*20*ひとつの笑顔

 一寸先は闇。言葉的にも状況的にも。

 真冬の冷気がはびこり放題の廃墟で、かろうじて隣に楓の体温を感じるくらい。

 針の落ちる音すら逃さない静寂を経て、楓は息をもらす。


「よし、追って来てないな」

「……なんでわかんの……」

「発作がないから」

「……物は捉えようか」

「そういうこと。だからユキさん」

「……なに」

「ここまで来たら、大丈夫だよ」


 頭にそっと手を添えられたとたん、プツン、と糸が千切れる。


「……何なのよぉ、あのオバハン……っ!」


 ヘナヘナ崩れ落ちるあたしを楓が抱きとめ、壁際に座らせてくれた。

 同じ目線にしゃがみ込まれたなら、もう限界。


「犯罪者相手だもんな……怖かったよな……ありがとう。もう俺は平気だよ」

「かえでぇっ……!」


 深い切り傷、大量の血痕。

 あたしにとっては非現実的、だけど確かに現実で。

 恐る恐る左胸へふれた手を、包み込んでくれる手のひら。

 楓自身も恐怖していたはず。

 その上で、トクン、トクン……と応えてくれる鼓動にひとしきり安堵の嗚咽を漏らした。


「……ありがと。なんとか整理つきそう……。だから、聞いてもいいかな、色々」


 一瞬の間があって、楓はうなずいた。

 再度手を引かれ、立ち上がる。

 あいにくライトは敵にプレゼントしてやったから、昔話は夜目を頼りに歩きながら。


「紗倉は、清楚なフリして男グセ最悪なんだ。俺も中学んときに目をつけられた」

「うっわぁ、悪趣味……」

「もちろん拒否したさ。それがお気に召さなかったんだろうな」

「そんな……言うこと聞かなかったくらいで殺そうとする? 飛躍しすぎじゃない?」

「気に食わなかった、プラス邪魔になったんだよ。俺がいると思い通りにならないって」


 ハチャメチャな言動から察するに、確かに恋愛対象としては見ていなかったな。


〝情けない弟を持ったものだわ〟


 曲がりなりにも、一度は異性として見ていた楓を、弟扱いする意味って。


「楓のお兄さん……目をつけられたの」


 慣れてきた暗闇の中、唇を噛む横顔。それが答えだ。


「気の優しい人だった。歳が離れたクソガキを、文句ひとつ言わず面倒見てくれて。俺は兄さんに育てられたようなもんなんだ」

「尊敬、してたんだね」

「あぁ……ホントいい人だったから、あいつ調子に乗ったんだ。優しくされたのを勘違いして、兄さんに付きまとって…………それであの日……っ」


 楓、と腕を引き遮る。

 だけど苦しげなまま頭を振られる。

 心を固めたような瞳だった。


「あの日……俺を刺したあいつは、兄さんと心中を図ったんだ……!」

「……ウソでしょ……」

「途切れ途切れの意識の中、あいつと落ちる兄さんを、5階の窓から見たんだ。なのにようやく病院で目が覚めたとき、ニュースが報道していたのは〝男性が飛び降り自殺をした〟とだけ」


 ……そうか。だから〝みんなが知ってることと真実は違う〟って。

 あたしは弥生さんたちから〝亡霊がいる〟としか聞かなかったし、楓からは〝飛び降りたのは女性〟と聞いた。必然的に〝亡霊の正体は飛び降りた女性〟と思う。

 でもニュースを観た人からすると、〝亡霊の正体は飛び降りた男性〟だったんだ。


「兄さんが自殺なんてするわけない。だけどあいつと落ちていたことも、あいつの亡骸が見つかっていないのも事実だった。わけわかんなくなったよ……」


 ……10階から飛び降りたなら、タダでは済まないだろうに。楓の混乱も最もだ。


「仮に、超複雑な奇跡が起きていたとして、あの人が今頃あたしたちの前に現れた理由って、何なんだろう……」


 想い人はいない。残ったのは楓。

 あたしが傷を知っていたというだけで、楓の想いを見抜いたあの人。

 殺し損ねた楓に再び危害を加えるつもりなら、なんであたしを抱かせようとしたの?

 ……そうすることが、あの人にとってのメリットだった?

 あたしと楓が結ばれること。あたしたちがそろっていなくなること……。


 ……もしかして、あたし? あたしも邪魔だった?


 あたし何かしたっけ? あの人とは赤の他人もいいところだよ。会ったことなんて、あの日しかないし……。


「…………いや、待って。ちょっと待って」


 あたしはあの日、見たじゃないか。笑顔で雪と話すあの人を。

 あの人があたしに告げた〝記憶障害〟のことも、違っていた。雪はあたしを覚えてくれていた。


〝こんなやり方できみを守ろうなんて、間違っていたんだ……!〟

〝時間がないんだ! 早くしないと、あの人に見つかってしまう!!〟

〝この先に、きっといる。あの子がいてくれるから……頼って。そしてどうか……〟


 のどを枯らすように訴えた雪が、最後に残した言葉は。


〝どうか……ぼくのことは忘れて〟


 あの子と、幸せになって――と。


「楓……っ!」


 グイと引っ張られた腕に、楓の歩みが止まった。

 振り返った焦げ茶色の瞳を、しかと捉える。


「ユキさん……?」

「教えて。楓のお兄さんの名前は、何?」


 その瞬間、限界まで見開かれる焦げ茶色の瞳。

 つばを呑む音。……沈黙。


「…………ユキさんの話を聞いてたとき、クリスマスカードを見たとき」

「……え?」

「まさかとは、思ってたんだ。……やっぱり、まぐれじゃなかった」


 向き直る動作が、やけに長く感じる。

 お互い強張った表情。

 楓はあたしの目線にかがみ、ゆっくりと口を開く。


「ゆき……白雪の雪と書いて……セツ。俺の兄さんは、月森 雪だ」

「ッ!!」


 ――大きくなったねぇ。

 ――こらっ、喧嘩はダメです!

 ――ほんとは優しい子なんだよね。

 ――かえくんは、ぼくの大切な弟だよ。


 脳裏を駆け巡る声……あたしの記憶じゃないのに……あたしは、知ってる。


〝幸ちゃん! かえくん!〟


 ふたつの声音が、ひとつの笑顔に重なった。


「そんなっ……まさかっ……雪が、楓の……でも雪は、元気で、ふれられてっ!」

「ユキさん、落ち着いて!」

「ウソだ! あんなに笑ってたのに、雪が、雪が……!」


 雪が、死んでる……なんて。


「う、ぁ……っ!」

「ユキさんっ!?」


 痛い……痛い痛い痛い。

 頭が真っ二つに割れそうだ……身体だって、沸騰したみたいに熱い……。


「熱が悪化したのか! くそ……ユキさん、俺に掴まって。早くここを出よう!」


 まるで地震が起きたよう。平衡感覚を保てない。

 耳鳴りで遮られる断片的な声を頼りに、腕を伸ばす。

 やっとの思いで鉛のまぶたをこじ開けたとき、楓の向こうの闇が揺らいだ。

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