3

 


 駅から学校までの距離はそう長くない。せいぜい歩いて15分弱といったところだった。いつもと同じ電車に乗ったのだから、いつもと同じ時間のはずだ。分かっていながらも、早歩きの新は携帯の電源を入れてチェックした。8時16分。念のため、走ったほうがよさそうだった。今日は始業式の移動もあるはずなのだ。考える間に、数字は17に変わった。


 「走るか」


 バックパックを片方の肩に預け、新が駆け足を始めると、斜め後方から非難の声が飛んだ。


 「ええっ、走んのかよ」


 「走って損はないだろ」


 康弥がこの時間に登校するのは久々だから、感覚を忘れているのだ、と新は思った。歩いても間に合うと考えて油断していると、信号につかまったりしてあとあと焦る羽目になる。


 「いや、損だって……」


 「先行って待ってる!」


 やっと早歩きを始めた康弥に向かって、新はさわやかに通告した。じゃあ、と手で言い、心を鬼にして走り出した。バックパックも、午前授業の重さならマラソンの邪魔にはならなかった。


 道なりにまっすぐ、信号三つと小さな橋一つを越えるまでに、コンビニと整体院が過ぎ、拉麺屋とブティックホテル、駄菓子屋が過ぎ、音楽教室、魚屋、バス停、パン屋が過ぎた。三つ目の信号を右に曲がれば、校門はすぐそこだった。


 携帯を見る。8時22分。まずまずのタイムだった。信号の巡りも良かったので、あまり息は上がっていなかった。


 「上出来……」


 満足げにひとりごち、顔を上げると、他の生徒たちの合間に、ひときわ目を惹く牝馬ひんばのしっぽがしなやかに揺れているのが見えた。新は吸い寄せられるようにして、透き通った栗色をしたポニーテールの彼女に近付いた。


 「よう」


 何と声をかけるべきか、一瞬のためらいはあったものの、結局、ちょっと気取っていて、さっぱりした、いつも通りの感じに収まった。数少ない経験から、余分なことを考えた時ほどろくなことにならないのは知っていた。


 「え、わあ!びっくりしたあ」嘘か真か、仁科柚にしなゆうは、わざとらしさのない絶妙な塩梅で驚いてみせた。彼女は立ち止まり、すぐにイヤホンを外しながら、おはよ、と笑った。「あれ、今日は寝坊しなかったんだ?」


 「えっ。まあ、一応ね」即座に返された問いに新は少しどぎまぎして、揃えられた前髪の先に潤むその目を見ていられなくなり、無意味に背後を振り返って言った。「今日も走ったけど」


 康弥の姿が先刻右折した交差点のあたりに見えた。なんだかんだ、後半は走ることにしたらしい。直線に入ってこちらを認めたのか、康弥は手を低く上げた。


 「つらーっ。もうひとつ前の電車で来たらいいのに」


 うっすらと日に焼けた腕を伸ばして康弥に応えながら、柚は苦笑いを浮かべて言った。ピンクの唇を横に引いて、はにかむようにするのが彼女の笑い方だった。


 「いやその数分の繰り上げがどんだけ難しいか、多分わかんないよ、柚には」


 「えーなんで、分かるよー、分かるけど……」


 「早く起きたらその分早く出れると思うでしょ?出れないのが俺だから」


 威張って言うことじゃないだろ、と新は心の中で自分に諫言かんげんした。


 「えー、うそ」


 柚が言葉を繋ぐ前に、康弥が追いついてしまった。


 「あっつ!」鼻の下の汗を気にしながら、康弥は新を見遣みやった。「こいつマジで酷いからね。荷物少ないからって」


 再び歩き始めながら、柚は楽しげに笑った。


 「うわー、ひっどおー」


 ふたりに続いて康弥も校門を抜けた。8時25分。予鈴が鳴り、急ぎ出す生徒が増えた。3人も上履きに履き替えてそれぞれ新しい教室へ向かった。柚と康弥が4組、新は6組だった。扉が開きっぱなしになっている6組に入り全体を見回すと、クラスメイトの姿はまばらなかわりに、黒板にでかでかと書かれた「始業式」「8:40〜」「出欠は体育館」の文字が目についた。


 「おはよう、新ちゃん」


 2年目も同じクラスになった、前の前のさらに前の席の沼田だった。沼田もちょうど荷物を置いたところだったようだ。


 「おはよう」


 「急いだほうよくね。いくべ」


 「だな、行くか」


 「もっさんとエグチもいくべ!」


 沼田は教室を出る間際、教壇近くで雑談中のふたりにも声をかけた。沼田と江口はサッカー部の仲間だった。と、ここで江口の返事と同時に、8時30分をしらせるチャイムが響いた。これを待っていたのか、森と江口も弾かれたように廊下に出てきた。


 「いやあ、今年も始まりましたよ皆さん、1年が」


 全校生徒約1000人が集う体育館へ急ぐ途中、集団からひとり歩み出て、沼田は仰々しく言った。この男には、朝の憂鬱という感覚がないらしい。


 「おっ、一体何が始まるんだ?」


 新の背後から、江口の棒読みに近い期待の声が上がった。沼田は昨年度の生活で、言動が受ければ笑われ、すべっても笑われるという、おいしいポジションを確立していた。沼田の頼りなげな表情から、今回は恐らくすべるほうだな、と新は直感した。何の用意もないのに、勢いだけで発車してしまったのだろう。


 「いやいやいや、期待されても困るから。今日の俺は真面目にいくから」


 沼田はおどけた顔で息を吸って、廊下に響く張りのある声で叫んだ。


 「楽しい楽しい高校生活!老いてはかえらぬモラトリアム!さあさあ皆さん2年生!今年も〜、ここから〜」


 

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