見知らぬ街並み

 幸い、調度に見覚えはなかったが、城の構造は変わってはいない。

 ヴラマンクが寝ていた部屋は、王城の最深部にある主塔の最上階。出入り口は主塔の3階と、居館きょかんの2階をつなぐはしごひとつのみである。──これはいざとなれば、主塔に籠城するためだ。


 音を立ててはしごを降り、居館をひた走る。本来ならば、騎士が要所要所を守っているはずだが、どういうわけか先程からひとりも騎士の姿を見ない。


 居館を抜け、城壁に囲われた中庭に出る。そこには、ヴラマンクが予想だにしない光景が広がっていた。──荷馬車が行きかい、子供らが駆け回っている。商人たちが屋台を構え、庶民らがそれに群がっている。


(し、城の最深部に屋台が出ているだと?)


 これでは、客の中に敵国の密偵が潜んでいても見つけられやしない。その場にいた商人と客の視線が、ヴラマンクへと注がれる。中には見とれたようにため息をついてヴラマンクを見つめるご婦人もいたが、今はそれどころではない。


 確かに、そこは見慣れたサングリアルの城であった。しかし、その他の何もかもが、ヴラマンクの常識とかけ離れている。建国以来、常に隣国と戦争を続けていたサングリアルで、未だひとりの騎士の姿も見ていない。昨日……ヴラマンクが眠りに就く前は、この中庭には鍛冶屋の回す砥石が長剣エペーを削る音が響き渡っていたはずである。それが、どうだ。


「おや、国王陛下」


 果物を並べていた恰幅のいい男が、ヴラマンクに声をかけた。


「俺を知っているのか?」


 今のヴラマンクは自分でも驚くほど外見が変わってしまっている。自分を王と見抜いたこの男は一体、何者なのか。そんな心中を知ってか知らずか、男は気さくにヴラマンクに話しかける。


「もちろんだとも。その『なり』を見れば分かる。絹に白糸の刺繍なんて、なかなか凝ったもんだ」


「ああ。いつ着替えさせられたのかは分からないが、寝心地もいい」


 ヴラマンクは男に調子を合わせた。

 すると、


「これからここで始めるのかい? いや、他の者が見えないから、始まるのは昼過ぎかな」


 男はにこにこしながら、ヴラマンクの腰に手をまわし始める。


「始める、だって? 何を言っている?」


 男の手が次第に下がっていく。切って捨てようにも、あいにくと剣がない。


「何って……そりゃあ……」


 あと少し、男の手が下がったらひねりあげよう。そう心に決めたところで、男が続けた。


「あんた、旅芸人の一座だろう? よくぞ、髪も目も、王と同じ色の役者を見つけたもんだ。しかも、とびきりの色男と来てる。もちろん、朝市が終わったら見に行かせてもらうよ。あぁ、こりゃ心づけだ。取っておいてくれ」


 男はヴラマンクの手に何かを握らせると、自分の屋台へと戻っていった。


「そ、そうか。かたじけない」


 やや拍子抜けし、男を見送る。──握らされたのは1枚の銀貨だった。見たこともない意匠であったが、貨幣を縁取る文字はヴラマンクにも理解できる。


「治世……200年、だと?」


 銀貨には、ヴラマンクの生家たるプレシー家の治世が200年に及んだことを寿ぐ言葉が鋳造されていた。

 ヴラマンクは狼狽する。


「どういうことだ? 前ミルモラン王朝が途絶え、祖父が玉座に就いたのが、確か父が12の頃。だから、ええと……俺の産まれる24年ほど前か。なのに──」


 計算に合わない。

 ヴラマンクは今は満93歳。つまり、プレシー朝が開かれてより、まだ120年弱しか経ってはいないはずなのだ。


 ──何やら、胸騒ぎがしていた。


 人ごみをかき分け、城門の手前にある厩舎きゅうしゃを目指す。

 居館とほぼ同じ広さを誇っていたはずの厩舎に辿り着いて、ヴラマンクは膝をついた。3棟あった厩舎はひとつしか残っておらず、昼間とはいえ、入り口には番人すら立ってはいない。なにより、中にはたった3頭しか馬がいなかったのだ。


「ろ、60頭もの馬を飼育していた大厩舎だいきゅうしゃが……」


 呆然と呟くヴラマンクを城下の者が怪訝そうに見つめ去っていく。


「そ、外は……?」

 よろめきながら立ち上がった。


「城の外はどうなっている?」


 軍馬とはとうてい言えぬ3頭の老馬はいずれも麻縄で柱にくくりつけられていたが、盗もうと思えば簡単に盗めてしまいそうだ。いてもたってもいられず、ヴラマンクはそのうちの1頭にまたがり、城外へと走らせた。


 王城をぐるりとかこむ堀の水面から突き出した城門塔に入る。城門塔から町へと続く跳ね橋は下りっぱなしになっていた。


 町に出たところで、感嘆のため息がもれる。


「すごい……」


 ヴラマンクはしばし放心した。


(これが……、これが平和か。これは……、まるで理想の国だ)


 行き交う庶民がまとっている麻のローブはよく洗濯されているらしく、多少の汚れや染みはあるものの、小ざっぱりとしている。着ているローブが清潔なせいだろうか、民の顔は明るく見え、生活に疲れた様子はない。街路はきれいに舗装されており、老馬でも歩かせやすい。道のわきの露店には色とりどりの果実が並び、鮮魚の香りが鼻をつく。

 何よりも──、


「人が多い……」


 城塞の中に人が多くいたことにも驚いたが、それは安全な城塞内だけではなかった。眠る前と比べても、およそ倍近くはいるだろう。


「他の町もこの様子だとしたら……、7千、無理をすれば1万は騎士を養えるだろうに」


 思わず、冷静に計算してしまう。

 ある理由から常備兵力の多くが騎乗能力を持つサングリアルは、近隣諸国に類を見ぬ騎士国家である。農民が500人もいれば、食糧生産に寄与しない戦士階級をひと家族養える計算であったから──、


 と、ヴラマンクが思索の淵に沈み込んでいると、その背中に声がかかった。

「お待ちを! どうか、お待ちを!」


「む、まずい。無断で馬を出したのがバレたか」


 本来ならば王城の馬はすべてヴラマンクの所有物である。だが、今いるここは自分のいたサングリアルとは何もかもが違っていた。行き違いから、罪に問われる恐れもある。


 馬を走らせるべく、馬の腹を蹴ろうとしたところで足が止まる。

「お待ちを! 陛下!」


 ヴラマンクを追ってきた騎士は、どうやらヴラマンクが王であると知っているらしかった。老馬にまたがり駆けてくるその姿に、ふと、物懐かしさを覚える。緑がかった金髪はふわふわのくせっ毛で、ひょろっとした印象の、どこか気弱そうな青年である。


「……セルバロー?」

「は?」

「いや、なんでもない。忘れてくれ」


 ヴラマンクに追いついた青年騎士は間の抜けた顔でヴラマンクを見上げた。背はヴラマンクよりやや高いぐらいだが、猫背なのか目線が下に来る。その顔が長年の戦友セルバローに似ている気がしたが……。セルバローは戦地に分け入っては敵をなぎ倒す剛の者である。このようななよなよしい細腕では決してないはずだった。


「あ、あのぉ……。も、もしかして! ヴラマンク陛下でございましょうか?」


 青年がおずおずと尋ねた。一瞬、答えるのに躊躇する。当然、自分はサングリアル国王ヴラマンク……なのだが、まるで姿が変わってしまっている。果たして、信じてもらえるだろうか。


「ああ。いかにも、俺がヴラマンク……の、はずだが」


 だが、結局は正直に告げることにした。青年の持つ空気がどこか安穏としたものだったことも、正直に告げようと思えた一因だったかも知れない。


 と、

「なっ!?」

 ヴラマンクが驚愕する出来事が起こった。青年の顔が満面の笑みを形作るやいなや、その両目から大粒の涙がぼろぼろこぼれ始めたのだ。


「へへ、陛下ぁ~~。おっ、おっ、おっ、お話しとうございましたぁ~~~」

「な、なんだなんだ!? ええい、ひっつくな! 落ち着け、この愚かヤロウっ!」

 突然ヴラマンクにしがみついてきた青年を、慌てて引きはがす。互いに乗馬中のことだったから、青年はあわや落馬しそうになっていた。


 青年はなおもしゃくりあげる。

「うぐ、えぐ、ひぃっく。……きょ、今日は私の人生で最良の日です。陛下。こんな日が、まさか訪れるなんて」

「は、はぁ……? わ、分かった、分かったから。まずは泣き止め。……泣き止んだら、俺の身に何が起こっているのか、教えてほしいんだがな」


 なぜ泣くのかは分からないながらも、青年の背中をなで続ける。しばらくなでてやっていると、青年がぴたりと泣き止んだ。それから、急にあわあわと周囲を見回し、ヴラマンクの肩をつかむ。


「なんだ、どうした?」


「へへ陛下! ……実は私の他にもひとり、陛下の後を追って城を出た者がいるのです。まだとおにもなっていないソレイユ家のお嬢さんで、もしかしたら、堀の外に出たのさえ今日が初めてかも……。まま、迷子に……! いや、悪くすれば人さらいにでもあっていたら……!」

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