第六話

 「いや~、偶然ってものは怖いな、新川。はっはっは」

 「笑い事じゃないですよ……」

 日も暮れかけ、カラスの鳴き声が夕刻の空に響き渡るころ。懐かしの小学校の校庭に懐かしい声もまた響いていた。

 図書館からの帰り道、たまたま恩師と再会を果たした俺はつい話し込んでいるうちに面倒ごととやらに引き込めれてしまった。

 けして広くない校庭の隅っこ、高いバックネットのそばに立っているのは三人。そう。さっきから朗らかに笑い続ける50過ぎの教師と俺のほかにもうひとり。

 「えへへ、お久しぶりです」

 そうはにかんで笑いかけてくるのは俺の胸のあたりほどしか身長のない、さらさらとした黒髪に人形のような顔だち。全体に対して不釣り合いだと思わせるほど意志の強そうな目をした女の子。

 まぎれもなくゆいだ。

 「先生、なんでこの子がここに?」

 疑念のまなざしを向けると、

 「なんでって、そりゃ俺の教え子だからに決まってんだろ」

 「教え子って……ゆいはここに通ってるってことですか?」

 「そうだ。なんだ知らなかったのか」

 「まあ……はい」

 知らないというか知る由もないというのが正確なのだが、そもそもゆいの家は駅を挟んで反対側にある。

 普通はこんなに離れた距離は学区外になると思うのだが……

 「花城は父親の仕事の都合で両親ともに家を空けることが多くてな。親戚の家に預けられていることが多かったんだ。今はそうでもないらしいが、途中で小学校を変えるのをこの子が嫌がったもんで、両親も手続きが面倒だからってそのままここに通わせてる」

 「そうだったんですか……」

 ゆいの父は元プロ野球選手。日本中を転々とするのが仕事のようなものだ。とりあえずゆいがここにいる理由は理解できた。

 「それより新川、ゆいから聞いたぞー。この子に野球を教えるの断ったそうじゃねーか」

 「う…………」

 「まあ、おめーのことだから何かしら事情があるんだろうけどな。でも、もしそれがつまんねーことだったら俺は花城の味方をするぞ」

 「あの、味方って……」

 ゆいをちらと見やると、しまったという顔でなぜかおろおろしている。

 「ん? 新川にはまだ言ってなかったのか。あのな……」

 「わーっ! ちょっとまってください先生!」

 ゆいがいきなり大声を張り上げて舛田先生の言葉を遮った。

 「わたしが自分でいいますから……」

 「……そうか」

 俺に聞かせようとしたことはそれほど重要なことだったのか、やけに真剣だった先生の顔は一転、生徒を見守る優しい教師の顔になった。

 「それじゃあ、しっかり話せ」

 「……はい!」

 気を遣ってくれたのか、先生は仕事がまだあるからと校舎の方へ向かって歩いていった。

 途端に辺りはしんと静まり返る。校庭の反対側で遊んでいる子どもたちの話声がやけにはっきりと聞こえてきた。

 そこでようやくゆいが俺のほうに向きなおり、口を開いた。

 「……お母さんから勝負のこと、聞いたんですよね?」

 「……うん」

 「……本当はわたしもあんなことを言うつもりはなかったんです。勝負なんてする気も……でも……でも、何にも知らない業者のひとが野球は時代遅れだからって、どうせこんなところにお客さんなんか来ないんだからって、お母さんに言っているのを聞いてしまって……つい」

 「そうか……」

 野球が時代遅れなのは事実だから仕方ない。

 最近減ってきてはいるが、前時代的なスポ根指導者は今でもたくさんいるし、坊主の強要なんてほとんどの学校で当たり前だ。

 でもそれらはお店にお客さんが来ないことに直接つながるかと言われるとそうでもないと俺は思う。

 バッティングセンターは普段は手が付けにくい野球というスポーツの一部を手軽に楽しんでもらえる施設なのだ。

 その証拠に昨今流行りの大型アミューズメント施設にもバッティング設備は整っているところが多い。

 それは野球の人気というよりもバッティングセンターの需要だろう。

 それらを加味すると花城バッティングセンターももしかしたら……。

 「それに……」

 「それに?」

 ゆいはまだ気がかりなことがあるようで、口をもごもごさせている。

 「待ってるから、ゆっくり話してくれればいいよ」

 「はい、ごめんなさい……」

 今にも泣きだしそうな顔をしているゆいは意地でも泣くまいといった様子で目元をぐいっと袖で拭うと、無理矢理作った笑顔で言った。

 「わたし、転校しなくちゃいけないかもしれないんです」

 「…………」

 無言でうなずくと、ゆいもいくらか話しやすくなったのか幾分滑らかに言葉が出てきた。

 「転校とはいっても隣の県なんですけど。今までは無理を言ってこの学校に通ってたんです。おばあちゃんの家に泊めてもらって、休みの日はお母さんに迎えに来てもらってました。でも今のお店がなくなっちゃえば、それはもうできません……もしそうなったら引っ越しをするってお母さんが……」

 「転校か……」

 この界隈ではよくある話だ。しかしゆいのような事情があるという家庭は珍しいかもしれないが。

 かくいう俺も小学二年生の時にこの地に越してきたひとりであり、ゆいと同じ年の頃に転校しそうになったことがある。

 そのとき俺は……

 「わたし……転校なんてしたくないです! この学校にはたくさんの友達と、大切な思い出がたくさんあるんです……新川さんとの思い出だって……」

 最後の方は声がかすれてしまっていて聞き取れなかったけど、ゆいの気持ちは十分に伝わってくる。

 やはり我慢できなくなってしまったのか嗚咽交じりに、ぽろぽろと涙を落としながらも必死で語る。

 「えぐっ……わた、し、お店もなくなってほしくないです。ここにいたいんです……」

 それでも俺は……

 お互いに下を向きながら何も言えない、言わない時間が続く。

 すでに日はほとんど落ちて、夕闇が迫っていた。

 思考だけが頭のなかでぐるぐる巡り、身動きが取れない。まるで体にくさびを打ち込まれたかのようだった。

 そしてそれはきっと自分では抜けないくさび。抜くすべをもたない俺はゆいのことをどうしてやることもできない。

 所詮は他人。たまたま過去に縁があったところの娘さん。ただそれだけなんだ。そう自分に言い聞かせて、なんと言おうか迷っているところに。

 「つまんねーもんを見せんじゃねーよ」

 びっくりしてそちらに顔を向けると、舛田先生がこちらに歩いてきていた。

 堂々とした足取りは小学校のときの記憶そのままに、諭すような目で俺を見つめている。

 「つまんないって……先生聞いてたんですか」

 「なにも聞いちゃいない。だが見りゃわかる。小さな女の子が泣いてる。その傍らに男が立ってる。これ以上の説明がいるか?」

 「…………」

 「……はあ、まあいい。おめーさんが子どもを泣かせるような奴じゃないってことは俺はよくわかってる。これでも3年間、おめーの担任をやってたんだからな」

 先生はいまだに両手で目元をぬぐっているゆいの頭にぽんと手を乗せながら俺に言った。

 「だからこそ気づくこともあるってもんだ。……おめーよぉ、何があったか知らんがずいぶんとしけた面になったもんだな」

 「……はあ」

 「あのときの試合で見たおめーとは大違いだって言ってんだよ」

 「あのときって……?」

 「県少年野球大会地区予選二回戦。柳原球場Fグラウンド、っていえばわかるか」

 それを聞いて俺は一瞬で脳の検索リサーチに引っかかる思い出を探し当てた。

 忘れるはずもない。いちばん野球を楽しんでいたと、そう断言できる記憶のアルバムの1ページ。

 俺たちのチームが県大会出場を決めた試合だ。

 「ばかみたいに声出して、心底楽しそうに笑って影なんてひとすじもさしてない。そんな顔だったよ、おめーは」

 「……変わったんですよ。性格も野球に対する考え方も。そういうもんでしょ、成長するって」

 「違うな」

 俺のささやかな反論は一刀のもとに切り捨てられた。

 年を感じさせないらんらんとした瞳にすべてを見透かされそうで俺は先生のことをまともに見ることができない。

 「今のおめーを見れば野球が楽しくないと思ってることくらい簡単にわかる。それを無理くり飲み込んで、変わった、成長したって言い換えてるだけだ。……だからそんな顔になっちまうんだよ」

 「そうだとして……何が悪いんですか。俺の問題でしょ、それは」

 こんな卑屈な返ししかできない自分に嫌気が差し、どんな怒涛の反撃が来るのだろうと身構えていた。が、先生の答えは予想外のものだった。

 「別にそれ自体は悪いことじゃねーよ」

 「…………?」

 「人間の感情なんてのは簡単に変わっちまう。些細なことで傷ついて傷つける。だけどな、その傷は不可欠なもんだ。そいつが受け止められるかどうかはまた別の問題だがな。受け止められなきゃ手伝ってもらえばいい」

 「手伝うって、だからそれは俺の問題だって……」

 「うぬぼれんな。おめーひとりで解決できる問題なんかこの世にあると思うか。それは俺もおんなじだ。だから頼る。おめーの担任やってたとき、俺はおめーに随分頼った。頼られた。そんな関係をつくれるように努力すればいい。それならひとりでうんうん唸っているよりは簡単だと思わねーか?」

 今さらだ。俺は捨ててしまったんだ。つくりあげてきた人間関係をまるごと。捨ててしまったものは元には戻らない。

 「俺なんかには、無理ですよ……」

 「無理なもんか。今まさに目の前で頼られてんじゃねーか」

 顔をあげると、ゆいがこちらを正視している。

 その顔にもう涙の跡はない。真っ赤にはらした目でまっすぐに、ただ見つめてくる。

 今の話をすべて理解しているわけではないだろう。だけどその目にはなぜか優しさが元の意志の強さと同居しているようにも見えた。

 俺も泣きそうになるのを堪えるので必死だ。

 当たり前だ。久しぶりにこのひとの説教なんか食らったのだから。

 それでも言わなければと。俺はゆいをしっかりと見つめ返す。

 「ゆい、俺ゆいのこと頼ってもいいか?」

 恥ずかしさを押し殺そうとしたためかいつも以上にぶっきらぼうになってしまった俺の言葉を、それでもゆいは受け止めてくれた。

 「もちろんです! わたしのほうこそよろしくお願いします!」

 いつかのようにぴょこんと下げた頭をあげたときに、ゆいの顔には満面の笑顔が浮かんでいた。こんな屈託のない笑顔に、俺もまたなることができるのだろうか。

 舛田先生もうんうんと頷いている。

 「だけど小学生に頼る高校生の図はなかなかに面白いもんだな」

 「台無しだ!」

 こんなやり取りをするのも今は楽しい。

 あのときの野球もこんな感じだっただろうか。

 真っ暗になってしまった校庭を照らすのは薄暗い外套と校舎から漏れ出る照明だけだ。4月とはいえまだまだ肌寒い。

 そのことが野球の季節がまだ遠いことを知らせている。

 俺とゆいの戦いは一週間後に迫っていた。

 やれるだけのことはやる。こんな俺を頼ってくれる小さい女の子のために。

 夏を気持ちよく迎えるために。

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

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