*18*闇に咲く花
血のように紅い夕陽が、宵に飲み込まれてゆく――
ゆらゆらと、不気味に影を伸ばしたとある建物の前に、あたしたちはいた。
行くな、と異様に楓が引きとめた理由……それを理解するのに、時間は費やさなかった。
「ここ……弥生さんたちが言ってたビル」
心霊スポットと名高いだけあって、人影は見当たらない。
十数分歩いただけで街とはこんなに違うのかと、身震いがした。
「屋上、結構高いだろ?」
「うん……10階建てくらいかな。広くないけど、この辺じゃ目立つね」
「もともと、クリスマスの時期は屋上から街のイルミネーションが一望できるって、有名だったんだ。事件が起きて廃ビルになった当初は、誰も立ち入らなかったんだけど」
「物好きさんたちが、面白半分で探検し始めました……と」
「帰ってきた人はみんな同じ反応だったらしい。酷く怯えて、何も覚えてないってさ」
それで、屋上まで辿り着けたカップルは結ばれる、ね。
築年数自体、相当長いという上に、物騒な事件があったんだ、管理者は喜んで取り壊しに応じたというが……。
まじまじとビルを見上げる。
組まれた足場は錆びつき、そこに存在するだけの鉄の棒。外観を覆うブルーシートは脱色し、大きくめくれ上がっている。
そのみずぼらしいつぎはぎのすきまからは、風化し、今にもボロボロと崩れ落ちてしまいそうなコンクリートの壁が顔をのぞかせていた。
度重なる幻聴、幻覚に、作業員はひとり残らず逃げ出してしまったという楓の話を、疑う余地はもはやない。
そんな場所へ、あたしたちは今まさに、潜り込もうとしているのだ。
「ユキさん、俺の手を絶対に離さないで」
幽霊なんて非科学的なもの、信じてない。
それでも楓の真摯な表情を前に、うなずかずにはいられなかった。
どうして雪は、こんないわくつきのビルを待ち合わせ場所にしたのか?
何もわからないまま、探索は始まる……。
* * *
あたしたちみたいなのが入り込むのを防ぐためだろう、正面玄関は硬く施錠されていた。
さて、どうしたものか……考え込むより早く歩き出す楓。
来て、と言われるままについて行けば、なんと、裏口らしき場所に行き当たるではないか。
「開いてるな。ユキさん、こっち」
「何ここ、なんで知って……?」
「……心霊スポットとかウワサが立つくらいだろ。入り口のひとつやふたつ、物好きが作ってくれてるもんさ」
「そういうもんなの?」
「そういうもん。暗いから足元気をつけて」
チェーンが絡み、一見して閉ざされた扉。
錆びたドアノブをひねれば、ギィ……と不気味な声を上げ、あたしたちを迎え入れた。
宵時ともなると、閉め切られたブラインドカーテンのすきまから入るものは何もない。
フィールドジャケットの右ポケットから小型懐中電灯を取り出す楓。
彼を始点に、LEDライトが4~5mほど先を照らし出す。
「なんにもない……」
「ここに入ってた会社全部、さっさと出てったみたいだからね」
まぁ客は寄り付かんわな。だだっ広いだけの場所で納得。
ていうかメッチャ声響くんですけど。
あと向こうから聞こえるピチョン……とかホラー映画にありがちな効果音、何すか。何なんすかホント。
「雨漏り、ってか雪漏り? 天井から雪溶け水が滲み出してるみたいだ」
「バカやろう、滲み出すんじゃねぇよ……」
「ああいうところは脆くなってるから、別の方面で階段探そう。……寒くない?」
「むしろ暑いだす」
怪しいろれつでズズッと鼻をすするあたしに、楓は苦笑。「早く終わらせよっか」と繋いだ手を握り直した。
ちょっと冷や汗かいてる……? 心底嫌がってたもんな、ここ来るの。
「楓さん、幽霊が怖いのは悪いことではないです。わたしもビビってきました」
「ははっ……ありがと。幽霊には負けないよ」
楓は「行こうか」と微笑んだ。
ライトで様子をうかがいながら、慎重に歩を進めていく。
自然と会話は途切れてしまった。
楓に引っ付き、足音が響く廃墟を上へ上へと急ぐ。
5階くらいに到達したころだろうか、楓の足が止まった。
緊張の糸が張り詰めていたあたしは、たまらず沈黙を破る。
「どうかした?」
「頼みがある。俺がいいって言うまで、目を閉じて、息も止めてて」
「そらまたなんで……ぬわぁっ!?」
「しっかり捕まってて。行くよ!」
いきなり膝裏を抱え上げられ、とっさに楓の首にしがみつく。
わけがわからんが、理由もなしに変なことをするやつじゃない。
慌てて息を吸い込み、きつく目をつむった。
タタタタッ――
見えなくても、風を切る音が聞こえる。疾走しているようだ。
暗い中、足取りに迷いはない。
ひやりと冷たい空気が頬を撫でる。
これが何かもう知ってる。
屋上から降りてくる風。つまり、階と階とを繋ぐ階段が近い証拠。
――ピチョンと、どこかで水音が響いた。
「ぐっ!!」
「きゃっ!?」
突然崩れたバランス。
間一髪で支えられたけれど、予想外の衝撃にまぶたを上げてしまう。
投げ出されたライトのわずかな光を浴び、苦しげに膝をつく楓が浮かび上がった。
楓っ――呼び声は音にはならず、短い悲鳴がのどの奥で消える。
錆びた鉄のような……嫌なにおい。
見間違いであればどんなによかっただろう。
ライトが照らし出す先、階段手前に、おびただしい赤黒色の染み。
「あれっ――!」
「見るな!!」
強引に抱き寄せられ、胸元に顔を埋めさせられる。
視界を奪ったところで、生々しい惨状は消えはしないというのに……。
あれは紛れもなく血痕。
楓のものでは……ないと思う。だって黒すぎる。ずっとずっと昔のものだ。
楓は、これがあるとわかって……?
「ねぇ楓、楓は、ここのこと何か知ってるんじゃないの?」
あれほど嫌厭していたのに詳しい。それも、建物の構造を熟知しているレベルで。
違和感を覚える度に上手くごまかされたけど、いい加減気づく。おかしいと。
「ユキさん……」
「教えて、楓……!」
ぐ、と楓は唇を噛む。
悲しそうに……それでいて、悔しそうに。
「ここは……飛び降り自殺の現場になった場所……だけど、事実はそんなに簡単じゃない……」
「みんなが知ってることと、真実は違うって?」
「……そうだ。俺はここで、かけがえのない家族を奪われたんだ!」
「――人聞きの悪いことを吹き込まないでくれるかしら?」
ふたりしかいないはずの廃墟に、艶やかな声が響き渡る。
ビクッと隣で大きな身体が跳ねたのを、あたしは見逃さなかった。
見上げて、尋常になく顔面蒼白な楓に、驚愕する。
血の気を失った青紫色の唇をわなわな震わせる彼が、凝視している先の闇……。
足音もなく、ぽうっとロウソクの火が灯るように現れた白いロングコート姿の女性を、あたしは一度だけ目にしたことがある。
雪の降らなかった日、綺麗な黒髪をなびかせて彼と笑い合っていた――
「……さくら、さん?」
あたしのつぶやきに、蠱惑的な笑みがひとつ、闇の中で花開く――……
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