第16話 穢された少女

 隣国は広い、かなり広い。

 そのため砦となる外壁も長く高い。話によれば、北の崖から南の海岸まで続いているらしい。

 右から左、地の果てから果てまで続く外壁にある、三つしかない門の一つを抜けた。

 その後も長い平原が続いている。等間隔に小さな砦のようなものが続く。


 するとグルメなマナが得意げに解説し始めた。


「大きな壁と各所にある砦は、万が一に敵が攻めて来た時、少しでも時間を稼いで放牧している牛さんや豚さんを逃がすためにあるんですよ。食材……じゃなくて、動物を大切にしているんです!」


 マナの解説は自国の時よりも熱が入っているように見える。

 馬車に揺られながら外の景色を眺めていると、確かに牛、豚、鳥はよく見かける。それどころか馬や猪まで。


「一緒のスペースでいいのかこれは」


 さて、城下町に辿り着く前に、これからの事を整理する。


「まず、俺達の目的はマイゴッドの啓示、神の名を持つ者を探し出し、異界の使者に対抗するための仲間になってもらうことだ」


 到着したら宿屋を確保、酒場などで情報収集が主な行動パターンになるだろう。

 そこで羽々斗が挙手した。


「一つよろしいか」

「どうぞ」

「救世主ともなれば、国王との謁見も叶うかもしれない。神の名を持つ人間を、国王を使って探せば、より見つけやすくなると思われる」

「なるほど、指名手配みたいなことをするわけだな」


 この隣国、どうやら自国よりはるかに広いらしい。田舎独特の土地を広々と使ったことによるものだろう。

 このだだっ広い国で、いるかどうかも分からない人間を足で稼いで探すのは一苦労。国王を使うという発想が浮かばなかったことから、前世から変わらない自分の要領の悪さを実感せざるを得ない。

 とがっくり項垂れていると、マナが苦笑する。


「それじゃあ、私は彩人さんと一緒にこの国の王様と謁見しますね」

「いえ、マナは駄目ですわ」

「えっ」


 と、アルトリカは真っ向からマナの意気を叩き潰した。


「意地悪ではありませんの。今回のことで適材適所がよく分かりましたわ」

「というと?」

「私は冒険者や、そういった身分の相手からよく思われない。だから、誰とでも隔てなく会話が出来るマナが聞き込みをしたほうが良いと思いますわ。彩人の同伴には、そうですわね」


 アルトリカは一人ずつ、値踏みするように観察する。

 どうやら自分が一番相応しいとは言い出さないようで、今回は真面目に考えているらしい。


「羽々斗とレーナが良いと思いますわ。羽々斗の名は広く伝わっているはずですし、その羽々斗が仕えているとなれば、救世主だという説得力が出ます。とはいえさすがに護衛一人というのは不自然ですから、戦闘要員としてレーナをつけますわ」


 なるほど、ここでも羽々斗の名が活きるのか。騎士という立場を使うことで放しに説得力を持たせようという。貴族の感性は侮りがたい。


「じゃあマナは?」

「マナは実力もありますし、ああいう輩の扱いも慣れているでしょうから、酒場で情報収集。私は貴族の方をあたりますわ」


 いよいよ隣国の城と街が見えてきた。


「それじゃあ皆、よろしく頼む」


 すると、一同が若干途惑ったような反応を見せる。


「あ、アレ? 何か変だったか?」

「それはまあ……救世主といえば、やはり地位的に王に匹敵するものですから、そのクラスの人間に頭を下げられるというのは、驚きもしますわね」

「そういうものなのか」

「私は彩人さんのそういうところ、いいと思いますよ! 親しみやすくて」


 なんとも締まりの悪いまま、俺たちは隣国へと突入した。

 町並みは、自国とはそこまで大差がなかった。

 途中、マナとアルトリカを一緒に降ろす。


「二人とも、本当に大丈夫か?」

「へへっ、ありがとうございます、心配してくれて光栄です」

「マナはともかく、私は栄えある黄金の剣部隊のトップエースですわよ? まあ、ご心配いただけるのは光栄ですけれど」


 二人に見送られ、俺と羽々斗、そしてレーナは馬車で真っ直ぐ城へと向かう。

 長い大道を飽きるまで進むと、ようやく城門へと辿り着く。

 馬車を止めて降りると、すかさず門を守護する衛兵が近づいてくる。


「何者だ、お前達は」

「えっと、救世主・雨上彩人です。自国……あー、隣の国から来ました」

「ああ、貴方が噂の。貴方が来た時はお通しするように言われている。なるほど、それで白銀の鎧の従者を連れているのですな」


 白銀の鎧。それだけでよほどの価値があるのだろうか。


「白銀の鎧を着てると何かすごいんですかね?」

「白銀の鎧は一流の騎士の証。そちらの国の白銀の刃は、この国でも有名でしてね。それでは国王様の元までご案内いたしましょう」





 酒場。それも荒くれ者と実力者が集う筋金入りのアウトサイダーのたまり場。

 情報を収集出来るこの場所では、情報を高値で提供するタイプの商人が稀に出没する。

 私が狙うのはそういう舞台だ。



「ごめんください!」


 まずは大声、橙色の照明、窓一つない薄暗い店内で、鍛え上げられた体から精一杯の大声で酒場を満たす。

 そうすれば誰もがこちらに注目する。そうしたら、次は情報を欲しがる。


「この国で、神と名の付く人を探しています! できるだけ多く!」

「おい女、迷惑だから出て行け」


 酒場の主人が冷たく言い放つ。

 だが、ここまでも予定通り。いつもどおりの展開だ。


「じゃあ、一つ賭けをしましょう」


 同時に剣を引き抜き、誰にともなく、無造作に切っ先を向ける。


「この私、マナ・ソードベルが、この酒場の全員に勝ちます。そのときは、私の求める全ての情報に答えてもらいます。腕に自信がある人はどうぞ!」


 自信満々の笑みで言うと、大抵は誰かが食いつく。


「お前が負けたときは?」

「そうですね……お金もないので、何でも言うことを聞きましょう!」


 そうすると、何人かの男達はそれを目当てに立ち上がる。


「言ったのはお前だ、後悔すんなよ?」


 こうなると、あとは戦うだけでいい。

 目当てで手を出してきた男が軽々と打ちのめされた様を見て、腕っ節に自信のある男が立ち上がる。それを倒すと、たかが少女に男が負けたことを認められない者たちが……そうやって連鎖的に引っかかり、実力は証明される。


「ふぅ……さてと」


 数名の人たちを残し、ほぼ全ての人間は床に転がった。

 となると、ここに転がっている中には情報屋はいない。あとは残った人々に交渉するだけでいい。


「それじゃあ、お話を伺いますね」


 こんな荒くれ者みたいなやり方しか知らない。彩人さんには、できれば見せたくないものだ。





 マナが酒場で大暴れしている一方で、アルトリカは静かにお茶を嗜んでいた。


 私はマナと別れ、すぐにこの国の貴族を訪問することにした。


「いやぁ、まさかあのプラチナム家のお方にお越しいただけるとは」

「こちらこそ、急な訪問を迎え入れてくださって、とても助かりました」


 青空の下、広い平原、牛やら豚やら、動物達が自由気ままに草を食んでいる。

 そんな退屈な風景を好き好んで眺め、私と共にお茶を楽しむのは、この広い国の一部を買い取り、巨大な農場を経営する有力貴族の一派。三流貴族らしい、肥えた体の中年男性だ。


「今回こちらを訪ねたのは他でもありません、今回の救世主のことです」

「それは本当なのですか? 救世主がこの世界に来られたというのは」

「ええ。いよいよ異界との戦争が近いのは確かですわね。私たちはその準備のための旅をしているのですわ」


 救世主の来訪を各国に知らしめ、異界との戦争の準備を行う。

 国も互いを警戒しあっている場合ではないし、貴族も繁栄だけを求めている場合ではない。

 その先導を、このプラチナム家が行う。それこそが私の役目である。


「あと、神と名の付く者を探しているのですけれど、ご存知ありません?」

「名前に神?」

「ええ、救世主曰く、名前に神が付く者が、異界との戦争で大きな鍵となるそうなのですけれど」

「神……そういえば、少し前に悪魔崇拝の儀式で動物を殺生して投獄された少女がいたような」




 私は聞き返した。


「少女、ですか?」

「ああ、少女だ」


 情報屋、ペン・ノートブックスは頷く。恐らく偽名だろうと思う。


「ここじゃ動物の無闇な殺生はご法度だ。犬猫を馬車で轢いたら貴族でさえ重罪人になるこの国で、わざわざ鶏の血を使って悪魔の召喚をやろうとしたってんで、城の地下に投獄されている。そいつの名は……」





 神崎かんざき。国王は確かに神崎かんざきと言っていた。

 俺は城の地下、独房エリアへと赴いていた。

 どうやら神の名を持つ人間探しの一人目は簡単に済みそうだ。


「救世主様、くれぐれもお気をつけて、悪魔崇拝は人を誑かすのに長けている、まさに悪魔の所業……」


 兵士が何か言っているが、俺は悪魔崇拝の少女というだけで期待に胸を膨らませていた。

 勝手な妄想だが、きっと黒を基調としたゴスロリ衣装に身を包んだ黒髪端麗な少女に違いない。

 そして悪魔崇拝なので、悪魔を召喚して戦うタイプのキャラだろう。

 また、悪魔崇拝なので、サバトじみた淫乱な契りを俺に要求してくるのだ。俺と共に異界の使者と戦う代わりに、私と永遠の契りを交わして欲しい。などという素晴らしい展開……

 そんな妄想を望みつつ、ついに少女の入れられた独房へと辿り着いた。


 ……のだが、俺は言葉を失った。

 すると兵士は彼女が行った罪状を語る。


「悪魔崇拝による召喚試行で国家反逆罪。その過程で鶏を三羽生贄に捧げたことで動物愛護法違反、公共の広場を使ったことによる器物破損、異臭発生などの迷惑行為。また以前から人間を卑下するような言動、また悪魔崇拝者特有の妄言を乱発していたことから国民に迷惑がられていました。結果、彼女に与えられた刑は……」

「あ、いえ、大丈夫です。というか言わないでください」


 むごい。惨過ぎる。いくらなんでも、これは年端も行かない少女が受けていい責め苦ではない。とても見るに耐えない。

 不幸中の幸いというか、身体に欠損がないだけマシだろうか。にしてもこれは……


「と、とりあえずこの子と話がしたいんで、一時釈放してほしいんですけど」

「はい。それではしばしお待ちを」


 今までの俺の妄想を一気に打ち砕くような、より濃厚で禁忌な妄想が目の前に具現化されては、さすがの俺も立ちくらみを起こす。

 咄嗟に羽々斗に支えられ、なんとか持ち直す。


「大丈夫ですか、彩人」

「ああ……レーナが暗いところ苦手で本当に良かった」

「ええ、本当に」


 アルトリカならまだ耐えられるだろうか、少なくともこれを思いついた人間はよほど捻れ狂った性癖の持ち主であることは想像できる。

 今はともかく、彼女をあの肥溜めのような状況から救出することが先決であった。


 ひとまずはこの少女を救世主預りの身とすることで少女を救出することが出来た。

 どのような状況であったかという具体的なことは口にするのも憚れる。

 小刻みに震える身体に布を被せ、汚れは仕方ないと背負って運ぶ。羽々斗が取ってくれた宿屋で、なんとか自立を促し、シャワー室に放り込み、とりあえずはひと段落ついた。


 椅子に座る俺と羽々斗。ベッドにはレーナが座る。


「なによあの獣臭い子! 肥溜めにでも入ってたの!?」

「まあ、それに近い状況ではあったか」


 動物にひどいことをしたら、動物にひどいことをされる。因果応報なこの国の処刑システムは納得出来ないこともない。

 しかし、実際に少女があそこまで穢されている惨状を目の当たりにしてしまっては、もはや理屈がどうのという問題ではない。

 ましてや俺は二次元愛好者。二次元美少女があのような穢され方をして放っておけるはずなどなかった。


「ていうか、あれが本当に仲間になるの? っていうか戦えるの?」

「そう焦るなレーナ。今はとりあえず彼女の回復を待とう」

「まあ、それしかないか。じゃあ私は待ち合わせ場所に行ってるわ。マナとアルトリカをここまで連れてくればいいんでしょ?」

「ああ、よろしく頼む」


 レーナは部屋を後にする。

 そして、部屋は静寂に満ちる。


「大丈夫かな」


 話によれば、彼女があの地獄に投獄されたのは2週間前だ。それまでは必要最低限の食糧と水を摂取する以外、何も出来ない状態だった。

 心身共にまともでいられる保証はない。そんな彼女をまた異界の使者と戦わせる。

 もはや不安しかない。


「確かに、少し遅い」

「えっ」

「様子を見てきたほうが良い」


 どうやら羽々斗は、彼女がシャワー室から出てくるのが遅いことに心配していると受け取ったようだ。


「彩人、ここは私が確保しておきますので、彼女のことは任せる」

「あっ、いやそういう……」


 しかし、一人では心細かろう。見た感じ、レーナより少し上くらいか、といったところだ。


「いやでも、俺が入っていったら変態と思われるのでは……」

「まさか、あの年頃ならまだ父親と風呂に入ってもおかしくない」

「マジか」


 前の世界とは価値観が大きく違うとはいえ、そうか、そういうものか。

 俺としてはかなりクリティカルヒット気味ではあるが、あの有様を見てなおそういったことをしようとは思わない。そして誤解を受ける心配もない。

 となれば恐れるものは何も無い。俺は彼女……神崎の元へと向かうことにした。


「神崎さーん、大丈夫ですかー……」


 控えめな声で、ゆっくりと扉を開ける。

 狭い脱衣所を慎重に進み、シャワーの音がするバスルームの扉へと辿り着く。


「あの、何か困ったこととかあったら何でも言ってくださ……んっ?」


 シャワーの音に紛れて、なにか声が聞こえる。

 ただでさえ謎の少女なのだ。得られる情報は得ておきたいので、俺は耳をそばだてることにした。


「……す……やる……たい……」


 これは別に少女のシャワーを浴びる音を聞いて興奮しようとかそういうのではない。実際興奮するが、それが目的というわけではない。断じて。


「殺す、殺す殺す、絶対殺してやる、絶対殺す。意地汚い人間どもを悪魔の炎で残らず燃やし尽くしてやる。ククク、殺す、ころす、コロスコロス……」


 やばい。完全にキマってやがる……。

 このままでは悪魔崇拝どころか精神崩壊しかねない

 俺は極力、神崎を刺激しないように静かに扉をノックした。


「ひぃっ!?」


 あまり意味がなかったようだ。小動物のように跳ねたであろう少女の姿が目に浮かぶようだ。


「あっ、ごめん。驚かせちゃったな。大丈夫?」

「ひっ、ひあ、あの、えっあぅ……」


 かなり動揺しているようだ。


「大丈夫、俺たちは君の味方だ。絶対に君を傷つけることはない。約束する。神に誓おう」

「か、かかっ、神は嫌い!」


 思わぬ返答が帰ってきた。そうか、悪魔崇拝者なら神は敵か。


「ま、魔に、魔に誓、てください……」


 強い語調が急に蚊の泣くような声に変化する。どうやらそこが彼女の譲れない部分らしい。


「分かった。君の魔に誓おう。俺たちは君を一切傷つけない。困ったことがあったら言ってくれ」


 伝えるべきことは伝えた。あとは返答次第。

 なのだが、神崎は沈黙したままだ。さすがにすぐに心を開いてくれるわけはないか。

 一旦戻るか。そう思い、扉から離れようとした時に、神崎の弱々しい声が微かに聞こえた。

 


「……背中を、流してくれませんか? 届かなくて」


 俺は息を飲むという言葉を身体で実感した。

 返答に詰まったが、頼れと言った手前、断るわけにもいかない。


「ま、任せろ」


 俺は緊張で震える手をなんとか抑えようと試みながら、すり硝子の引き扉を開ける。

 一瞬、湯気が視界を覆ったが、すぐにそれは晴れる。

 ファンタジー世界とは思えないピンク色のタイル、シャワー、右側に浴槽。

 視線を下げると、そこには長い黒髪の少女が座っている。黒髪が床に付くことになんら抵抗を見せていない。

 まあ当然だ。あの状況は風呂場の床や便器にも勝る不潔さだった。

 神崎は僅かに顔を横に向ける。


「ごめんなさい。お風呂は久しぶりで、うまく洗えなくて……」

「いいよ、気にしなくていい。とはいえ俺も人の体を洗うなんてやったことがない」

「あの、その、頭から……」


 俺は彼女からシャンプーを受け取り、長い髪と格闘する。


「髪って水吸うとこんな重くなるの? 手入れ大変だな」

「髪は、黒魔術に必要だから……」


 髪を洗っていると、神崎の白い肌がちらちらと目に入るのだが、髪の毛が思いのほか洗いにくいためにそっちに集中せざるを得ない。


「黒魔術、ってどんな、感じなんだ?」

「生贄を捧げて、魔法陣を組んで悪魔を召喚したり、薬草とかを調合して毒や薬を作ったり、します」


 次第にコツを掴み、髪を丹念に洗っていく。あの獣臭さを残さないように。


「こんなもんかな」

「すいません、もっと念入りに」

「あっ、はい」


 とりあえず上から、頭皮の方からやり直していく。


「んっ、あっ、お上手、ですね」

「ありがとう」

「いえ、こちらこそ」


 毛先まで終え、シャワーで流す。


「シャンプーハットはいらないのか?」

「そこまで子供じゃないです」


 声に少し張りが出てきた。好調のようだ。

 髪の泡を流し終え、次は体。


「少し待ってて、ください。先に前の方を洗います、から」

「ああ、ゆっくりでいいよ」


 神埼はスポンジを手に取り、ボディソープを含ませて泡立てると、腕から順に洗っていく。


「あっ、君が神崎、ちゃんでいいんだよな?」

「……違います」


 おっと? これは人違いか? いやしかし確かにこの子が神崎だと案内されたはずだが。


神崎こうざきです。こうざき」

「あぁ、読み方か。かんざき、じゃなくて、こうざき」

「はい、神崎魔深こうざきまみです。助けていただいてありがとう、ございました。えっと……」


 そういえば自己紹介をする暇もなかった。


「俺は雨上彩人。雨上がりの、彩りの人と書く」

「綺麗な名前ですね」


 綺麗な名前。そうだな、本当にそう思う。


「名前負けしてるけどな……なあ神崎ちゃん、ちょっと強く擦りすぎじゃないか?」

「大丈夫ッ、です……」

「いや、だってなんか肌赤くなってるよ」

「こうしないと、臭いが、汚れが取れませんから」


 しかし、神崎の洗浄はエスカレートし、明らかに痛みを感じているはずの赤みが走っている。

 思わず神崎の手を掴んで止めた。


「こ、神崎! もういい! もう大丈夫だって!」

「離して下さい! 離してっ! 取れないんですよ、どれだけ擦っても臭いが、汚れが、感触が取れない! 取れない、取れない……!」


 やばい、完全にやられている。心まで犯されてる。これはもう簡単には治らない。

 力は弱いからこのまま抑えておくことも可能だが、このまま長引かせたところで解決しない。どうにか、どうにか彼女を落ち着かせなければ。

 思い出せ。俺はどうやって心を落ち着かせていた?

 それはすぐに思い出せた。だがその方法をこの少女に行うには少々憚れる。憚れるが……背に腹は変えられない。


「くそッ!」

「きゃっ!?」


 泡も無視して、俺は彼女の身体を抱きしめた。


「や、やです! 離してください!」

「聞け神崎! もう大丈夫、大丈夫なんだよ! お前を汚すものはもう何も無い!」

「嘘です! あなただってあんな私を見て、心の中では軽蔑してるんでしょう!? だから、だから早く離して!」


 もがく神崎を、それでもなお離さずに頭を優しく撫でる。


「頼む、落ち着いてくれ。もう大丈夫なんだ。大丈夫だから」

「大丈夫って、そんなの! そん、なの……うっ、うぅ……」


 もがく力も、声も小さくなり、神崎は縋るように服を掴んだ。

 大丈夫などという安っぽい言葉。もはや彼女は穢された後だというのに。


「なんで、なんで誰も助けてくれなかったの、ねぇ……どうして」


 やがて狂乱は止み、代わりに悲痛な嗚咽が反響した。

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