第十一話

 久しぶりに楽しいときを過ごした休日の翌週の月曜日。俺は約二週間ぶりに学校の制服に袖を通していた。

 時刻は午前8時前。登校するにはいい頃合いだろう。

 昨日親にそのことを話すと目じりに涙を浮かべるほど喜んでいたが、俺は別に親のために学校に行くわけではない。

 ゆいのこともそうだが、考えているうちにばかばかしくなってきたのだ。

 仲介は美羽に頼んである。

 こんなことを頼むのは気が引けたのだが、美羽は喜んで引き受けてくれた。

 「寒いな……」

 玄関を出てひとりごちる。

 春の不安定な気候らしく、昨日は雲がかかっていてもあたたかかったが今日は冬が戻ってきたみたいだ。

 「慶、おはよう!」

 朝から元気な声が軒先に響く。すらっと伸びた脚に亜麻色のポニーテール。気の強そうなつり目の女の子——美羽は通りで俺のことを待っていた。

 しかし……

 「おまえ……。朝練はどうしたんだよ……」

 「ばかね、もう忘れちゃったの? マネは朝練でなくてもいいの」

 「そうだったっけ……?」

 「そうそう。ま、交代制でドリンクだけはつくってるけどね」

 二週間でこれほど記憶が鈍るものだろうか。まあ、ここ一週間はわりと密な時間を過ごしていたのでそのせいかもしれない。

 美羽は肩掛けのエナメルバックを持ち直しながら、

 「それにね。一応監督に話したら、そっちに行ってこいって……」

 俺に野球の話を振るのが怖いのか、おそるおそるといった体だ。

 「……そうか」

 「……うん。そうなの」

 いきなりしおらしくなった美羽にやりづらさを感じつつも、何気ない調子で言う。

 「まあ、俺には関係ないことだけどな……」

 「…………」

 それについて美羽は何も言わない。語らない。

 先日俺に野球をやらないと言われたことがそんなにショックだったのだろうか……?

 こいつとあんな話を繰り返すのはもうごめんだと思っていたところなので、ことさらに明るい口調でつけたした。

 「それに野球だけが高校生活の全てじゃないしな。もったいないよ、本当に自分がやりたいことやらないとさ」

 「……そう、だね」

 今度は返事があった。

 美羽は道にころがる石をつまさきで蹴飛ばしながらつづける。

 「別に野球だけじゃないよね。あたしは慶がいいならそれでいいんだと思うよ」

 俺に合わせたのか、明るく振る舞ってみせる美羽。でも、その姿はどこか弱々しくて寂しげに見えた。

 ふたりのあいだを風がひゅうと吹き抜けていく。

 「とりあえず急ごう。このままじゃ遅刻しちまう」

 「……うん。そうだね」

 ふたりして歩き出したコンクリートの道。

 そこから這い上がってくる冷たい何かに心のうちをひやっとなでられたような気がした。




 久しぶりの学校。

 それは風邪で休んだときの翌日と何ら変わることはなかった。

 春になってクラス替えはあったものの文系はほとんど顔見知りばかり。今日初登校でも何ら問題はない。

 休んでいた理由を訊いてくる友人たちをあしらい、担任と軽く話をして休んでいた分のプリントやらなんやらを貰う。

 授業の進度についても心配されたが、もともとの成績がさほど悪くない俺が大丈夫だと伝えると承知してくれた。

 自分が思っているほど周りの人間は俺のことを気にしていない。よく言われることではあるけれどこうしてみるとそれが実感できる。

 「おい、新川。志望校の調査票、もう出したか?」

 隣の席にこしかけたクラスメイトの横田がうんざりしたような顔つきをしている。

 こいつとは一年から同じクラスだが、成績は俺より優秀。部活もサッカー部で長身となかなかにモテ要素をとりそろえた男だ。

 「調査票? ああ、今朝担任からもらったばかりだからまだだな……」

 「早めに出しとけよ。期限過ぎると呼び出されるらしいぞ」

 「まじか……」

 俺の通うここ、県立大橋高校は旧制中学から続く進学校。

 しかし近年学力の低迷が続いているらしく、東大は年にひとり出るかどうかという瀬戸際まで来ている。

 そんなところでも、いやそんなところだからこそ勉強はそれなりにハードだ。毎日の予習復習はもちろん、週末課題。くわえて土曜授業。

 とくに俺たちの学年はゆとりの最終世代で、ゆとり教育を受けてきたにもかかわらず受験は新課程と来たもんだ。

 まったくお偉方はなにがしたいのかはっきりしないせいで迷惑被るのはこっちだってのに……。

 「横田は志望校、どこにした?」

 「俺は適当に上のほうの大学書いといたよ。まったくよー、成績良いんだから放っといてくれよな」

 それより、と横田は訊き返してくる。

 「おまえはどうすんだよ新川。おまえなら頑張れば俺と同じくらいのとこは行けるだろ」

 「あのなあ……。ちょっとは俺の状況も考えてみてくれよ」

 「ああ……。野球部か。あそこは異常だからな……」

 「異常って……」

 「だって、そうじゃん。部活って校則で七時までだろ? なのにおまえら守ってないじゃん。自主練習とか言って九時過ぎまで残ってるだろ」

 横田の所属するサッカー部は強豪でも何でもない。そのためかどうかは知らないが練習も6時過ぎくらいに切りあげていて居残りをする者もいない。

 「それはまあ……。試合で勝つためにはしょうがないし」

 「勝つためって……。おまえそりゃ本末転倒ってもんだろ。なんのために高校来たんだ? プロ野球選手にでもなるつもりか?」

 「いや、さすがにそこまでは」

 「絶対今のうちに辞めといたほうがいいって。あとで後悔することになっても知らねーぞ」 

 そのときがらっと音を立てて担任が教室に入ってきた。

 横田がまたあとでなと自分の席に戻っていく。

 担任は全員が席に着いたことを確認すると、手に抱えていたプリントやら出席簿やらを教卓の上に置いた。

 「久しぶりに全員そろったわね」

 担任の黒川綾女先生は教室を見回し、俺のところで目をとめるとふふっとほほ笑む。

 それが妙にむずがゆく、目をそらした。




 ホームルームで一日の簡単な説明を受けた後は、いつも通りの授業だった。

 1限から7限、午後4時半まで。

 俺にとっては初日なわけだし真面目に受けようと思ってはいたのだが、さすがに眠い。

 最近はゆいの練習のおかげで改善してきてはいるものの、不規則な生活習慣はすぐには抜けないらしい。

 そのせいで午後の授業はほとんど頭に入ってこなかった。

 横田が部活に行く準備をしながら声をかけてくる。

 「新川ー、今日部活いくの?」

 一瞬行くわけないだろと返しそうになったのを、

 (そういえば野球部の連中以外は知らないのか……)

 と思い返して、言葉を選ぶ。

 「ああ、今日はまだ、な」

 「そっか。ま、健康第一だからな」

 じゃあな、と横田は教室を出ていく。

 クラスメイトにはここ二週間休んでいた理由を体調不良で通していた。唯一事情を察しているだろうチームメイトはわざわざ言いふらしたりもしない、と思う。

 それに理由はそれだけではない。

 俺はゆいを来週、いやもう今週になってしまったが、とにかく週末の勝負に勝たせなくてはいけないのだ。

 それが今の最優先事項。自分のことはとりあえず後回しだ。

 「さて……」

 俺もやるべきことをやりに行きますか。

 帰宅の途につくべく、腰をあげて荷物をひっつかむ。廊下に出て昇降口へと向かう途中、何人かクラスとは別の知り合いにも会ったが、やることは変わらない。

 靴を履きかえて正門へ。

 と、そこへ昇降口近くの水道にドリンクをつくりに来たのだろう美羽とばったり出くわした。

 心中冷めやらぬものもあるが、一応声はかける。

 「……よう」

 「あ……うん」

 美羽のほうもぎこちなくあいさつを返す。それっきり俺たちは会話をすることもなく、黙り込んでしまう。

 気まずい雰囲気。どう払拭したらいいのかもわからない。

 俺の問題は俺が解決し、決着をつけなければならないものだ。そこに美羽の入る余地はない。

 しかし美羽を遠ざける理由もないのもまた事実。

 もしもそのことで美羽を傷つけているのだとしたら、それは俺がとるべき責任というやつだろう。

 それでもその場では何も言えなかった。

 「……もう行かなきゃ」

 「ん……あ、ああ。じゃあ」

 「うん、また」

 それだけ言うと美羽はそそくさとグラウンドへと去ってしまった。

 あとに残された俺のわきを帰宅部の連中が楽しそうに通り過ぎていく。美羽が去っていったグラウンドからはミスを叱咤する厳しい声が飛んでいた。

 俺が望んでいた高校生活と臨んだ高校生活。

 両者にどれほどの違いがあるのかはわからない。けれどその境界の居心地は俺が思っているほど、良くはなかったようだ。

 

  

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