*27*熱の芽生え

 ――心配なんです。あの子が……かえくんが。


 ぼくはひたすら、天に祈っていた。


 ――あの子を独りにはできません。


 あの子には、ぼくがいなくてはダメなんだ。ぼくが、そうであるように。


 ――お願いします。


 今まで、何も望んではきませんでした。

 でもこれだけは、どうか叶えては頂けないでしょうか。


 ――ぼくは、もう一度だけ、生きたいんです。


 ただひたすらに願って、願って……時の流れも忘れて。

 どれだけ経ったのだろうか。

 ある日突然、ぼくは、まばゆいばかりの光を目の当たりにしたのだ。


 生きたいか? と問われた。

 はい、と答えた。自分には、大切な人がいるから。

 生きる覚悟はあるか? と次に問われた。

 意図をはかりかねたけれども、はい、と答えた。あの子を遺してゆくなんて、考えられないから。


〝では、一度だけ機会をやろう――〟


 それは、神様の思し召しだったのかもしれない。

 ひとりの少女が、不思議と脳裏に浮かぶ。


〝彼女が、おまえの生きるしるべだ。すべてはおまえに委ねよう〟


 ――わかりました。


 そうしてぼくは、言葉の重みをろくに理解しないままに、戻ってきてしまったのだ。




  *  *  *




 たしかに少女はいて、むせ返るような人ごみの中、噴水広場にほど近い通りを歩いていた。

 すぐさま異変に気づく。

 真新しいセーラー服の胸元を握り締め、固く引き結ばれた唇が、弱々しく動いた。


 ――死にたい。


 頬を伝うひと雫に、目が離せなくなった。


 ……つくづくぼくは、楽観的に過ごしてきた。

 明日が来ることは当たり前。生きていくことも。そう信じて疑わなかった。

 だけど、〝生きる〟ってどういうこと?

 ぼくは生きたい。でも今まさに生きている少女は、死にたいと言う。

〝生きること〟と〝ただ息をすること〟は、同じようで違うんだって。

 初めて知る感情に、エラーの3文字が浮かんだ。


 そばにいたら、何かわかるのかな。

 得体の知れない不安に、無意識下で少女を目で追うようになる。


 やがて彼女が幸ちゃんということを知った。

 父親に捨てられたこと、母親を亡くしたこと、学校のみんなとなじめないことも。

 同情……初めに抱いた感情は、そう称するのが妥当だろう。

 数ヶ月を経て、ふと疑問を抱く。

 こんなに悲しみ、世界に絶望してすらいるきみは、口にするように何故死のうとしないのか?


 答えは、誰もいないところで流される涙が教えてくれた。

 そうか……きみはまだ、足掻いているんだね。

 死を願う一方で、自分の存在意義を必死に探しているんだ。

 とたん、アンバランスで、今にも消えてしまいそうなこの子を守ってあげたいという想いが、こみ上げてしょうがなくて。

 そんなこと言ったって、ぼくは非力な幽霊なわけで。

 なにも出来ることなんてない……落胆の息を漏らした、晩冬のことだった。


「何」

「……え?」

「あんた。さっきから見てるけど、あたしになんか用」


 まさか、ウソでしょう?

 夜の更けきった雪空の下、古びたブランコから見上げる黒目がちの瞳が、ぼくを捉えているなんて。


「えっと……大した用はないんですけど」


 内心パニックだ。

 ぼく幽霊だよね……?

 しどろもどろになりながら、話題を模索する。

 いくら視線を泳がせたって、子供向けの遊具しか目に入らない。

 散々焦って、彼女の吐息が白く震えていることに気づいた。


「よかったら……」

「他人からホイホイ物を受け取らないことにしてんの」


 ……撃沈。

 傘を差し出そうとした右腕が、ガクリと下がる。カッコ悪いなぁ……。


「じゃあせめて、早くお家に帰ってね?」


 つい口走り、しまったと後悔。

 この子には帰りを待つ家族がいないのに……。


「あんた変わってるね。あたしなんか気にかけて」


 当の彼女は不満げどころか、キョトンと小首を傾げている。

 肩を滑る黒のセミロングにドキッとしたのには、すごくヘコんだ。

 中学生相手に何ときめいちゃってるの、ぼく……。


「まぁいいや。気持ちだけもらっとく」


 罪悪感とか、全部吹っ飛んじゃった。

 少し口角が上がっただけ。年齢不相応の笑みが……綺麗すぎて。


「じゃあね。あんたも補導されないうちに帰りなよ」

「うん。…………んん??」


 まさかぼく、中学生に間違われてます?

 一応社会人なんですけど……ぼくの事情など知るわけもなく、スタスタ遠ざかるセーラー服姿。

 頼りない街灯に照らされてではあったけど、その足取りがいつもよりちょっとだけ軽い気がして、頬がほころぶ。


 ぼくが、あの子を笑わせられた。

 ぼくでも、あの子を手助けできるんだ。

 ……嬉しい。


「……幸ちゃん」


 少女の名前を、初めて声に出してみる。

 不思議なことに、体温を忘れた身体の芯が、熱を持ったように疼いた。


 この日を境に、もっときみを見ていたいと思うようになったんだ。

 きみはもう独りじゃないって、いつか伝えたくて。

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