第二部 やり直し

第七話

 「もうちょっと脇をしめて……」

 「こ、こうですか?」

 「そうそう、そんな感じ。それで一回振ってみようか」

 ふらふらしながらも小さな手で握ったバットを精いっぱい振り回す。

 さらさらとした黒髪が絹糸がほどけるかのように空中に舞い輝く。

 よく晴れた土曜の朝。

 俺とゆいはすがすがしい空気のもと、花城バッティングセンターにおいて一週間後の運命の日に向けた特別練習を敢行していた。

 なぜ朝からなのかというと、単純に練習時間が足りないということともうひとつ、夕方からだとどうしても運動そのものに慣れていないゆいの疲労を翌日に持ち越してしまうことになるから。

 たった一週間ではあるけれど、ケアの面は万全にしておかないとな。特にゆいは女の子なわけだし。

 場所については言わずもがな。

 これほど野球、こと打撃の練習場にふさわしいところもないだろう。

 ゆいがこのバッティングセンターの存続をかけて挑んだ勝負は三打席対決。業者さんが投げ、ゆいが打つ。

 そのひとがどれほどの実力の持ち主なのかは定かではないが、ゆいの勝率が限りなく低いということは目に見えている。

 そんなわけで今日も朝の八時からこちらにお邪魔して体を動かしているというわけである。

 「さっきも言ったけどバットを握る手は左手が上で右手が下な。両手はしっかりとくっつけて……」

 「左手が上、右手が下……」

 「そう。足は肩幅くらいで、軽く腰を落として……」

 「んー……むずかしいです……」

 この会話から俺たちのやっていることがどのくらいのレベルなのかは察してもらえると思う。

 今日は初日なのでまずは形から教えているのだが、いかんせん素人である。いや、もちろんゆいのことでもあるんだけど、これはコーチングをしたことがない俺にも当てはまるのだ。

 ひとに教えるのって難しい……。

「うーんとな……構えはそれでいいんだけど、打つときはいったんバットを引いてだな……」

 「………?」

 むずかしい表情を浮かべ、あれこれといろんな形でスイングを試しているゆい。

 ああ、なんとも微笑ましい光景なんだろう。

 野球といえば野郎だし、俺もむさくるしい連中とばかり付き合ってきたからこういう可憐で小動物然とした女の子が握っているとバットのグリップからもなんだかいい匂いがしてきそうである。

 ちなみにあいつらのは本当に嗅げたもんじゃない。

 と、そんなことを言っている場合ではなかった。

 「うん、とりあえず構え自体はそんな感じで大丈夫。じゃあさっそく打ってみようか」

 「はい!」

 実に元気のいい返事でよろしい。

 きっかけは無茶な勝負だけどプレッシャーがかかっている様子もない。それよりもやったことのない動き、触ったことのない道具に興味津々って感じだ。

 「そういえば、ゆいはここで打ったことはあるの?」

 「いえ、ありません。低学年のころはここに来ることが少なかったですし……。最近も危ないからって、お父さんが」

 「そうか……」

 一応確認のために訊いてみたけど、そうだよな。俺だってこんな可愛い娘がいたら絶対に打席になんて立たせない。それどころか野球なんて野蛮なものに近づけすらしないわ。

 「じゃあ今日は遅い球からだな。えっと……60㎞か」

 「あの……そんなに遅いのからやっていて本当に間に合うのでしょうか……?」

 「焦ってもしかたないさ。打てるようだったらどんどん速くしていくから……」

 心配そうな表情のゆいを励ますつもりで言葉を選ぶ。が、俺の話を聞くうちにゆいの目の色が変わっていくような気がした。

 「……わかりました」

 いかにも納得していなさそうな顔でしぶしぶと[60㎞/スロー]と表示のあるレーンに入っていき打席に立った。

 さきほど俺が教えた通りにスタンスをとると、 

 「見ててくださいね」

 そう言ってスタートボタンを押すように促してきた。

 ゆいの急変した態度に俺は戸惑いを隠せなかったが、言われた通りにボタンを押す。

 数秒後にぎ、ぎ、ぎという機械の駆動音が聞こえ始め、ゆいが立つバッターボックスの正面にあるマシンがそのスプリングをきしませボールを射出した。

 こきん。

 いかにもあたり損ねといったあたりだったが、ゆいは初めての打席の一球目でボールをバットに当てて見せた。

 「すごいな、ゆい! いきなり当てるなんて」

 「えへへー」

 照れくさそうにもじもじしながらも、ゆいの目はまっすぐ前に向けられている。うん、集中力も問題ないな。

 しかし若干まぐれだと思っていた俺はゆいの一打席目を終えたときに驚嘆することになった。




 「はあ、はあ……新川さん、どうでした?」

 「…………」

 さすがに一打席35球バットを振り続けるのはきつかったのか、少し息を荒くしたゆいが俺に自分の出来栄えについて尋ねてきた。

 長い髪がかかるのか、しきりに耳元の髪をかき上げている。

 腕を組んだ俺は、ゆっくりと告げる。

 「……ゆい」

 「は、はい……!」

 重々しい口調に気圧されたのかゆいは居ずまいを正して、俺の顔をまっすぐに見つめる。

 「……すごいよ」

 「え?」

 「すごいよ、ゆい! 打席に立つのもバットを握るのも今日が初めてなんだろ? それなのに……なんて!」

 全球バットに当てる。

 当てるだけであれば誰でもとは言わないまでも、ある程度のひとであればできるとは思う。

 しかしこの子は、全球、それもスイングを全く崩すことなく全球をバットに当てて見せた。

 60㎞とはいえども毎回毎回微妙に変わるヒットポイントをしっかりと、そして振り、当てた。

 これと同じことを今やれと言われても100パーセント成功させる自信は俺にはない。

 「すごいでしょう」

 いつの間にかそばに来ていた花蓮さんが眩しいものを見るような目で嬉しそうに自分の構えを近くにあった鏡で確認するゆいをながめていた。

 「すごいです。正直ここまでできるとは思いませんでした」

 「あの子ね、動体視力がすごくいいのよ。動体視力っていうか普通に視力がものすごく良くてね。両目で2.0」

 「それは……驚きですね」

 「本当はそれ以上あると思うんだけどね。日本じゃ2.0までしか測れないから」

 まじか……。

 思い返してみると、ゆいのあの大きな瞳はどこまでも見通しそうなきれいな黒色をしている。

 今の打席を見てみてもボールがバットに当たったわけではなく、意図的に当てたことがわかるほどゆいの顔はまったくぶれていなかった。

 ただそれだけじゃなく……

 「小さいのに体幹がしっかりしてる……」

 初めての打席。初めてのバット。慣れない動き。

 これだけの要素がそろって、あれだけバットを振っていればバランスを崩して尻もちをつくとまではいかなくても、ふらふらと態勢を保っていられないことくらいはあると思う。

 体幹はその名の通り体の胴のことだが、スポーツにおいて胴回りの筋肉、ひいてはバランス感覚を保つ筋肉のことを意味する場合もある。

 これは小学校から高校くらいにかけて普通に生活・運動していれば自然と並みにはついていくものだが、ゆいはそれが異常に強い気がするな……。

 俺がそのことを花蓮さんに尋ねると、

 「それはお父さんの影響かもしれないわね……」

 「お父さんの影響? でもゆいはつい最近までほとんどお父さんとの交流はなかったって言ってましたけど……」

 「それを言われると胸が痛むわね……。でもね、まったくの放りっぱなしってわけでもなかったのよ」

 「というと……」

 「たまたま週末が休みになったときや、デーゲームで早く帰れたときなんかはお父さんも私もゆいとの時間をなるべく持つようにしてたわ。お父さんはどこかに連れて行ってあげようっていつもゆいを誘うんだけど、拗ねてるゆいは取り合わないのね」

 そのときのゆいの様子は目に浮かぶなあ。

 俺は実際に見たことはないけれど、その態度に見え隠れする強気なゆいは強情になって、お父さんを困らせていたのだろう。

 ついこの間のことのはずなのに、懐かしそうに語る花蓮さんは笑顔を浮かべて続ける。

 「仕方ないからお父さんも家にあるバランスボールとか、体一つでできるトレーニングとかを始めちゃうのよ。ゆいはいつも陰からこっそりそれを見てたわ。前に一度、お母さん……ゆいのおばあちゃんね。彼女が話してくれたことがあるの。『ゆいが変な運動をしてる』って。お父さんの真似をすればもっとお父さんのことがわかるかもしれない。そう思ったのかしらね……」

 なるほど、それであのバランス感覚か……。

 しかしあまり幼いうちから筋肉をつけてしまうのは良くないということは科学的に立証されている。

 これからは注意して見てもらった方がいいかもしれないな。

 「それでどう、あの子は?」

 花蓮さんの視線がゆいから俺に移った。

 聞かれるとは思っていたので、考えていたことを正直に口にする。

 「いいですよ。才能そのものはさすがプロ野球選手の子といった感じです」

 「そう……」

 「まだ一打席しか見てませんし、何かを言える立場でもないんですけど……。ゆいは本当に今まで何もスポーツをやってなかったんですか?」

 「やってないわ。ああいう習い事ってやっぱり親の協力が不可欠っていうし……。お父さんもいろいろ大変だったから」

 「……そうですか。ただ言えるのは続ければどこまでも行ける、そんな可能性をもってると思います」

 我ながら無責任なことを言っていると思う。子どものうちにそれなりにできることがそのまま将来につながることはないなんて自分がいちばん実感していることだろうに。しかし花蓮さんは嬉しそうに目を細める。

 「そう! じゃあ一週間後の勝負も……」

 期待に満ちた目で、見つめてくる花蓮さん。

 俺はその視線にはっきりと言葉で返した。

 「正直に言うと、きついです」

 「…………そう」

 希望一転絶望。このひともころころと表情を変えるなあ。母親なので当たり前だけど、ゆいにそっくりだ。

 厳しい言葉をかけるのに逡巡したが、ここで表向きを装ってもしかたないだろう。

 「才能はすごいです。すごいんですけど……それだけじゃダメなんです」

 「……そうよね。それはわかってるわ」

 元プロ野球選手の奥さんということもあってかすんなりと理解してくれた。

 「せめて……」

 いいかけた言葉を途中で飲み込む。

 せめて、もう一週間あれば。

 それは、それだけは俺の責任だ。

 自分の内側と向き合うことばかり考えて、まったく外が見えていなかった自分。舛田先生に気づかせてもらえなかったら俺はここに立っていることすらできなかっただろう。

 今、その時間の責任を追及するとしたら。それを問われるのは俺だ。

 「せめて?」

 「いいえ、なんでもないです」

 やれることを全力でやります、と俺なりの誠意を伝えゆいの指導に戻る。

 少し長くなってしまった立ち話の間、ゆいはフォームを確認しながら素振りをしていた。そのスイングを見た俺はその吸収力に再度驚かされる。

 「ゆいは本当にすごいな」

 頭に手を置きなでてやると、気持ちよさそうに顔を緩める。

 「新川さんに教えていただいたおかげです!」

 「そっか。それじゃあもうひと頑張り、いこうか」

 「はい!」

 ゆいのあどけない、純粋な意気込みになにかもやっとするものを感じながら先ほどよりも少し球速をあげたレーンに向かう。

 結局その日、ゆいは五打席175球すべてのボールをバットに当てた。

 また明日、同じ時間に約束をして花城バッティングセンターを出るころにはそのときのことはすっかりと忘れ、もしかしたらという希望までほんのすこしではあるものの見えてきている気がした。

 空は薄い雲に覆われ、昼下がりにしては冷たい風が流れている。シャツの襟もとをかきあわせて自転車にまたがると、一瞬の迷いも振り切るようにペダルに乗せた足に体重を一気にのせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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