*35*0は1になり得ない

「雪ッ!!」


 すがりつくように、細い身体へ雪崩れ込む。

 耳をすませば、トクン……トクンと規則正しい心音。

 胸だって、上下してる。……呼吸が、聞こえる。


「生きてる……っ! 雪っ、あたしだよ、幸っ!!」


 うるさいくらい呼びかけても、彫りの深いまぶたは固く閉じられたまま。

 優しい微笑みをたたえていた口元も、酸素マスクのようなものに覆い隠されて……現実を突きつけられた気がした。


「気道確保のための、チューブだよ。……それがなかったら、寝てるみたいだろ?」

「うん…………ねぇ楓、雪、生きてるんだよね……?」

「生きてるよ。……だけどこの5年、一度も目を覚ましたことはない」

「それって……」

「植物状態、ということです。……お気の毒ですが」

「だから……あたしに黙って」

「楓くんも悩まれていたんですよ。真実を伝えるべきか、否か」

「何も知らせないままのほうが、ユキさんは喜ばない。……そう思ったから」


 確かに会えはした、けど。

 雪が、目を覚まさない……?

 自分で息をしてるのに……?


「ずっとこのまま……話もできない……?」

「5年間も意識不明ですから、脳に機能的な障害が残っているのかもしれません。仮に意識を取り戻したとして、日常生活……いえ、意思疎通をはかることも、難しいかと」

「……そんなぁっ!」


 目を覚ましても、あたしのことを覚えていないかもしれない。

 かと言って、新しい想い出を作ることさえ難しいだなんて。


「こんなのって、ない……っ!」


 最愛の人は、物言わぬ人形。

 それはあたしにとって、ある種の死刑宣告に等しい。


「……笹原さん、少し外してくれませんか」

「楓くん……」

「何かあればすぐに連絡します。今は俺たちだけにしてください」

「……わかりました」


 丁寧なお辞儀を残し、そっと退室する笹原さん。

 彼を見送った楓は、雪にすがりつくあたしのそばにしゃがみ込む。


「俺、今初めて雪兄さんのこと恨めしく思った。……何ユキさん泣かせてんだよ」


 雪だって、なりたくてこんな状態になったわけじゃない。そんなの百も承知。

 それでも、ぶつけどころのない感情が、楓とあたしに恨みつらみを並べ立てさせる。


「最低だ、俺ら置いてくし」

「自分勝手」

「言いたいことだけ言うし」

「独りよがり」

「……こうして文句ばっか垂れてるから、戻って来づらいのかな……」

「……それもあるかもしんない」

「会いたいね」

「うん……会いたい」

「雪兄さん、可愛い弟が首を長くして待ってます。可愛い可愛い彼女さんもいます」

「います……」

「ずっと寝てると、俺がもらっちゃうよ?」

「もらわれちゃいます……ピンチです」

「目を覚ましてくれ……雪兄さん」

「声聞かせて……雪」


 ――長い長い、沈黙。

 返ってくるのは、静かな呼吸音のみ。絶望って、このことを言うんだ……。


「端から見たら、あたしたちすっごいシュールだよね……」

「笑うやつは、俺がブッ飛ばしてやるよ」


 辛いのは同じはずなのに、楓は気丈に振る舞ってる。

 あたしだって、いつまでもへこたれてるわけには行かないんだ。


「雪……」


 梳いたクセ毛は、ふわふわ。

 なでられるの、好きだったよね。あたしはそんな雪が、大好きだよ。

 髪を流して、あらわになった額に、口付けをひとつ。

 ゆっくり顔を上げる。

 雪は、安らかに眠ったまま。


「やっぱダメかぁ……」


 姫でも何でもないあたしのキスは、力不足もいいところだ。

 白雪王子の眠りを、覚まさせてあげられない。


「……仕方ないよね。0は1になり得ないんだから」

「…………ユキ、さん」

「楓、連れて来てくれてありがと。……戻ろ」


 我ながら、よくできた作り笑いだった。

 なのに、クンッと引っ張られる腕。


「0は1に、なり得ない……」


 オウム返しのように繰り返す楓を、見上げる。


「……かしいだろ、これ」

「楓……?」

「おかしいよ! ユキさん言ってたじゃん、雪兄さんは自分を犠牲にしたって!」

「……そうだよ。あたしを助けるために、雪は自分の未来を、捨てたの」

「だからおかしいんだ! この状況が!!」

「楓、意味がよく……」

「0は1に、なり得ないんだ!!」


 気づいてよ、と。

 肩を揺さぶる訴えに、今一度だけ思考を巡らせる。


(0は1に、なり得ない……?)


 ――あたしは、筋金入りのアホなんだろうか。

 散々思い悩んでおいて、あと1歩の領域に踏み出せなかったなんて。


「楓っ! どうしよう……あたし、とんでもない勘違いして……っ!」


 言いたいことが言葉にならない。

 頭の中がグルグルしてる。

 ドクンドクンと鼓動がうるさくて、息苦しくさえ感じる。


「やることは、ひとつしかないだろ!」


 0は1になり得ない。その法則は変わらないけれど。

 今あたしたちの手の中には、起爆装置のスイッチがある。託したのは、きっと神様。

 手を握り合い、顔を上げる。

 胸をいっぱいにふくらませるくらい、息を吸い込む。

 ……それが、闘いの合図。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る