7-2 それぞれの領域

 ベリダより西側の平坦で開けた土地に広がる黄金色の穂の絨毯を、西から吹く風が撫でていく。小麦、大麦、そして燕麦の畑だ。

 それらの麦畑の麦は、毎年の収穫時に蝕の影響下でも発育の良かった穂から取れた種から育った者達であり、その選別の成果もあって今では暗い月のような陽の光でも不気味な程良く育っていた。一定の広さで区切られた麦畑の角には、それぞれ細長い柱のような白い跡塔が建てられ、麦畑に薄い光を投げかけ、蝕化を防いでいた。

 そして、広がる麦畑の中央には、樫の木の長く厚い板を使った防護柵に囲われた、十数件の小さな石造りの家屋の群れがあった。その家屋の群れの更に中央には風車が建てられ、暗がりの中で若草色の帆が張られた羽根車が回転していた。

 このささやかな穀倉地帯が、石臼ハンドミルと呼ばれる、アルクスが領域として守護している村だった。

 グリフォンの身体は、村より北の小高い丘の上に座して、翼を休めている。教会への侵攻を始める以前は、強すぎる風雨などから麦を守るのもアルクスの役目の一つだった。

 しかし今、アルクスは、防護柵の門をくぐり抜け、いつも遠目から眺めていた村の中へと入っていた。

 村の中へ入った後、村の西に建てられた小さな兵舎へと足を運ぶ。義勇兵の見習いとして移住していたからだ。

 兵舎の中は、消耗しているが良く整備されている弓や弩、槍、佩剣等の武器と簡素な防具に、大きなトラバサミや鋼鉄製の投げ編みなどが保管されている、兵装置き場。そして、仮眠できる小部屋がいくつかあったが、今の時間は見回りに出ているのか、アルクスの他に人の姿はない。

 アルクスはそのまま、奥の兵士長室を目指す。

 兵士長室の中にあるのは簡素な木の机と椅子、使い込まれた大盾、ナイフ、ランタン、蝋燭、古びた写本の束。そういった実用的な物の中で一つだけ

 三つの麦の穂を紐で束ねた飾りが八つ程、壁に打ち付けられた釘から吊るされていた。

「何かのまじないだろうか…?」

 近づき、軽く触れようとするアルクス―。

「気安く触るなよ」

 しかし、背後から掛けられた低い声にピクリと手を止め、振り向く。

 扉の前には、義勇兵の軽装を身に着けたがっしりとした肉体の壮年の男が立っていた。

「そいつは、この村に住んでいる子供の無事を祈るためのシンボルだ。ひょろっとやってきた余所者が弄っていい代物じゃねえ」

「失礼した…あなたは兵士長とお見受けするが」

「そうとも、俺みたいな木偶の棒でも長が務まっちまうくらい、この村の守りは貧弱だ。んで、お前は?」

 言いながら兵士長は、どかりと古びた机の前の椅子に腰かける。

「私は、この村の義勇兵に志願したアルクスだ。まだ見習いではあるが、私の弓の実力は決して正規の兵士に比べても見劣りするものではない思ってほしい」

 アルクスの体躯は、確かに屈強な男性のものと比しては細く、一見すると頼りない、しかし、見る眼のある者ならそこに高い柔軟性や瞬発力が秘められている事に気づく。加えて、アルクスの眼は、並みの兵士には無い鋭さを備えていた。

「ベリダも勝手な事だ、自信だけは一丁前のガキを寄越すとはな」

 あくまで毅然きぜんとしているアルクスに対して、屈強な肉体の壮年の兵士長は、簡素な木の机に手をついて胡乱な眼を向ける。

「俺が一番嫌いな仕事を教えてやる。間近で魔物の一匹も見た事ねえのに粋がる手前みてえな奴の、お守りをする事だ。その無駄な自信は結構だが、ここでは俺の指示に従ってもらうぞ」

「熟練の兵士に指導してもらえるのなら、願ってもない事だ」

「ふん、生意気だな。お前は俺の家で預かる事になっているとは、聞いているな?」

「ああ、そのほうが効率がいいだろうと手配してくれたようだ。早速、兵士長の家まで案内してほしい」

 兵士長は、親指を立てて自分の背後を指す。

「この兵舎のすぐ後ろ隣りだ、先に行っててくれ」

 そう言う兵士長が、微かに目を伏せたのをアルクスは見逃さなかった。


 アルクスを出迎えたのは、気の優しそうな女性と、病弱そうな少女だった。

「初めまして、義勇兵の見習いとして移住してきたアルクスだ。少しばかり、この家に住まわせてもらう」

「心強いわ、よろしくね、アルクスさん。ほら挨拶しなさい」

 母親の足元に隠れていた少女は、促され無邪気にアルクスに握手を求める。

「よろしく、兵士のお姉ちゃん」

「こちらこそ、よろしく―…」

 屈んで小さな手の平を握り返すアルクスは、すぐに違和感に気づく。

 握り返した少女の小さな掌から濃い魔力が少女の全身に滞留しているのを感じ取ったのだ。

「どうしたのー?」

 少女は、挨拶のつもりで出した右手を長く握られてる事を不思議に思い、アルクスの顔を覗く。

「…いや、なんでもない」

 少女の小さな手を放すアルクスは、右手の掌を左手で握り、少女の掌の感触を消そうとした。


 結局、その日は兵士長は家に帰ってこず、三人で夕食を摂る事となった。

 食後に少女はすぐに眠くなったようで、先に寝てしまった。

「主人の事で少しお話を聞いて下さらない?」

「むしろ、こちらからお願いしたい」

 アルクスは兵士長夫人に促され、机を挟んで座る。目の前に置かれた木の杯には、小麦色の液体が注がれていた。この村の大麦で造られたエールらしい。口に含むと程よい苦みが舌の上に広がる。

「少し前から、村の中で突然、苦しそうに胸を抑えて息をしなくなってしまう人が増えているんです」

「…ああ、ベリダの中でもそういう者が増えている」

「主人は魔物がどこかに隠れていて、その魔物がこの病を引き起こしてると信じ切っているんです。最近は、ずっと兵舎に籠って、いままで討伐した魔物の記録や地図を睨んでは、ろくに隊も組まずに一人で見回りをするという生活を続けていて…」

「それは、あの子を守るために?」

「やっぱり…判りますか?あの子も、時折、胸を抑えて苦しそうにするんです…」

「ああ、こう見えて、意外と目敏いのでな」

 しばしの沈黙の後、兵士長夫人はそろりと口を開く。

「あの子は私の連れ子なんです」

 新たな蝕人を産まないためにも、ベリダに住む蝕人は子を成す事を禁じられている。

 しかし、婚姻の自由はあり、更に、適性のある者達なら希望すればベリダに送られる子供の蝕人を預かることもできた。よって、ベリダやその周辺の村ではむしろ血のつながりのない親子のほうが多い。

「先に失礼な物言いを詫びる。それならばむしろ、余計に兵士長が必死になる理由は薄いように思うが」

「…主人はベリダに来る前に、ちょうどあのくらいの娘がいたみたいなんです、でも、その子を魔物に襲われて亡くしていて…その時の無力を呪う悔しさが、余計にあの子を守る力に向けられているんです」

 俯く兵士長夫人は机の節目をなぞる。

「我が子を守らんとする想いは尊いが、確かに自分の家にも帰らず魔物を求めて哨戒を続けるようでは本末転倒だ…。しかし、兵士長の考える通り、その病を引き起こしている魔物が存在する可能性も零ではない…」

 アルクスはエールを口に含む。

「いいえ、魔物を倒せば解決するような問題ではないことくらい私にもわかるんです…アルクスさん、どうか主人が無理をしないように、見ていてくれませんか?」

「解った、兵士長が無理をしないように出来る限り補助しよう」

「ごめんなさいね、会ったばかりなのに、こんなこと頼んじゃって」

 兵士長夫人は取り繕うように笑顔を見せ、席を立ち、残った食器の片付けへと戻った。

「私にも身体の弱い妹がいるんだ、兵士長の気持ちはよく分かる…」

 アルクスは、審問の院の一室に編み込まれた施術の上で、なんとか生き永らえている自分の妹の姿を思い出さずにはいられなかった。



 ベリダの南方には、蝕痕が色濃く刻まれた木々の群生する“黒の森”と呼ばれる森が広がっている。血潮の山と同じく、堅く立ち入りが禁じられているが、この森の土は特に肥沃で、教国の気候の合わない種でも安定して成長させることができた。

 その土を利用した菜園を造る事を目的として、黒の森の畔の高い丘の上に、木々を切り拓いて作られたのが、ラルマが守護しているトポールの村だった。 

 蝕の濃い森の近くということもあり、ラルマが守護するまでは魔物の被害が絶えず、ベリダ内で重い罪を犯した者達の流刑地のような場所とされていた。しかし、魔物の被害も減り、人の入れ替わりも少なくなった今は、“魔物と戦い村を守ってきた”という頑迷な意志だけが村人達の中に残留し、それは排他的な空気を蔓延させていた。


 馬車から降り、頑丈な厚い木の防護柵の門をくぐり、村の中へと入ったラルマは、東にある菜園を目指して歩く。

 村人達は皆、蝕痕を隠す布を巻いており、警戒するようにラルマを一瞥しては、すぐに自分の仕事に戻る。家屋の横には必ずと言っていいほど、畝が数列程並んだ小さな畑が作られており、野菜の栽培がなされていた。高く伸びる茎や葉、そして実の表皮には黒い蝕痕が刻まれていた。

 トポールの村で採れる野菜の味は、たとえ害になると分かっていても、育て、食らうに値するものらしい。

「逞しいこった」

 村の東には厚く高いローリエの生垣で囲われている区画がある。この“目隠し”の中にトポールの菜園は作られている。入口には常に見張りの者を立たせているという様子だった。

 ラルマは見張り番の村人に声をかける。

「どうも、菜園管理の手伝いで移住してきたんですけど」

「ラルマ君だったね、ありがたい事だが正直に言って君に手伝える事はない。今ちょうど、とても繊細な草木の栽培を試していてね、少しの期間滞在するだけの者に立ち入られると非常に困るんだ」

 見張り番の村人は、ニコリともせずに淡々と対応する。

「はぁ、そうですか」

「君はこれから案内する小屋で大人しく過ごしていてくれれば、それでいい。そうしてくれる限り、ベリダにも、君は非常に協力的で優秀な者だったと伝えると約束しよう。よいかな?」

「そりゃあもう、お任せしますよ、一切」


 ラルマは村の西側に建てられた、ちょうど人が一人住むに都合の良い程度の小屋へと案内された。人は住んでいないが維持管理は行き届いており、中は清潔で道具や食器も一通り揃えられていた。

 更に「小屋の中にある保存食は、どれも自由に好きなだけ使っていい。野菜、野草がほしければ、小屋の裏に小さな畑から採ってもらって構わない」とのことだった。

「こいつは、至れり尽くせり、と言えばいいのか。それとも、厄介払いの除け者扱い、と言えばいいのかわかんねぇな。ったく…誰のお陰で、魔物に襲われずに平和に暮らせてると思ってんだか」

 荷物を降ろし、質素なベッドに寝転がるラルマは、一人呟く。

「…まあいいや、お言葉に甘えて視察とやらが終わって呼び戻されるまで、ここでのんびり過ごさせてもらうさ」

 “己の領域として守れ、と言われているからそうしているだけ。”

 この村はラルマにとって、守るべき休憩場であったとしても、決して、最期にいるべき自分の場所ではなかった。


「とは言うものの、暇潰しの一つくらいは、させてもらわねえとな」

 夜半、そっと小屋の窓を抜け、青い芝の上へと降りたラルマは、夜闇のトポールの中を東に向かって走り始める。行く手にはランプを片手に持った村人が警邏をしているが、ラルマの視聴覚と運動能力の前にはザルに等しい。ラルマの足は警邏達の死角を縫って淀みなく進み、容易く村の東側にある菜園の横に建てられた家屋の裏に忍び寄る事に成功した。窓からは微かに蝋燭の明かりが洩れており、数人の男が声が微かに聞こえてくる。

「―ああ…いい具合だ、まさか…も簡単に芥子けし…栽培が成功する…はな」

「―これなら、十分…量の樹液を取れるぞ」

「―あの方の協力……ればこそだ、感謝せ……」

「―…筈通りベリダ…旧居住区へ」

 常人ではとても言葉として聞き取れるはずのない微かな声だったが、魔物の肉体から得られる魔力の影響で、常人ならざる聴力を持っているラルマには、十分、会話の内容を理解することができた。

「ふうん…こりゃ思ってたよりも退屈せずに済みそうだ」



 血潮の山の裾野に繁る森。

 蝕痕の刻まれた木の幹や枝葉、地面には、ここに立ち入る者を掴み、飲み込むような不気味さがある。その森の中には、灰色の結晶が蝕痕の刻まれた木の幹や葉、地面の其処彼処に張り付いている一帯があった。

 周囲の結晶はネーヴェが時間を掛けて成長させたものであり、自分と巨狼との間の魔力の流れを増幅させる効果があった。ここは特に結晶の密度が濃い場所だが、山の麓を囲うように、これと同じ結晶が散りばめられており、それらは、侵入者を察知するための共鳴装置として機能していた。

 “自分達の機密の中心地である、血潮の山への侵入者の察知と排除。”それがネーヴェに課せられた平時の役目だった。

 隻眼の少女、ネーヴェは、その結晶の吹きつけられた森の中を歩いていた。

「おいで」

 ネーヴェが一言、森の中に言葉を投げると、林の奥から巨大な灰色と白の毛皮を纏った狼がゆっくりと姿を現す。

 大木を容易く叩き折れそうな強靭な前足と、少女の身体など一飲みできそうな大顎の巨狼が、森の奥からゆっくりと少女の前に歩いてくる。ネーヴェは他の誰にも見せた事のない微笑みを巨狼に向ける。

 ネーヴェは、本来の姿ともいえるこの巨狼に、ある種の愛情を抱いていた。

 灰色の巨狼は、少女の目の前で身体を横たえ、足を畳み、身体を丸める。

 ネーヴェは、狼の頬に自分の頬を押し付け、耳や喉元を撫でた後、その狼の懐に潜り込んでうずくまる。

「温かい」

 巨狼の毛皮に包まれながら、少女は眠りに落ちた。

 

―――


 教国北西部、首都ヴェルナの光域の端に位置するとある村。

 家や教会、鍛冶場等が集合する村の中央から西に数百メルト程行くと、小麦畑が広がっており、その中央に一軒の大きめの木造の家が建てられていた。

 大きな家だが、決して身分の高い者が住むためのものではない。元々は、周囲の畑の管理するために数世帯の家族が共同で暮らしていたのだが、畑の縮小と移住によって、今は父子二人が住むだけの家になっていた。

「どうして?あたしは外に出ちゃいけないの?もっと外に出たい、村の子とも遊びたい」

「ネーヴェ、お前は蝕人なんだ…もし村の誰かに見つかれば、二度と一緒には暮せなくなる」

 少女の問いに痩せた父親は答えた。

「誰がそんなこと決めたの?」

 幼いネーヴェの左目は、まだそこに収まっていた。掌や首筋には薄らと、しかし確実に蝕痕が刻まれている。

「教会がそう定めているんだ」

「教会はどうしてそんなことを決めてるの?なんで言う通りにしないといけないの?」

「教会の奇跡と浄化の力がなければ、人は安全に暮らすことができないからだ、教会の言う事に背き続ければ人は生きていけない」

「でもー」

「これ以上“どうして”は、なしだ。今日も、いい子にしているんだよ」

「はい…」

 痩せた父親は、蝕人の娘を残し、いつものように農作業に出かけていった。

 空洞のように広くがらんとした家の中で、父親の帰りをひたすら一人で待たねばならないこの孤独な時間を、ネーヴェはあまり好きになれなかった。


 弱々しい朝日の中で麦畑の畝に生える雑草を取る男の下に、三人の大柄な村人を伴って、この村の司祭が現れた。

「こ、これは司祭様…」

 痩せた男は立ち上がり、頭を垂れる。

「蝕人を匿っている疑義によって、あなたを拘束させて頂きます。正直に申告すれば、いくらか罪は減免しましょう」

 司祭は薄い笑みを浮かべ、土で汚れる痩せた男に宣告した。

 痩せた男は、はっと顔を上げ、司祭を睨んだまま、沈黙した。


「この家だな」

「ああ、蝕人のガキが隠れてる」

 二人の男が、村はずれの小さな家の中へ無遠慮に入り込む。家の中は静まり返っており、人の気配はない。

「探せ、どこかにゃいるはずだ」

 家の中は荒らされていく、藁の中、家具の隙間。しかし、目当てのモノは見つからない。

 部屋の隅に木の小さな板が釘で打ち付けられているのを一人の男が見つける。ちょうど、子供一人が通れそうな大きさの穴を隠した跡だ。

「おい、あそこ剥がせるもの持って来い」

 家の外に立てかけられていたすきで、部屋の隅の板がバキバキと音を立てて剥がされる。

「ただの…穴だな」

 しかし、それは単なる補修を跡だった。

「くそっ!」

 苛立つ男は鍬を放り投げる。壁にあたり、木の床を跳ねる、そこで、違和感のある音がした、まるで木の板の下に空隙でもあるような妙な音だ。

 男は鍬を拾い上げ柄の先端でコンコンと突く。やはり、そこだけ音が異なる。よく見てみると、欠けた床板がちょうど、微かに指を掛けられそうな溝になっていた。

「ここだ」

 鍬を使って、空洞音のする床板の端を押し上げる。床板は抵抗なくバクリと開き、中には、首筋と両手に布を巻いた少女が、震えながらうずくまっていた。


「やだ、はなして…!」

「おい、こら、暴れるんじゃねえ」

 大男に抱えられ、跡塔の建てられた村の中央の広場へとネーヴェは連れていかれた。

「お父さん…」

 跡塔を囲うように村人達が集まっており、その輪の中央、跡塔の下には、縛られた父親、隣には斧を携えた大男と、この村の司祭が得意げな様子で立っていた。

「居ましたぜ、蝕人の子供が一人」

 やはり、と司祭は満足そうに頷くと、縛られた男を睨む。

「あの家には妻を亡くして独り身であるあなたしか住んでいないはずなのに、どうも子供の声を聞いたり姿を見たという者がいましてね、少々強引ですが、家の中を改めさせてもらいました。何か、弁解はありますか?」

「いいえ…」

 後ろ手に縛られた痩せた男は、歯を食いしばり、うな垂れている。

 酷薄な笑みを浮かべる司祭。彼に大した奇跡を起こす力はない、しかし、この小さな村の中で権威を振りかざし、他者の命運を意のままにする事には執着する。それは、修道院で他の者達より能力的に劣っていたという自己の劣等感を解消するための代償行為以外の何物でもなかった。

「よろしい。では、これより蝕人の子を隠した罪を償ってもらう。その穢れた命を以って」

「…一つだけ、確認させてください。私の娘には一つの罪も無い、必要なのは私の償いのみ、ですね」

「その通りです。あの蝕人の子は、すぐに蝕人隔離都市ベリダに送られます」

「判りました」

 縛られた男は断頭台に首を乗せられる。大男は斧を天上に構える。

「済まなかった、ネーヴェ」

 申し訳なさそうに笑う父親。斧が振り下ろされる。その首は胴体から離れて地に転がる。鮮血が吹き出し地面に小さな血の池を作っていく。

 ―

 と、少女の心臓の鼓動は大きくなっていく、何か熱い湯が身体に流れ込んでくるのを感じる、その感覚は全身へと広がり、循環し始めていた。

「出生報告を怠り、蝕人を匿い育て、正直に申告すればいくらか免罪するとの最後の慈悲すら跳ね除け黙秘を続けた。さて、この男の罪はあまりにも大きすぎた。それは到底、一つの命で償えるものではない。よって、その子にもいくらかの償いをしてもらわねばなりません」

 懐から装飾の施された銀のナイフを取り出した司祭は、屈み、少女に顔を寄せて小声で囁く。

「愚かな父親の死に様を、瞼の裏に焼きつけたまま、闇の中で生きろ、穢れた蝕人め」

 司祭は躊躇いなく銀のナイフを振るう。茫然とする少女の左目を、ざっくりと銀の刃が滑り抜けた。瞼は裂け、眼球は割れ、額から眼下の皮膚には消えない傷痕が残る。

「いや、いやあああああああああああああ!!!」

 己の血で顔を濡らす少女の悲鳴が村の中に響く。

「うるさいガキだ、先に喉でも潰しますかー」

 ――ゥアォオオオォン――

 司祭の手が少女の細い喉を掴むと同時に、村の周辺から狼の遠吠えがこだました。

「司祭様…これは」

 少女の身体を背後から掴み抑えている村人が、青ざめた様子で、目の前の司祭の顔を見やる。

「狼狽える必要はありません。防護柵は十分な強度と高さを付けて作られています。ここは光域の中、いかな魔物といえどその力は衰えているはずです」

 しかし、村の南の三メルトを超す木の防護柵を一匹の狼の魔物が易々と飛び越えて、村の中に降り立った。通常の狼の倍はあろうかという体躯、毛皮の一部は蝕痕によって歪に黒く染められている。

「ー馬鹿な…何をしているのですか、早く!早くあれを始末しなさい!!」

 狼は、半狂乱に村人達をけしかける司祭の所へ向かって、風のように走り、迫る。

 周囲に居た村人達―屈強な男でさえも、迎え撃つどころか、悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げていく。無理もない、この村は大型の魔物に襲われたことなど一度も無かったのだ、撃退しうるだけの技術や装備、何より胆力を持った者など一人としていないのだった。

「ひぃっ、来るなあ”ゲ―!」

 腰を抜かして後ずさる司祭の喉笛に鋭い牙が食い込む、薄い皮と肉を容易く引き裂き、骨を断ち折る。この村で最も権威ある存在であった司祭は、一瞬にして狼に喰われるだけの肉の塊へと成り下った。

 他の狼の魔物が続々と、防護柵を飛び越え、村へ侵入し、村人達を襲っていく。

 村の中は、悲鳴と怒声が撹拌する悪夢の釜へと変わった。

 ネーヴェは村人達が逃げ惑い、食い殺されていく様子を、残った右目でぼんやりと眺めていた。

 爪と牙による蹂躙の嵐はあっという間に終わりを告げる、狼達はあらかた人を食らい尽くすと、蝕人の少女の周囲に整列した。

「あたしを助けてくれたの?」

 一匹の狼が少女の左目の傷痕を優しく舐めた。

 それから、ネーヴェは村を捨て、狼の群れと共により蝕の濃い場所を求めて教国内を彷徨い、血潮の山へと辿り着く。


―――


 巨狼の灰色の毛皮の中で、ネーヴェはゆっくりと意識を覚醒させる。

 周囲は結晶にまみれた蝕痕の這う草木が微かに揺れている。遠くでは獣の鳴き声。そして、大地からは魔力の循環する脈動が確かに伝わってくる

 蝕痕の刻まれた細い右手で左目の傷痕を撫でた。引きつった皮のごわごわとした感触が指先に残る。

 ネーヴェは、その感触を振り払うように、白い毛皮に包まれた巨狼の太く強靭な前足を強く抱きしめた。

「めちゃくちゃにしてやる、教会の何もかも、あたしの、この魔物からだで」

 ネーヴェは、父の首が刎ねられる悪夢を見る度、感謝していた。

 萎みそうになる復讐の心が、胸の内でまた強さを取り戻してくれるから。



 血潮の山の東の麓に薄赤色の大きな湖がある。

 その水底に、青い鱗の大海蛇の如き水竜が蜷局を巻いて休んでいた。

 しかし、ただ休んでいるわけではない、ティーフはここで二つの仕事をこなしていた。

 一つは、水質の調整。魔力の濃度が高くなりすぎる時が稀にあり、その時には、ティーフが界域にその魔力を吸収する事で、下流に濃過ぎる魔力が流出しないようにしていた。

 二つめは、視察に備えての魔脈の抑制。ベリダ全体、特に審問の院の周辺の魔力の流れが落ち着くように魔脈に干渉していた。といっても、どちらもティーフにとってはさして難しいものではなく、数刻ごとに界域に潜り、そこに浮かぶ宝球へ干渉する以外は特にすべき事はなかった。

 水底の小魚を見るのに飽きた水竜は、顔を上に向けて、口の中から気泡をゆっくりと吐き出していた。気泡はゆっくりと浮き上がる途中で輪になり広がっていく。そしてその輪は湖の中深度あたりでふわりと止まる。そこには、幾重にも重ねられた気泡の輪で作られた円盤が浮かんでいた。

(―…やった、七重だ!これ、たぶん自己新記録だよ)

 それはティーフの一種の手遊びのようなものだった。

《ティーフ、特に異常はないな》

 突然、ウィクリフの声が聞こえ、驚くティーフ。湖中に浮かんでいた七重の気泡の輪は爆ぜて、小さな気泡になって湖面へとのぼっていく。

《あ…う、うん、全然、なにもないよ。魔脈の抑制もちゃんとできてるはず。もっと強くする?》

《十分だ、これ以上循環を減衰させれば、逆に何らかの弊害が発生し、怪しまれる原因になりかねない》

《りょうかい。もうすぐ来るんだよね、その視察の人達は》

《視察団は明日にもベリダに到着する。奴等が帰るまでの間、今のような会話はできなくなる事も伝えておく》

《僕、ずっと界域の中にいたほうがいいのかな?》

《お前はもう人の器が存在しない。魔力の原質が流れる曖昧な界域よりも、明確な感覚を得られる実空間にいたほうが人としての意識の消耗を軽減させることができると、説明したはずだ。そこで大人しくしていれば見つかる事は無い》

《わかった。大人しくしてるよ》

 水竜は、気泡の輪を浮かべ重ねる作業に戻った。



 色とりどりの花が咲く小さな温室。

大きな橙色の美しい模様の翅をもつ蝶が舞っている。

温室の隅の小さな二つの椅子には一人の少年と幼い少女がいた。少年は少女に優しい声で語り掛ける。

「蟲になってしまうのは嫌かい?」

「ううん…平気。だって、こうやって綺麗なお花や蝶々と遊べるから」

本当は嫌だった。気持ち悪かった。でも、兄さんが綺麗な虫を見て喜んでくれるから。兄さんと一緒にいられるから。だから、我慢できた。

「ウェルテ、嫌ならやめても良いんだ、これは理不尽なお願いなんだから。誰にも知られず感謝もされない、でも命を懸ける覚悟がいる。お前は適性があるというだけで選ばれた、ただの女の子なんだから」

「いいの、私はもう魔物だから、お兄ちゃんと同じ…」


―――


「いけない、寝ちゃってた…」

 ウェルテは審問の院の外にある小さな温室の中の椅子で寝ていた。

温室の中央には、蝕痕の刻まれた樫の木の幼木が植えられた鉢が置かれている。その樫の木の葉の上に黒と橙色の模様の羽根の大きな蝶が止まっていた。

 ウェルテは胸元から親指程の大きさの楕円形の蜜色の琥珀を取り出す、飴色の丸い結晶の中には小指の先程度の大きさの小さな蜂が埋まっていた。

「絶対に見つけて見せるから、ドリユス兄さん」

 ひとしきり胸の前で大事そうに抱えると、ウェルテは温室を出て、礼拝堂に向かった。


 礼拝堂の中ではウィクリフが円形の卓の上に啓発者を顕現させ、淡い光を纏う頁を机いっぱいに散らばっている。そして、ウィクリフの手元には、一枚のただの羊皮紙が置かれていた。

 ウィクリフはその羊皮紙にゆっくりと少しずつ指を滑らせていく。指が動くたびに散乱する頁のいずれかから光の筋が伸び、指先に集まる、指が通った後には、白く輝く文字が刻まれていった。

「まだ啓発者の転写、してるのね。もうあらかた写し終わったと思ってたけど」

「俺の護身用だ」

「そう。でも、教会が普通に視察をしてきたらどうするの?」

「終わりだな。しかし、己の力を過信する奴等は、決してそんなことはしない」

「そうね、私もそんな気がするわ…ところで、ハイブの入口の隠蔽は、このくらいでいいのよね」

 ウェルテは、礼拝堂の北側にあるハイブへ降りるための穴があけられていた場所に屈んで指先を当てる。今、その大穴は新たに張られた木の板で綺麗に、修繕され、塞がれていた。

「十分だ、丁度良いめくらましになるだろう。魔脈の抑制も問題ない」

「後は迎え撃つだけ…ね。教国の都市を四つも破壊した魔物でも、その正体がばれたら何もかも終わりなんだから。本当、いい気になんてなれない」

 ウィクリフは、転写の終えた羊皮紙を丸めると懐に仕舞うと、ウェルテの方に向き直り、右手の掌を差し出す。

「あらゆる性質は、強弱が表裏一体となっている。この世に存在するということは、その両面を受け入れるという事に他ならない」

 卓の上に散らばっていた白い頁と、広げられた啓発者は光の粒になって、ウィクリフの掌の上に長方形を象るように集まる。

「自らの強さのみに固執し続ける教会には、必ず破局が待っている」

 発光が鎮まると、ウィクリフの筋ばった掌の上には、日輪を模した教会のシンボルが刻まれた白い石板が納まっていた。

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