16
外の景色に反して、車中には動きがほとんどなかった。ショウジと言ったか、助手席の男と、運転手の男がこれまで発した言葉といえば事務的な二言三言程度で、イヤホンをしたマネキンが2体そこに置いてあるかのようだった。時折、ショウジは身に付けたハンズフリーに向かって事務的な二言三言を吹き込んでいたが、内容はよく聞き取れなかったし、そこで
新はひどく疲れていた。今朝までの機械的で汗臭い
「すみません、トイレ、どこかで……できませんか」
返事はない。聞こえているのかいないのかさえも定かでなかった。新の声帯は今日最初の長丁場をぎこちなく終え、小さな咳払いを残して再び沈黙した。運の良いことに、尿意もそれに
新は、後ろ手に拘束された腕が
いや、それはさすがに安直ではないか。「あなたを殺します」と宣告されたのだ。この状況でそう考えていられたらどんなに良いだろう。くそ。くそ。
車は橋に差し掛かったようで、窓外を異様に高く造られた
「まもなく到着です。執行官は監督官の指示に従わなければなりません」
唐突にショウジが声を発した。しかし言葉の大半は
「え、あの、執行官っていうのは、なんですか」
またも返事はない。新は、ショウジが「監督官」と名乗ったことを覚えていた。「執行官」ではない。今の言葉もこちらへ向けられたものに聞こえた。おれのことを「執行官」と呼んだ?
思う間に橋は終わり、点在する街灯をいくつか過ぎた。そして、しばらくぶりの対向車が1台。シート越しにショウジの影が身動きした。やがて車は山間の国道を脇に逸れ、路上に散乱した枯れ枝や砂利石を踏む音と共に停車していた。
あれ、と新は声を出しかかった。目的地ではないらしい。
前方は行き止まりになっていて、フロントガラスの先に舗装の途切れた道を塞ぐ鎖が照らし出されて見えた。そこにぶら下がった看板の警告は「立入禁止」である。また、新の数メートル左に並ぶ看板は赤地に白い文字の「銃猟禁止区域」と、退色したリスのキャラクターが描かれた「山火事注意」である。後方の国道と合流する地点には「その他の危険」のエクスクラメーション・マークもあった。
ショウジは改めて通信先、そうでなければ運転手に何事か呟いたのち、車を降りて外から後部座席のドアを開け放った。もしや、また別の車に移らなければならないのだろうか。
「執行官は、降車して監督官の後に続かなければなりません」
短い沈黙。新はショウジの人相をやっと認識した。昔ならロンパリと言うのか、つまりは斜視の男であった。そのショウジも運転手も、再びマネキンのようになって動かない。このまま自分が動かないでいれば、いつまででも沈黙が続くのではと思われるほどだ。
もしくは、強制的に従わされる。新は降車し、歩き出したショウジに続いた。それ以外の手立てはついに思い付かなかった。
近付くと、風化した「立入禁止」の看板には小さく「私有地につき」とあった。が、ショウジはそんな文言など見向きもせずに、鎖を
みるみるうちに一変した。車内から見えた周囲の様子は、管理された広い道路を背にしていることもあってか、さほど深くない雑木林を新に想起させていた。しかし明かりが失われるにつれ、枝葉は
夜と同じ色の喪服を見失わないよう、新は懸命になって土を踏んだ。枝や茎、蜘蛛の巣や羽虫を払うためには腕を使う必要があったが、尻の辺りで手錠が擦れて鳴るばかりだった。少しして、見失いつつあったショウジがいるはずの前方から、別の金属音が鳴った。同時に薄弱な黄色味がかった光も点灯した。頼るべき音と光のもとへ急いだ新は、木々の間を縫って左右に延々と続く、錆びきったフェンスの前に飛び出していた。
高さ4〜5メートルはあろうフェンスの頂上には非常に刑務所的な有刺鉄線が光り、網には目の高さを中心に点々と、その内外から言語もまちまちな警告文が結び付けられている。新が全景を認めるまでに、懐中電灯を手にしたショウジはフェンスの一角に造られた扉の南京錠を解き、さらに奥へと
道はいっそう道らしさを失って続く。階段と呼ぶにはあまりに粗末な石片の足場を、新は斜面に突き刺された金属棒とその間を渡る
「速やかに房へ向かいます。通常は照明が点灯しています」
言いながら、ショウジが土臭い地面を懐中電灯で示した。他は見渡す限りの真っ暗闇である。ただ一つ、遥か右方俯角気味に人工的な灯りが白っぽく見えたが、何の光かまでは判らなかった。示された道のりを行くうちに、光は進行方向に移動した。
房まで続くとされる道は決して広いとは言えず、凹凸と、草や泥の塊が足の裏を
1年ほど前、織田が教えてくれた父の死因は自殺であった。
「到着です」
ショウジの声が立ち止まったので、新も立ち止まった。が、白い灯りは近づいてこそ来たものの、依然として遠くに見えたままである。ショウジがこちらの背後へ回り、二重になった鍵の一方を解錠しながら言った。
「以後執行官は、手錠の前面拘束が許可されます。開錠後は速やかに両腕を」
ふうっ、ふふううっ。
強い衝撃が加わり、身体が横にすっ飛んだ。ショウジが突き飛ばしたのだ。
「ううううあ!!」
寸前まで目の前にあった暗がりから腕をめいいっぱい振り上げた男が現れ、ショウジに向かって突進していった。一心不乱の様子で手に持った何かをショウジへ叩きつけようとする。
「ああ!ふ、うううっ」
ごきり、と骨肉が鳴り、突進男は蹴り潰された左の
パン。ショウジが腕を放すと、男はそのまま
ぱっ、と視界に光が差した。その眩しさへの順応が始まると、次第に眼前の施設の姿が明らかとなった。木造2階建てのボロアパート。目に映る印象だけで言えばそうなる。ショウジは、上階へ向かう階段のそばで電球の光を受けて立っていた。電球のほかに通路を示す蛍光灯が点いていることから見ても一応の管理はされているらしいが、この世の熱を感じないその外観はまさに廃墟であった。
「どうぞ、こちらへ!」
廃墟と
「行けって、ことですか」
「執行官はこれまでと同様に、独房内および部落内にて刑の執行まで待機しなければなりません」
部落、とは確か集落とか村とかそういったものとほぼ同義ではなかったか。やはりここはフェンスの内側に掲示された看板の通り「通常法規適用外」の「
「いまの……あれ、もういないですよね、ああいうの」
人ひとりが目の前で死んだらしいというのに、新にはその実感がなかった。それよりも、我が身に危険が及ぶのかどうかが問題であった。見ず知らずの人間が訳の分からない死に方をしたところで、いつぞやのランニングウエアがトラウマのように思い出される程度なのだ。
「ええ。当面は」
なぜか気味の悪い薄ら笑いを浮かべながら、ショウジは初めての返答をした。その言葉に飲み込めない何かを感じながらも、「部屋」というものを間近にして蘇った尿意と疲労から、新は
「これ、どこに入ればいいんですか」
振り返るが、階段の下にショウジの姿はなかった。見回してみても、生きているものの姿はどこにも見当たらない。死んだ男の姿すら、ほとんど闇に溶けてしまっていて判然としない。進むほかないのだ。
可能な限り死の恐怖から離れるため、新ははじめに階段から最も遠いドアノブを回そうとした。ところが、何かに引っ掛かって動かない。鍵がかかっているのかもしれなかった。仕方なしにひとつ隣のドアノブを引いてみると、どうやらこちらは開くようである。
開けて、新は思い知った。間違いなく、ここは独房だったのだ。どこからかぬるい風がやってきて、住んでいた誰かの汗と脂と涙の臭いを顔じゅうに吹きつける。
手元の突起を押し込むと奥の天井から垂れ下がったオレンジ色の電球が点き、便所と浴室らしき設備が居室とは別に、より出入口近くにあることが分かった。拘置所の独房よりも間取りに余裕があり、見える居室もさほど狭いものではない。が、その代わりに、目に入るもののほとんどがその耐用年数を数十年単位で超過したような有様だ。
畜生。
新は鍵の壊れたドアを閉じ、嘔吐に似た嘆息をつき、土足のままで反りかえった床板を踏んだ。糞尿飛び散る和式の便所でようやく用を足し、居室の隅のささくれ立った
おやすみなさい。などと呟くこともできずに、新は気絶のごとく思考を失った。
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