*26*ひとひらの記憶
砂埃を巻き上げ、ガラガラと崩れる足場。
歪な灰色の塊たちが、一点に向かい加速する。
まるで想いも希望も無差別に呑み込んでゆく、ブラックホールのよう。
(……死にたくない……っ!)
――タンッ。
肌を切る風の中、吹き付ける白雪の流れが変わった。
「死なせないよ」
白銀に垣間見えた墨色。
窒息、するかと思った。
なす術もなく宙に投げ出されたあたしを、温もりが引き寄せる。
「あはは、かえくんのまんま飛び出すところだった。危なかったなぁ」
どうして飛び降りたの。
どうしてためらわなかったの。
いくつもの〝どうして〟がのどにつっかえたあたしの至近距離で、チョコレート色の瞳はほころぶ。
「こんな形になっちゃったけど、見てくれる?」
強風に煽られる前髪を払われ、こつ、とくっつけられる額。
とたん、あたしの中に流れ込んでくるものがある。
それは雪の――ひとひらの記憶。
* * *
――あの日、予報を遥かに上回る大雪が人々の足を遠ざけ、彼女の凶行を促した。
パサ……と乾いた音を立てたのは、ぼくの傘だったろうか。
声は音にならず、ひゅう、とのどが鳴るばかり。
「せつにい、さん…………逃げ、て…………」
「……かえ、くん? かえくんッ!!」
行ってきます! と、今朝も元気に登校していった弟は、見るも無残な姿で横たわっていた。冷たい床は、鮮烈な紅の海。
夢中で駆け寄った。抱き起こすだけで錆びた鉄のにおいが鼻を突き、ねっとりと生温かい血液が両手を濡らす。
「かえくん、しっかりして! 目を開けてよ! お願いだからっ!!」
「お待ちしていましたわ、雪さん」
この惨状にふさわしくない、落ち着いた声が響く。
コツ、コツ……とヒールの音が、やけによく聞こえて。
「私からのプレゼントは、気に入っていただけましたか?」
振り返った先に、鮮血の滴る銀の刃。
見上げた先に、返り血を浴びてなお嬉々として微笑む、美しい顔。
一瞬で、すべてを理解した。
「沙倉さん! どうしてっ……こんなにむごいことをッ!!」
「雪さんのせいですよ。……あなたが、楓ばかり気にかけるから……」
「ぼくの、せい……? ぼくが、今夜のお誘いをお断りしたからですか……?」
「そうです。私、本当に悲しくて、寂しくて……」
「だからと言って、許されることではない!!」
ひどく両肩を跳ねさせた沙倉さんの瞳に、じわりと涙がにじむ。
それもそうだろう。ここまで激昂したのは、生まれて初めてだから。
「違う……私はただ、雪さんに振り向いてほしくて……」
うわ言のように繰り返す彼女。
(……今が好機か)
一刻も早く弟を助けるために、コートのポケットへ、そっと手を滑り込ませる――
「納得いきませんっ!!」
荒ぶる叫びとともに、携帯が宙を舞った。
勢いよく床に叩きつけられたそれに、追い討ちのごとく鋭い刃が突き立てられる。
弾かれた右手の、ほんの3cmほど横で。
「きちんと殺せていたなら、私だけを見てくださったのでしょうか……」
一瞬で距離を詰めた彼女は、まばたきもせず、ぼくを一心に捉えている。
だのに意識はどこか別方向を向いており、えぐるように刃をねじ込む姿が、弟に向けられた怒りだと思うと……。
「楓を殺すのは、あなたの愛情です。生かすのもまた、しかり」
「――!」
「楓を本当に愛しているなら……私といらしてください」
憤りの目を向けられたことで、彼女の何かが壊れたらしい。
間近に迫る瞳の、なんと暗いこと……。
「…………わかり、ました」
すべてを投げ打ち、ぼくと死ぬつもりか。
容易にはかり知れたけれども、うなずいた。
通話手段はガラクタと化し、もはや選択肢などないのだから。
自身の携帯をちらつかせる彼女。
唇を噛み締め、美しい笑みに続いて、階段へと足を向ける。
恐怖よりも、遠ざかる弟のことがただ、気がかりでならなかった。
* * *
目を覚ますと、白い壁が広がった。
悲痛な嗚咽が響き渡った。
病衣のあわせから包帯をのぞかせた弟が、兄さん、兄さん……と何度も繰り返す。
(ああ、ちゃんと助かったんだね)
薄暗い部屋の隅でホッと胸をなで下ろす。
すぐに罪悪感が胸を支配した。
(ごめんね、かえくん。そこにぼくはいないよ。こんなに愛しいきみを置き去りにするなんて、ひどいお兄ちゃんだね)
いくら謝っても、ベッドに横たわったもうひとりのぼくは、答えない。
よっぽど気がかりだったんだろう。幽霊と成り果てたぼくは、弟からもらった大切な傘を手にしていた。
だけどいざ悲しむ後ろ姿を目の当たりにすると、形容し難い痛みばかりが胸を支配する。
居たたまれず、外へ飛び出すのに時間は要さなかった。
向かった先は噴水の綺麗な広場。病室からよく見えていた場所だ。
サラサラ流れる清水が軋む心を洗い流してくれるようで、自然と腰を落ち着ける。
空腹も気温も睡魔も感じることなく、いたずらにさまよう毎日。
そのうちに、どうしてぼくはここにいるんだろう、と疑問を抱き、やがて思い出す。
そうだ、もう一度あの子と笑い合うためだ――と。
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