菊の香に誘われて

2

「おはようさんどす」

「ん…あぁ、おはよう」

声をかけたのはアルバイト巫女で大学生の宮園みやぞの舞桜まおだ。どうやらいつの間にか寝ていたらしい。

「座って寝るやなんて、紫さん器用やね」

「あはは、今日はいい天気だからかもね」

彼女は紫のことをと呼ぶ。勿論、最初からそう呼んでいた訳ではない。それは、彼女が大学一年生の頃の冬。世間はバレンタインデーを目前に控え、イベントで大いに賑わっていた。彼女は言った。

「『宮司、何て名前なんどす?』

『唐突だね。どうして?』

『え⁉︎…と、ダメどすか?』」

紫の質問には一切触れずに聞こうとする宮園。半ば押し切られる形で紫は答えた。

「『紫。御蔭神社の宮司です。苗字は面接の時に言ったから結構だね?』

『はい!……紫さんかぁ…顔もそやけど、綺麗な名前やな』」

その週のバレンタインデーで、センスはイマイチだが、紫に名前入りの手作り菓子をあげた宮園。というのも、紫はこの近辺ではちょっとした有名人である。一時は取材の申し出もあった程で、アイドルとも俳優とも違う美形だ。色白で端正な顔つき。身長は185cm程である。切れ長の目をした和顔な為、袴姿がよく似合う。毎年この時期は、事務所にチョコレートやらクッキーやら、色々な品が届く。そしてこの年も届き、予てから紫に好意を抱いていた宮園も、この時思いきって渡したのだ。以降、この呼び方が定着している。当然この事は高倉も知っている。

「宮園さん、今何時?」

「まだ八時半過ぎどす」

「ありがとう」

あちらで宮園が郵便物の仕分けをしている。何があったのか、事務所奥にあるこちらの部屋に向かって歩いて来る。

「紫さん、綺麗な便箋のお手紙が届いてますよ?」

「どんな?」

「それが…名前がよう分からんのどす。漫画とか映画で観たことがあるような英国風な感じでレトロチックなものどす」

貸してみなさいとばかりに手を出す紫。その差し出された手に、持っている手紙を渡す宮園。

「ああ、これは封蝋ふうろうと言って、昔はのりの代わりに蝋を垂らして、その家を象徴する…つまり家紋だね。家紋が彫られたハンコみたいな物が紋印。その紋印を押したんだ」

「へえ〜詳しいどすなぁ。はい!紫さん」

宮園はこの時初めて〝封蝋〟という言葉を聞いた。

差出人である御当主からの手紙の封を切る。封蝋の紋印は〝十六八重表菊じゅうろくやえおもてきく〟。手渡されたその手紙は、からの依頼であった。直ぐさま内容を確認すると、紫は返事を書き始めた。

——時間にして約五分程でそれは書き終わった。

「宮園さん、外に誰かいなかった?」

外に人が居るか否かを確認する紫。

「えっと…あ!そういえば、来る時黒い車がわきに停めてはりました。窓ガラスが鏡みたいやったから、人が居るかどうかは……」

何か確証めいた顔をする紫。そして———

「じゃあ今直ぐその車の中の人にこれを渡してほしい」

「はい…?わかりました」

よく分かっていないが、取りあえず言われた通りにする宮園。

「あ!……」

宮園が気付く。差出人は御蔭神社の宮司、御蔭紫。封蝋には何故か先程の紋印と似たような〝十六八重表菊を裏返しにした様な〟紋印が施されていた。

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