ヴァニティブレイン

城屋

第一話 欠けてる女

東京都新宿区。都立藤和学園。2016年4月22日(金)。


特に実りのない一日が、いつものように過ぎ、いつものような退屈極まりない授業が終わり、変わり映えのしない放課後となる。


遅咲きの品種の桜は見頃だが、二年の教室内からはやれ『一年に可愛い子がいる』だのやれ『部活の勧誘張り切らないと』と息巻く連中はナリを潜め、当の一年生も初々しさが消え失せているころだった。


河辺弧歌かわべこうたは一年前の入学式直後のころ、新しい環境に胸を躍らせていたものだったが、現実の高校はやはり中学と何も変わらない。


今の一年もおそらく『まあこんなものだろうな』と思っているに違いないのだろう。


掃除当番は別の班であり、弧歌は帰宅部なので、さっさと帰ろうと椅子から腰を持ち上げる。


そのとき、ふと窓の外の集団が目についた。


ある一人の女生徒が、リーダーらしき女生徒に手を引っ張られ、校庭の隅にある体育倉庫の影に連れ込まれていく光景だ。それに追従して二、三人の女生徒も影に入り、見えなくなる。


「……またかよ!」


弧歌は鞄を引っ張って、一気に駆けだす。途中の階段も半ば転がり落ちるように。


◆◆◆

体育倉庫の傍。校舎からは影になっており、ほとんど誰にも見えない場所。

日当たりも悪いので薄暗く、気温も周囲よりこころもち低い。


手を引っ張られていた少女は、そこに連れ込まれていた。

取り巻きは周囲を固め、標的が逃げないように、あるいは傍に誰かが来ないように見張りを始める。


「適材適所って言葉、知ってる?」


リーダーらしき女生徒が口を開く。薄ら笑いを浮かべ、挑発的な目線を標的に送りながら。

それを受けている少女は、記憶を手繰らせるように目線をふわふわ上に向けている。その様は不気味なほどに冷静だった。


「人の能力、特性を理解してふさわしい地位につけることだよ。なんだ。授業の予習をしたいのなら、ここよりもっといい場所を紹介してあげたのに。図書館には辞書もあるんだよ?」


どこかズレた回答をする標的に不快感を覚えたのか、リーダーらしき少女の薄ら笑いが一瞬ひきつる。


「ねえ。私の言いたいこと、わかる? 身の程をわきまえろって言いたいの」

「ほう。見の程を。具体的には?」


涼しげな顔をして詳細を訊いてくる標的に、またしても笑顔がひきつる。


「……目立ちすぎなのよ。あなた。大して可愛くもないくせに」

「目立ったっけ?」


本気で心当たりがないらしく、その上に興味も薄そうだ。

その様が更に苛立ちを募らせる。


標的の少女は、名を河辺波耶かわべなみやという。

目は切れ長。髪はハッキリとわかる茶色のショートカット。きめ細やかで、ずっと見ていると無意識に撫で上げたくなる白い肌。瞳の色は宝石のように澄んでいる美少女だ。


つまるところ、これはクラス内のカースト上位の少女による嫉妬の発散と、己の権威を示すための私刑の一環であり、波耶はいわれのない難癖を付けられているに他ならない。


よって、彼女自身に覚えがないのも事実だ。



「なんであなた、そんなに冷静なの?」

「?」


私刑の一番の理由はこれだった。

波耶の表情は一切動かない。ポーカーフェイスや演技でできるレベルを遥かに越している。どんな状況にあっても無表情、無反応を貫く。


自分より下の人間の涙や、屈辱に歪んだ顔を見るのが生き甲斐の彼女にとっては、不気味なことこの上ない人間だった。


例外は一つとして許せない。何故なら、波耶のような人間が一人でも存在しているだけで、彼女が積み上げてきたカースト制度にヒビが入ってしまうからだ。


波耶自身に下剋上の意志がなくても関係はない。波耶の態度に勇気づけられた人間が出てくる可能性がある。自分の世界を守るため、なにがなんでも波耶の無表情を崩す必要があった。


リーダーはポケットから折る刃式のカッターナイフを取り出し、波耶の目線上に突き付ける。怖がらせるため、刃は多めに露出させた。


「私はこれから、カッターで何をすると思う?」

「……」


波耶は少し考えた後、言った。


「何してもいいけど、使い方間違ってるよ。カッターは薄いから出しすぎると、すぐ折れちゃうから」

「……」


もう限界だった。

リーダーは波耶の胸倉を掴み、カッターを逆手で振り下ろして制服を縦に引き裂く。白い肌を包む水色の下着も少し傷が付いたようだ。


「!」


初めて波耶の表情に変化が起こった。驚いたように目を見開いている。

リーダーの心臓が喜悦に弾んだ。もっと制服をズタズタに引き裂いて、帰れないようにしてやる。


そう思った矢先――


ずぶり、と肉にカッターが沈み込んで止まった。


「え?」

「いや、ダメだよ。制服だけはダメだ。治らないから」


波耶がカッターを素手で掴んで止めていることに気付くのに時間がかかった。

勢い余って、少しカッターを引いてしまい、手からの血飛沫がリーダーの顔にかかる。


「ひ、ひぃっ!?」

「あ。ごめん」


あまりのことにカッターから手を離し、後ろに飛び退くように後ずさって、バランスを崩し尻もちをついてしまった。


理解の外の出来事に、リーダーは青い顔面で口をパクパクさせ、取り巻きは見張りも忘れて唖然としている。

流石に流血沙汰にまでする気はなかった。せいぜい、波耶の尊厳を地面に叩きつけて泥まみれにしてやる程度のはずだった。


実際に制服をズタズタにしたことで、初めて反応らしい反応を得ることができた。当初の目的は達成したというわけだ。


だが、それが逆に、更なる不気味さを引き出す結果となってしまった。


波耶が気にしているのは制服のことだけ。自分の手のことなどまったく気にも留めていない。変わらずにカッターを握りしめている手からは、鮮血がボタボタと流れ落ちている。肉が切れているどころではない。骨にまで刃は達している。


「……どうしよう。お父さんに怒られるかな。あ、カッターも血で汚しちゃった……どうしよう。水で洗ったら切れ味落ちるかな」


無表情なりにあたふたとしているのは挙動でわかる。

そして、懸念がカッターの汚れにさしかかったとき、リーダーの方へと意識は向いた。澄んだ目を向けられてリーダーはビクりと肩を震わせる。


「ごめんね。咄嗟に止めたらこんなことになっちゃって……」

「ひいっ!」


波耶が一歩近づいてきたので、リーダーは尻もちをついたまま後じさりする。

取り巻きに視線を送ろうとするが、彼女たちは既に任務を放棄してどこかへと逃げ去っていた。流血沙汰になった時点で面倒事は御免だと思ったに違いない。


「や、やめて。来ないで! ごめんなさい、私が悪かったから!」

「……ねえ。大丈夫? 顔色が悪いよ? 保健室に連れて行こうか?」


錯乱の末か、あるいは薄暗い環境による相乗効果か、もうリーダーには波耶がバケモノにしか見えない。目を合わせているだけで命を奪われてしまうような恐ろしい妖怪のようだ。


「ねえ。大丈夫かって聞いてるんだよ?」

「――ッ!」


誰か助けて。そう思ったときだった。

ふと、波耶の意識がリーダーとは別の方に向いた。


「あ。コータ」


釣られてリーダーもその方向を向くと、肩で息をしている少年がいる。確か、彼は――


考えが及ぶ前に、少年は弾かれたように走り、こちらに向かってくる。

そして――


「人の妹に何してくれとんじゃコラァ!」


サッカーボールのように頭を蹴られてリーダーは気絶した。

意識が遠のいていく刹那、自分の築いたスクールカースト制度が崩れ去ったことを自覚しながら。


◆◆

河辺弧歌には同い年の妹がいる。双子ではない。父親の再婚で新しく家族になった母親の連れ子だ。


しかし、父親が再婚したのは弧歌が小学二年生のころ。義理の妹とは言え、付き合いは長い。弧歌は波耶のことを間違いなく自分の家族だと認識していた。


兄である自分の使命として、妹のことは自立するまで守ってみせる。そう誓ったはいいものの、しかし彼女には問題があった。


おそらく感情がないわけではないのだが、それが発露する瞬間が極端に少ない。笑った顔に至っては、家族ですら一度も見たことが無かった。


ともすれば不気味とも取られる彼女の性質は、空気を読まない者を敵と認識するこの社会とは致命的に合わない。


結果として、先ほど起こったようなことは日常茶飯事となってしまった。


「……制服のことは気にするな。お父さんには俺からも話すから。事情を話せば怒らないよ」

「ありがとう」


今二人は家路についている。新宿駅を通って、住宅街までおよそ徒歩十五分の道だ。

学校指定のジャージに着替えた波耶は、やはり無表情だ。気にしていないふうなのは幸いだが、弧歌の怒りはまだ収まらない。


「くそっ! アイツ、やっぱりもっと蹴っておけばよかったかな。いや気絶している内に奥歯に蟻でもつめておけばよかったか? いや蟻が気の毒か」

「ごめんね」

「え? 何が?」

「だってコータ、私のせいで怒っているみたい」

「うっ!」


波耶の平坦な声色での言葉に、弧歌は心臓を抉られた気分になった。

もちろん今も波耶は無表情だ。真意は長年の付き合いのある弧歌にもわからない。だが、自分の怒りのせいで波耶を傷付けていたとしたら、それはこの上なく罪深いことだ。


「……ナミには怒ってないよ」

「本当に?」

「本当」

「そう。よかった」

「それはそうと……ナミ。お前、手は大丈夫か?」

「寝れば治るよ」


普通ならば大雑把な強がりにしか聞こえないこの台詞は、しかし彼女にとっては事実だった。

弧歌は、現在ポケットに入れられている彼女の手に目を向ける。


「……本当、なんなんだろうな。お前の傷の治りの速さ」


どういう原理なのかはわからないが、彼女はどんな酷い怪我をしようとも一晩寝れば傷一つ残さず完治する。骨折、刺傷、打撲、擦り傷、切傷、etc……。

一番酷かった怪我は、まだ小学生だったころ、北海道旅行で出会ったクマに噛み殺されそうになったときだ。いや、実際に彼女は何回も。噛み千切られてはいなかったけど。


全身が泥と血に塗れていて、悲鳴も上げずに無表情、無反応のままクマに蹂躙されている様は、クマを仕留めた狩人曰く『もう間違いなく死んでいる』と思わせるものだったらしい。


クマが動かなくなった後で何事もなかったかのようにむくりと起き上がり、血でしとどになったまま、ペコリと頭を下げて『ありがとうございました』と言った日には、狩人は人生最大級の悲鳴を上げたとか。


「私にもよくわからないけど、成長期だからじゃないかな」

「いや成長期でもありえねーよ!」

「物凄い成長期なんじゃないかな」

「物凄すぎるだろ!」

「そんなことよりコータ。これどうしよう」


と、言って波耶が取り出したのは、先ほど自分の手を切りつけたカッターナイフ。もちろん血塗れ。


「なんで持ってきてんの!?」

「いや、あの子に帰すタイミング忘れちゃって……ていうかこれ水洗いできるのかな?」

「今すぐしまえ! 仕事帰りの殺し屋みたいになってんだろうが!」

「バカだなぁ。殺し屋ならカッターよりも、もっといい道具使うよ」

「今そんな正論聞きたくないよ! しまえ!」

「わかった」


波耶がカッターをポケットにしまおうとしたそのとき、通りすがりらしき女性が、波耶と肩をぶつけあった。

しかしその女性は波耶に会釈も、謝罪もせずに、どこかへと走り去っていく。不審には思ったが、こういうこともあるだろうと弧歌は特に気にしない。


「……ん。大丈夫か、ナミ」

「あ」


波耶は、なにかに気付くとすぐに後ろを振り向いた。

女性の姿は既にない。


「……さっきの人、あの子の取り巻きだ」

「あ? あー……」


確かに、そう言われてみると、弧歌もどこかで見た気がした。

学生服じゃなかったので、わからなかったのかもしれない。


「……カッターナイフ、スられちゃった」

「あ?」


その後、この小さな事件の真意は、ある大事件が起こるまで、二人にはわかりようがなかったのだった。

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ヴァニティブレイン 城屋 @kurosawa

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