第6話〔7〕夜闇に咲く花々
先ほどから東の丘向こうが妙に明るい。
アステルは複葉機の後席に後ろ向きで座っていたので気付かなかったが、ニアに呼ばれて前を見返ってみると確かにそのようになっていた。
月明かりが大地を照らしてはいたが、地形がつぶさに見分けられるほどではない。
あれが街の明かりだとしても、やはりおかしかった。
波なす丘の上を低く飛ぶ複葉機。
夜闇は烈風となって吹き抜け、エンジンの爆音が両耳を圧する。
アステルもニアも疲れてはいたが、頭はむしろずきずきと冴えていた。
ニア「燃えている……!」
間近くなるほどに、明かりの正体がはっきりとしてくる。
日の出というわけでもなかった。
燃えていたのだ、おそらくあれは軍の基地。
アステル「ああ……まさか!」
平野の中を四角く切り取った敷地に火の手が上がって、建物や飛行機がいくつも燃えている。
炎はそこだけにとどまらず、周りの立ち木にも広がり、巨大な黒煙を何本も夜空にうねらせていた。
【ゥゥゥウウウウウ──】
風に乗ってサイレンが耳に届く。
ちらりと、黒煙の狭間に2つの影を見た。
アステル「リリィだ!
追われている!」
【タンタンタンタンタン……ッ!】
飛竜の姿を目視した途端に、機関銃の音が響いた。
“彼女”の後方に単葉機、どうやらそれに追われて逃げている最中らしい。
サイレンは鳴っているが、地上はすでに壊滅状態。
今までずっと空戦を行っていたのだろうか、動いているのはその1機のみのようだった。
アステル「あの機の後ろから近付こう、慎重に!」
ニア「了解しました!」
令を発すると、ニアは機体をかたむけて単葉機のほうへ近付いていった。
声「しぃぃねぇぇぇ!!」
迫るうちに、狂気に満ちた怒鳴り声が聞こえてきた。
のどでもつぶしたのか、とても彼の声とは思えなかったが、それに乗っていたのはまぎれもなくナーシサス・アレンビー大尉だった。
白く長い髪を飛行帽からのぞかせ、砂けむり色の飛行服を着て、真っ赤に塗られた単葉機のコクピットで操縦桿をにぎっていたのだ。
アステル「並行して!」
ニア「どうなさるおつもりですか?」
アステル「これをためしてみる!
後ろを見てはいけないよ」
煙と煙の間をすり抜け、望楼の上をかすめ、たくみな飛行術で竜との間合いを詰めてゆくアレンビー機。
アステルの複葉機にはいっさいの武器がなかったが、唯一敵機に対抗し得るものがあるとすれば、今アステルがかついでいる“これ”だけだった。
火事場を脱し、開けた場所に出て、ジーンデコーダーの投光部を相手の機に向ける。
あちらとこちらが空中で並んだ所で、アステルは呼び上げた。
アステル「ナーシサス・アレンビー大尉!!」
アレンビー「何だ……メルヴィル子爵!?」
彼が顔を差し向け、驚いて目を見開いた瞬間を見澄まして、デコーダーの引き金を引く。
【カチッ……パチバチッ!!】
アレンビー「オッ……!!」
ジーンデコーダーのパーツとパーツの間に青白い電気が走り、投光部が発光する。
照らした単葉機が真っ白に光る。
スイッチを入れたのはほんの1秒程度のことだったが、効果はあったようだ。
アレンビー「あああああっ、くそっ!!
何をした、ボクに何をしたっ、見えない、何も見えないっ!
くそぉぉおおあああっ!!」
アレンビーの体に、あるいはその両目に、どのように作用したのかは分からないが、ジーンデコーダーを当てた途端、彼は発狂して速度を上げた。
機体がかたむき、そのまま前方の雪山のほうへ突っ込んでゆく。
【オオオォォォ──……ドカンッ!!】
すぐに闇にまぎれて消え、少しの間をおいて山の
パイロットの生死はさだかではなかったが、とにかくアレンビー機は墜落炎上したのだった。
アステル「行こう、リリィを探そう」
ニア「向こうに。
炎の中を飛んでいます」
すぐさま目標を変えて、リリィのもとへと複葉機を飛ばした。
遊び場を得た幼子のように、飛竜は燃え上がる基地の上空を嬉々として飛び回っていた。
アステル「リリ──ィ!」
遠まきに呼びかけてみるが、反応はない。
銃弾を食らったのだろうか、翼は端にいくほどぼろぼろ、体幹の数ヵ所にも銃創らしき傷が見えた。
紅紫色のたてがみが猛火を照り返して妖しく光っている。
眼は赤くするどく、狂喜めいてらんらんとしている。
ニア「速すぎて追いつけません!」
アステル「いったん離れよう!」
アステルの機はひとまず
アステル「少し荒っぽくなるけど、デコーダーの光を一瞬でも当てることができれば、彼女を大人しくさせられるかもしれない。
リリィがこっちに向かってきたら、下からすれ違って飛んで!」
ニア「やってみます!」
夜空を旋回して、飛竜の気がこちらに向くタイミングを見計らう。
彼女は炎とたわむれることに忙しいらしく、なかなか兄に気付いてくれない。
アステル「リリィ……」
ぽつりと名を呼んでみた。
ふと、竜のかぶりがこちらを向いた。
願いが通じたのだろうか、もしくは次の獲物にこの複葉機を択んだだけなのか、巨体をひねり上げるようにして空中で反転し、竜がゆっくり迫ってくる。
彼女は完全にアステルたちを標的に捉えていた。
ニア「来ます!
降下しながらすれ違います!」
後席に叫んでニアは、操縦桿を前に倒して機体を急降下させた。
アステルはふわりと体が浮く感覚に見舞われたが、何とか踏んばって座席に尻を落ち着けた。
いつでも照射できるように、ジーンデコーダーを尾翼の上へ狙い定めて、引き金に指をかけておく。
ニア「接近まで3!」
背中でニアの声が響いた。
ニア「……2……1」
エンジンがいっそう激しくうなりを上げる。
ニア「……今!」
【ゴオッ……!!】
黒い影がアステルの頭上を一瞬で通過する。
【カチッ……パバチッ!】
タイミングを合わせ、デコーダーの引き金を一度だけ引く。
【キシャアアァッ!!】
アステル「アアッ!!」
飛竜が明らかに異常な鳴き声を発すると同時に、アステルもまた両目に異常を感じて悲鳴を上げた。
光を受けて白く輝く竜の姿を直視した途端、目の奥が針で突かれたような強い痛みを生じたのだ。
ニア「機首を起こします……!」
ニアが叫んで、地面に突っ込もうとしていた機体を立て直した。
降下し始めた時とは逆に、体がどんどん重くなって、アステルは座席に押しつけられる。
アステル「くぅ……!」
痛む両目をかたく閉じ、手足を踏んばって懸命に耐えていると、やがて姿勢が安定し、息も楽になった。
だが、目を開けてみるとどういうわけか、明かりが全て消えていた。
アステル「ハッ……どうしたの!?
電気が
ニア「いかがなさいました!?
機体は正常でございます、ご安心下さい!」
アステル「ああっ、しまった……!」
ここでようやく大変なことに気付いてアステルは青ざめた。
周りが暗いのではない、自分の視野が暗かったのだ。
アステル(反射光を見過ぎてしまったか……!?)
水平飛行に移っても治らないところを見ると、ブラックアウトというわけでもないらしい。
ジーンデコーダーの光を直接のぞいてはいけないとパレンバーグ先生に釘を刺されていたが、どうやら物に跳ね返った光さえも有害であったのだ、おそらく。
考えられる原因はそれしかなかったが、しかしここで“目が見えなくなった”と騒いでパイロットを混乱させなくなかった。
アステル「大丈夫、少し……
ニアには空元気を送っておいたが、かなりまずいことになった。
これが一時的なものであってほしかったが、光を失ったとなってしまえばもはや全て終わりだ。
アステルはしきりにまばたきをしたり、目をこすったりしてみたが、視界が回復するきざしはなかった。
アステル(ここまで来て……!)
あせってはいたが、取り乱れる自分を従者に
彼はずきずきと痛みをはらむ眼球を半分だけ見開いて、少しでも目に写るものを探した。
もしかして、視界の
そうだ、軍基地に燃えさかる炎が光を失いかけた自分の目に写り込んでいるのだ。
両目が完全に機能しなくなったわけではないことが判明し、アステルはにわかに希望を宿した。
ふと、ぽつりと闇に、浮かぶものがある。
それは丸く、うす白い光だった。
ニア「目標……見失ってしまいました……」
アステル「待って……」
夜空にまぎれてしまったのだろう、飛竜の姿を捉えきれなくなってニアが告げると、アステルは目にたよらない追跡方法を模索してみた。
アステル「そうか……満月!
ニア、月に向かって飛んで!」
ニア「了解しました!」
アステルが指をさし示して叫ぶと、ニアはすぐさま機体を旋回させ、中空にある白い光へ向かった。
あれは月だ。
ジーンデコーダーの光を浴びたリリィがアステルと同じことになっているなら、つまり光を失いかけているなら、暗闇に目印のように浮かぶ白い物に彼女も向かってゆくはずだ。
しかも今夜はよく晴れて満月。
ここを目指せと言わんばかりにこうこうと照る満月に。
ニア「前方に目標発見!」
思った通り、ニアが飛竜の影を見つけて叫んだ。
ニア「月に向かって飛んでいます……ああっ!」
【ビタンッ……ビタビタビタ!】
彼女の声とともに、何か細かい物が降ってきて、機体に当たって砕ける音がした。
アステル「何っ、どうしたの!?」
ニア「これは……肉です!
目標の体から、肉片がはがれ落ちているようでございます!」
アステル「ああ、そんなっ……」
詳細を確認できないのが何とももどかしいが、リリィの体が崩壊し始めているのだとすれば、深刻だった。
放射光の威力か、あるいはもともと、プテロナラクニスは長く生きられぬ亜人だったか。
このまま肉がはがれていけば、やがて翼まで失って墜落してしまうかもしれない。
アステル「ニア、背面飛行でリリィに近付いてくれるかい?
私が彼女の背中に飛び乗ってみる」
ニア「無茶です!
危険すぎます!」
アステル「心配ない、仮に飛び乗り損ねて落ちてもパラシュートを開けばいい。
デコーダーの光を6秒間、安定して当て続けるにはここからではだめだ。
彼女に飛び乗って、一刻も早くどこか安全な場所に着地させる必要がある。
彼女が大人しく飛んでいる今がチャンスなんだ」
ニア「…………」
ふと、アステルがニアのいるであろう方向を見返ってみると、漆黒の闇の中にぼんやりと、淡むらさき色にほのかに光るものが目に触れた。
ニア「……かしこまりました。
バレルロールで目標の頭上に位置取ります。
ほんの一瞬ですが、腕を伸ばせばあのたてがみをつかむことができるでしょう。
飛び乗れるとしたら、その時です……!」
アステル「ああ、きっとうまく行く!」
まるで風に揺れる花のように見えた。
それがニアの髪だと気付いて、アステルは力付いて返事をした。
すぐにエンジンとプロペラの回転数が上がり、けたたましくうなりを上げる。
機首が上を向き、空を駆け昇ってゆく。
【バラバラバラ……】
リリィを追う間にも、肉片らしきものが落ちてくる音がした。
ニア「バレルロールまで、3!」
合図が聞こえ、アステルはデコーダーの本体とバッテリーユニットをかかえて座席からわずかに腰を浮かせる。
ニア「2……1……」
踏んばって背に受ける風圧に耐えながら、逆立ちする覚悟を決める。
目はほとんど当てにならないので、パイロットの声と操縦技術を信じるしかない。
ニア「ローリング!」
機体が右上に滑り出し、じょじょに左にロールしてゆく。
重力が逆さまになってゆく。
見上げれば、紅むらさき色をした花むらがあった。
アステルは両手足をまっすぐにした。
体がすぐさま複葉機を離れ、真上に落下してゆく。
【ドガッ!】
アステル「あぐっ……!」
【ガァアッ!】
花むらに激突する音、アステルの悲鳴に続いて、飛竜の驚き声が聞こえた。
プロペラの音が遠ざかってゆく。
【バサバサッ……バサッ……バサバサッ】
乱されたバランスを正そうと、竜の翼がしきりに上下動をくり返した。
アステルは振り落とされまいと、手に触れたものを必死につかんだ。
紅むらさき色に光っていたそれは、竜の背に生えているたてがみらしかった。
ジーンデコーダーもバッテリーも手もとにある。
飛び移ること自体には何とか成功したようだ。
だが、背に乗った異物を振り払おうと竜が暴れ出したので、彼は今にも落ちてしまいそうだった。
アステル「リリィっ……聞こえるかい?
私だ、アステルだよ!」
たてがみに懸命にしがみついて、飛竜の体内にいるであろうリリィに呼びかけた。
【グルルル……フシュッ】
こちらの声が届いたか、彼女はすぐに落ち着きを取りもどし、ひとつ息をして水平飛行に移った。
アステルも手足を決めて安定させ、夜闇をゆく彼女に身をゆだねた。
大きかった。
18歳の青年を乗せて力強く羽ばたくほどに、竜は巨大だった。
実際に触れてみて感じたのだが、この姿を初めて目の辺りにした時よりも肉付きがしっかりしていて、翼もさらに伸びているらしかった。
もしかしたら、この数時間の間にも変異が続いていたのかもしれない。
アステル「リリィ、どこかに降りられるかい?」
問いかけてみたが、残念ながら応じてはくれなかった。
できるだけ早く着陸させて、彼女をリリィにもどすのが一番良い方法だ。
しかし、彼女もアステルも目が用を成していないのではなすすべがなかった。
むやみに地面に降り着こうとすれば、立ち木や岩に激突してしまう危険性がある。
夜間飛行での着陸がとても難しいことは知っていたし、第一、竜にその気がないようだった。
アステル「…………そうか」
ふと、今目指している満月が、西の空にあるということに気付いた。
つまりこのまま月に向かって飛び続ければ、たどり着く先は、メルヴィル城。
アステル「そうだ、リリィ……。
このまま、あの月を目指して飛ぼう……!」
彼は西を指して言った。
【ォォォオオオオォォ──……】
言ったあとで、ニアの複葉機がこちらを追い越して飛び去った。
どうやらあるじの意図をくみ取って、先にメルヴィル城へ帰ったようだ。
これであとは、飛行場まで到達できれば、用意してくれるであろう滑走路灯をたよりに、着陸を果たすことができるかもしれない。
ぬめる飛竜の肢体に限界が近付きつつあったが、今はただこの子の翼が途中でもげぬよう祈るしかなかった。
アステル「はぁぁっ……はぁぁっ……はぁぁっ……」
飛び続けてもう数十分、レシプロ機が行ってしまってからは夜空は静かで、冷たい風が容赦なく身を切りつけてくる。
高度にするとどれくらいだろう。
酸素が薄くて頭が痛い。
手足先の感覚がにぶいのは、凍傷を起こしかけているからか。
【バサッ……バサバサッ……バサッ】
竜の翼の羽ばたきが乱れ始め、崩壊が間近いことを知った。
アステル(ここまでか……)
本当にくやしいが、メルヴィル城まではまだ距離があるようだ。
このままでは空中でジーンデコーダーを試みるという事態になってしまう。
リリィを救出したあと、2人でパラシュートを開いて適当な場所に降り着くことができればいいが。
思い設けてみたものの、それは相当に無謀な挑戦だった。
【バサ……バサッ……】
最初は力強かった羽音も、みるみる弱々しくなってゆく。
【グヮウ……グヮゥ……】
竜の口からもれる息づかいも、とても苦しそうだ。
いよいよとなってアステルは、ジーンデコーダーをかつぎ直して声を発する。
アステル「よく、頑張ったね、リリィ。
クモなんかじゃなかったよ、君は気高き、竜だった。
さあ、帰ろう……」
そしてとうとう翼の動きが止まった。
しばらく滑空を続けたのち、やがて失速して落下を始める。
予期した事態に立ち至って、アステルは心を落ち着けた。
こうなってしまっては、すべきことをするだけだ。
重力に捕えられ、2人は暗闇をまっすぐ下がってゆく。
紅むらさき色の花むらがちょうど良い距離まで遠ざかり、アステルはジーンデコーダーを空中で構えた。
アステル「プテロナラクニス……リリィを、返してもらうよ!」
飛竜がいるだろう方向に向けて言い放ち、引き金を引く。
【カチッ……パバチッバチバチバチッ!】
手もとで電光が生じ、投光部から強い光が照射される。
アステル「うっ!」
【キィィィン──】
光を受けて反射する飛竜の肢体のあまりのまぶしさに、アステルは目を細める。
目と耳と鼻の奥がきしむような痛みを生じた。
【オオオオオオ!】
竜の口からも悲痛そうなうめき声が聞かれたが、まだだ。
アステル(……4……5……6ッ)
心の中で6秒数えて、引き金から指を離す。
バッテリーユニットのベルトを外し、かついでいた物を全て放り出した。
目前にあった花むらが、どんどん上空へ散って消える。
アステル「わっぶ!」
顔面に、何かべとべとしたものがはりついて、すぐさまはがれる。
【ビチャビチャ……ビチャッ】
竜の体が崩壊し、肉片をまき散らしているらしい。
アステルの目は完全に光を失っていて、状況を把握することが難しくなっていた。
耳もあまり機能していないようだ。
アステル(くっ……失敗した……!)
上下が分からなかった。
前後左右が分からなかった。
黒々しい闇の中を高速で落下しているはずなのだが、それも全身の感覚がにぶっていて分からなかった。
何より、息ができない。
たとえば、高度5000mから落下したのなら、地上に達するまで約1分。
竜の肢体が四散して中に閉じこめられていたリリィが外に出ていれば、同じく近くにいるはずだ。
どうにかして地面に激突する前に彼女をつかまえなければならないのに。
状況は絶望的だった。
アステル「はっあ……はっあ……はぁっ」
落下速度に慣れてきたか、呼吸がいくぶん楽になってきた。
懸命に手足を伸ばして、姿勢を安定させておく。
アステル「リリィッ!
リリィ!」
やみくもに叫んでみるが、返事はない。
アステル「リリィ、どこだ!?
返事をしてくれ!」
何秒、経ったのだろう。
地面までは、あとどのくらいか。
アステル「リリィ!
いるんだろう!?
私はここだ……!」
誰もいない空間だった。
誰の姿も見えず、誰の声も聞こえない。
ただ本当の黒の中を、アステルはただ独りで落下していたのだった。
リリィは意識がないのか。
あるいはもう、飛竜とともに消えてしまったとでもいうのか。
アステル「どこなんだ、返事をしておくれっ……!」
声を励まして、訴えかけるように叫んでみるが、やはり返事はなかった。
もはや彼女を救うことはできないのだろうか。
月の光さえ見えなくなったこの目では、少女の姿を捉えることも叶わない。
もう終わりだ。
何もかも、始めから無理な話だったのだ。
永きにわたって人と混じり合った竜を、たった一度の光で取りのぞけるなどと、本気で思っていたなんて。
しかしそれでも、リリィが背負った宿命は、理不尽なほどに大きかった。
アステル(…………)
ふと、アステルは考えた。
もしかしたら、彼女も耳がうまく機能していないのではないか。
だとすれば、ただ叫ぶだけではだめだ。
考えるんだ。
地面までは、まだある。
アステルは呼吸を整え、手足の力を抜いて、ただ大声を出すのではなく、届けたいと願って声を発してみた。
強く……。
アステル「…………リリィ……!」
声「……ぉにぃ……さま…………」
聞こえた、かすかに、確かに。
アステル「リリィ!」
声のしたほうへさらに呼びかけてみる。
闇の中に、ふわりと淡い、ほのかに紅い、白い光が浮かんでいた。
リリィ「アステル……お兄さま……」
アステル「ハッ……リリィ!」
両手足で懸命にかじを切って、そちらへ滑ってゆくアステル。
近付くほどに“それ”は、きらきらとした光の粉を舞い上げて輝いているのがよく見えた。
アステル「ああっ、リリィ……」
ひしと抱き止めてみて、その輝きがリリィの髪から放たれているものだと知る。
そしてリリィがこちらの首に腕を回してきて、彼女は人間として生き残ったのだと知った。
リリィ「お兄……さま、聞こえたの……、アステルお兄さまの、声が……。
聞きたかった……お兄さまの、声……」
アステル「私も……聞こえた。
リリィ……大好きだよ……」
2人は落ちゆく闇の中で、上下も左右もめちゃくちゃになりながらかき
リリィの体はずぶぬれで、亜人の名残らしい肉片をまとわりつかせていたが、彼女自身は無事のようだ。
アステル「しっかりつかまって、パラシュートを開くよ」
リリィ「はい……」
声をかけておいて、少女の細腕に力がこめられたことを確認し、アステルは右手を左に伸ばした。
リップコードのハンドルをつかみ、一気に引く。
アステル「えいっ!」
【ジャアアァァァ……バサッ!】
バックパックの口が解放され、上昇していったかさが頭上で開く音がする。
アステル「くっ……!」
リリィ「あっ!」
落下が急に止まって、反動で体幹が衝撃を受けた。
2人とも生きている、今のところは。
アステル「リリィっ、リリィ……地面は見えるかい?」
リリィ「いいえ、ごめんなさい……目がひらかないの……」
アステル「そう……そっか……」
期待をして問いかけてみたが、リリィは困惑ぎみに答えていた。
やはり彼女も目をやられていた。
どうやら試練はまだ続いているようだ。
転落死はまぬがれたとしても、着地に失敗すればただではすまない。
せっかくリリィを救い出せたというのに、2人が無事のままメルヴィル城にたどり着かなければ、もとも子もなかったのだ。
木のこずえにぶつかって五体が砕かれるか。
運よく雪をかぶったヒースに落下したとしても、全身なます切りがいいところだろう。
最悪、死に至る場合もある。
策は尽きた。
あとは運が味方してくれることを信じて、着地に備えるだけだ。
手がしびれていて、コントロールラインをにぎるのにも苦労する。
足に力が入らず、踏んばれるかもあやしい。
リリィの腕だけが、あたたかかった。
ほんのかすかに風に混じった焦げくさいにおいを、彼の鼻が捉えた。
火けむりだろうか、もしかしたら墜落した爆撃機から立ちのぼっているのかもしれない。
アステル「…………あれは?」
ふと、ぽつりと、はるか遠くに一輪の花が咲いているのが目に触れた。
とても不思議なことに。
何だか見覚えのある、さくら色をした、小さな花だった。
風に揺れ、こちらを招いているようだ。
アステル「ああ……まさか」
光を失った彼の目に、ありありと浮かぶその花は、よく知っている花だった。
アステル「…………モモ!」
それは、街かどで出会った、幼い花だった。
そのすぐ向こうには、オレンジゴールドの花。
アステル「ルナ…………」
それは、いつも懸命にあるじを支えてくれる、元気いっぱいの花だった。
その次は淡むらさき色の花。
アステル「…………ニア」
それは、常にそばにいてあるじを守ってくれる、大輪の花だった。
あとに続く、ホワイトイエロー、スカイブルー、エメラルドグリーンの
アステル(ポピー、デイジー、ジャスミン…………)
彼女らの向こうには、さらに多くの花が咲き乱れていた。
赤や紫、白や黄色や白紫。
色とりどりの花が大きな円を形作って、そこに咲いていた。
夜闇に咲く花々は、まるでアステルたちが降り立つべき場所を示しているように見えた。
アステルはやがてその中央に向かって降りてゆき、彼の両足が地に接する。
【ふわり…………】
2人が空から降り着いて倒れこんだ所は、敷きつめられた若葉のじゅうたんのようにやわらかい。
残念ながら耳がうまく機能せず、ただの半分も声を拾えなかったが、多くの花たちが駆けつける様子は両目が確かに捉えていた。
ただし体が言うことを聞かず、指の一本も動かせなかった。
アステル「みんな…………ありがとう……」
かろうじて発することができた言葉は、それだけだった。
いくつもの手にいだかれる感触がある。
起き上がるのは無理そうだ。
急に眠気がわいてくる。
生きた心地を得てアステルは、安堵してまどろみ、すぐに、深い眠りへと沈んでいった。
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