結実した心 Reaping souls

第七章

7-1 握手

 ジェハノの攻略、及び撤収を終え、一夜を経た朝。

 ウィクリフは、五人の少年少女を審問の院の暗い礼拝堂に集めていた。

 皆、身体をぴったり包むような黒い皮膜服ではなく、普通の支給服姿に蝕を隠す包帯を巻いている。

「で?どうしてまた、みたいな恰好で俺らは呼びつけられたんだ?」

 今から、魔物に帰化し…という雰囲気ではない事はトーマの眼にも明らかだった。

「急遽、首都からベリダへ視察団の派遣が決まった」

「私達の存在が感づかれたの?」

 険しい顔でウィクリフを見返すウェルテ。

「いや、視察の目的はベリダでの蝕の暴走による死者が急速に増加している件についての調査だ、とはいえ、視察の眼はここにも入る、念のため礼拝堂のハイブへ続く入り口は閉ざし、魔脈の活動を可能な限り抑制する」

「僕らはその間どうすれば?」

 トーマは、落ち着いた様子でウィクリフに対策を訊く。

「お前達はそれぞれ自分の領域に行ってもらう、ベリダ外の村落には教会の目が届きにくい。加えて、住民の管理もベリダに比べて杜撰ずさんなのが常態化しており、言い逃れが易い。アルクス、ラルマ、トーマの三人は労働力の補充という名目で、それぞれ自分の領域としている村に仮移住してもらう」

「領域がそのまま人の住める村になってる俺達はいいとして、他の奴等はどうすんだよ?」

 ラルマの素朴な疑問。

「私はこの審問の院の書記手伝いってことになってるから、特にいつも通り過ごすだけよ」

 答えるウェルテ。

「あの、ネーヴェの領域はどこなんですか…?ベリダの近くの村じゃ、ないんですよね」

 寡黙な少女にそっと問いかけるトーマ。

「あたしの領域は血潮の山の麓全域。山に不審な者が入らないように警戒を任されてる。巨狼グレイウルフの肉体が傍にいれば、食べる物も、寝る場所にも困らないし」

 ネーヴェは机の上に向けた顔を微動だにさせず、機械的に必要な情報だけを述べた。

「各村には話を付けてある。移動手段も手配済みだ。視察団はもう首都を発っている、数日程度でベリダに到着すると見て間違いない。可能な限りお前達の存在を気取られないよう、動くなら早い方が良い。よって、この話が終わり次第、直ぐに出発してもらう」

「一つ、質問だ。私達はいつまで村に避難していればいい?」

 アルクスは、一人だけ思いつめた表情だった、審問の院から離れるのを嫌がっているように見える。

「長めにみても七日前後だ。首都から来た者共が、毛嫌いする蝕人隔離都市ベリダにそう長く滞在するとは考え難い」

「了解した…」

 というアルクスだが、どこか不承不承ふしょうぶしょうという感じだ。“魔脈の活動を可能な限り抑制する”という言葉が出てから、いつもの決然とした雰囲気が失われているように見えた。

「状況が落ち着き次第、すぐに移住期間を終える手続きをして、呼び戻す予定だ。他には?」

「そういや、ティーフはどうしてんだ?魔物になっちまったって聞いてるけどよ」

 あっけらかんと聞くラルマだが、その眼は鋭くウィクリフを睨んでいた。

「己の領域である血潮の山の麓の湖にて休んでいる。特に問題はない」

「ま…元気にしてるんなら、別にいいけどな」

 他に質問が無い事を確認したウィクリフは話しを続ける。

「では、トーマ、アルクス、ラルマの三人は己の魔物との関連を疑われないように、各村で過ごす時には言動には注意しろ。特にトーマ、お前の村には感覚の鋭い者がいたな、そのため飛竜への秘匿は特に強化してある」

「その分、俺の秘匿の力が弱まってるらしいけどな。まあもともと俺の黒豹は、そんな奇跡に頼らずとも見つかりゃしねえが」

「えっと…気を付けます」

「では、お前達三人には移住許可書を渡す。準備を終え次第、審問の院の裏手から通りに出て待て。ネーヴェは準備を終えたら礼拝堂に戻って来い、血潮の山の麓へ抜ける地下通路を教える。以上だ」

 話しが終わると同時に、四人の少年少女は、それぞれ礼拝堂の西と東の扉へと歩いていく。



 審問の院の寮棟の一室、影になりやすい部屋。

 薄暗い部屋の中には、ハイブ程ではないにせよ、明らかに恣意的に蝕痕が張り巡らされており、痕の中心には一つのベッドが置かれていた。

 そこには蝕人の少女が一人、寝ている。

 肩口までに切りそろえられた髪。意思の強そうな目や顔立ちは紛れもなくアルクスのそれだった。ちょうど、アルクスの髪短くして、二回り小さくしたような少女だ。

「元気にしていたかラウラ」

 部屋に入って来たアルクスは、手荷物を降ろし、ベッド脇の椅子に座り、ベッドに横たわる少女の手を優しく握る。

 しかし、手を握られても少女はピクリとも動かない。茫洋とした目だけが微かに背の高い姉を見返すだけだった。

 アルクスは、そんな妹に話しかける。

「悪者との戦いは順調に進んでいるぞ、ラウラ…。頼もしい仲間達と一緒なんだ、次々と迫る敵を打ち倒している、きっと戦いを終えられる日も近いはずだ」

 こうして話しかける事が、ラウラの容態を良くする助けになると信じているかのように。

「そうだ、まだ一人、お前に紹介していない仲間がいたな。トーマという奴なんだが、頼りないひよっ子だと思っていたのに、今ではもう立派な戦士だ。まだ少し自信が追い付いていないようだから、いつか気づいてほしいな」

 ラウラは、蝕への耐性が弱く、本来なら身体を巡る魔力の負荷に耐えられずに命を落としているはずだった。この部屋はに張り巡らされた魔脈は、その負荷を分散させる事が目的だった。つまり、ラウラはこの部屋に巡る魔脈と一心同体であり、部屋から出るという事は死を意味していた。

「少しの間、ここを離れる。大丈夫だ、ほんの少しだけだ、それまで元気にしていてくれ」

 アルクスは少女の手をゆっくりと放した。

 少女の手はアルクスの手を求めるように微かに動く。



 トーマは自室にて簡単な日用品を纏め終え、部屋を後にする。準備にそう時間はかからなかった。

 廊下を歩く足を止める。なぜだか、この審問の院を後にするという事が、心細く思えたのだ。何か、自分の大事な物を置いていかなくてはならない気がして。

 審問の院の裏手の扉を出るとラルマが既に、裏手の小さな鉄の門の前で、門柱に背を預けて待っていた。

「アルクスは、まだ準備してるのかな」

「大方、妹に別れの挨拶でもしてるんだろうよ」

「え、アルクスに妹がいたんですか」

「ああ、知らなかったか。あいつの妹も蝕人らしいんだが、蝕への耐性が弱いみたいで、いつ心臓が止まってもおかしくない身体なんだとよ。アルクスが魔物になって戦うことの交換条件は、その妹の体調を維持管理すること、だそうだ」

「それで集合に少し遅れたりしていたんですね」

「そういうこった。まあ、ご苦労な事だ、そんなもん抱えなきゃいけない人生ってのはよ」

「…僕は少し羨ましいと思います。血を分けた家族が近くにいて、その為に戦えるなんて」

「ふうん、俺は何かを背負って足が鈍るのなんて御免だね…―やっと来たか」

 アルクスが扉を出て、裏手の小さな鉄の門へと急ぎ足で歩いてきた。

「悪かった、すぐに出発しよう」

 審問の院を出た三人は大通りに出るために、居住棟の合間の規則的な細い直線の道を歩いていた。特に会話は無く、三人は沈黙を保ちなが歩く。

 その沈黙に耐えられなくなったというわけではないが、トーマはおもむろに右手側を歩く二人に質問をしていた。

「あの、ラルマやアルクスは自分の領域の村に人の姿で行ったことはあるんですか?」

「ん、いや、ねえよ」

「私もだ、そのような機会も無いしな」

「何だよトーマ、もしかして緊張してんのか」

 ラルマは、トーマの細い肩を軽く叩く。

「そういうわけじゃないんですが…なんか不思議な感覚だなと思って、魔物の姿でいつも見下ろしていた場所に、人の姿で行くことになるなんて」

「不思議…っていうか、むしろ退屈だな、お前と違って、俺やアルクスは、あの村の守護役を任されてそこそこ経つ。人の姿だろうと、特に何とも思わねえな」

 大通りに出た三人は、道端で止まり、待つ。

 傍目からは、勤労奉仕に向かうために馬車を待っている蝕人の少年少女にしか見えない。

「そうだな…私は、魔物の姿でいつも居る場所に、無力な人の姿でいなければならないと考えると、何か歯痒い思いをしそうで不安だ」

「やっぱり“もし危険な魔物を、村の近くで見つけたりしたら”って考えると、ちょっと不安ですよね」

「俺には、わざわざ不安になる事を考える神経がわからねーよ。お前達の村がどんな所は知らねーけど、別に生まれ故郷や心の拠り所ってわけでもねえ、ウィクリフから休むならついでにここにしとけって言われているだけの場所だろ」

「確かに、そうですけど―」

「とにかく、人の姿じゃ何もできねーんだから、大人しく過ごしてりゃいいんだよ…っと、おい、お迎えの馬車が来たぜ、お喋りは終わりだ」

 ラルマが指を傾ける方向から蹄と車輪の音を響かせて、小さな馬車がやってきた。

三人は馬車に乗り込む。

 「村行きの人等だね?」と御者に尋ねられ、アルクスが肯定の返事を返す。

 馬車は蝕人の少年少女を乗せると、ゆっくりと動き始めた。

 それから、その馬車は東回りにベリダの外縁を周回し、東の門でトーマを、南の門でラルマを、最後に西の門でアルクスを降ろした。

 それぞれの門に降ろされた三人は、門兵に一時的に移住を許可する旨の書かれた小さな羊皮紙を見せる。

 それぞれの村とベリダを往復する馬車を少し待って村へと送られた。



 ベリダ西端部。地下墓地。

 地下二階のプールのある広間。常に薄らと血の匂いが溢れる空間。

 修道女姿のヤンは、部屋の隅に置かれた長い作業机の前に立ち、机の上に並べられた紅い液体の入った細長い小瓶を見比べていた。

 広間に入るための扉が開かれる音、聞きなれた淡々とした足音が響く。懐かしい記憶がふと脳裏をよぎるが、すぐに別の事に意識を向ける。

「もう、ここには来ないと思ってた」

 ヤンは机の上に視線を落したまま、姿勢を変える事無く闖入者に言葉を掛ける。

 足音を止めた闖入者は、簡潔に願いを言ってきた。

「お前が手に入れたトーマに関する全ての情報、試料を渡してほしい」

「嫌だと言ったら、どうするの?」

「結果は変わらない。お前の意志が尊重されるか、無視されるかの違いに過ぎん」

「相変わらず冗談が通じないのね。一応、理由だけ聞かせてもらえる?」

「近々、首都より教会の視察が来る。裏で代行者プロキシ共が動いているのは間違いない」

「それはもう聞いたわ。私が知りたいのはその先。なぜ、トーマの情報だけを欲しがるのかという事」

「あいつには、“究極の魔物”に成り得る素質があると、俺は考えている。故に、その素質を確かめる術を、教会に奪われるような事態になる前に、回収せねばならない」

「もう諦めたんじゃなかったの?」

「おれの安い諦観を覆すだけの可能性をあいつが持っているというだけの話だ」

「随分気に入ってるのね。いいわ、蝕人達を救わんと戦うあなた達の勇気に免じて、渡してあげる」

 ヤンは胸元から中指程の長さの小瓶を取り出す。小瓶の中は深紅の液体で満たされていた。

「ここに、全て入ってる」

 ヤンは小瓶を作業机の上に置く。闖入者は近づき、机の上の小瓶を取り上げ。

「礼を言う」

 それだけ言って去って行った。

「本当、変わらないわね、あの人は」



 トーマを乗せベリダの門を出た馬車は、わだちの付いた硬く踏み固められた土の道を進んでいた。馬車の板材の上には、魔物の襲撃に備えて鋼の板金で補強されていたが、所々錆びたり欠けていたりしていて、はっきり言って気休めの効果すら期待できない。

 馬車の中には、村への補給物資らしき袋や木箱が積まれており、野菜や穀類の匂いが微かに漂っていた。

 緩やかな丘を一つ越えたあたりで、高い崖の下に、教会らしき建物を中心に、家屋が集合している場所が遠目に見えてくる。それら家屋の集合は、太く高い木の杭を打ち込んで作られた塀によって囲われていた。

「アンヴィルの村だ」

 いつも、崖の上から竜の姿で見下ろしていた見覚えのある村の形だった。

 村に近づく頃には、空から薄らと陽の光が射してきていた。

 村の入口の手前で、槍を持った壮年の番兵に馬車を止められる。壮年の番兵の鋭い目つきと隙のない立ち回りは、修羅場を潜り抜けた者に宿る凄みがあった。

「補給物資か?」

「ええ、そうです。あと、村への仮移住者の子が一人、乗ってますよ」

「降ろせ」

 馬車から降りるトーマ。壮年の番兵は、細身な蝕人の少年に近づき、試すように睨み付ける。

「トーマ、だな?」

「は、はい…」

「ふん、もう少し体力のありそうな者を期待していたが、まあいい。教会は村の中央にある。行け」

 

 トーマは御者に礼を言って村の中へと入ったトーマは、すぐに教会へと足を運ぶ。

 教会の手伝いとして住み込みで働くことになっていたからだ。馬車は、村の貯蓄小屋へと向かっていった。

 村の中ですれ違う村人は、皆、蝕痕を隠す布を巻いていない、遠目からは見慣れていたが、近くで同じ目線でそういう蝕人を見るのはまた違った印象を受けた。村の中の交流はそこまで密接ではないのか、特に挨拶をされたり、呼び止められることもなく、教会へと辿り着いた。

 礼拝堂の中には誰もおらず、高い壁の天井に近い位置に取り付けられた採光窓から射す薄い陽で照らされていた。

「あのー…どなたかいませんかー?」

 トーマの声が静謐の中に響く。少しして「おーい、こっちだよ。外に出て、右手側に回ってきなさい」という声が外から聞こえた。

「外…?」

 教会から出るが、誰もいない。声に従い、教会の外を右手に回ってみると、壁に長い梯子はしごが掛けられていた、そして、その梯子を一人の村人が降りている所だった。

「やあ、初めまして。私は、この教会の神父をしている者だ」

 神父と名乗る男は作業に適した動きやすそうな恰好をしており、一見して神父には全く見えない。しかし、柔和そうな雰囲気や細身な身体からは、その片鱗を十分に感じさせた。

「この村へ仮移住になりました、トーマです」

「さっき村に着いた所かな?馬車が来ているのが屋根の上から見えたからね」

「はい。短い間かもしれないですけど、お世話になります。僕にできる事なら、何でも手伝います」

「よかった。丁度、人手が欲しかった所なんだ、君が来てくれて助かったよ」

 優しく笑む神父。

「早速、明日から屋根の修理を手伝ってもらいましょうか」

「あの…写本や書物の整理とかじゃないんですね」

 あまりにも教会らしくない仕事に面食らうトーマ。

「そうだよ。とりあえず今日は、君が使う部屋と、ここで暮す上で守ってもらうべきルールを教えるから、ついて来て」

 起床、就寝の時間や、触れてはいけない大事な物や、場所などを教えられた。

 特に、教会の教えや思想を説かれるようなことも無く、ただ村の中の家に泊まりに来たのとあまり変わらなかった。

 その日は他に、村の中の決まり事や、天然物に刻まれている蝕痕にはその大小に関わらず極力触れない事、そして、魔物を見つけた時の対処法等を教えてもらう内に、陽の光は失せ、地平に沈んでいた。

「そうだ。気づいていると思うけど、ここでは、蝕痕を隠すための布は必要ないよ」

「確か…蝕による身体の異常や不調に気づきやすくするため、ですよね」

「その通りだけど。もっと正直な理由は…蝕痕を見て気分を害する人達がいないから、かな」

 神父は少し寂しげな顔を見せた。

 それから二人で、パンとスープと温野菜の簡単な夕食を済ませると、日が沈んでから点けた礼拝堂の中の蝋燭時計は二時ふたとき分の長さを減らしており、就寝時間になっているのを示していた。

 トーマは与えられた、小部屋のベッドに寝転がり。

「神父様、いい人みたいでよかった。アルクスやラルマも上手くやってるのかな…」

 そんな事を呟きながら、眠りに落ちた。


 翌日、陽の光が差し始める時間になると、トーマは神父と共に教会の白い薄い煉瓦を並べた板葺きの屋根の上に登り、補修作業を手伝った。瓦の隙間に乾燥すると硬化する粘度を刷り込むというものだ。

 単調ではあるが、手早くこなすのは意外と難しく、特に手先の細かい感覚が曖昧なトーマは何度かヘラを取り落とすミスをしていた。

「すいません、こういう仕事はあまり慣れていなくて」

「いいんだよ、上手くやる必要はない。君が一生懸命にやろうとしている、手際よりもその姿勢が大事なんだ」

 作業がひと段落すると、陽の光の照らされるアンヴィルの小さな教会の屋根の上で、二人は少し休憩を取った。

「…神父様は、その、奇跡を起こす力を持っているんですか…?」

「いや、私はただの村人だよ、蝕人ではないけれど、奇跡を起こす力も持ってない、神父というのはカタチだけで実際にはベリダの大聖堂からのお達しを村の皆に伝える、連絡役みたいなものさ」

「意外です。ベリダ属下の村は危険な場所って聞いていたので、すごい力を持った人が、村の教会にいるのだと思ってました」

「期待外れだったかな?」

「いえ、そういうわけじゃ…」

「ふふ、いいんだ、正直言ってこの村に住む者は皆、自分が飽和気味のベリダから厄介払いされた事くらい理解しているよ。ベリダの中と比べて自由を享受できるかわりに、相応の危険に臨む必要がある事もね。まあ、最近は気味が悪いくらい平和だけどね」

「でも、蝕人でない神父様は、ベリダから派遣されているわけじゃないんですよね?」

「そうだよ、元はクラーザの修道士だったけれど、どれだけ修練を積んでも小さな奇跡の一つも起こす才能が無かったんだ。それでも、もっと困っている人達の役に立ちたくて、辺境の小村の雑用役でもなんでもしたいと言い続けていたら。この村での仕事を紹介してもらったというわけさ」

「すごいです…でも、神父様はどうしてそこまで教会を、ヴェルナ教を信仰しているのか、訊いてもいいですか?」

 トーマは、そう言ってから、神父を相手にあまりにも失礼だったかなと顔色を伺う。

 しかし、神父は至って自然に左手を顎の下に添えて考え込む所作をするだけで、気を悪くしたような様子は見られない。

「そうだね…いろいろあるけれど、一番は“奇跡の力は他者のために”という所かな」

「“人は他者を幸福にすることでしか、自らを幸福にすることはできない”ですよね」

「そう。“始祖記”では、何かにつけて聖ゲオルグが口にしている言葉だ」

「僕も…そう思います」

「ふふ、どうやら私達は気が合うようだ」

 神父は視線を手元に戻すと、その瓦に薄いが縦に長い亀裂の筋が入っているのを見つけた。

「―おや、こいつはもう取り換えたほうがいいな、予備の瓦が地下室にあるはずだから取ってきてもらえるかい」

「わかりました」

 梯子を下り、礼拝堂の中に入った所でふと気づく。

「って、そういえば、地下室の場所なんて知らないや」

 書斎や厨房などを覗くが、それらしい場所は見当たらない。

「だめだ…ちゃんと聞いてこよう」

 一旦、外に出ようと、礼拝堂に戻るトーマ。そして―

「あ…」

 どくん、と心臓が跳ねた。

 礼拝堂の日輪を模した真鍮のリングが置かれている聖卓の前に、見覚えのある少女が、目を閉じ、両手を組み合わせて祈りを捧げていた。

 右腕と頬に蝕痕の刻まれた少女は、人の気配に気づくと祈りを止めて、トーマのほうを向いた。

「初めまして、トーマ…です」

「知ってる、教会のお手伝い役の人だよね。蝕痕を隠す布を巻いているからすぐ判った。もっと、大人の人かと思ってたけど」

 少女は、明るい笑みを見せ、右手を差し出した。

「私はユーリ、よろしくね」

 布の巻かれていない細い腕と薄い掌には、蝕痕が刻まれている。蝕人で握手をわざわざ求める者は多くはない。特に手に蝕痕のある者は、代わりに組み合わせた掌を胸の前に掲げるだけで済ませるのが常だった。

「よろしく、お願いします」

 少し躊躇しつつ、トーマは蝕痕を隠す布が巻かれた右手で、その手を握り返した。

「あと、これ、君と神父様に」

 少女は床に置かれていた籠を持ち上げ、トーマに渡す。籠の中にはまだ温かいパンとチーズ、そして林檎のジャムの入った小瓶が入っていた。

「ありがとう」

「屋根の修理頑張ってね、みんな、雨が漏ってるの心配してたから。またね」

 少女は去っていった。

 トーマは右手に残った温かな感触が、魔力の循環による副作用なのか、ただの体温の残滓なのか、あるいはその両方なのか、判別する事はできなかった。

「ユーリっていう名前なんだ、あの子」

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