き刺さる五本の銀のスティレットは、光の粒になって砕けると、また審問官の右手の五指に収束して、銀の指輪へと戻った。

「当然ながら、ここで貴様がしている行いは、全て正式に認められたものではない、ただ黙認されているだけだ。故に、大浄化によって無に還ったとしても、我々は一切関知しない事を伝えておく」

「承知しております…」

「では、好きなだけ蝕人共の臓物を弄っておれ」

 吐き捨てるように言うと、審問官は部屋から去って行った。

 ヤンは裸体のまま、を外して床に放り、よろよろと起き上がると、臓腑の並べられた台の上に両手を付く。

 ヤンの体の各部に埋め込まれた紅い結晶が輝きを帯びる。

 針の突き立つ脈動する黒い心臓が紅く膨れ上がり、半球状の胞体に変化する。そして、その紅い半球を中心にして、周囲の臓腑を蝕痕が繋げ、円陣を構築していく。その、蝕痕はじわりと台に付いたヤンの掌へと伸びた。ヤンの身体に魔力が供給されていく。それは、光の刺突短剣スティレットによる探査によって破壊された組織を修復し、乱れた魔力の循環を正常に戻していった。

 ヤンはここで、ただ蝕人の臓器を腑分けしていたのではない、蒐集し保管していた魔脈に親和した標本を並べ、組み上げていのだった。

「こんなところで終わらせるわけにはいかないのよ…蝕の可能性を探るための、私の研究は…」



 ベリダ大聖堂。

 広い礼拝堂の日輪を模したシンボルが掲げられる卓の前には、仏頂面の審問官と恰幅のよいベリダ大司教が居た。

 しかし、大司教にいつもの尊大な余裕は無く、丸い顔を青くしながら胸の前で両手を組み合わせ、いかにも恐縮した様子だった。

「わ…私は教会のために全てを捧げる覚悟でベリダの大聖堂を預かっております。何故、審問官の方が視察に来られたのか、よければお聞かせ下さい」

 長身痩躯に仏頂面の審問官長は、大司教に背を向けつつ答える。

「審問の院の院長、ウィクリフは知っているな?」

「はっ、もちろんで御座います」

「どのような男だ」

 ウィクリフも肩書の上では審問官であるが、それはベリダの審問の院の院長になった者についでに与えられるだけのもので、一般的な審問官の組織にも属しておらず、権限も能力も与えられないただの呼び名の一つであった。

「…何と申しましょうか、何を考えているのかよく判らぬが…使える男です。蝕痕の散見される審問の院の院長の職に進んで希望する奇特で無口な者、というのが第一の印象でしたが、蝕人達の居住地の整備や管理に関する提案を次々と出し、また、着実に実行し、完遂させる手腕もあって、面倒な問題は、あ奴に任せるのが通例となっております」

 過剰な緊張からか口を滑らせる大司教。

 審問官長は、振り返りギロリと大司教を睥睨する。

「成る程」

「も、もちろん、私共が怠慢を働いてるわけではありません。適材適所というものでして…」

「よい。奴に関して、何か変わった事や、おかしいと感じた点はないか」

「いえ、特には…。あるとすれば、近頃はあまり大胆な施策や提案をすることが無くなったというくらいでしょうか。まあ、大浄化の日も間近ということもあり、これ以上ベリダに手を加える必要が無いのは間違いありませんが」

「よく分かった、もう十分だ、下がりたまえ」

「…さ、差し出がましいようですが、聖体に強い負荷を掛けてらっしゃるのは、その…どのような目的があるのでしょうか…?」

「視察を効率的に進めるために、心理的方向性リソース借り受けているだけだ。次は言わぬぞ。下がれ」

「ははっ…」

 大司教は身を縮め、すごすごと光の満ちる壮麗な礼拝堂を辞し、自室へと戻った。



 ベリダ大聖堂の聖室。

 漂白された円形の部屋の中央に浮かぶ輝く白い球体には、十数本の細長い銀の杭が円を描くように等間隔に打ちこまれていた。杭の柄からは鎖が垂れ下がり、鎖の先には銀の輪のシンボルが付けられている。

 それは聖体に集められている信仰を、無理やり引き出し、都市内に散る各審問官に付与するためのものだった。もちろん、その負荷は大きく、こんなことを続ければ聖体はいずれ瓦解する。瓦解を許せば、ベリダは一夜にして魔物と蝕が蠢く地獄――あるいは楽園になるだろう。

 “抽出と分配”の力を持った杭を打ちこまれた聖体の下には、白いローブの子供が立っていた。相変わらず、その表情は目深に被ったフードのせいで伺いしれない。

 聖体の下に立つその“代行者”は、目の前に立つウィクリフに問いかける、妙に大人びた口調の少年の声で。

「私の前で一切の嘘は意味をなさない、理解しているな?」

「無論、承知しています…」

「では、今一度、貴様の誠意を見せたまえ」

「我が身の総ては、教国に生きる者達のために―」

 ウィクリフは、代行者の足元に跪く。

「貴様のその態度が真実か否か、改めさせてもらおう」

 その額に掌を翳す代行者。

『主よ、我らが従に光を与えたまへ』

 代行者はウィクリフの思考や記憶のような表面的なものではなく、より偽りがたく隠す事のできない本質なものという領域に光を当てた。そして―

「……いいだろう。これからも、蝕人達の為に尽くすように…」

 その領域にあるのは、疑いようのない教会に対しての忠誠と信仰であった。何の曲解も偏向も飛躍もない、規範的でごく一般的な。

「は。大浄化の日を心待ちにしております」

「…下がれ」


 ウィクリフは聖室を辞し、礼拝堂を抜けて、開かれた大聖堂の大扉から外へと出る。

「院長殿。こちら、預かり物です」

 そして、ベリダ大聖堂の外にいた守衛から、教会を象徴する日輪を模したシンボルの刻まれた白い石板を受け取り、懐に仕舞った。

「ああ、済まないな」

「院長ともなる方は、そのような祭具まで持ち歩いておられるのですね」

「いや、このような物に頼らずとも、信じる態度を持てるようになるのが理想だ。俺は、まだまだ程遠い…」

 謙遜してみせるウィクリフの懐の中で石板が微かに輝きを帯びた。



 長身痩躯の審問官長は、代行者によって聖室に呼びつけられていた。

 銀の杭の打たれた聖体の下で対峙する二人。

 審問官長は、白い椅子に座る代行者に報告をする。

「―部屋の中に遺棄された蝕人の骸。大浄化の日を蝕人の死ぬ日だとして、狂乱する蝕人の男。“比較的蝕の薄い者の肉を食べれば、最近ベリダで頻発するようになった蝕の暴走による突然死を防げる”などという迷信を信じて、食人を行っていた者達。更に、各都市を破壊する預言の魔物の出現の噂を心の底で喜ぶような者も見つけましたが、の末に手に入れられた情報は、光域で暮す者達への些末な嫉妬と憧憬のみ。…流石は蝕人共をかき集めた都市、他にも大小、怪しげな者や場所等はありましたが、預言の魔物に繋がるような手掛かりは見つかりませんでした」

 代行者は退屈そうに背もたれにもたれかかって、その報告を聞いていた。

「ベリダには、預言の魔物共と繋がる決定的な何かがあると予想していたが、誤算だったか」

「いえ、ベリダの外に作られた村落の調査はまだです…必ずやそこに―」

「もうよい」

 審問官長の言葉を、にべもなく遮る代行者。

「私は処罰者の準備に戻る。お前達は首都へ帰還しろ、これ以上はリソースの無駄だ。処罰者の運用に支障が出るようでは意味がない」

「承知致しました。では、あといくつかの居住棟、施設を調査した後、すぐ帰還します」

「要らぬ。さっさと帰って、浄化者のための祈りに戻れ」

 代行者は既にベリダの中を探るという事から興味を失った様子で、椅子から立ち上がると、光の粒になって霧散していった。

 少し遅れて、聖体に打ちこまれていた杭も光の粒になって消失していく。

 聖室に一人残された審問官長は、代行者の座っていた椅子をしばし見つめた後、蹴り倒した。



 審問の院。日の光は失せ、蝋燭と松明による明かりが照らす、薄暗く雑然とした礼拝堂の中。

 ウィクリフは一枚の羊皮紙を、大きな丸い卓の上に置いた鉄の皿の上で燃やしていた。白い羊皮紙は炎と共に黒く焦げ縮んでいく。礼拝堂の中には、煙と獣の皮を燃やした独特の臭気が蔓延していた。

「なんとか、やり過ごしたわよ」

 ハイブに繋がる階段から上がってきたウェルテは、黒い法衣を纏ったウィクリフの背に声を掛ける。

「ああ、こちらもだ」

「窮地は脱したって事でいいのかしら」

「だが、楽観はできない。作戦の進行に大きく遅れが出ている」

 鉄の皿の上ではが、焼け落ち、黒ずんだ灰へと変わっていた。

「直ぐに、魔物達を呼び戻す手配を進める」

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