1-5 熱い血
翌日。
大岩の傍で眠っていた飛竜は首筋に痛みを感じて跳ね起き、反射的にその場所に噛み付こうとして、首をもたげ、口を開けた所で止まった。
《おはようトーマ》
飛竜の首筋には
《あ、おはようございます。ちょっと、痛かったです…》
《眠気を覚まして意識を安定させる薬。時間は限られてるわ、飛行しながら魔力の循環を維持する訓練、始めるわよ》
地上で集中し、主脈と周囲の魔脈の感覚から魔力の流れを掴み、そして飛行する。しかし、飛行しだすと途端に魔力の流れが、魔脈の感覚がわからなくなる。だめだ、飛行中のバランスを維持するのと、魔脈に意識を集中するのを同時にやろうとすると、どうしてもどっちかが疎かになってしまう。
《いきなり飛行しながらは無理ね。まずは地面を歩く所からやってみなさい》
《わかりました》
地上に降りて、魔脈に意識を集中する。今度は、意識は魔脈に集中しながら地上をゆっくりと歩行してみる。すると、歩行しながらでも、魔脈への意識が途切れないことに気づく。魔脈を意識しながら歩くのはそんなに難しくないんだ。なんというか、歩くことも魔脈を意識することも、それらを同時にやっているというより、自然にリズムを合わせているのだと解る。
《そうか、同時に並行的にやろうとせず、一つの流れとして考えるんだ》
魔脈の鼓動と、飛行のリズムを丁寧に合わせるようにやってみよう。速く飛ぼうとせず、とにかく一連のリズムを合わせてやること。
それを意識すると、徐々に上手くいくようになった。そして魔脈を意識しながらのほうが飛行が楽になっていることに気付く。
《良い感じです。なんだか飛ぶのがとても楽になりました》
《よろしい、その状態で蜻異種の後を追うテストをするわ。もちろん蜻異種は初日と同じ速度よ》
今度は蜻異種に離されることなく、速度を保ちながらルートを飛び終えることができた。
《魔脈の感覚と飛行については一先ず及第点といったところね》
《ありがとうございます》
《じゃ、続いて魔脈の濃淡を感覚する訓練に入るわ。循環器官がどのように成長分布しているかを把握できるようになるのが目標よ。周囲の魔脈の状況を広く大まかに把握することも魔物としての必須条件だからね》
《はい》
《魔脈を感覚しながら、自分よりも広い周囲の状況や状態に意識を向けてみて。丁度、耳を澄ますとか、景色を思い浮かべて俯瞰するとかそういう感じね》
紅い飛竜は薄い瞼を綴じ、暗闇の中で周囲の音に耳を澄ます、同時に魔脈の拍動や流れる感覚にも意識を向ける。すると、自分の周囲に巡らされた魔脈を感じることができた、更に蝕痕から赤い血管が浮き上がって見えるようになっていた。
《へえ、もう視認もできるのね。でもまだまだ狭いわ。今日は、飛行しながらでも魔脈の俯瞰ができるようになってもらうわよ》
《頑張ります》
飛竜は魔脈を感じるとる事に始終し、その日を終えた。
三日目の朝。昨日は食事を摂った後、飛竜は眠らずに一晩ただ身体を休めて意識を落ち着けていた。
魔物の肉体にいるときは魔力が体調のほぼ全てを左右する。今のように魔力の量や循環が十分な状況なら眠気や空腹は一切感じなかった。それに、ただじっとしているだけなのに退屈や不安な思いは沸かない、なぜだか妙に心が落ち着いていた。魔力の影響なのか、飛竜の身体が時間の感覚を麻痺させているのか、トーマにはわからなかった。
《起きてるわね》
《あの、ウェルテは蟲の魔物なのに、どうしてそんなに飛竜について詳しいんですか》
《別にあなただけじゃない、他の魔物の身体や特徴、得手不得手も全て理解してるわよ。私は今の六人の中では最も早くに魔物の肉体に帰化してるの、それから、ウィクリフと一緒に魔物の肉体を見つけ、管理するのを手伝ってたから》
《そうだったんですか。ウェルテも蟲の魔物の身体を操るための訓練とかをしたんですか》
《もちろんよ、人の身体でいる時では見えなかったものや知らなかった事が見えたり、聞こえたり、理解できるようになるのは純粋に楽しかったわ》
《僕も、今はそれと同じ気持ちです》
《それは重畳。じゃあ、あなたの攻撃手段、ブレスの訓練始めるわよ》
《ブレス…炎ですよね》
《そうよ、あなたの体内には炎を生成する器官が備わっている。まずは、魔脈を強く感覚した状態で、深呼吸してみなさい》
息を吸い、吐き出す時に、胸の奥から口腔へと熱い空気が伝わっていくのを感じる、事実、ゆっくりと吐き出した吐息は火炎を纏うものだった。これが、炎の吐息を出すということ。自分が炎を吐いているというのに、なぜか恐怖や違和感を感じない。それよりも暖かい火に親しみを覚えた。
《どんな感じ?》
《なんだか、熱い空気が胸の中から湧き上がってくる感じです》
《いいわ。じゃあ、次はその熱い空気を口の中で貯めてから、勢いを付けて、この岩に向かって吐き出してみて》
自分の全長程の距離にある二メルト程の大きさの丸い岩の上に蜻異種が止まっていた。飛竜は口腔に炎の溜め、勢いを付けて、その岩に向かって吐き出す。飛竜の口から放たれた小さな炎弾が一発、岩に当たり表面を少し焦がした。到底、武器になるとは思えないような威力だった。
《威力は…まあ、想像してたよりも話にならないわね》
《あの、どうしたら威力を上げられるんですか》
《まず炎を作る器官である“
《やってみます》
トーマは胸の奥にある温かい場所に意識を集中する。流れる魔力と身体が訴える本能が、それが炎の産みだす器官であると告げていた。
―ここに魔力を送り込む。
目の前の蟻の魔物に深く吸い込んだ息を吹きかけるが、熱風と、少しの炎が硬い殻の表面を撫でるだけだった。
―感覚は掴めた、胸の奥から熱を喉に流し込む感じだ。
もう一度、もっと集中して息を吹きかける。一度目とは明らかに異なる高温の炎が飛竜の口から吹き出される。蟻の魔物はピクリとも動かなくなった。
《よろしい、内部から焼かれて破壊されてるわ。次は、あの蜂異種が留まっている岩に向けて炎弾を放ってみなさい》
胸を膨らませ、飛竜の口腔から放たれた炎弾は先程より少し大きい。命中し炸裂すると、岩に卵の殻を叩いたような大きな亀裂を入れた、そして続く二発目の炎弾で岩は破砕した。
《流石、肉体を動かす事は得意なようね》
《はい、炎嚢とそれに魔力を送り込み炎の弾として放つ感覚は大体つかめました》
《でも、まだまだ魔力の使い方が甘いわ、たったあれだけのブレスで疲れすぎよ》
確かに、ブレスを撃つのは想像以上に疲労を伴った。このまま撃ち続けていれば、疲労で動くのもままならなくなるのは眼に見えていた。
《じゃあ次は飛行しながらブレスを撃てるか試してみるわよ》
何度か空を旋回しながらブレスを地面に向けて放ってみるが、どれだけ試しても岩の表面を焦がすだけで精いっぱいで、悪い時は地上にすら届かなかった。風を読み、空を飛行することと体内を意識し、ブレスを放つ。それぞれ個別にやるのなら問題ないのだが、同時にやるとなると途端に難易度が跳ね上がった。
《飛行しながら地上への攻撃もこなしてくれるのが理想だったのだけれど、難しそうね》
《同時にやろうとすると、どちらにも集中できなくなってしまって…》
《いいわ、今日は地上でのブレスの練習だけをしなさい》
《練習すればできるようになるかもしれません》
《あなたはここまで一足も二足も飛ばして色々な事を思いだしてきたわ、つまり、まだ基礎が甘いのよ。本来なら、少しづつ時間を掛けていけば、それらの応用や平行的な活用もできるようになるのだけれど、作戦の開始までにそんな時間はあるわけない。今はそれぞれ練度を個別に上げなさい、作戦に不安定な力は必要ないわ》
《わかりました》
岩だらけの山肌に降り立った飛竜は、終日、より高温の炎を体内で練り上げ、それを減衰しないように吐き出す訓練に没頭した。
四日目。
昏く輝く大きな月、即ち太陽は東の地平に見える。血潮の山の朝だ。トーマは一晩よく眠り、もう起きていた。
《今日もブレスの訓練ですか?》
《いいえ、あなたはこの短期間にも関わらず、よく成長したわ。最低限、作戦に参加できるレベルよ》
《あ、ありがとうございます…》
今更ながら、魔物として成長した事を褒められる事に複雑な気持ちを感じるトーマだった。
《私の指導はこれが最後。今から魔脈への干渉、操作の方法を学んでもらう》
《干渉や操作なんてできるんですか…難しそうですね》
《ええ、難易度はちょっと高いかもね、でも今のあなたなら、もう十分できるはずよ》
《まだ感覚するだけで精いっぱいです》
《嫌でも感覚してるだけじゃいられなくなるわ。ついてきて》
ウェルテの
《ここはなんだか寒いですね。息がしにくいというか…そう、周辺に魔脈が全然通ってないです》
《その通り、ここは魔脈がほとんど巡っていない魔力的に疎な場所なのよ。ここからさっきいた場所まで飛行して戻って来る事、それができれば魔脈の干渉、操作の訓練は終わりよ》
《え…たったそれだけ?》
《ただし、ここで私の麻痺毒を受けた状態でね》
三匹の
《痛ッ!…な…どういう…》
飛竜の巨体はその場に崩れ落ちる。
《魔脈への干渉、操作はもう口で教えられるような代物じゃない、文字通り身体で覚えてもらわなければ決して理解できないのよ。安心なさい、十時間経っても来なかったら解毒剤を射ってあげるから》
《そんな…身体が全く、動きません…これじゃ、どうしようも》
《そうかしら、あなたの魔力はまだ動いてるわよ。じゃ、頑張って》
《僕の魔力…?》
ウェルテからの返事はない、後は自分で考えろということらし。今までどうしても上手くいかない時はウェルテの助言や指示があったのに、それが無くなると途端に不安や心細い思いが沸き上がる。
《こんなの、どうすれば…》
このままここで寝ていて、ウェルテの蟲が助けに来てくれるんじゃないか、そう諦めそうになるくらい身体はピクリとも動かない。
《でも、ウェルテの言う通り身体は動かないけど、魔力は循環している》
飛竜の大きな心臓は一定のリズムで鼓動し、全身に魔力と血を行き渡らせている。でも、どうすればいい?身体は不自由でもトーマの思考は妙に鮮明だった。
そもそもこれは魔脈への干渉、操作の訓練のはずだ。ならば、魔脈へ干渉、操作することが状況を打開する方法のはず。魔力は人の意志、精神の核、魂によって動いているとウィクリフは言っていた、ならば、魔脈もまた同じように人の意志によって動くんじゃないだろうか…もっと大量に循環させることができれば…。
周囲の魔脈に意識を移すと、すこし離れた場所に、太い魔脈が通っているのを感じる。自分のすぐ傍の枯れ木の根元にある、この小さな結節と、あの太い魔脈を繋げることができれば、ここに魔力の流れを持って来れるかもしれない。
《魔脈よ繋がってくれ、僕にもっと魔力を…!》
トーマは祈り、願う。飛竜の傍にあった小さな結節を中心にして、魔脈は広がり、成長を始めた、そして、いくらかの時間を経て、ついに太い魔脈に繋がった。徐々に魔力の循環量が増える。
《よかった。やっぱり、魔物の思考や願い、意志みたいなものはこの魔脈に通じるんだ》
飛竜は大地を踏みしめ、何とか起き上がることができた。脚と両翼に力を込めようとするが、思うように言う事を聞いてくれない。
《だめだ…飛び上がることなんてとてもできない、歩くのがやっとだ…。もっと強い…濃い魔力があれば》
今までの訓練で、場所によって魔脈に流れる魔力に多少の濃さの違いがあるのはなんとなくわかっていた、太い魔脈がある場所まで歩いて行ってみようか。だめだ、ウェルテは飛行して戻って来いと言っていた…。
それに、魔力の濃度が多少高い程度では、きっと飛行できるほど麻痺を抑えることはできない。もっと劇的に肉体の能力に作用するくらいの濃度の魔力でなければ。といっても、どうすればそんな高濃度の魔力をここから動かずに得られるのかわからない。
《そういえばウェルテが訓練で一度、結節を成長させる所を見せてくれたことがあったっけ…》
蜂型の蟲が結節を成長させ、そこから得られた高濃度の魔力を蟻型の蟲に送り込んで、たかだか数十センテ程度の身体の蟻型の蟲が、数メルトはある岩を持ち上げてみせたんだ。
《あの時は確か…ただ魔脈や結節を成長させただけじゃなくて、その後、更に結節が赤い別の器官に変異していたような…》
きっとあの器官が、魔力を高密度に圧縮して送りだすものなんだ。でもどうすれば、この結節をそんな器官に変異させられる。さっきみたいに、集中して祈るトーマ。
《変異してくれ…!》
しかし、変化する気配ない。
《だめだ…たぶん意志だけでは、結節を変異させるには不十分なんだ…もし、言葉や意志だけでは不十分なら、もっと具体的な行動をしたほうがきっと強く伝わるはず》
具体的な行動。循環。魔力。血液…。
《…そうだ、僕の血を与えてみよう、魔物の血は高濃度の魔力体だ、結節に直接僕の血を触れさせれば何か変わるかも》
己の腕部を牙で軽く切り裂く飛竜。翼爪から、血を結節に向けて垂らし、同時に願う。
《結節よ、より高濃度の魔力を産みだしてくれ!》
すると、少し遅れてゆっくりと黒い結節が脈打ち、膨れ、赤い半透明な半球状になった。
《やった…!》
その変異した小さな赤い半球の胞から、高濃度の魔力が送られて来る、まるで熱い湯を腹の中に直接送り込まれているかのような感覚だった。
《すごい、麻痺していたのが嘘みたいだ。力が漲る、思い通りに動く、これなら…!》
両翼を羽ばたかせ、飛竜は軽やかに空へと飛び立った。両翼を空気の流れの上に乗せ、滑るように、昏く輝く微かな陽の光を頼りに暗い血潮の山を飛行する。眼下が岩場になる、柱のような大岩が見えてきた。
《あと少しだ》
しかし、身体から高濃度の魔力が急速に失われていくのをトーマは感じていた。誤魔化していた身体の麻痺が戻ってくる。
《だめだ…このまま無理に飛行していると墜落する》
飛竜は地上に降りて、歩くことを選択する。そして、高濃度の魔力が失われないように鼓動を落ちつけながら、ゆっくりと岩を踏みしめ歩き。なんとか柱の大岩にたどり着いた。
柱の大岩には一匹、
飛竜の身体から違和感が消え、麻痺していた感覚が全て元に戻っていった。
《焦って飛行していたら、そのまま落ちて気を失っていたわ。よく冷静に歩いて来たわね》
《はい、落ち着いて歩きながら魔力を循環させれば、絶対にたどり着けると思ったので》
《上出来よ。私の基礎訓練はこれで終わり。お疲れ様、じゃあ帰化を解除しなさい、これ以上魔物への帰化を持続すると人の姿に戻った時に支障が出るわ》
《そういえば、帰化の解除はどうすればできるんでしょうか》
《魔物に帰化とした時の逆をするだけよ、眼を閉じて、人の姿、人の感覚をよく思い出すだけ》
《わかりました、やってみます》
柱の大岩の傍らで紅い鱗の飛竜は身体を横たえ、その両眼を閉じた。急激に、眠気が襲ってくる、靄がかかり始める思考の中で、トーマは何とか人であった時の姿や感覚を思い出そうとしていた。
《人の感覚ってどんなのだったかな…》
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