*19*たったひとりの、特別な
依然投げ出されたライトの頼りない光に、人影が浮かび上がる。
闇のように艷やかな黒髪を持つ女性は、床に膝をつく楓を、あたしを、妖艶な笑みで見下ろす。
「ごきげんよう、幸さん。それと――楓? まだしぶとく生きていたのね。浅ましい男だわ」
穏やかな声音だけど、言ってることは全然穏やかじゃない。この人は誰なの。
「なんで……なんでおまえが生きてるんだよ、
「5年ぶりの再会だというのに、相変わらず進歩がないわね……情けない弟を持ったものだわ」
「おまえみたいな姉を持った覚えはない! 人間面した悪魔が!!」
「――黙りなさい。またお仕置きされたいの?」
「くぁっ……!」
「楓っ!?」
「う……ぁ、は……っ!」
身体を折る楓。苦悶の表情を浮かべ、額からは玉の汗が噴き出る。
全身はガタガタと恐怖を訴えて……粟立った手先が掻きむしるように掴んだのは――左胸。
脳裏に焼きついた痛々しい傷痕が、フラッシュバックする。
「傷……お仕置き……? っ、楓に何したんですか!」
「傷のことを知ってるの? あんなに異性を毛嫌いしていた楓が、幸さんにはねぇ……肌を許しておいて、どうしてモノにしなかったのかしら。理解に苦しむわね」
意味はわからない。が、つらつらと並び立てられる独り言が楓を冒涜していることだけがわかれば、充分だ。
浅い呼吸を繰り返す楓の肩を抱き、女性――紗倉を睨みつける。
「あら怖い。誤解よ幸さん。この子ったら昔から聞き分けが悪くてね、少しお灸を据えただけなのよ?」
「少しのお灸で、あんなに深い傷が残るもんか」
「だって苦しませるほうが残酷じゃない? すぐ楽になれるように、ちゃんと狙ったのよ、ここ」
トントンと首筋を叩く沙倉。
確信した……この人は、楓を殺そうとしていたんだ。
たとえ頚動脈をかわされても、深く切りつければ致命傷を負わせられる。左胸は特に。
「賢い幸さんへ、いいことを教えてあげるわ。そこの血はね、楓のものなのよ」
「……な」
「ぜんぶ、ぜんぶ、ぜーんぶ! 綺麗な紅色だったわ! あのまま死んでくれたら最高だったのに!」
狂ってる。
高らかに嗤う彼女は、確かに人の皮を被った悪魔だ。
「ユキさん……逃げて。こいつが生きてたなんて計算外だった……このままじゃ、殺される」
「何言ってんの! 楓を見殺しにするような真似、そんなのっ、殺人鬼と一緒じゃん!」
「仲間外れはいやぁよ?」
この上なく甘美な吐息が、じかに耳朶へふれる。
固まるあたしたちから一歩離れ、クスクスと微笑む美しい悪魔。
「見逃してあげましょうか? ふたりとも」
「……何を、させるつもり」
「察しがいい子は好きよ。だけどそんなに構えないで。とても簡単なことだから。ねぇ楓……折角だもの、幸さんを抱いてさしあげなさいな」
「……なんか、サイッテーな空耳が聞こえたような」
「我ながら名案だと思うのだけれど? あなたは想い人を失って間もない。楓なら虚ろな身体を、心だって満たしてくれるわ。あなたのことを愛しているんですもの」
「あたしと楓の心情を、勝手に決め付けんな」
「それは残念ねぇ……幸さんは気が乗らないみたいよ、楓?」
そこで初めて異変に気づく。絶えず紗倉を睨みつけていた楓が、やけに大人しいと。
ついのぞき込み、肩が跳ねる。
あたしを捉えた瞳……熱に浮かされたそれに、見覚えがあったから。
「……幸」
「ひゃっ……」
ふいに両肩を押され、ふたりしてもつれ込む。
両手首は冷たい床に縫い付けられ、脚は膝を割り入れられビクともしない。
「ウソでしょ楓……んぅっ、んんっ!」
唇を奪う、なんて生易しいものじゃない。頑なに拒否する唇を強引に割り、熱い舌が入り込んでくる。
……呼吸が、できない。
抵抗が弱まると、楓はさらに体重をかけ、繋がりを深くした。
あたしに残された道は、貪るような口付けを受け入れることだけ。
「ほらね。欲深い生き物なのよ、男って」
冷めたつぶやきがどこで漏れたものか、それすら判別できない……。
「かえ、でっ……お願いだから離して! 楓っ!」
わずかな息継ぎの合間、声を上げる。
がむしゃらな訴えもむなしく、キスで濡れそぼった熱い唇が、首筋に押し当てられた。
「あッ……!」
「生々しい光景ね。男の醜さがよくわかるわ。ねぇ幸さん、もうおわかりでしょ? 抵抗する分辛いだけよ。そろそろ楓に身を委ねなさいな」
「やだぁっ! 楓ッ!!」
いやいやと首を振れば頬にキスが落とされ、次は耳朶……。
「……ごめんユキさん、俺のせいで」
密着していなければ聞こえない程度の、かすかな声がした。聞き間違いじゃない。
「俺が隙を作るから逃げて。いいね」
そんなっ――紡ぐ前に塞がれる唇。
ふれるだけの優しいキスの後は、愛おしげに髪を梳いて……。
「……最後くらいは、想い出もらってもいいよなぁ……?」
「か、えで……何を……」
「愛してるよ、幸…………そして」
――サヨウナラ。
切ない微笑みを残し、身を翻す。
「きゃああっ!」
顔を押さえ、うずくまる紗倉。
楓が渾身の力で投げ放ったライトの光、そして衝撃を、顔面で受け止めたのだ。
「行けッ!!」
追い立てられるように立ち上がる。
視界の端で紗倉に掴みかかる楓……彼が間もなく崩れ落ちる様を、目の当たりにする。
……発作だ。
彼女に刻み込まれた悪夢が、年月を経てなお、楓へ魔の手を伸ばす。
「よくもっ……!」
「楓にさわんな、妖怪ババアッ!!」
喧嘩とは縁遠い。そんなあたしのちっぽけな拳が、空振り三振でもわずかながら距離を生んでくれた。
立て続く強襲に、沙倉は逃げるようにして闇の中へ姿を溶け込ませた。
あたしはきびすを返し、肩で息を繰り返す楓に駆け寄った。
「ユキさ……なん、で……」
「あんたはあたしの一番にはなれない。けど月森 楓は、ひとりしかいないだろ! たったひとりしかいない、特別なバカ弟子なんだよボゲェッ!!」
もう誰も見捨てたくない。
だから簡単に死にに行くようなバカはやめろ!
まだあたしがいるだろが!!
我慢ならなくなって、思いのまま、感情のままに楓を力いっぱい抱き締めた。
キツイくらい両腕を首に回して……。
「オラ、とっととずらかるぞバカ弟子!」
「いってぇっ!」
容赦なく、両耳を引っ張る。
安堵の涙で情けない顔を、見られてしまわないように。
「ちょ、そこ耳です……少しは労って……」
「師匠に口答えたぁ威勢のいいバカだ。そーいやおまえ、足速かったなぁ。師匠乗っけて逃げろ」
「5階から駆け下りんの!?」
「たりめーだろ。ずらかるのに上がってどうすんだ。バンジーでもやんのか。いいこと教えてやろうか、死ぬぞ」
「知ってる!!」
「つーか漫才してる場合じゃなかった!!」
楓の手首を引っ掴み、よっしゃ逃げるぞスタコラサッサ。
「もうやだユキさん……大好き、愛してる」
「うわああ痒いッ、背中が痒いッ!!」
「速いよユキさん、その調子!」
「ひぎゃああああっ! 痒みが手先にもぉおおおおッ!!」
手首を伝い、ギュッと握られた手。
今まさにあたしを追い越した楓は、史上最高にだらしないふにゃふにゃスマイルだった。
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