*41*バカで、儚くて、美しい

「なくなってしまう前に、あのビルで、確かめたいことがあるんだ」


 いつかはそう言い出すだろうと予感してたから、うなずくのに抵抗はなかった。


 ヒュオオオー……。


 最後に訪れてから1ヶ月弱。

 屋上の陥落を受けて、いよいよ解体工事が始まったという話通り、そのほとんどが骨格のみを残し、野ざらしになっていた。

 今は無きビルの頂きを見上げた雪が、静かに瞳を閉じてしばらく。


「……やっぱり。だから幸ちゃんは、ぼくのことを呼び留めてくれたんだね」


 スゥ……と深呼吸をし、ゆっくりとチョコレート色が現れる。


「未来は、ふたつあったんだ」


〝0は1に、なり得ないんだ!〟


 楓に訴えかけられて気づいた、真実。

 あたしの運命を肩代わりしたのなら、そもそも雪が息をしているはずがなかったんだ。

 だから0じゃない、これは1なんだと確信した。

 ずっと謎だったそのからくりを、「全部解けた」と雪は続ける。


「幸ちゃんはあの夜、ぼくの記憶を見たでしょう」

「……うん。頭の中に、流れ込んできた」

「それと同じようなことが、かすかな痕跡程度だけど……ぼくにもあったんだ」

「……初耳なんですけど」

「目が覚めて、ぼくも色んな感覚が鈍ってたしね。確証が持てなかったんだよ。それが、ここに来てハッキリわかった」


 屋上から落ちた。にも関わらず、5年という長い年月を経て、雪が意識を取り戻した理由は。


「紗倉さんの記憶が、ぼくに流れ込んできたんだ」


 ――良家のお嬢様。

 生まれた瞬間から用意された線路に、疑問を抱いていた幼少時。

 思春期、初めてひとりの少女として恋心を抱いた相手は、彼女の家柄に目をつけ、弄んだ末、社会的に抹殺された。

 愛した男の無残な末路と、追い詰めた親。肉親すら、彼女は信じられなくなった。

 己が生きている意味は何なのか? 彼女は、すがるように追い求める。

 ただ、壊れた心を愛で包んで欲しくて。


「どんな過去があっても、彼女の犯した罪を許すことはできない」


 スッと瞳を細め、静かに言葉を紡ぐ雪から、いつもの無邪気さは感じられない。

 彼を傷つけ、彼の宝物を傷つけた。

 その結果として、彼をかつてないほど激昂させた出来事なんだ。いい想い出であるはずがない。


「でも、彼女を追い詰めたものがあるということを、ぼくらは知った。だから、すべてをないがしろにしてはいけないんだ」


 散々傷つけられたんだ、同情してやる義理だってない。それでも。


「紗倉さんは、最期に過ちを悔いた。きみが〝生きろ〟と存在を肯定したから、生きたいと願えた――その想いを、ぼくは託されたんだね」


 一度言葉を切った雪の表情は、胸のわだかまりがすべて解けたような、安らかなものだった。


 ――悲しむ楓を見ていられず、自分は死んだものと思い込んだまま、病院を飛び出した雪。

 本当は、生霊だったんだ。

 ひとたび願えば、月森 雪は簡単に未来を取り戻せたことだろう。

 そして、佐藤 幸は人知れずその生涯を終えていたことだろう。


 けれど、神様は〝交換〟という形であたしたちを出会わせた。

 生きたいと心から願う者が、そうあれるように。

 雪とふれ合い、生きたいと願うようになった。

 そんなあたしの運命を、雪が肩代わりしてくれて、雪の運命を、紗倉が肩代わりした。


 ふつう0は1になり得ないけど、1は、0になり得るね。

 雪の1は、あたしの1に。

 紗倉の1は、雪の1に。


 ――こうなることすら、神様はお見通しだったのだろうか?


「とんでもない人だったけど……雪を想う気持ちは、本物だったんだね」


 自分のことで精いっぱい。

 そのクセ他人に命を賭けちゃうほど、バカで、儚くて、美しいんだね、人間ってのはさ。

 おそらくいないだろう彼女の残像を辿るように、今一度空を見上げる。


「あなたに譲っていただいた未来を、彼女と共に歩んで行きます」


 雪のつぶやきを、どこからか吹き下ろした風が、拾っていった。

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