第五話

 ゆいに思わぬ場所、「花城バッティングセンター」に誘われて以来1週間、学校に行かなくなってからは2週間が過ぎた。

 俺は相変わらず布団とパソコンを往復する毎日を続けていたが、一度外に出てからは起床・就寝時間ともに正常な生活へと戻りつつある。

 「……おはよう」

 「おはよう。朝ごはん出来てるから食べちゃいなさい」

 「ああ……」

 こんな感じではあるものの朝起きてリビングに降り、朝食をとる。

 終われば部屋に戻り自分のしたいことをする。

 この生活に今のところ両親は何も言ってこない。

 どうせ今はそっとしておいてやろうとかそういうことなのだろう。

 「……ごちそうさま」

 リビングテーブルに置かれた朝食を素早く腹に納めた俺は二階の自分の部屋に戻り、手早く身支度をする。

 玄関で靴を履いていると母さんが驚いたように、パタパタとスリッパをならして寄ってきた。

 「慶、どうしたの? どこかに出掛けるんなら車で送っていくけど……」

 「いい。すぐ帰るし」

 実際、すぐに帰宅するつもりだった。

 今日の目的は2週間部屋にこもっていたせいで消費しきってしまった本の追加購買だ。

 買うものは大体決まっているし、1時間で戻れるだろう。

 だけど、ばか正直に話す必要もない。

 俺はそのまま黙って立ち上がり、行ってきますと口の中だけで呟くと早足で家を出た。

 外に出るとふわっと何かの植物の香りが鼻をくすぐった。

 突き抜けるような青空に、ただよう羊雲はいかにもこの季節の象徴という感じで、若干沈んでいた気分もいくらか晴れる思いだ。

 「さて……」

 天気もいいし、少し遠回りしながら本屋に向かってもいいだろう。

 どうせこの時間帯に誰かと出くわすということもない。

 そんなことを考えつつ、自転車を庭から引っ張り出す。サドルにまたがりゆっくりとこぎ出すと、まだ少し冷たさの残る風が顔に当たる。

 通勤通学時間は過ぎ、昼にはまだ早いこの時間は絶好のサイクリング日和だ。

 気分よくこいでいたこともあって予定よりもいささか早く着いてしまったのは誤算だったが、十分ほど待ち無事に目的の本を手に入れることができた。

 「早く帰ってもつまらないな……」

 こうも毎日同じ生活を繰り返していると、だんだんと飽きてくる。

 確かこの近くには図書館があったはず。今日買った本はそこで読むことにするか。

 それほど遠い距離でもないので運動も兼ねて止めていた自転車にはまたがらず、手で押して歩くことにした。

 こうして歩いてみると、見知った街で意外とよく見えていなかった部分が見えてくる。

 田舎町にしては洒落た喫茶店があったり、いつの時代からそこにあるのかもわからないような漬物屋の看板を掲げた店もあったりする。

 東京の人から見れば不便に映るかもしれない街も住んでいると特に不都合に感じることもない。

 ひとは自分が知らないことには興味を示さないものだ。と言うよりも示せない。知らないことはどうすることもできない。だから想像だけで決め込む。

 東京に住む人がなんとなく田舎が良いと思ったり、はたまた不便だと敬遠したり。日本人がなんとなしに外国にあこがれるように。

 ここではないどこか、自分にはない何かをそれが自覚的かどうかに関わらず皆追い求めているのかもしれない。と思索にふけっているといつの間にか目当ての図書館に到着していた。

 「さすがに空いてるなー……」

 平日の午前中だ。それも当然か。

 春光差し込む窓際の奥のほうに席をとると荷物をおく。

 さきほど購入した2、3冊の本をテーブルに積み角までしっかり揃えてから椅子に腰をおろすと図書館の独特な静謐さを肌で感じることができる。

 俺はこの空気が好きだ。

 野球という騒がしいスポーツをやっていたこともあるが、誰にも犯しがたい、けれども決して強いられた緊張感が巡りわたっているというわけでもない、あくまで能動的につくりあげられたこの雰囲気はなぜかとても親しみやすい。

 これは読書がはかどりそうだ。

 積まれた本の一番上から一冊を手に取って表紙をめくり、俺は物語の世界に意識を沈めていった。




 日が傾いていた。

 いやわかっている。俺もここまで長く居座るつもりはなかったのだが、本に顔をうずめているうちにいつの間にか昼食を忘れて没頭していた。

 それによくよく考えてみると昼食を忘れたというのは少し語弊があるかもしれない。

 確かに俺は図書館の棚の上に掲げられた時計が12時を回ったのを確認したはずなのだ。しかしあとこれだけ読んだらと言うのが結局すべて読み終えるまで続いてこの顛末に至る。

 春も本格的に始まっているのでまだ夕日に赤く染まるということはないけれど、親に連絡し忘れたのは痛いかもしれない。

 ただでさえ心配をかけている身だ。

 喧嘩気味とはいえ、メールの一通も打っておくのが礼儀だろう。

 そう思いスマホを開いてみると案の定母親からの不在着信とメールが何件か入っていた。

 簡単に変身を打ち込み、送信する。

 まとめるというほどでもない荷物をバッグに詰め込み、図書館を後にした。

 家に向かって自転車を走らせる。

 図書館は本屋からもそう遠くないので、家に帰るのにもさほどの時間はかからない。

 それでもなるべく早く帰宅した方が余計な心配もかけないだろう。

 そうすると小学校を回り込むのが早いか。思考をそこまで巡らせ、実行に移すべくハンドルを操作する。

 図書館沿いの道路に鎮座する短いトンネルをくぐり、小学校に出る。

 するとそこで俺は致命的なミスに気がついた。

 「しまった、下校時刻か……」

 小学校低学年くらいだとたしかにこのくらいに帰っていたような記憶があるようなないような……。

 なにせかれこれ4年は小学生をやっていない。

 いや、望んでできるものでもないけど。

 いずれにせよ狭い歩道でイレギュラーな動きをする児童たちを引いてしまわないようにゆっくりと自転車をこぐのは、主にバランスの面で不可能だ。

 俺は本屋から図書館までそうしたように自転車を降りて、バッグをかごに入れて押し始めた。

 この小学校は俺も通っていたところだ。

 今はそんなこともないが、小学生の足では自宅まで20分以上かかる。野球を始めたのもこのころだから、練習後にこの距離を歩いて帰るのはわりときつかったと記憶している。

 さまざまな情景がよみがえりながら、校門の前を通過しようとしたときだった。

 「おおー! 新川じゃないか」

 突然呼びかけられたことに戸惑いと驚きを隠せないまま声の主を見ると、

 「なんだ、その間抜けな顔は……」

 呆れ笑いをした40代半ばくらいの、よく日焼けした男が立っていた。

 手には児童たちの安全を見守るための黄色い旗、中肉中背と言った風体だが不思議と細いといった印象はなく、芯の強さと言うか迫ってきそうな気のようなものが発せられているように思わせる、そんな雰囲気が漂うひとだ。

 「舛田先生……お久しぶりです」

 このひとは舛田隆。小学校時代の恩師だ。

 俺が唯一尊敬していた教師、と言い換えてもいい。ちなみに40代半ばなのは外見だけで実年齢は50過ぎだというから驚きである。

 「お久しぶりじゃねーよ。全っ然顔見せないもんだからもう俺のことなんか忘れちまったのかと……」

 「忘れるわけないじゃないですか! というか忘れられませんよ」

 「ん、そうか? まあそうだわな。どうだ、小学校のときに俺が言ったこと当たってたろ?」

 「それはまあ……はい」

 そう言われるとこちらとしてはこう返す他ない。

 この先生に言われたことといえば……

 「舛田先生以上に厳しい人は中学にも高校にもいませんよ……」

 「な? 言ったとおりだったろ。はっはっは」

 そう。このひとの特徴は印象的な気のようなものに起因する、その厳しさだった。宿題を出さないものが一人でもいようものなら授業はボイコット。少しでもいじめの気配があれば即座に全員を招集し問いただす。生徒たちに不満だったのは、給食での残しはNGのくせに自分は牛乳が飲めずに毎回誰かに譲っていたことだ。

 そんな前時代的な熱血教師だったため生徒からは嫌われることも多かったが、俺はこの先生のことを心から尊敬していた。

 いつでも自分と生徒に正直で、教師という職業に夢や理想をもっていて、そして何よりも生徒に対して親身に、ひとりの人間としてぶつかってきてくれたただ唯一の存在だったから。

 目の前で朗らかに笑う先生は昔と何も変わっていないように見えた。それがなぜか無性に懐かしい。

 しかし先生の方はと言えば笑顔をすぐに引っ込め、何やら思案顔になってしまう。

 「どうしたんですか?」

 「それがよ、今ちょっと面倒ごとを抱えててな……」

 「面倒ごとですか……」

 「ああ、面倒ごとだ」

 「そうですか……」

 何やら嫌な予感が……。

 「新川、おまえ野球やってたよな?」

 面倒ごとと言うのはどうやら、巡り巡って回ってくるものらしい。

 勘弁してくれ……。

 うなだれる俺を怪訝そうに見つめる先生の脇を通り過ぎていく生徒の元気な挨拶がわんわんと超音波のように耳に残る春真っただ中であった。

 

 

 

 


 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 



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