第十三話

 夕闇が迫るなか、駅から自転車をとばして三十分。花城バッティングセンターにやってきた俺は受け付けに座る花蓮さんと挨拶を交わす。

「こんにちは。今日もお邪魔します」

「あら、新川くん。こんにちは。そんなに堅苦しくなくていいのに。指導をお願いしているのはこちらなんだから」

「そういうわけにもいかないですよ。ゆいにも花蓮さんにもお世話になってますから。ところでゆいは?」

「あの子なら……」

 花蓮さんが指を指す先はバッティングをするケージの中。ゆいが長い黒髪を振り乱し、一心にバットを振っている姿が見える。

「ゆい……って、え!?」

 声をかけようと近づいていくと、そこが先日まで使っていた80kmの打席ではないことに気がついた。

 ドアの上に掲げられた表示には100kmの文字。ついこの前まで素人だった女の子がたった一週間でここまで上手くなるものだろうか。

 驚きをかくせない俺が呆然としていると、

「あっ、新川さん! 来てたんですね。今日もよろしくお願いします!」

 ちょうどバッティングを終えて出てきたゆいが、嬉しそうにぴょこんと頭をさげる。

 今日も今日とて可愛い。

「新川さん?」

「ああ、いや何でもない。よろしくな。というかゆい。スピードだけど……」

「はい! 100kmにしてみました!」

してみましたって……。けれど残り一週間という制限があるなか、この上達の早さはありがたいことに違いはない。

 無理をさせるのでなければ、どんどんやらせるべきなのだろう。

「すごいな、ゆいは……」

 思わず漏れ出てしまったつぶやきに、てれてれと体をくねらす。

「新川さんにほめられるとむずむずします……」

 ああ、もう可愛いな! 

 ……そんなこと言ってる場合じゃなかった。

「じゃあ、早速だけど今日も始めようか」

「はい!」




 構えやフォームについてのみ、しかも基本的なアドバイスしかできない俺は今やほとんど役立たずと言ってもいい。

 なにせゆいは一度いったことはほとんど一回で覚えてしまうし、できなくても何回か繰り返しているうちに自然と身に付いていく。

 いくら形ができていても実践になると上手くいかないのが普通だが、ゆいにはそれを補う目がある。

 考えうる限り最高の才能だった。

 今日もスケジュール通りの練習をこなすと花蓮さんが軽食におにぎりを持ってきてくれた。

 二人でそれを頬張りながら、週末に向けての作戦会議をする。

「相手は経験者なんだよな。それならストレートは最低120kmくらい見といた方がいいか……」

「120kmですか……。わたしまだ100kmを当てるので精一杯なのに」

 ゆいがしょんぼりとした声で嘆く。

「けど、ゆいなら今のペースならあと何日かでそのスピードにもついていけるようになるよ。問題は当てるだけだとだめってところだな」

 勝利の条件はピッチャーゴロ以外。

 週末の決戦に守備がつくのかどうかはわからないが、この場合、相手投手に捕られるような打球以外と考えるのが妥当だろう。

 そうなるとバントなどもきついかもしれない。

 まあ、もともとバントなんてさせる気もないけど。下手すると顔に当たるし。

 「ゆいは80kmならもう遠くに飛ばせるんだよな?」

 「はい! 遠くかどうかはわからないけど、あの屋根は越えるようになりました」

 ゆいが指差したのはマシンの雨避け。あれを越えるということは、少なくともピッチャーに捕球できる打球ではないな。  

「そっか、やっぱりゆいはすごいな」

 感嘆の意をこめて頭をなでると、ゆいは気持ち良さそうにはにかんだ。

 そんなゆいを横目に花蓮さんに気になっていたことを尋ねる。

「花蓮さん、前にいってた業者のひとっていうのがどれくらい野球をやってたかってわかります?」

 花蓮さんは人数分の麦茶をお盆にのせて運びながら、うーんと首をかしげて、

「ちらって聞いただけなんだけど。たしか高校までって」

「そうですか……」

 野球歴なんて聞いたところで、こちらの状況が変わるわけではないのだけど、準備しておくにこしたことはない。

 しかし、高校か……。

 草野球でもやっていたらブランクもないだろう。

 とりあえず、いやな考えを頭から追い出して目の前のことに集中するしかなさそうだ。

 俺たちの話を聞きながら、もくもくとおにぎりを食べていたゆいに声をかける。

「ゆい、あともう何打席か打ったら、最後に120kmにも挑戦してみるか?」

「はい! やってみます。お店のためならやれることは何でもやりたいです!」

 その心意気やよし。

 俺たちはもう一汗かきにベンチを立った。




 あのあともう少しだけとだだをこねるゆいを宥めて、花蓮さんお手製の夕飯をごちそうになっていたら、すっかり遅くなってしまった。

 暖かくなってきたとはいえ、夜に自転車を走らせているとさすがに風が堪える。

 春霞のせいか空には星も見えず、しんと静まりかえった住宅街の空気が肌にしみる。

「やっぱりきつかったか……」

 最後に一打席だけ打たせた120kmのことを思い返し、俺は思わず苦笑してしまう。

 ゆいは持ち前の目で空振りすることはなかったものの、前に打球をとばすことはできなかった。

 悔しさから涙のにじむ目を悟られないようにぐしぐしとぬぐっている様は、どこか懐かしさを感じさせた。

(打てなくて悔しいってのは、誰でも同じか……)

 誰でも最初は初心者。ゆいは圧倒的に恵まれた才能で、ここまでノンストップできた。

 けれど、目の前に立ちはだかる壁は大きい。

 積み上げてきた時間がつくる壁は、それが多ければ多いほどに高くそびえる。

 そして天辺が見えなくなり、そこに到達するビジョンが見えなくなった者たちが、壁の上に立つ者を天才と呼ぶようになる。

「敗者の戯れ言だな……」

 わかったふうにものを言い、諦めを促す。悪い癖だ。

 やらなきゃいけないことに変わりはない。

「よし!」

 いつの間にかでていた自宅前の通り。

 最後の距離を力強く縮めようと、踏みこんだペダル。

 その興を削いだのは後ろからかけられたか細い声だった。

「……ちょっと、慶」

 振り向く前に声の主がわかったが、あえてゆっくりと返事をする。

「……なんだ、美羽か、よ……」

 気だるそうに、というよりは本当に気が重かったのだが、振り返ったとたんに倍の重量がかかったように言葉がでない。


「千田……」

「久しぶりだな、新川。とは言っても俺は学校で見かけていたがな」


 美羽のとなりで泰然と構えていたのは180をいくらか越えた身長に、がっしりとした体躯。

 刈り上げた頭に似合いの相手を射竦めるような双眸を光らせている。

 大橋高校野球部の主将、千田智和だった。

 

 

 

 






 





 

 

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