15

 


 名織康弥と仁科柚は並んで溜め息をついた。一方にいたっては、背後へ向けて下品な手つきをしようとさえ考えた。ふたりの後方、住宅地を貫く大通り沿いには、それ自体が有刺鉄線つきの塀を思わせるコンクリートの建造物がそびえていた。


 「なんか、納得いかないわあ」拘置所を横目にめるようにして康弥が言った。「『今日は既に弁護人の方が面会されたので』ってさあ」


 「織田さんだっけ。いつも助けてくれてる人」


 「今日の『弁護人』が誰かは分かんねえ。面会が1日1回なのは知ってるけど、忙しい柚がせっかく来れたのに……」


 「あたし? あたしは全然! 週末は大学ないからバイトとサークルくらい。あ、あと、LINKかな。康弥のほうが、学校大変なんじゃないの?」


 相変わらず、強烈な眼差しだ。康弥は一度行く手に視線を逃した。


 「全然。楽勝楽勝」


 「えー、ほんと?」


 「ほんとほんと。警察学校って週末は家に帰れるようになってるから」


 「あ、言ってたっけ、そういえば。でもあたしなんかよりは絶対大変だって」


 「そんなことねえよ。それにまた言ったべ」


 「え?」


 康弥は常々感じていた違和感をぶつけることにした。昔からそのきらいはあったが、3年前を境に拍車がかかっていた。


 「いや、その『私なんか』っていうやつさ、増えてるの気付いてたか?」


 幸か不幸か、ちょうど信号が赤に変わったので、頭ひとつぶん背の低い柚の上目遣いは逃げ道を奪う形でこちらへ向いた。


 「えー、うそ、いつから?」


 一瞬、今度は柚が前方に目を泳がせたが、いつもの調子は崩れなかった。康弥にとって想定外だったのは、苦悩を寄せつけないその笑顔が無性に愛憐あいれん愛恋あいれんの心を苛立たせたことだ。康弥は早くも自らの不用意な発言を後悔し始めていた。


 「新が捕まってからだよ。柚は何も悪いことしてないんだから、自信持っていいんじゃねえの」


 「そんなことないよ。なんかその言い方だと、新が悪いことしたみたいだし」


 康弥は焦った。本人はもちろん、他人を傷付けないために柚が四六時中身に付けているテラシた面を、自分はたった今引き剥がしつつあるのだ。


 「違うって。大事なのはそっちじゃなくて柚がちゃんと頑張ってるってとこだろ? 学校とかバイトとか」


 「『あたしなんか』より大事なのはそっちなんだけど。だってもうすぐ死んじゃうかもしれないんだよ、 あたしがもっと利口だったらこうはならなかったかもしれないのに」


 「え? どういう意味、それ」


 いやな瞬発力が働いた。康弥の頭に柚と新の異性的なもつれがイメージとなって浮かんでくる。


 「あたしも悪いことしたって意味。渡らないの」


 2回目の青信号が点灯していた。通行人の目も気になり出していた康弥は先んじて歩を進めた。


 「いつの話だよ」


 「……康弥、あの日、帰っちゃったでしょ。あの後、あたしが、原因で新とケンカ別れ、みたいな感じになっちゃって、まだ謝れてなくて」


 柚はどこか遠い一点を見るようにして、ひどくたどたどしく言う。


 「新の様子も少しおかしくて、だから、って思い付いちゃったんだよね、あり得ないことなんだけど」


 喧嘩の仔細しさいを知りたい康弥ではあったが、口がそれ以上の追求を拒んだ。教えたくないから言わなかったのだろう、そう勝手に解釈した。


 「でもそれじゃあなんか、そういうきっかけがあって新が事件を起こしたみたいな」


 ああそうか。事件と後悔が結び付いてしまった柚は、その心残りを抱えたまま現状との矛盾に悩んでいたのではないか。


 「いや……そっか、ごめん」


 ようやく柚の執着の具体を見た気がした康弥は、自分の単細胞を謝ることしかできなかった。柚はかぶりを振って、口元だけではにかんだ。


 「あたしこそごめん、でも信じてるのは本当だから。新が何もしてないって。それは本当」


 「それは、俺もだ」


 「多分、今はもうあたしが勝手に気にしてるだけなんだよね。あの新を見てたら、今更引っ張り出せなくなっちゃった」


 その横顔は刺激したばかりの男の情念を既になだめ、こめかみから後頭へ作られた流行りの編み込みと、ほんのり色づいた、弾力を予感させる素肌は、康弥に鳩尾みぞおちのざわつきを自覚させた。利己的欲求の昂進。編み込みの上から垂れたポニーテールが、栗色のカールに春の空気をはらんで揺れている。


 「今日。今日このあと夕方からLINKのミーティングなんでしょ、それまで何か、3時のおやつ行こうぜ」


 不思議と罪悪感はなく、かわりに、肥大した責任感が康弥の背を押した。あの日のことは、柚という女にかけられた呪いなのだと、そう思った。


 

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