第九話
かきん!
もやがかかったように霞む視界を晴らすように、小気味の良い音がこだました。天気はお世辞にもいいとは言えないけれど、一生懸命にバットを振る姿を見ているとそれ以外のことなんかどうでもよくなってくる。
美羽との悶着のせいで約束の時間に遅れてしまった俺だったが、ゆいはその間ひとりでもくもくと駐輪場で素振りを続けていた。
なぜ駐輪場なのかを尋ねると、
「すこしでも上手になっているところを新川さんに見せたかったんです!」
とのこと。
天使すぎる……。
現在ゆいが挑戦しているのは80㎞の、ふつうに野球をやっている小学生が練習で使うにしても若干遅いという程度の速度のレーンなのだが、それでも昨日ほとんど初めてバットを握った小学生が一球目からかんかん、かんかん当たること当たること。
それがただ当てるだけではないというのがまた驚きである。
「ゆいー、疲れてないか?」
「はい! まだまだだいじょぶです!」
ちょうど三打席目を終えたゆいに、レーン沿いのカウンターのようになっているところの椅子に座ってみていた俺は声をかけた。
昨日から見ていて思ったことだが、ゆいはこうして声をかけてあげないとエンドレスに打ち続けてしまう。
昨日も初日だからと五打席目で終わりにしようと言ったら駄々をこね、俺と花蓮が話しているすきをついてこっそりと打席に入っていた。
その執念と集中力たるや……やはり小学生は恐ろしいな。
しかしそれはもっと上手くなりたいという気持ちの裏返しでもあるだろう。指導している身としてはもちろんその気持ちは尊重したい。
けれど今回は目的が目的だ。
そこは割り切っていかないとな。
「いたっ……」
「どうしたゆい?」
「い、いえ。ちょっと手がいたくて……」
「どれ。見せてみろ……。ああ、やっちまったか……」
ゆいの手のひら、指の付け根の下あたりの皮がめくれて赤くなってしまっている。
これはバットを振ることになれていない初心者が最初に乗り越えなくてはならない関門だ。
これを何回も繰り返すうちに皮が固くなり簡単にはむけなくなってくる。
スイングが安定するまでは手のひらや指の先などいろいろな部分の皮がめくれてしまい素振りをするときなどもかなり痛いのだが、それは練習の証だ。
俺が自分の手のひらと見比べて感慨にひたっていると、
「……いたい」
かすかに涙ぐんだゆいがその濡れたひとみを俺に向けていた。
「ああっ、ごめん! すぐにテーピングもらってくるから……」
花蓮さんのいる事務所の方へあわてて駆けだす。
救急箱を受け取って無事に応急処置をすませると、ゆいは「ありがとうございます!」と、また練習に戻ろうとする。
健気だなあ……。
あれだけ熱心に練習に取り組まれるとこちらとしてもできるだけのことをしてやりたくなる。そしてそれは技術だけに限らないはずだ。
「なにかしてあげられることは…………」
そうこうしているうちに今日も五打席しっかりと打ち終えたゆいが笑顔で今日の自分はどうだったかとしつこく聞いてくる。
正直にすごい良かったよと頭をなでてやると気持ちよさそうにふわふわとした表情を浮かべた。
「ところでさ、ゆい……」
「はい?」
「……いや、なんでもない」
言いかけた言葉を途中で飲み込む。こういうことを本人に尋ねるのってどうなのとか、やっぱりサプライズ的ななにかがいいのかとかさまざまな案が浮かんでは消える。
ふとゆいを見ると先ほどテーピングした方の手をじっと見つめている。
「……痛むのか?」
「だいじょうぶです、これくらい。だってここがなくならないために頑張ってるんですから……」
「そうか……」
「それに、新川さんに治療してもらったからぜんぜんいたくなんてないです! だからもうちょっとだけ、やらせてもらえませんか……?」
なんていい子なんだろう。そこまでの意気込みを見せられたら、なにもしてあげないなんていう選択肢はないじゃないか。
俺はあることを思いつくと、ゆいに首を振ってみせる。
「いいや、とりあえず午前中はこれでおしまい。でも、今日は昨日よりも慣れてきただろうから午後にももう少しだけやろう」
「ほんとうですか!?」
「うん、もちろん。ただその前に休憩はしっかり取らないとね」
「はい。わかりました!」
練習ができることを心底喜ぶようにぴょんぴょん飛び跳ねるゆいを見ていると、思わずほおが緩む。
そこに花蓮さんがやってきて、
「今日は日曜日だし、お昼ごはんはどこかに食べに行きましょうか。新川くんもいっしょに」
「本当? やった、お母さんありがとう!」
「いいんですか、俺まで……」
「若い人が遠慮なんてしないの。そもそもこっちの問題に巻き込んでるんだから、これくらいはさせてちょうだい」
穏やかな笑顔を浮かべた花蓮さんはこう続けた。
「それにねー、一週間前に新川くんにあってからこの子がその話しかしないのよ。新川さんが新川さんがーって、昨日も大変で……」
「お母さん! よけいなこと言わないで!」
「はいはい」
こんなやりとりはいかにも親子といった様子でとても微笑ましい。
それにしてもゆいがそんなに俺のことを慕ってくれていたなんて……。まだ出会ってから間もないはずなのに、うれしい限りだ。
「それじゃあ、ふたりとも準備してね。私も着替えてくるから」
「はーい」
「わかりました。お言葉に甘えさせていただきます」
花蓮さんははいはいというように手を振ると、いったん事務所とつながっているらしい家の方へと入っていった。
「それにしても外食かあ……」
「新川さんはあまりお外で食べないんですか?」
「そうだなー。ふだんは家で食べることが多いかな……」
「そうなんですね。もしかして学校からお家が近いとかですか?」
「え、なんで?」
「いえ、新川さんって野球部なんですよね。高校の。それなら……」
「あー…………」
そういうことか。
こんなところで地雷を踏むとは。
なんと答えたものだろう。
しかしその心配は杞憂に終わった。花蓮さんが表のほうで、
「準備できたわよー。出ていらっしゃい」
と呼ぶ声が聞こえたからだ。
「行くか」
「はい!」
ゆいにとってもさほど重要なことではなかったらしく、楽しそうに駆け出していく。後部座席に飛び込むように乗ったゆいの後から俺も花蓮さんが乗っているとなり、助手席をあけて乗り込もうとする。
「新川くんは後ろに乗ってね」
「え? なんでですか」
そうはいいつつも別に乗る席にこだわりがあるわけでもない。一度車を降りて、ゆいの隣にすわる。
すると、ゆいがえへへとはにかみながらぴたっとくっついてきた。
「こういうことよ」
「なるほど」
さすが母親。娘を喜ばせることに関しては俺なんかが敵いそうもないな。
「ゆいー、あんまり新川くんを困らせちゃだめよ」
「わかってる!」
すこし拗ねたように頬を膨らませるゆい。
俺はそういえば、と疑問に思っていたことを口にする。
「花蓮さん、バッティングセンターのほうは鍵、閉めなくてもいいんですか?」
「ああ、それは大丈夫なの。こういうときにいつも頼んでるひとがいるから」
「そうなんですか」
それを聞いてひと安心。
「それでは出発しまーす」
のんびりとしたかけ声とともに花蓮さんは軽自動車を発進させる。エンジン音が地面をならすと、俺たちをのせた車はのどかな田園風景と宅地開発という新旧の景色のなかをかすかに差してきた日光をあびながら進んでいった。
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