*32*生命の天秤

 今日は特別、心が躍った。それもそのはず。


「すごい……。雪に、こんな特技があったなんて……!」

「えへへ~」


 黒目がちな瞳を珍しく輝かせたきみに、ピタリ、と肩をくっつけられたなら、喜ばないはずがないでしょう!


「グッジョブ、風よけ」


 たとえそれが、思わぬ産物だったとしても!


「はぅ…………ぬくい…………」


 寒いの、苦手だもんね。

 首を縮めて丸くなって。ぼくをウサギさんだと言うけれど、それならきみは、ネコちゃんだね。

 真っ白に染まった噴水広場。

 その中でも、ちいさなちいさな傘の下の世界は、夜空に浮かぶ一等星のように輝いていた。


「あたしとしたことが。なんで早く気づかなかったんだろ」

「ね、言ったでしょ? ぼく男の子だよ~って」


 きみよりおっきいし、力だってあるんだよ。

 そう笑えば、つと、肩の温もりが離れた。

 視線を伏せてもダメ、だよ?

 ほんのり色づいたその頬は、どう見てもかじかんだせいじゃない。そうでしょう?


「ユーキちゃんっ」


 ポスッ。


 今度はぼくの番。呆れ気味に、それでいて気が抜けたように、幸ちゃんはくっついたぼくの頭をなで回す。


「よしよし、お手」

「ぼく、ワンちゃんじゃないです」

「おっとそうだ、ウサギだったな」

「うん、もう何でもいいかな!」


 近くにいられるなら、それで。


(少しくらい……いいよね?)


 ぎゅっと腕を絡めたら「ホントに寂しがりやだな」って、また頭をわしわしされた。

 実を言うとね、この時間が、好き。

 気持ちいいなぁ……人の体温って、こんなにあったかいんだ。


「雪、適度に堪能したら離れてねー。あんたにあげっぱなしで平気なほど、基礎体温高くないのー」

「むむ…………はぁい」

「こらそこ即答」


 いつまでだってふれていられるのに。

 だけどね、幸ちゃんを困らせるのもいやだから、渋々離れることにするよ。


「はー、寒いなぁ」


 形だけ寒がって、きみと同じ人間を演じる。

 きみは何か言いたげ。

 出しかけた手を引っ込め、朱に染まる頬をマフラーに埋める。

 それがあんまりにもかわいいから、なにも見てないフリをした。


「……学校、行く」

「うん。行ってらっしゃい」

「雪……寒い」

「……うん? そだね?」

「風邪菌、ナメんなよ」


 淡々と言い放って、駆けて行く幸ちゃん。

 脈絡のない言葉たちがひとつにつながった瞬間、クスッと笑いが漏れた。

〝風邪引かないように〟って、心配してくれたのかな。

 おめでたいぼくにはね、〝会えないと寂しい〟って、変換されちゃうんだよ。


「手遅れだなぁ……」


 今さらなことをつぶやいて、粉雪が舞う空を見上げた日。

 このときはまだ、幸せだったな。




  *  *  *




「好きだよ、雪……大好き」


 ――綺麗な瞳、まっすぐな心に、どれだけぼくが駆り立てられたと思う?

 手が震えて、血が全身を駆け巡って。

 気づいたときには、自分のことを忘れてと言う唇を、ふさいでいたっけ。

 皮肉だよね。

 きみのためを想ってついた嘘だったのに、きみを傷つけていたと、無理に笑わせて気づくなんて。


「……幸ちゃん……幸ちゃん……っ!」


 ……ごめんね、ごめんなさい。

 忘れてないよ。

 忘れられるはず、ないじゃないか。

 きみはぼくの……すべてなんだから。


 心を通わせるほど、きみに近づく感覚。

 きみの体温だけじゃなく、寒さも感じるようになったんだ。

 同時にきみへふれるたび走る頭痛が、警鐘を鳴らした。


(もう……時間がないっ……!)


 ――寒空に白雪が舞い上がる。

 腕の中のきみは、燃えるように熱い。

 長引くその不調は、風邪なんかじゃない。

 きみの生気を、ぼくが吸い取ってるせいなんだ。

 このままじゃ、ぼくはきみを……殺してしまう。


「行くんだ、幸ちゃん!!」


 ただ守りたくて張り上げた声は、きみを泣かせてしまった。

 ぼくのこと、好きになってくれてありがとう――

 たった一言伝えればよかったのに、罪悪感が邪魔をした。


「幸ちゃん……すき……きみが…………大好きだ」


 いくら切望しようと、〝どちらも〟は選べない。

 0は1になり得ないんだ。

 ぼくが生きるか、きみが生きるか……未来は、ひとつしかない。


(だからぼくは……人知れず、消えよう)


 すべて納得の上で、深呼吸をした。

 なのに……雪の降らない街で、きみが駆けて行った道をあの人が見つめていて。

 ――ゾクリと、肌が粟立った。


(守らなきゃ)


 その想いだけが、ぼくの意識を繋ぐ糸で。

 人でも幽霊でもなくなった身体は、不安定すぎた。

 鈍器で殴られたような頭を抱え、悲鳴を上げる足を引きずる――


「……かえくん!」

「………………え? 雪、兄さん……?」


 辿り着いた先には、あの子がいてくれた。

 ぼくもだいぶ〝こちら側〟に近づいてきたんだろう。

 視線を交わせたことは、残り時間があとわずかであることの証明であったけれど、この場では、単純に安堵へと繋がって。


「お願いかえくん、力を貸して! 幸ちゃんを助けたいんだ!」


 困惑する弟に頭を下げながら、神様へ懇願する。

 どうか、幸ちゃんを連れて行かないでください。

 彼女の運命は、ぼくが引き受けます――と。

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