6-6 強い想い

 真っ白な世界。

 土も風も空も匂いも無い。どこまでも漂白された、平らな地平が続く空間。

 その空間のただ中にポツンと、一対の白い木材で作られた椅子と机が置かれている。

 ベリダの支給服姿のトーマは、一人その椅子に座っていた。手足に布は巻かれていない。しかし、露わになっている蝕痕は、どこかいつもより薄く、細いように見えた。

 目の前の机の上には白い皿が二つ置かれていた。片方の皿の上は柔らかそうな白いパンが乗せられ、もう一方の皿は冷たそうな白いスープで満たされている。スープの皿の前には、ご丁寧に銀の匙が一つ用意されていた。

「また…変な場所だ…。あ…れ、手足が動かない…」

 この不気味な食事の用意の席から立とうとしたトーマだったが、その手も足も石のように感覚が希薄で、作りもののように感じ、全く思うように動かなかった。

 末端から、身体の中心に向かって、体温や感覚がじわじわと奪われていくのを感じる。

「何も感じなくなっていく、冷たい場所…ここは、界域とはまるで真逆だ。嫌だ、ここには居たくない…」

 身体を揺らし、椅子から立とうともがくが、椅子ごと倒れる。

 さっきまで自分の物だった両足と左腕は、椅子に張り付いたまま、身体からがれていた、断面は欠けた石膏のように白い。

 トーマは、首と身体と右腕だけの姿で白い床に転がった。

「だめだ…もう、動けない」

 眼を瞑ると、今度は瞼までも張り付いたようになり、開くことができなくなる。

 更に、自分の鼓動すら弱まっていくのを感じていた。

《――。》

(―今、誰かに呼ばれたような…)

 ごとり、と何かが自分の近くに置かれた音が、床の振動を伝って聞こえた。

 指先を動かすと、丸みを帯びたモノに触れる感触があった。

(―温かい…?)

 最後の力を振り絞って、それを掴む。

 掌の中に熱が宿り、そこからまるで熱い血が体内に流れ込んでくるような感覚をおぼえる。

 その熱い血は、身体の感覚と、動きを取り戻させてくれた。

 微かに瞼を開くトーマ。

 自分が右手で掴んでいた者は、紅い果実。

 心臓のように鼓動する温かい林檎だった。

 膠着した白い世界は、急激に、水のように溶け、湯のように蒸発していった。



 周囲を見渡すと、大きく崩れた箇所のあるジェハノの城壁が目の前に広がっている。空は暗い闇で覆わており、東からは月のように見える昏い朝日が昇り始めていた。

 徐々に身体の感覚が鮮明になっていく。重く強靭な筋組織の安定感から、自分がまだ飛竜の姿なのだと判断した。ゆっくりと身体を起こす。

《何が起きたか、覚えてる?》

 ウェルテの声が意識の中に響く。

《ラルマが…大司教の首が刎ねて。そう、ジェハノの攻略が終わったと思ったら胸の辺りが光って…》

《それから、ティーフを除く五体の魔物の心臓に、魔力の循環を停止させる杭を打ち込まれたのよ》

《そうだったんですか…でも、それならどうして今、無事なんでしょうか》

 自分の厚く大きな胸元を見るトーマ、微かに傷が塞がれた痕が残っていた。

《ティーフのお陰よ、あの子が魔力の循環を必死に繋ぎとめてくれたおかげで戒めの杭の効果を減衰させて消滅させることができたのよ。みな生命、精神共に異常は無いわ、意識を取り戻したのはあなたが最後》

《よかった…後でティーフにお礼を言わないと》

《それは無理ね、ティーフの人としての肉体はもう存在しないから》

《どういう事ですか》

《ティーフの人としての肉体は界域の中に溶けて無くなり、その魂は完全に水竜の身体に回帰した。今は疲れて血潮の山の麓の湖で寝ているわ》

《そうですか…》

 うな垂れる飛竜。

《大丈夫よ、人の心が失われてはいないのも確認済みだし、今後に作戦に支障はないわ。それにティーフは喜んでた、“やっと本当の自分に戻れた”ってね。あなたも早く自分の領域に戻って、帰化を解除しなさい》

《わかりました》

 地を蹴り、両翼で空気を掴んで飛翔した飛竜は、昏い朝日の昇る東の空へと飛翔し、血潮の山の影を目指す。

 廃墟となり、蝕痕が徐々に刻まれ始めたジェハノを後にして。



 帰化を解除し人の姿で、蝕痕の張り巡らされた地下広間へと戻って来たトーマは、いつもティーフの使っていた締結器の前で佇んでいた。

 巻き取られた鎖は、途中で破断している。床に突き立つ十字がなんとなく墓標のようだった。黒い大きな蝕痕の結節は、いつもと変わらず魔力を溜め、そして循環させていた。

「死んだわけじゃない、ただ、元に戻っただけ…だよね」

「明日の朝。礼拝堂に集合」

 不意に、礼拝堂へ上がるための階段の前から声を掛けられ驚くトーマ。

「あ、はい」

 声の主は左目が大きな傷痕と共に潰れている少女、ネーヴェだった。残った右目は、獲物を狙うような冷たい鋭さを湛えている。後頭部で結われた少しクセのある髪は、獣の尾のように見える。

 用は済んだとばかりに階段を上がろうとするネーヴェ。

「あの、ネーヴェは自分が完全に、ただの魔物になってしまう事を怖いと考えたりしないんですか」

 思わず、トーマはそんな事を訊いていた。

「しない。私は、弱く不自由なだけの人間の身体に執着してはいないから」

 返答は間を置かずに返って来た。

「ネーヴェが…教会を敵に回す、この戦いに参加している理由があるなら、聞いてもいいですか?」

「教会という存在、教会が定めた全てを破壊したいから」

 ネーヴェはそう言い残し、階段を上がっていった。



 首都の地下に造られた、すり鉢状の広大な地下居住空間。

 今は人の気配で満ち溢れていたが、それに反して、この薄ら白い空間は、不気味なほどに静けさに包まれている。

 そのゆるやかな階段を子供が歩いていた。フードを目深に被った、白いローブ姿の子供、“代行者”だ。

「魔物共は、何らかの方法で“戒めの杭”を解き、血潮の山に向けて移動していった」

「聖体を一つ犠牲にしたのにも関わらず、魔物一匹すら仕留めるには至らなかったとは、失態だ」

 声はあどけなさの残る少年のそれだが、その口調は妙に大人びていた。その顔は目深に被ったフードのせいで、窺い知ることはできない。

「奴等が周囲の蝕痕から力を得ている事は、もはや自明だ」

「魔物共がジェハノに攻撃を仕掛けている間、いままで落された各都市の蝕が異様に活発だったという報告がある。おそらく何らかの方法で、教国全体の蝕から力を得る事が可能なようだ」

「都市を各個攻撃されれば、魔物に分があるのは止むを得んか」

 二人は一人一人順番に発言をする、まるで一人の人間が二つの人形に台詞を振り分けているかのように。

「魔物を狙うよりも、魔物に力を与える蝕を攻撃しなければ意味がない」

 互いに、顔を合わせる事も無く、淡々を会話は進む。

「ではまず、落された都市で成長を続ける巨大な蝕痕を浄化すべきだ、あれらは間違いなく魔物に力を与えている」

「何の為に今、多大な犠牲を払って大浄化の準備をしているのか?そのような大規模な蝕痕こそ、大浄化を以って一掃すればいい。それよりも蝕人の隔離都市であるベリダを調査すべきだ、都市への攻撃を終えた魔物は、血潮の山、及びベリダの周辺地域で必ず見失う、間違いなく何らかの関連がある」

 緩やかな階段を登り終えた二人は、大きな曲線を描く白い路を歩く。

「“処罰者エンフォーサー”を遣わすことができれば、調査などと言わず、確実に魔物を見つけ出し殲滅できるのだがな」

「準備は進めている。顕現に至るには、今少し時と人が足りない」

「魔物共の狙いは間違いなく、五つの聖体の破壊による、首都の浄化結界の除去だろう」

「まだこちらには一つ残っている、聖女の居るフィエンツが」

「よろしい、では私はフィエンツへの支援を」

「私はベリダへの視察、及び、引き続き“処罰者エンフォーサー”の準備を進める」

 細い路を歩む二人は、小さな居住棟のドアの前に辿り着いた。

 フィエンツへの支援の発言した代行者は、光の粒になって姿を消した。

 残された方は、目の前のドアを開き、中に入って行った。



 そこには、憔悴した様子のダニロが膝を突き、日輪を模した銀の円のシンボルに向かって祈りを捧げていた。かつての精悍さは、暗い翳に飲み込まれている。

 ダニロは代行者の闖入にも大きく反応することなく、特に畏まって対応する様子も見せない。

 そんな司教の様子も意に介さず、代行者は、ダニロの下に歩みながらおもむろに話し始める。

「私が君に会いに来た理由は一つ。君に選択をしてもらうためだ」

 代行者は懐から、白い光を湛えた丸い小瓶を取り出し、膝をつくダニロの目の前に差し出す。

「これは…?」

の一片だ。が込められている」

「大司教…の強い想い」

 茫洋とした顔でダニロは、言葉を反芻する。真っ白だった意識の中に滲むように言葉の意味を理解していく。

「飲み込めば、その力を君の者にする事ができる。拒絶するのか、受け入れるのか、選びたまえ」

 ダニロは代行者の小さな掌から、白い光を湛えた丸い小瓶をそっと取り上げ、眺めると。

 一息に飲み干した。

「平和を作り上げる者が、必ずしも平和的な心の持ち主とは限らない」

 薄らと見える代行者の口元は、微笑みの形を作っていた。

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