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 「始めよう」


 気がついた。携帯がわめき散らしていた。灰島新は冷たくなった口元のよだれを拭いながら、ベッドの下に放られた携帯に手を伸ばした。少し迷って、スヌーズ機能ごとアラームを切ることにした。思考は不明瞭だったが、起き上がる自信はあった。なにせ、今日は始業日なのだ。


 半分眠ったまま自室を出、階段を降りていくと、朝食の匂いがした。鼻腔びくうをくすぐるイーストの香りだった。パンの日だろうか。米好きの古風な父が家を空けていることから考えても、間違いなさそうだ。


 リビングには入らず、匂いから遠ざかるように風呂場へ向かった。一度面倒がって次の日に回してからというもの、すっかり朝風呂が習慣づいてしまっていた。以前は就寝前のあぶらっぽさが許せなかったのが、今では外出前の脂っぽさが我慢ならない。


 夜更かしのツケを支払った結果、未だにほうけている頭を抱えながら、新は風呂から上がり、歯を磨いて、便所にもり、制服に着替えを済ませた。そうしてリビングに入る頃には、妹の伽那かなも起き、食卓にひとりぶん残されたトーストは常温に戻っていた。


 おはよう、と誰彼なしに呟き、新はバタートーストの隣の「焼いたロールパンにタマゴサラダとサニーレタスを挟んだやつ」にかぶりついた。レタスはおそらく、パンを一通り平らげた伽那が手にしているボウルの中身と祖先を同じくしていた。こちらの献立にはない皿である。だからといってそこに家庭内格差がある訳ではなく、あるのは落ち着いてサラダにありつく時間を作れない息子のだらしなさだった。


 ダイニングテーブルの横に立ったまま、いつのまにか現れたミルクでロールパンを流し込み、続けてトーストを一口かじった。萎えて安いウエハースのようになった生地が、気の抜ける音を立てた。


 「ん、食べごろだな」


 「自滅でしょ。自業自得」


 朝のニュースから目を離さずに、テーブルの向こう側に座る伽那が言った。


 今日び、ニュースはどの局をかけても代わり映えのしない特集ばかりを組んでいた。総理大臣が替わって新しい内閣が発足するとか、厳罰化の影響で主犯でない少年Aまで死刑になったとか、そういう報道である。重大な出来事なのは承知だったが、この局の、昨夜の番組と違うコメンテーターが同じ趣旨の感想を述べるさまに、新は内心退屈していた。それを伽那はまじめくさった顔で注視している。


 「ニュースなんか見るんだっけ、この人」


 顔の見えない台所の母からは、座って食べなさいよ、と要らない返答だけが返ってきた。伽那も声を上げた。


 「うるさいなあ。別にあなたには関係ないでしょ」


 「さすが、中学生」


 新は大袈裟に褒めちぎってやった。この間までの「お兄ちゃん」は最近になって「兄貴」または「あなた」に降格しつつあるらしい。伽那の中で、自身の向上は兄の低下を意味しているのかもしれなかった。伽那は今日が入学式だった。


 「お母さーん、お兄ちゃんがうざいー」


 これである。初めての制服に身を包み、適当に伸ばしていた黒髪を左右に垂れる三つ編みに整えた伽那の一瞥いちべつは、日に日に鋭さを増していた。輪郭のはっきりした高い鼻といい、お手本のような二重といい、ただでさえ大人びた顔つきが、進学を機にいっそう凛々しくなって見えた。兄妹という贔屓目ひいきめを抜きにしても、美人顔の部類だろう。あとは、成長と共に変な崩れ方をしないように祈るだけだ。


 「新もほら、早く行かないと遅刻するんじゃない」


 母の声に、見上げた時計を新は二度見した。すでに7時半を過ぎていた。睡魔が体内時計を狂わせたようだった。


 「うーん、まあまあかな。まあまあ」


 結局いつも通りの時間になってしまった。残りの朝食を小急ぎに飲み込み、新は自室で教科書類をバックパックに詰め、洗面所で髪をでつけ、玄関で黒革のローファーに足を入れた。


 さて、忘れ物はないだろうか。いや、まあ、ないということにしておこう。


 「いってきます」


 母の返事を遠くに聞きながら、新は玄関の扉を押し開けた。山吹色が正面で弾け、まぶしさに目の底がじんと震えた。始業日を演出する、清々しい陽気だった。


 「なんか、忘れてる気がするんだよなあ」


 呟き、それでも駆け出した新の脳裏を、幼い記憶が掠めて過ぎた。俯瞰ふかんした自分を、失踪した兄の最後の姿と重ねていた。


 でも、そうじゃない。忘れている気がするのはもっと別なものだ。もっと差し迫ったもの。そもそも、兄の記憶が頭から離れたことなどないじゃないか。


 春一番とも思える風が、一人芝居を散らすように強く吹いた。ともかく10分ほど、駅まで駆け足をしなければならなかった。


 

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