第四話

 やけにひんやりとした空気はどこから流れてくるのだろう。

 そう思ったがそれは錯覚であることにすぐに思い至る。

 このどこか好きになれない緊張感のある雰囲気はこれから目の前に座る花城さんのお母さんが話し始めることと関係があるのかどうか、俺にはわからなかった。

 ただ、忘れられたようにテーブルに置かれた湯飲みから立ち上る湯気だけが不安げにゆらゆらと消えていくのが印象的だった。

 「このバッティングセンターね、なくなっちゃうかもしれないの」

 「えっ…………?」

 お母さんの第一声に俺は思わず聞き返してしまう。

 「ここが、なくなる?」

 「うん、そうなの。まだ正式に決まったわけじゃないんだけどね。ここまで自転車で来たんだったらわかると思うんだけど、住宅地が前に比べて増えていたでしょ?」

 「……確かに」

思い返してみると道すがら、モデルハウスやら新築の一軒家やら目新しい建物が以前よりも増えてきていたような印象を受けた。

 地方都市とはいっても東京までは二時間かからないような意外に便利な土地柄にあるこの町は近年こういった土地開発が進められている。

 しかし俺がここを最後に訪れたのは三年前がいいところ。

 駅を挟んで反対側、中心街近くに住む俺にとってはこの話とは無縁なのだ。

 気がつかなかったとは言わないが、気にするようなことでもなかったというのが正直なところである。

 寂しげに嘆息して、お母さんは続ける。

 「ここもマンションを建てるからって、立ち退きの勧告は前々から出ていたのね。けど、お父さんが頑張って業者さんにここだけはってずっとお願いして粘っていたんだけど……」

 お母さんはそこで目を伏せてしまった。

 深刻な雰囲気から俺はこの先に語られることを何となく察し、いたたまれない気持ちになる。

 「それで……お父さんは」

 「お父さんはね…………」

 なおも悲しそうに目を逸らされてしまう。

 「無理に今話していただかなくても……」

 「いいえ。そういうわけにはいかないわ。常連のお客さんに店の事情を明かさないのは不誠実だわ」

 「いやでも今は別に常連じゃないし……」

 「また来てくれればいいのよ」

 事ここに至ってまで商魂たくましいな。

 「それじゃあ……お願いします」

 「ええ」

 再び静寂に包まれた建物のなか、緊張感の糸が幾重にも張り巡らされるような音を俺は確かに聞いた気がした。

 それくらいの覚悟をもって受け入れなければならない内容のことをこのひとは今から話すのだとそう本能が感じていた。

 したがって、お母さんの次の一言を脳が認識し理解するのに若干の時間を要したことを誰が責められようか。

 「お父さんね……ぎっくり腰で入院しちゃったの」

 「…………はい?」

 「いやぁね~もうあの人ったら情けない。あのね、機械の整備をするって言って向こうにあるマシンを台車に乗せようとしたらぐぎっとやっちゃったらしいのね。そのとき私はお夕飯の買い物に出かけていたから、学校から帰ってきたこの子から携帯に電話があった時はもうびっくりしたわよ」

 「あ、はい」

 もうそこからは完全に近所のお母さん的なノリが続いた。

 なんでもぎっくり腰で入院したはいいものの、ついでだからといろいろ検査をしてみたらやれ血圧が高いだの血糖値が高いだので入院期間が長引いているそうな。

 それでこの際だからとお店の事情はすっかりぬけていたお母さんは病院の先生と結託して駄々をこねる父親を病棟に放り込んできたという。

 お父さん、完全にしりに敷かれてるな……。

 「そういうわけでお父さんのいない今、このバッティングセンターは存続の危機にあるってわけで……新川くん、聞いてる?」

 俺がよほど間の抜けた顔をしていたのだと思う。

 お母さんは疑わしげな視線を向けてきた。あわてて弁明する。

 「聞いてましたよ。要するに……」

 というか要するも何も、この人は最初から最後までここが危ないという話しかしていないのではないか。

 それを俺に言って何がしたいのだろう。

 訝しげな視線を送ると、気まずそうに顔を逸らす花城お母さん。これは何かありそうだな……。

 「あの、言いにくいことは言わなくても構わないんですけど……」

 「いえ! ぜひ、聞いてもらいたいんだけど……」

 「それなら……」

 「……でも、何て言ったらいいのか……いくら昔の常連さんで知り合いでも頼んでいいことなのかどうか、私にもわからなくて」

 そう言うお母さんの表情はさっきとはうって変わって真剣そのものだ。やはり長年やってきた自分たちの店をそう簡単に畳みたくはないのだろう。

 しかし、そんなに面倒なことなのだろうか。

 あまり経営の根幹に深く関わるようなことなら丁重にお断りするところなのだが、ここのバッティングセンターにはお世話になっていたことは事実であり、できる限りのことなら協力してあげたいのも本音だ。

 ここはひとつ話を聞いてみてから決めるのが最善だろう。

 「それでその、頼みたいことっていうのは……?」

 「うん…………」

 すっかり冷めてしまった湯飲みに口をつけ、唇を湿らすとお母さんはぼそっとひと言。

 「……ゆいにね、野球を教えてあげてほしいの」

 「…………」

 ある意味想定内の頼み事ではあった。

 なぜなら答えはもう、ゆいから送られてきたメールに記されていたのだから。 

 ただそれがどうこのお店の存続に結びつくのか。それが理解に苦しむところだ。

 「新川くん……?」

 黙りこくってしまった俺を心配そうな瞳で見つめるお母さん。

 そこには何かに縋るような色さえ見える。

 だから俺は、さきほどからお母さんと同じくお行儀よく組んだ両手を膝の上に乗せ、黙って俺たちの話を聞いているゆいに目を向ける。

 この子はどう思っているんだろう。

 自分の両親が経営するバッティングセンターがなくなってしまうかもしれないという状況について、何も思うところがないわけはないだろう。

 子どもは意外といろいろなことを考えているものだ。俺の気持ちを言う前にこの子が何を考えているのか知りたい。

 そう思ってゆいの顔色を窺うと、

 「…………」

 またあの、どこか思いつめた表情を可愛らしい顔に宿していた。

 手をきつく握り、まるで無理矢理小さくなろうとしているかのように体を縮こめている。

 そのただならぬ様子を不思議に感じ、そのつもりはなくても説明を求める視線をお母さんの方に投げかけてしまう。 

 お母さんの方はというと、その顔からは困ったわねという感情しか読み取れない。

 両者の煮え切らない態度に俺は我慢できず尋ねた。

 「あの……何かあるんですか」

 お母さんに問いかけたつもりだったのだが、思いがけずゆいが俺の服の裾をぐいとひっぱり顔を近づけてきた。

 子ども特有の体温の高さが間近に感じられ、思いがけず顔が赤くなっていないかと手をやってしまう。耳にかかると息が妙に艶めかしく思うのは……ちょっとやばいな。

 「な、なに?」

 「ちょっとだけいいですか?」

 そう言うとゆいはしっかりとお母さんに断りを入れてから俺を建物の外に連れ出して、言った。

 「新川さん、お母さんの話は聞きましたよね」

 「う、うん」

 「ここはなくなってほしくないと本当に思いますか?」

 いきなりだな。でも、そうだな……俺は……

 「俺はやっぱりなくなってほしい、とは思わない」

 「じゃあ……」

 「かといって絶対にあってほしい、というものでもない……と思う」

 「え……?」

 小学生になにを言ってるんだろうな俺は。

 自分が過去にそういう思いをしているからってそれをひとに押し付けるなんてな。それもつい先日知り合ったばかりのこんんなに小さい子に。最低な野郎だ。

 それでも本気だったからこそ、ここで自分の気持ちに嘘をつくことはできないと。正直に話そうと、そう思う。

 あるいは話すことで、だれかにぶちまけてしまうことで楽になろうとしていたのかも。それなら最底辺のゴミくずだな、俺。

 それでも、爆発してしまいそうな感情をなんとか堪えて口を開く。

 「実は俺な……野球っていうスポーツで嫌な思いをたくさんしたんだ」

 「いやな思い……」

 「そ、嫌な思い」

 「それなら、わたしもいっしょです」

 「だから俺は…………え?」

 思いもかけない方向からの同意に一瞬呆けてしまう。

 「わたしもって、野球で嫌な思いを?」

 「はい」

 あまりにもはっきりと頷かれてしまい、どう切り出そうか考えていたことがぽんと抜けてしまった。

 仕方なくゆいにどういうわけか尋ねてみると、

 「わたしのお父さんは野球選手だったんです」

 「野球選手ってプロの?」

 「はい」

 確かにそれはどこかで聞いたことがある話だった。

 情報源は親父だったと思うが、なんでもここは不慮の事故か何かで選手生活を断念せざるを得なかった元プロ野球選手がやっているとかなんとか。

 冗談好きの親父のことだから、それもどこかからか仕入れてきた噂を誇張して話しているのだろうとその時は取り合わなかったが。

 「それじゃあ、その選手っていうのが……」

 「はい、わたしのお父さんのことだと思います」

 「そうか……」

 でもそれがなぜ野球での苦い思い出につながるのか。

 その疑問はゆいが寂しそうにつぶやいたひと言で解決した。

 「お父さん、忙しかったんです」

 「……うん」

 「わたしは幼稚園とか小学校の低学年のときとかにお父さんと遊んでもらった記憶はほとんどありません。それどころかそのころのお父さんとの思い出だけがすっぽりと元からなかったみたいで……」

 ん?

 「ちょ、ちょっと待って。花じょ……ゆいは今何年生だっけ?」

 途中でなにやらすごい圧力を感じたが気のせいだろう。約束はきちんと守らなくちゃね! などと言っている場合ではない。

 話の腰を折られたからか俺の頭に浮かぶハテナの意味に気づいたのか、ゆいはピンク色のやわらかそうな頬をぷっくりと膨らませ、腰に手を当てて言う。

 「小学五年生ですよ。いったいいくつだと思ってたんですか?」

 春の柔らかく暖かい風がゆいの長い黒髪をさらさらと流した。

 怒っている理由が後者だと判明したところで、ふと現実に戻った俺の驚きは頂点に達した。

 正直父親が元プロ野球選手なんてことよりもびっくりだ。

 身長はいいとこ俺の胸あたり。手も足も顔もすべてのつくりが小さく細やかで、瞳に宿る意志の強さが不釣り合いだとすら思っていたのに。

 「へ、へぇ~。そうなんだ。ところでさっきの話の続きだけど……」

 「ごまかさないでください! わたしのこと小っちゃいと思ってたんですね!?」

 むきー! と怒り狂う小学五年生をなんとかなだめて元の話に戻してもらうのには実に五分という時間を要した。

 「それで、お父さんが忙しかったんだよね? それなら仕方がないんじゃないかな。お父さんも仕事だったんだし……」

 言ってからしまったと思った。

 これは大人の都合だ。そんなことは知らない、お父さんと遊びたいと思うのが子ども心である。

 こりゃまた怒らせちゃうかなと心配していると、

 「そんなことわかってますよ」

 さきのやり取りから俺への態度に少しずつ変化がみられるゆいは子どもにしてはやけに聞き分けのいい返答をした。

 「じゃあなにが嫌なの?」

 「いやなことはいっぱいあります。運動会にはいつもお母さんしか来ないし、親子リレーのときは毎回お母さんが走ってびりになるし、周りの子からお父さんいないんじゃないのとか言われるし……」

 「……そっか」

 「でも」

 そこで一息入れたゆいは強がっている様子もなく、ごく自然に言葉を紡いだ。

 「でも、たまに試合にでてるお父さんはすごくかっこよかったんです。一生懸命うって走って。けがしちゃってからも野球が好きだからって自分の家をこんなにしちゃって」

 「……うん」

 「だから……いやなこともたくさんあったけど、自分じゃやったこともないけど、わたしは野球が好きなんです。それで、それで……」

 「…………」

 黙って聞いてる俺を不安そうに見上げながら、懇願するように両手を胸にあてている。

 「ここを、なくしたくないんです……」

 それは精いっぱいの叫びだっただろう。

 まだ中学生にもなる前の、俺からすればこんなに小さい子どもが親のため、自分のため全てを想って、こうしてここに立っている。

 それなのに俺が絞り出せたのはたったこれだけ。

 「……ごめん」

 本当、最低だ。




 あとでゆいのお母さん——花蓮さんと言うらしい——に聞いたところによると、業者さんからは一定の集客数が見込めない限りは立ち退いてもらいたいと言われているとのことだった。

 そして問題はその業者の人がそれを言いに来たときのことだ。

 たまたまその場に居合わせたゆいがわんわん喚いて業者さんにこう言ったのだという。

 『わたしと勝負して!』

 条件は立ち退き勧告のとりやめ。負ければ即立ち退き。

 しおらしいという印象のゆいからは考えられない行動だが、最後の方に垣間見えた攻撃的な面はどうやら本物だったらしい。

 さらに悪いことにはその業者さんと言うのが男で、しかも野球経験者。

 期日は今日から数えて二週間後。勝負内容は三打席対決。

 元投手だというその業者さんの投げるボールを一回でもピッチャーゴロ以外にすればゆいの勝ち……らしい。

 この勝負、だいぶハンデが付けられているように見えるがゆいが勝つ可能性はほぼ無いと言っていい。

 野球の難しさのひとつは多様な道具を使いこなすことだ。

 素人がバットを握って打席に立っても、同い年ならともかく一回りどころか二回り以上も体の違う相手のボールを打ち返すのはかなり難易度が高い。

 加えて相手は経験者で、こちらはずぶの素人で女の子と来ている。

 業者の人も万に一つも負ける可能性がないからこそ、大人の仕事に子どものわがままを通したのだろう。

 しかしそれを聞いてなお、俺はゆいに手助けする気にはなれなかった。

 お世話になった「花城バッティングセンター」に報いたい気持ちも、花蓮さんの無理して笑ったような顔も、ゆいの裏切られたといった悲し気な佇まいも。

 全部がひとつの感情に大きく飲み込まれていく。

 自転車をこいでいると、大きく広がる雲が目に付く。真っ白な雲は青空に覆いかぶさるようにして、ゆっくりと日差しを遮っていった。

 ひゅうと進行方向とは反対側にひやりとした風が吹いた。

 それは向かい風となってペダルをこぐ足に一層の負担を強いてくる。 

 「くっそ……」

 立ちこぎのまま恨みなのか悔しさなのか自分でもよくわからない感情をはき出す。

 「野球なんて…………!」

 小さく漏れ出たつぶやきは、風と共にはるか後方へと流されていった。

 




 


 

 


 

  

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