*43*キスは三日月の下で

「幸ちゃん、ちょっと外に出ない?」


 雪から提案があったのは、後片付けも済んで、夜が更けてきたころかな。

 何を思ったか、ソファーでくつろいでいた楓が、シュタッと軽快に立ち上がる。


「あ、じゃあ俺、風呂入ってくるっす」

「待て楓、じゃあって何だ。何を悟った」

「かえくん……しばらく幸ちゃんを頂いていきます」

「待て雪、あたしは物じゃないぞ!」

「あとは頼んます、兄さん」

「はいです、弟くん」

「意味深な敬礼やめろ!!」


 嫌な予感ほど当たるもの。

 物分かりがよすぎる弟のオッケーを受け、兄に連れ出された先は、庭。


「さっぶいんですけど……!」


 ただ事じゃないのに、ふふっと笑い、腕を伸ばしてくる雪。

 両耳を包み込んだ手のひらは、暖房の余韻を宿したように温かかった。


「……いつ冷え症完治したの」

「人間に戻ったときかな」

「エセだったのか」


 真冬の夜は、身が引き締まる。

 一方で今日に限って浮かんでいる三日月を前に、戻り難くなる。

 オリオン座を始めとした星の瞬きも、雪の優しすぎる微笑みを照らしてしまうから。


「幸ちゃんがキッチンに立ってるとき、電話があったんだ。職場の上司さんから」


 しめやかな声が、冴えた静寂を通り抜けてくる。


「そう……なんて?」

「5年も顔出せてなかったのにね……戻っておいでって、言ってくれた」

「いい職場じゃない」

「そうだね。早く復帰したいなって思うよ。……で、こんなこと話すのは、ちょっとした思惑があるからなんですが」


 一旦手を引いた雪は、どこかそわそわ。


「ぼく、結構稼ぎます」

「へぇ……」

「職業柄、国語とか得意です」

「ほぉ……」

「ちゃんとお世話するし、勉強も教えます。なので――幸ちゃんをぼくにください!」


〝雪、あたしね――進学したいの〟


 相談したのはあたし。迷惑だよねって、笑い飛ばしたのも。

 にしても、なんつー売り方だよ、まったく……。


「あたしは、何も持ってない小娘だよ」

「知った上で、5年も想ってるんです」

「物好きだね……」

「ずっと幸ちゃんが欲しかった」

「なっ……」

「言ったはずだよ。あと5年早く会ってたら、将来お嫁さんにもらってた自信あるって」


 後はないものと、追い詰められていた雪。

 未来があると知った今、ためらわずあたしを抱き寄せる。


「ぼくだって無償で奉仕するわけじゃない。きみを交換条件にしてるんだ」

「セ、ツ……」

「好きだよ。世界中で一番大切な、ぼくだけの女の子――きみを、ぼくにちょうだい?」


 運命があたしたちを出会わせて、運命があたしたちを引き離した。

 こうして寄り添えていることも運命のいたずらなら、もう、怖いことはないんじゃないか?


「……何回泣かされたら、いいんだろ……」

「ふふ、どんどん泣いちゃえ。ぼくしか見てないからね」

「甘やかすなって、ばか……」

「甘やかしてでも気を引くよぉ。幸ちゃんがいないと、寂しくて死んじゃうもん!」


 急に大人びて戸惑っちゃう。

 瞬きすればいつもの笑顔で、拍子抜け。

 コロコロ変わる顔にいちいちやられて、あたしは、きみのいいようにしがみついてしまうんだ。


「好き……雪、大好き……」


 夜の闇が、覆い隠してくれればいいのに。

 あたしなんか簡単に見つけ出して、真っ赤な目尻に寄せられる顔。

 はらりと零れたちいさな三日月を、やわらかい熱が掬い取った。

 息を呑んだその隙に、唇を覆われる。

 存在を確かめるようにじっくり食まれ、吐息が、互いの中で混ざり溶け合う。


「……すぐに、帰したくないなぁ」

「雪……?」

「かえくんにも見せたくない。その顔」


 月明かりを背に、あたしを見下ろす雪。

 苦笑しながら頬をなでる理由は。


「もうちょっと涼んでよっか」

「っ……ハ、イ……」


 真冬の夜気は、どこへ消えたのやら。

 見られまいと顔を押しつけて、くすりと漏れる笑い声。


「真っ赤に熟れちゃって、リンゴみたい」


 つまりは火に油を注いじゃったわけで、身動きが取れないあたしと、この上なく上機嫌な雪。


「二度と、手離さないからね」


 それが殺し文句でなく、何と言うのか。

 答える代わりに、大人しく腕に包まれた。


 ひそやかな夜、ひとつになる影。

 きっと、誰にも見られてはいないはず。

 淡く光る三日月以外には、ね。

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