第9話 交差

「葉華莉ちゃん、これから田中君の二人で外回りに行ってもらえるかい?」


 葉華莉は昼の外食から会社に戻ってくるなり、いきなり社長から要請された。


「何処にですか?」


「うん、僕はこれから用事があって車で出かけるから、僕の代わりに泉さんの所に君が修理の終わったこの部品を届けて欲しいんだ。それと田中君の紹介も兼ねてね」


「だから今日、田中君には三時間以上の労働を強要してもらう事になるけれどね」


 葉華莉は社長から部品を受け取り、一人休憩室で寝転んでいた田中に内容を伝えた。

田中は直ぐに了解した。もっとも田中は、入社してから三時間で帰宅する日は無かった。田中なりに、この会社での生活を楽しんでいたからだ。


「届けるって、それ何の部品?」


 田中が葉華莉が手にしている小さな箱が気になり尋ねる。その箱にはマジックで泉さん行きの精密機器とだけ書いてあった。


「こないだ私と主任で修理したレンズの膜厚まくあつ検査装置で使う小さな部品の配達です」


 田中は、難しい呼び名が羅列したのを聞いて言葉からサンプルを抽出して尋ねた。


「膜厚って?」


「メガネやレンズとか、たまに綺麗な色をしたものがありますよね」


「ああ、たまに見るね。色のついたガラスは」


「あれは、ガラスの色ではなくてガラスに染料が塗ってあるんですよ」


「えっ! ガラスに塗っているの?」


 田中はその未知なる事実に驚いた。


「レトルトカレーや内が銀色のお菓子の袋も同じ様に蒸着という方法で塗ってあるんです

それらの製品は蒸着フィルムとも言われているんですけれどね」


 いつもながら博識な葉華莉である。


「そして、その塗料、つまりコートの厚さを膜厚と呼んでるんです」


「へぇー」


 感嘆し、また一つ賢くなった田中であった。


 それから外に出てから葉華莉の車の前で立ちすくむ二人。


「葉華莉さん、ひょっとして自分の車で行くの?」


「社長は、これからこの会社唯一の軽トラでお出かけらしいので・・・・・・当然後で、ガソリン代と私の車のレンタル代は会社に請求しますよ」


 しっかり者で意外と細かい葉華莉である。


「で行き先は?」


「泉光学という小さな工場です」


 出発した二人は、車内で会話する。


「こうしていると、ちゃんと仕事している会社なんだなぁ」


 田中がのんびりと表の景色を見ながら話す。


「ふふっ、仕事と言える時間の割合が少ないだけの会社ですよから」


 笑いながら返す葉華莉。


「でも、なんか長続きできそうだよ。俺、飽きっぽいけどここに来てから毎日が楽しいって言うか」


「そうですか私の場合は、この会社に出会うまで路頭に迷ってました」


 葉華莉から意外な過去を聞かされた田中、当然興味がわく。


「へぇー、葉華莉さんはどういう経過であの会社に?」


「私は、バイトしながら好きな仕事が出来る職を探していたんですが全く見つからず、大学時代に臨時講師をしていた明日川主任に相談して、ここに就職させてもらったんです」


「って、明日川さん、大学で先生やってたのか」


 明日川との敷居が更に高く感じた田中であった。


「だから完全に主任のつてでお世話になっている身なので、頭があがりません」


「でも、あの人は恩着せがましいことはしないと思うけれど」


 田中なりに明日川のフォローをする。


「それは分かっていますけれど、主任とは価値観が違うと言うか、つい衝突しちゃうんですよね」


 その意味は、これまでのレクチャーを聴いていてよく理解できる田中であった。


「ちなみに何の職を希望していたの?」


 田中の葉華莉への誘導尋問は続く。 


「もちろん、宇宙探検ですよ。宇宙飛行士も良かったのですが、もっとスケールの大きな目的を持った方がいいと思いまして」


「あ・・・・・・ああ、そうだね」


 明日川と葉華莉の価値観は違えども、そのスケール感は引けを取っていないと感じた田中であった。


「その為には、遠くの星までいける宇宙船が必要です。また、それだけの宇宙船を飛ばすには多くのエネルギーが必要です」


「だから、あの会社の永久機関の話に乗ったと?」


 話の流れとしては田中の納得の行くものだった。


「いえ、私はこれでも理系ですし流石に躊躇しましたよ。元々は原子力ロケットで宇宙に行けないものかと考えて、宇宙物理学科以外に原子物理学科も専攻していましたから」


「でも尊敬している明日川先生が本気で永久機関を研究しているのなら、ひょっとしたらと思いまして」


 シーナを作った実力から見れば明日川の凄さは田中でも実感できたが、選んだ会社が葉華莉にとって本当に望ましいかまでは判断しかねる所だろう。


「葉華莉さんは、俺なんかと違って純粋で真直ぐな道を歩んできたんだなぁ」


「えへへへ、そんなことは無いですよ」


 謙遜する葉華莉。


「ところで、田中さんの方は専門学校に行っていた様ですが、何を学んでいたんですか?」


 葉華莉に、逆に質問されることを予想していなかった田中


「お、俺。・・・・・・」

 

 はにかみながら、口らすることを躊躇している田中


「田中さんだけ、何も喋らないなんてズルイですよ」

 

 田中の戸惑いに少しむくれる躊躇。その様子に根負けした田中は


「俺、作家になりたかったんだよね」


「つまり、小説家ですか?」


 この時、田中のなりたかった職業を始めて聞いた葉華莉は目を丸くしていた。

というのも、かつての田中は働くのが嫌でニートの生活を送りたいと繰り返して言っていたからだ。


「う、うん。小説家と言うか、物語を作りたいと言うかさ」


「へー、田中さんってニートになるのが目的だと思ってましたよ」


「ぐっ、それは確かにそうだけれど。それと、何かをやりたいってのは別だよ葉華莉さん」


「仕事とか関係なく、自分の作った物語を人に読んでもらいたいって言うかな」


「自分の作った物語かぁ、論文なら得意なんだけれどなぁ」


葉華莉はそう言い、笑みを浮かべて田中を応援している様だった


「あ、着きましたよ田中さん」


 住宅地の少ない、やや畑が目立つ平地にそれはあった。

看板には泉光学と書かれており、いかにも下町の工場という印象を受ける年季の入った建物だ。神道は部品を手に持ち車から降り、工場のドアの前でインターホンを押し大きな声で来訪を伝えた。


「◎《ふたまる》研究所の神道です。膜厚検査装置で使う部品を納品しに来ました」


 改めて言うと神道と言うのは葉華莉の苗字であり、田中を含め会社の皆が名前の葉華莉の方が親しみやすいから苗字で呼ばなくなったと言う経過で納得してもらおう。


「やっと修理終わったんだね、神道さん。さっき伊藤社長から連絡受けたよ」


 奥からウェーブかかった髪と着ている作業着が不思議なハーモーをかもし出す、色っぽい女性が歩いていた。


「破損した部品の複製を作るのに主任も手間取りまして、すみません泉さん」


 頭を下げる葉華莉。


「あの人が手間取るくらいなら仕方がないね。ところでそちらの男性は?」


 泉と名乗る女は、田中に視線を向ける。


「お、俺は最近社員になった田中です」


 こういった付き合いに慣れていないのか少し緊張気味の田中。


「田中君か、よろしくね」


「えーと、貴女あなたがこの会社の社長ですか?」


 何とかして会話を作ろうと苦心する田中。


「違うよ。社長は私の父で、病気で長期入院中だから私が臨時で社長してるだけよ......ところで田中君、そんなに緊張して気を使わなくてもいいのよ」


 泉に田中の心中を完全に見透かされていた。


「あっ、いや、とにかく偉いです」


 動揺する田中。


「どうかなぁ。一応、父の勧めでそれなりの大学は出たんだけれど、当時は会社なんか次ぐ気なんか無かったから水商売していたのよね。でも、父が病気になってからこのまま会社を閉鎖していいのかどうか迷って、やるだけやろうかなって決めたの」

「そしたらもう3年も月日が経っていたって訳よ」


「でも、お父さんの為に以前の仕事を投げ打ってこの仕事を選んだって事は、お父さんの事を思っての事でしょ?それは偉いと思います。俺なんかが言うのもなんですけれど」


 今度は何の意図も無く純粋な気持ちで伝えた田中。


「ありがとう、そう言ってもらえると少し照れるけれど、素直にそう受け止めさせてもらうわ」


 少し照れる田中であった。


「二人とも、良かったら奥でお茶しない?」


 泉の誘いに頷き付いて行く田中と葉華莉。

工場内では5人が働いていて、年配の人や若い人も混ざっていて皆男だった。

 

二人が休憩室に着くと、泉からお茶やお菓子を出された。


「それにしても、君も変わってるね。葉華莉さんもだけれど永久機関を作ろうとしている会社に就職なんて」


 泉は足を組んで、くつろぎながら話す。


「俺の場合、流れというか行き当たりばったりで・・・・・・」


「でも、楽しいんじゃない?」


 泉は読心術の様に相手の心情を容易に把握してしまう才能を持っている様だ。


「はい」


 田中は正直に答えた。


「私は伊藤社長や明日川さんの助けがなかったら、とっくにこの会社を閉めていたわね」

「母が既に他界していたし、父からの引継ぎの際に、父は古くから伊藤社長とは付き合いがあったみたいで、色々とお世話してもらったの」


「あの社長が・・・・・・」


 泉から社長の過去の意外な一面を知った田中であった。


「ところで、ここってレンズのコートをしている会社って聞きましたけれど、それってどんな役に立つんですかね」


 事情を知って少し打ち解けたのか、田中はその会社の仕事について聞いてみた。


「うちはレンズのコート以外にも、真空蒸着といった方法でメッキの仕事もしているけれどね。まぁ、コートの目的の一つはレンズの傷を防ぐためね」


「二つ目は、レンズの反射光を減らして透過率を上げるため」


「三つ目は特定の光のみを通すため。大抵はこの三つ位かしらね」


「一つ目は服のコートみたいで、なんとなく分かりますが二と三は良くわかりません」


 田中の頭の中では服のコートと混合して把握したのだが、英語では同じcoatであり服や膜、或いは塗料の意味も持つ。つまり、覆う様な名詞で使われるので捉え方としては、田中の解釈は間違ってはいない。


「そうね、最初に三の方から行きましょうか? 例えば目に良くない紫外線をカットするサングラスは聞いたことはあるでしょ?」


「あ! そうか」


 泉の話を聞いて流石にピンと来た田中。


「紫外線も光の一部でそれを遮断できる膜をガラスに吹き付けることで反射、或いは吸収することで遮断する事が出来るのよ。そしてそれは紫外線に限らず様々な光に対しても遮断が出来て特定の光だけを通すことも出来るの」


「特定の光ですか・・・・・・そんなものが一体、何の役に立つんですか?」


 調子に乗って質問を続ける田中。


「そうね今は太陽が良く見えるし、特別な望遠鏡で太陽でも見てみようかしら」


「泉さん、例のあれですね」


 葉華莉が合わせた様に喋る。


「ええ」


 泉は小さな望遠鏡を外に持ち出して太陽に向け位置を調節していた。


「田中君、これを覗いて見れくれる。太陽専用の望遠鏡で目に悪影響はないから大丈夫よ」


 そう泉に誘われ、望遠鏡を覗く田中。田中もまさか、こんな所で真っ昼間から望遠鏡を覗こうとは思いもしなかった。


「・・・・・・うわっ、なんだこれ。表面がゴツゴツしているし火柱見たいのが見える」


 それは、リアルタイムで見れる生きている太陽の姿だった。ゴツゴツした地表は太陽表面の炎のおうとつであり、火柱とはとはプロミネンスと呼ばれているものだ。


「どう驚いた?」


 泉は田中に感想を聞く。


「ええ、超感動です」


 田中は感動のあまり、顔を泉に向けずそのまま望遠鏡を見続けていた。


「それには特別なフィルターが使われていて、バルマー系列の紫外線に近い波長のHアルファ線という可視光線のみを透過させられるフィルターよ。そのお陰でそういった太陽の脈動する姿を見る事ができるの。コートを活用した一つの例ね」


 泉から説明を受けたあと、田中は名残惜しい気持ちを振り切り望遠鏡と距離を取った。


「説明された中身は良く分かりませんが、感動するものと言う事だけは分かりました」


 しばし人というのは見慣れないモノを見ると判断力を無視して、感情が支配するものである。そして、泉は話を続けた。


「通常ではそう言ったフィルターは数万から何十万って値段がするけれど、この会社ではその半額以下で可能よ。最近はその収益と以前からしている反射鏡などのメッキ加工で、そこそこ潤っているけれどね」


「そう言えば、あと一つコートの話が何かあった様な」


 先の太陽の印象が大きく、短期記憶が失われた田中である。


「透過率上昇の事ね」


「膜という余計なものを吹きかけているのになぜ透過率が上げられるのか、言うなれば目隠ししている方が良く見える様な不思議な現象よ」


 記憶を失った田中の代わりに泉が説明してくれた。


「まるで超能力の特番でみる目隠しの透視能力みたいですね」


 田中は偏ったテレビの見過ぎである。


「ふふっ。まず、ガラスは透明な様でいて表面で少しだけ反射しているのは分かるでしょ?」


「はい、窓ガラスでも自分の顔もうっすらと映りますから」


 そう言い学校でのガラスの窓拭きを思い出す田中。


「反射していると言うことは、もっと透明にしたいというガラスの立場からしたら、光がその分はじかれてしまっていて勿体無いとも言えるのよ」


「そうですね」


 田中に合わせてか、明日川や葉華莉同様に優しく説明する泉。


「そこで、膜を使うの。少し専門的に言えば光の波の干渉で反射を打ち消すなんて言い方もあるけれど、それだと余計に分かりにくくなるかな」


「厳密には少し違うけれど、マシな例えで言えばマジックミラーね」


「片側からは良く通すけれど、反対側からは鏡みたいになっていて、戻ってきた光を更に内側に反射していくという感じで、ほぼ一方通行にしてくれるの」


「それにしても、一見すると正反対の邪魔な方法と見れる事が、実は正義の手助けしていたなんて、影ながら助けてくれるダークヒーローみたいですね」


 葉華莉がどこかの映画の見過ぎなのか、おかしな干渉をして来た。


「逆にヒーローの悪堕あくおちちという反転パターンもあるよ」


 続けて田中も悪乗りする。


「そういった物事を正反対に見ると、意外と解けない問題が解けるかもしれないわね」


 泉がそう言うと


「おかみさん、今度の真空蒸着の真空度は依然と同じでいいんですかね?」


 若い従業員の声が聞こえた。


「ああ、今行くよ。と言う事で、今日は二人ともご苦労様でした」


 泉が挨拶を交わすと


「はい、こちらこそ色々と為になる話を聞けて有難うございました」


 二人は邪魔をしてはいけないと、早々に会社に戻ることにした。


「感じのいい人だったなぁ」


 田中が朗らかな顔でそう口にもらすと


「そうですね。あそこの皆さんは泉さんの事、おかみさんって呼んでいますけれど、どこかの女将みたいで貫禄があってぴったりな気がしますね」


 葉華莉にとって姉の様に感じたのかもしれない。


「思わず噛み付きたくなる泉さんの首筋だったよ」


 のろけ顔で妄想する田中


「田中さん。それ、私に対して失礼じゃないですか?」


 ジト目で警告する葉華莉


「えっ、てっきりセクハラって言われるかと思ったのに」


 意外そうな顔の田中、だが鈍いのか葉華莉の真意に気付いていなかった。


「ふーんです」


 そして、ちょっぴり可愛く拗ねた葉華莉であった。そして二人は会社への帰路につく。



「ご苦労様」


 既に会社の定時になった二人を会社で出迎えたのは明日川だった。


「あれ、社長はまだ帰って来てないんですか?」


 田中が尋ねる。


「社長は福岡まで車で荷物を届けに行ってるから2,3日は帰ってこないと思うわよ。どうせ、社長の事だからその内2日は遊んでくるんでしょうけれど」


 明日川が話したその内容は、実にこの会社の実態を明確に表したものだった。


「私、シーナに交通費の請求をして来ますので、これで」


 葉華莉そう言いシーナの元へ向かう


「そうそう、今回も何か収穫あったかな田中君?」


 明日川が楽しそうに聞いてくる。田中は瞳を上に向け思い出しながら


「ええと、物事を反対側から見ることや邪魔者が味方だったりする事があるとか、特に太陽には感動しました」


 普通の人がこの内容だけ聞いても日本語が破綻しているとしか思えないだろう。


「それは、難問に行き詰った際の機転の利かせ方ね。発想が大幅に広がるわよ」


 だがしかし、明日川の翻訳能力の前では田中の弱日本語の難解さも意味をなさなかった。


「なんか漫画の思わぬ展開みたいですね」


「そうね、自然の現象も結構ひねくれているケースがあるから、正攻法で進んでも答えを出してくれない事が多いものよ」


「自然の法則を作った神様ってひねくれた作家なんですかね」


 田中は口をすぼめて、不満げに言う。


「それを見つけるのが楽しいというのもあるんじゃない、推理小説みたいにね。後は人間が勝手に勘違いして難問にしているかもしれないし」


「永久機関もひょっとして、その一つだったり?」


 田中が薄々気付く。


「有り得なくも無いわよ、何処か肝心な点を見落としている可能性もあるし、その為にはより多くの知識を身に付けないとね」


「じゃあ、明日も勉強の続きですか?」


 やや苦痛の表情をし尋ねる田中。ただ田中は勉強が嫌なのではなく、自分一人の為だけに時間を割いて教えられている己の身が、無駄に迷惑をかけているのではないかと思っての事だ。田中は、意外とナイーブなのである。


「察しがいいわね。暫く退屈な時間が続くと思うけれど修業と思いなさいな」


「わかりましたです、えーと明日川主任」


 少しはずかしながら視線を下に向けて明日川に呼称を突ける田中。


「別に主任を付けなくてもいいのよ、田中君」


「いや、尊敬できる上司ですから役職名くらい呼ばせてくださいよ」


 頭をかきながら、笑って誤魔化す田中。


「まあ、いいけど、葉華莉さんも入社当時そんなこと言ってたわね」


 明日川がそう言うと、ちょうど葉華莉が戻ってきた。


「そうでしたっけ、主任?」


「ええ、最初の頃は私の事、先生って呼んでいたでしょ」


「もうそんな三年前の事なんて覚えていませんよ」


 照れているのか、本当に忘れているのか怪しい素振りの葉華莉だった。


「葉華莉さんって、この会社に入社して三年なんだ」


「はい、その間主任にいっぱい修行を付けてもらいましたよ」


 田中は腕を組んで悩んでいた。


「やっばり俺は、葉華莉さんの事を先輩と呼ぶべきかな」


「いや、いいですって私の事は今まで通りで」


 田中から先輩と言われる事に抵抗感がある葉華莉だった。


「じゃあ、葉華莉さん。今日は、モーレツに星を眺めたい気分ですけれどいいでかね?」


 昼間の太陽を眺めてから、星への興味を前進させた田中の要望であった。


「はい、いいですよ。今夜の7時辺りが木星が良く見える時間ですから、その前に何か食べた方がいいかもしれませんね」


 葉華莉は快く引き受けた。


「なら近くのファミレスにでも行って食事でもどうですかね、葉華莉さん」


 それは田中なりの感謝の気持ちだった。


「それ、デートのお誘いですか?」


 多分、葉華莉の冗談なのだろうが本心は分からない。


「まぁ、そんな所です」


 田中の返事は、完全にノリである。


「二人ともがんばってね。それじゃあ」


 明日川は二人に気を使って、その場から撤退する。その後、田中と葉華莉は会社から1キロほど行った所にあるファミレスまで、葉華莉の車で行く事になった。


「あれ、着替えてきたんですか。ジャージじゃない葉華莉さんなんて初めて見た」


 葉華莉は薄いピンクのワンピースと白いパンプスを履き、髪も整えていた。田中は、それを見て、葉華莉に今までに無い意識を抱いた。


「い、いいじゃないですか、私だってたまにはお洒落もします」


 少し顔を赤くする葉華莉。


「いや、その可愛いと思います」


「あ、ありがと・・う」


 視線を逸らして、礼を言う葉華莉。店内では、葉華莉と田中は共にナポリタンを注文した。


「田中さん、今日はですね感動するお星をお見せしようと思います」


「感動するって、更に倍率を上げた木星? それとも変わった星団?」


 葉華莉から進められたもので、これまで期待を裏切られた事がなかった田中はそれが何なのかを早く知りたかった。


「いえいえ、泉さんが見せてくれた太陽には負けますけれど、きっと感動します」


 それは葉華莉の泉に対する対抗意識と見れるものだったが、それが天文に対するものなのか別の理由なのかは分からない。

二人は、しばらく他愛無い雑談を交わし、夜食を済ませ会社に戻る。

その後、葉華莉達はその服装のままで屋上の望遠鏡へと行きドームを稼動させた。


「相変らず、凄い望遠鏡だな。よく知らないけれど、天文台ってやつに近いよ」

 

 学の無い田中でも、天文台という名前だけは知っていた。


「実はこの望遠鏡、元々閉鎖された天文台で使われていたもので、私が星好きだったから主任がつてで、そこの担当者からタダで頂いたんですよ」


「それじゃあ、個人でこれだけの望遠鏡を持っているのって、世界で葉華莉さんだけじゃないのかな?」


 それくらいの察しは田中でも付く。


「天文台レベルの望遠鏡を譲り受けたとはいえ、置く場所も無いから会社に置かせてもらっているし、事実上会社の所有みたいなものですよ。それに世の中には、自分でこれ以上の望遠鏡を趣味で作ってしまう人もいますから侮れません」


 葉華莉の謙虚さと世の中の広さを思い知った田中であった。


「ところで、今日の秘密兵器ですが、これです」


 葉華莉が手にしているのは双眼鏡の様な形をしたものだった。しかし何かが違う。


「双眼鏡? でも片側は穴が一つしかないね」


 双眼鏡と言えば、前面の左右に大きなレンズがあり、見る側の後ろにも二つの覗き穴があるのが特徴だが、それはどちらが前か後ろかわわからないが片側には穴が一つしかない双眼鏡とはやや異なる形状をしていた。当然、田中が不思議がるのも無理は無い。


「これは双眼装置と言って、中にマジックミラーの様なものが入っていまして、一つの光を半分に分ける装置です。これを使うと両目で望遠鏡が覗けるんですよ」


「両目でかぁ! それはいいなぁ。それにマジックミラーって、泉さんの所で聞いた膜の応用みたいなものかな?」


「察しが良くなりましたね、田中さん。その通りです。これには泉さんの所と同じレベルで凄く精度のいいコートを使っているんですよ」


 葉華莉は、望遠鏡にその装置を取り付けた。


「ではこれで木星を覗いて下さい」


「・・・・・・これはいいなぁ、なんか視界が凄く広く感じるし、楽だよ」


 田中が見た木星そのものは以前と見た目は変わらなかったが、見易さという点では劇的に変わっていた。


「片目だと、目を閉じてる片側に妙に筋肉が張り詰めてピクピクしちゃう時があるんですよ。それに、これとは別に望遠鏡を二つ繋げた双眼望遠鏡という、双眼鏡の豪華版もあるんですが、それだと費用が二倍になってしまいますから、こういった安上がりな方法を思いついた人には感謝です」


 葉華莉のピクピクという意見には、激しく同意できた田中であった。


「本当に頭いいな、これを発明した人。一つを二人に分けるか・・あれ、逆にしたらもしかして・・・・・・まぁ、いいか」


 ここで何かひらめいた田中であったが、その件は後日語る事になるだろう。


「ついでですから、これで三日月も見てみましょうか、田中さん」


 望遠鏡を、まだ僅かに明るさが残っている西に傾け月を入れる葉華莉。田中はその月を覗き、感嘆する。


「これは何というか、まるで宇宙船から覗いているみたいだ。昼間の太陽も感動したけれど、これはそれに勝るとも劣らないな。何か、綺麗な絵画にも近い幻想的な月だわ」


 そう、それは月のクレーターの陰影がくっきり現れ、月面のわずかな濃淡も判別でき、しかもそれを両目で見た際の臨場感により、見た者を圧巻させる芸術作品がそこにはあった。


「田中さんがそこまで感動してくれるなんて、これを使った甲斐がありましたよ」


「正直言って、俺もこの何とか装置をセットで望遠鏡が欲しくなった......」


 望遠鏡を覗きながら恍惚した状態で話す田中。


「なら、私がコストパフォーマンスの高いのを選んで見積もってあげますよ」


「サンキュー、葉華莉さん」


 田中は葉華莉との距離が近くなったのを感じ、葉華莉について知りたくなってきた。


「ところで、葉華莉さんが星が好きになった切欠って何かあったの?」


 その質問は、彼女の意外な過去を知る切欠にもなってしまった。


「幼い頃、私、児童養護施設にいたんです」


 うつむき加減で過去を語る葉華莉。


「・・・・・・」


 踏み込めない話となり、無言を通す田中。


「その時に親切な人が、施設のみんなにおもちゃの望遠鏡の贈り物を届けてくれたんです。車に飾ってある、あのおもちゃの望遠鏡がそうなんですけれど、切欠は星そのものよりもその望遠鏡からですね」

「ただ、おもちゃと言っても色消しレンズが使われていて月のクレーターも見えるんですよ」


「へぇー、随分親切な人もいたんだなぁ」


 田中は内容が重くない様なので、無難な言葉を選んだつもりだったが


「そんな人が親だったら良かったのになぁ」


「・・・・・・」


 葉華莉の口から出た言葉に選択に失敗したと感じた田中であった。 


「他人でも、そういった人がこの世にいてくれてるだけでもありがたいですね」


「・・・・・・今日は、いいもの見せてくれてありがとう葉華莉さん」


 決して重い雰囲気ではなかったが、今の田中はその一言を葉華莉に言うのが精一杯だった。


 この日、田中は、人との付き合い方の難しさを少し学んだ。


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