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 新は弾む呼吸を正しながら、4台並んだ改札機のひとつにICカードを押し当てた。軽快な電子音と共に、緑色のとおせんぼが勢いよく開いた。


 毎日のように駅までの距離を急いでいるせいか、中学時代に部活動で培った体力はまだ生きているようだった。フットサル同好会とは名ばかりのゆるい集団に所属する今となっては、運動など授業と自主トレーニング以外にする機会も必要もなくなってしまっていた。


 駅にホームはふたつあった。学校方面、すなわち街中へ向かう下り列車のホームは改札の反対側にあり、そのため下り線の乗客は階段のある連絡通路を渡らなければならなかった。エレベーターもあることにはあったが、その短さゆえ健康な身体ならば階段を使ったほうが早かった。田舎ではないにしても、地方の住宅地に与えられる駅といえばそんなものである。


 対岸のホームに降り立った新は、電車の到着まであと数分あると知って、いつもの乗車位置に並びベルトを締め直し、衣服のずれを整えた。上りの電車が左から右へ通過していった。


 (間もなく、2番線に、下り列車が参ります。危ないですから、黄色い線の内側まで下がって、お待ち下さい)


 アナウンスの声に紛れて、がちゃがちゃ、ばたばた、という騒々しい音が耳朶じだを打った。ソックスを引き上げていた新が顔を上げると、周囲より一回り大きな人影がこちらに歩いて来るところだった。


 「やべえ、あっつう!」名織康弥なおりこうやは、野球部の練習着とグローブとで膨れあがったエナメルバッグをどすんと落とし、さらに繰り返した。「あっつう!」


 身長180センチ台、筋骨隆々、ソフトモヒカンという、いかにも体育会系らしい風貌の彼からは、意外にも柔軟剤のフローラルな香りがした。一方、新はにやにやしていた。


 「危なかったな」


 「セーフ、セーフっしょ。さすがに始業日遅刻はつらいって。寝坊しても諦めなかった俺を褒めたいね」


 エナメルバッグを再び担ぎ上げながら康弥が弁明した。電車が構内に進入してきていた。


 「俺もひとのこと言えないんだけどさ、康弥はあと2年で早起きのプロにならないと、さ。厳しいんでしょ、警察って多分」


 ホームを吹き抜ける風に列が身じろぐのを待って、新も肩にバックパックを掛けた。


 「なんじゃね。逆にそうじゃないと悲しいわ」


 ふたりは車両に乗り込み、奥の閉じているドア近くにスペースを見つけて歩み寄った。朝8時過ぎの車内は、満員とはいかないまでも混雑していた。発車のメロディが流れる。


 「てか、その寝癖すごいな」


 「え?」発車メロディが気になったのか、他所を向いていた康弥はこちらに耳を寄せて聞き返した。「ごめん、もっかい」


 「ね、ぐ、せ。後ろの」


 新は自分の後頭部を示して言った。電車が動き出す。


 「うそ、まじかよお」後頭部をまさぐった康弥は、何か酸っぱいものでも食べたような顔をして呻いた。おそらく仰向けで寝ていたのだろう康弥の後ろ髪は、くっきりと上下に分かれていた。さながら分裂直前の染色体である。さもなくば上から見たアサガオの双葉でもいい。「俺も朝風呂にしてみっかなあ」


 「その分早く起きなくちゃいけないけどね」引っ張れば目まで隠れようかという長さになっている前髪を指で払いつつ、新は笑った。「冬は寒いし」


 「そりゃそうだわ」少しの間考えて、康弥は小さな嘆息をついた。「あと授業始まる前に水道でばっしゃーってしよ」


 「ワックスとか、あー、でもだめか」


 「なんで?あ、校則か」


 「いや、やりすぎなければ言われないとは思うけど、その前に康弥のは固形のやつだったもんね。多分ムースじゃないとその垂直抗力には勝てないと思う」


 「え、新が使ってるのって、その、ムースなんだっけ。持ってないのかよ」


 「たまにしか使わないから無い。基本風呂上がりにタオルで拭いてオイルなじませてそれで終わり。自然乾燥が一番いい感じに癖が出るんだよね、髪質的に」


 「髪質とか、考えたこともねえからね、俺。さすが、バンドをやりかけた男は違うな」


 「そうなんだよなあ。いや、でも、あれは仕方ないって。あれは俺みたいな奴が中途半端にやっていい世界じゃない気がする。中学とかから真剣にやってる奴らに失礼だわ。俺はプログレッシブを聴ければそれでいいや」


 「あれは?なんだっけ、シュ?新が前に好きって言ってたやつ。シュ」


 「シューゲイズ?」


 「そうそれ。それはもう聴いてないの」


 「ううん、聴くよ。聴くけど、テンションが上がるのはプログレッシブとかサイケの要素が入った曲なんだよね、個人的に。それとパンク。全然関係ないけど」


 「分かんねえー。俺の頭がパンクするわ。そんだけ知ってたらできんじゃないの、バンド」


 「実際にやるのと聴くのは違うよやっぱり。この知識だって、バンドやろうとした時のベースの野郎の受け売りだもん。あ、もういっこ思い出した、エグいジャンル」


 「へええ。なんてやつ?」


 「ディス・イズ・ポエムコア、さ。ミスターナオリ」


 ほんのりうるさい雑談は、3駅先まで続いた。


 

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