第5話〔2〕根跡をたどって

 

 

 

 

 

 午後の4時を回っていた。

 

ヒョウ顔の亜人が御者をつとめる2頭立ての箱馬車は、すでに居館の表口の前で待機中であった。

 

城主らの姿はまだ見えなかったので、おそらく身支度をととのえている最中なのだろう。

 

そこでモモたち見ならいメイドの4人は、作戦を立てて二手に分かれることにした。

 

 まずはデイジーとポピーが馬車の前方から近付いてゆく。

 

 

デイジー「オズ、どこに行くのね?」

 

 

ポピー「どこぉ~?」

 

 

御者「ちょっとな、街まで出かけてくる」

 

 

 2人が馬車馬のかたわらから御者台の者へ話しかけている間に、モモとジャスミンが馬車の後方からそろりと近付いてゆく。

 

 

御者「他の見習いはどうした?」

 

 

デイジー「リリィさまの所にいるのね。

リリィさまにアステルさまがどこに行くのか聞いてくるようにたのまれたのよ」

 

 

 御者の注意は何とかそれているようだ。

 

このすきにモモは、馬車の後部にあるトランクのふたをジャスミンとともに静かに開け、中を確認する。

 

毛布が何枚かそこにしまってあったので、その下に寝転がっていれば不意にのぞかれるようなことがあった時にもやり過ごせそうではある。

 

 相方に支えられてモモはトランク台を足がかりにして、慎重にトランクの中へと入った。

 

 

ポピー「ふゎぁぁ……」

 

 

御者「ああ、こらこら、こんな所で寝るな。

尻に触ると蹴飛けとばされてしまうぞっ」

 

 

 トランクにすっぽりと納まったあとだったので、前のほうで何をしているのかは見えなかったが、どうやらポピーが眠気に負けて馬に寄りかかろうとしているらしかった。

 

【ブヒヒン……】

 

 馬の鳴き声も聞こえる。

 

おかげでこちらは少々の音を立てても気付かれることはなさそうだ。

 

 

ジャスミン「モモ、がんばって……」

 

 

モモ「うん……」

 

 

 閉められてゆくふたのすき間から、ジャスミンがひそやかな声援をよこした。

 

光が遮断され、全くの闇となってから、モモは手さぐりで毛布を広げて頭からかぶる。

 

 

デイジー『じゃあ、いってらっしゃい』

 

 

ポピー『いってらっしぁ~い……,∴+゜』

 

 

 2人の声があり、3人分の足音が遠ざかっていったが、御者がそれに気付いた様子はなかった。

 

 

御者『まったく……フフ。

しょうのない子どもたちだ』

 

 

 ぐちをこぼした御者の声も遠い。

 

特に深くは考えず、こんな仕事を引き受けてしまったが、果たしてうまくいくのだろうか。

 

行き帰りの途中で見つかって、アステルに怒られたらどうすれば。

 

もしかしたらその場に放り出されて、またあのうす暗い地下水道での生活にもどされてしまうかもしれない。

 

 じっと息をひそめなければならなくなった途端、様々に悪い考えが頭をよぎり、後悔の波が押し寄せてくる。

 

思えば、リリィを説得したほうが何倍も楽だった。

 

あるいは今からでも遅くない、すぐにここを出てリリィの部屋へ取って返し、彼女には失敗したと告げれば、それで全て丸く納まるはず。

 

 やっとのことで解決方法を思いついた矢先に、アステルの声が聞こえてきた。

 

 

アステル『バルビエーリ・ファウネル氏の邸宅まで、よろしくね』

 

 

御者『かしこまりました、ご主人様』

 

 

 カツカツと、大人3人分の足音が箱馬車の中へとやって来た。

 

ドアが閉じられる音に続いて御者がむちを振るう音がすると、馬車は進み始める。

 

が、車輪が地面を転がる音はけたたましく、すぐに両耳の奥のほうがしめつけられるような感覚に襲われる。

 

 トランクの中とはこんなにやかましい所だったのか。

 

急に心臓がどきどきと早鐘を打ち始め、何かとてつもない失敗をしたのではないかと、モモはさらに後悔の念を強めるのだった。

 

 耳をふさぎ、背中を丸めて目を固く閉じてからは、激しい音と地震のような揺れにじっと耐えて待つしかない。

 

前回、この馬車で街へ向かった時は1時間ほどかかった。

 

今回もやはりそのくらいは覚悟しなければならないようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ずいぶん長い時間を孤独の闇の中で過ごし、猛烈な眠気に襲われる頃、車輪の音に混じってかすかに人声がし始める。

 

どうやらようやく街までやって来たらしい。

 

 いよいよ雑踏の喧騒が大きくなり、モモはかぶっていた毛布を取り払って上体を起こしてみる。

 

トランクのふたを両手と頭で押し上げてわずかなすき間を作ると、目を細めつつ外をのぞいた。

 

 見えたのは夕焼け空だった。

 

思った通り、街の中だ。

 

視界の端に遠くなる市門を確認しておいて、もうすぐ目的地に着けるだろうと意を強くしてトランクのふたを閉じた。

 

 眠気に負けぬよう横にならずにひざをかかえて、さらにしばらく待っているとようやく馬車が減速を始めた。

 

ゆっくり旋回し、いくらかの距離を進んでふわりと止まる。

 

 目的地に到着したらしいことは分かったが、モモが降りるにはまだ早い。

 

 

アステル『行こう』

 

 

 乗ってきた時とは逆に、アステルたち3人分の足音が馬車から出てゆき、そして遠ざかってゆく。

 

彼らの気配が充分に消えるまで待ち、用心してトランクのふたを開けてみた。

 

 

声「馬車停めはこちらです。

こちらへどうぞ。

供待ともまちもそちらにございます」

 

 

 誰か警備の者らしき男性が御者に声をかけつつそばを通ったので、モモはあわてて引っこんだ。

 

再び馬車が動き出し、わずかな距離を移動すると、最後に左右にひと揺れして今度こそ本当に停車した。

 

 息を殺して長めに待ち、静かにふたを押し上げる。

 

すき間から外を見回し、ひと気のない瞬間を見計らってトランクを脱する。

 

地面に降り立って目の辺りにする赤レンガ造りの建物は、反り身になって見上げなければならないほど背の高いお屋敷だった。

 

これが目的地だとするならば、この中にパーティー会場があるのだろう。

 

 “メイド服を着ていれば、敷地内を歩いていても問題ない”

 

リリィの言葉を思い出し、服装を正してから背すじを伸ばして歩き出す。

 

 そこは馬車を停めておく広場ということらしかった。

 

乗ってきた箱馬車以外にも3台の馬車があったが、乗り手の姿はない。

 

馬車停めの隣にはさらに広い駐車場があり、何台ものオートモービルが停められていた。

 

 前から貴族の老夫婦がやって来る。

 

モモは顔を見られまいとおじぎをするふりをして足早にすれ違う。

 

すれ違ったあとでそっと見返ってみたが、変わらぬ速度で表口のほうへ歩いてゆく2人には、部外者の見習いメイドに気付いた様子はなかった。

 

 どうやら貴族たちにとってメイドというのは、見えてもいない存在であるらしい。

 

それならそれでやりやすいし、リリィからお願いされた使いも何とか果たせそうだ。

 

 おそらく供待ちという休息所に通じているのだろうドアの前を横切って、モモはひと気の少なそうな裏手を目指した。

 

建物の角を曲がって裏庭に踏み入ってみれば、生演奏らしき四重奏の音が整然と並んだ窓々から窓明かりとともにもれていた。

 

パーティーはすでに始まっているようだ。

 

 木立に隠されてのぞき見をするのに都合のよい窓を選んでしのび寄る。

 

辺りはうす暗く、だいぶ奥まった場所でもあったので、そこを通る者はなさそうだった。

 

モモは姿勢を低くして草丈の低い植え込みに足を踏み入れ、大窓の端から中をのぞきこんだ。

 

 

モモ(わぁ……!)

 

 

 目に飛びこんできた光景の華やかさに、うっかり声を上げてしまいそうになった。

 

メルヴィル城のグレートホールほどもある広々とした室内。

 

壁も柱も白くおごそかな装飾がほどこされ、天井からつるされたいくつものシャンデリアがきらきらと光をともしてパーティー会場を明るく照らしている。

 

 テーブルには豪勢な料理、奥には音楽家たちの姿。

 

招待客の男性はどれも深い色のスーツを着て品よくしていたし、女性は赤や青や紫のドレスをよそおってきらびやかなアクセサリーで華を競っていた。

 

 よくよく観察してみれば、みな飲み物の入ったグラスを片手に壁にかかった絵やイーゼルに立てかけられた絵を熱心にながめ回っていた。

 

好奇心を刺激され、もっとよく見ようとモモが首を伸ばした、その時。

 

 

男「おや、ガキがこんな所で何をしているのですか?」

 

 

モモ「ハッ……!」

 

 

 声をかけられふり向いてみれば、まっ黒いスーツに中折れ帽をかぶって、ステッキをついた大人の男が後ろに立っていた。

 

 

男「なんだ、使用人ですか。

見ない顔ですな……あっ!」

 

 

 声をかけつつこちらへ近寄ってきた男に危機感をおぼえて、モモはとっさにその場を飛び出す。

 

【ガッ……!】

 

 

モモ「わっ……!」

 

 

 ところが、反対側にも同じような服装の大男に待ち構えられていて、駆け出した途端に正面からぶつかってしまった。

 

 

大男「おっと……」

 

 

男「よしよし、そのまま捕まえておいて下さい」

 

 

 大男にすごい力で両腕をつかみ上げられ、身動きがとれなくなった。

 

ふりほどこうとあがいても、子どもの力では逃げられそうにない。

 

 

男「あなた、どこから入ってきたのですか?

ここの者じゃなさそうですが、んん?」

 

 

モモ「ん──!」

 

 

 とにかくここを脱出することしか頭が働かなかったので、何を聞かれてもモモは腕に力をこめるばかりで答えなかった。

 

こんな所で正体をさらしてあるじに迷惑はかけたくなかったが、着ているメイド服でメルヴィル家の者であろうと悟られることまでは気が回らなかったのだ。

 

 

男「もしかしてこいつ、あの家のメイドじゃありませんか?

こりゃあ、おかしらさんに知らせたほうが良さそうですねぇ。

部屋まで連れて行きましょう」

 

 

 まさかこんなことになるなんて。

 

予期しなかった事態にモモの頭は取り乱れ、言い訳の言葉さえも思い付けなかった。

 

大男の小脇にかかえられてしまっては、手足をばたつかせても声を上げても、屈強な大人の腕から逃れることなどできはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ニアはアステルとルナとともに大広間にいた。

 

招待状もなしに飛び込みで入場してしまったが、メルヴィル家の者だと告げるとすんなり通してもらえた。

 

ファウネル邸と言っても仮住まいということであったが、中央広間では絵画の展覧パーティーが催せるほどの豪邸だ。

 

 

男性「マドモアゼル、もうどなたかご契約済みですかな?」

 

 

ルナ「にゃっ!?」

 

 

 あるじを先頭にパーティー会場へ繰り込んですぐ、見るからに好色そうなブロンドの男性が歩み寄ってきた。

 

明るい色のきわどいイブニングドレスを着たルナは驚いて、声をかけてきたその紳士を見返った。

 

彼女のヒールがこつこつと赤じゅうたんを踏み鳴らす。

 

 

アステル「申し訳ない、この娘は……」

 

 

男性「おおお、これは失礼しました。

わたしはてっきり……いや、何でもありません。

それでは、よい夜を」

 

 

 あるじが断りを入れると、男性は目覚めたようにはっとしてから、そそくさと退散していった。

 

ダークグレーのスーツをよそおったアステルがエスコートしているにもかかわらず、ルナを口説きにかかるとは、少々大胆すぎる人種も招待されているようだ。

 

あるいは、メルヴィル家の事業を理解した上でのことだったのかもしれなかったが、普段通りのメイド服姿のニアが主人の後ろに控えていることを考慮すれば、前者である可能性のほうが高い。

 

 

ルナ「びっくりしたにゃ……」

 

 

アステル「落ち着いて。

君は今、私のパートナーだ」

 

 

ルナ「にゅっ……ふにゃぁ~(///)」

 

 

 緊張ぎみなパートナーにやさしく声をかけるアステルと、かけられた言葉にのぼせてほほを赤らめるルナ。

 

むつまやかに腕を組む2人は、完全に人と亜人のカップルであった。

 

 

男性「シニョール・メルヴィール!」

 

 

 また別の、スーツ姿の男性がこちらを見てあるじを呼ばわった。

 

 

アステル「ミスター・ファウネル、こんばんは」

 

 

ファウネル「いったい、どうしてここへ……」

 

 

 直前まで商談をしていたのだろう4人の男女にいとまを告げて、あわてた様子でこちらへやって来たバルビエーリ・ファウネル。

 

身なりこそ紳士らしく小ぎれいにしていたが、ほつれ毛の多い黒髪はつやの少なく一目で芸術家だと見抜かれそうな髪型だ。

 

太めの眉にくせの強い目鼻立ち、ぶしょうひげを生やした長身の男性は、33歳と言っていた年齢にはあまりそぐわないぎらぎらしたものが感じられる。

 

 彼こそがマリーの外仕え先の主人であった。

 

 

ファウネル「ああ、もしかしてあの手紙を読んで、ここに?」

 

 

アステル「……手紙とは?」

 

 

ファウネル「ああ違う、おお……そうか、まだ。

出してなかったんだ、しまった……」

 

 

 どうしたことか、ファウネルは落ち着きなく話の見えない話を始め、あげくに一人で納得したようにみずからのひたいをはたと叩いた。

 

事情の全く見えないニアたちは、困り顔を浮かべるしかない。

 

 アステルの前まで歩み来たファウネルは、彼と握手をすませた。

 

 

ファウネル「ともかく、ようこそ。

まさか絵画にご興味がお有りだったとは存じませんでした。

歓迎しますよ、たとえ招待状が無くとも、ね」

 

 

アステル「今日はマリーの仕事ぶりを見に来ただけですので。

お手間はとらせません、すぐ帰ります」

 

 

ファウネル「ああ、やはりそのことでしたか……。

はてさて、どこから話したらよいものか……」

 

 

 にぎっていた手を放すとファウネルは、今度はひたいに手を当て、至極切り出しにくそうな顔をした。

 

 

アステル「おっしゃってみて下さい」

 

 

ファウネル「実は──……マリーにはひまを出しまして……」

 

 

アステル「!」

 

 

 うながして聞き出したファウネルの言葉に、あるじ自身予想外といった驚き顔を浮かべていた。

 

 

アステル「失礼、それはどういった意味でしょう……」

 

 

ファウネル「あああ、とりあえず、私の部屋へまいりませんか?

ここでは少し……」

 

 

アステル「……分かりました」

 

 

 どうやら何かあったらしいことだけは分かった。

 

 

アステル「ルナ、ここで待っていて」

 

 

ルナ「了解にゃっ」

 

 

 ファウネルの申し出に応じて、アステルはルナを一人残して大広間を後にした。

 

廊下に出てパーティーの喧騒から逃れると、歩きながらファウネルが語り出す。

 

 

ファウネル「3日ほど前のことだったのですが、私が修復中だった絵にマリーがお茶をこぼしてしまいましてね……。

大ごとにはならなかったのですが、修復を依頼いただいたお客の手前、彼女を処罰せざるを得なかったのです」

 

 

アステル「そんなことが……それは申し訳ないことをしました。

絵の代金はこちらで弁償させて下さい」

 

 

ファウネル「いやいや、それにはおよびません。

絵のほうは何とか修復できましたので。

それよりも、申し訳ないのはこちらのほうです。

なにせ電話を引いていなかったもので、手紙でお知らせしようと書いたのですが、うっかり出すのを忘れてしまっていたのです……」

 

 

アステル「そうでしたか。

それで、マリーは今どこに……?」

 

 

ファウネル「イゴール・ブラマンテという私の知り合いのもとに紹介状を持たせて送り出したのが昨日なんです」

 

 

アステル「送り出した?」

 

 

ファウネル「せめてもの罪ほろぼしと言いますか、次の勤め先をあっせんしたのです。

少々でしゃばりすぎたかもしれません……私の国では紹介状さえあればメイドはどこでも仕事ができますので……」

 

 

 ひとまず聞くべき話が終わり、一つの部屋の前へたどり着いた。

 

【ガチャ……】

 

 

ファウネル「どうぞ、中へ」

 

 

 ドアを開けつつ招き入れる彼に続いて、ニアとアステルも入室する。

 

踏み入った途端に絵の具らしき油のにおいが鼻をついてきた。

 

 そこは書斎を兼ねた作業場のようだ。

 

大小3つの書棚が奥に並び、大きな執務机が窓枠に突き合わせるかっこうで窓ぎわに置かれてある。

 

板敷きの床の中央にぽつりと置かれたイーゼルと、その周りに散乱する数々の画材。

 

丈の高いルームライトが3基も灯っていたので、夕暮れ時の室内でもかなり明るかった。

 

 ファウネルが執務机のもとへと向かい、その引き出しをさぐり始める。

 

 

ファウネル「確かここに……あったあった、これだ……」

 

 

 掘り当てた物を手に彼が画材を踏み分けて、いそいそとこちらへもどって来た。

 

 

アステル「これは……?」

 

 

 差し出された物を受け取るアステル。

 

 

ファウネル「手紙です。

その中にマリーの勤め先の住所が書いてあります」

 

 

アステル「なるほど。

ここで読んでもいいですか?」

 

 

ファウネル「どうぞ……」

 

 

 封書は封がされていなかったので、あるじは指をさし入れて便せんを取り出し、広げた。

 

 

ファウネル「もちろん、不運な事故であったと思っているのです。

この一件によってあなたの評価を下げる気も毛頭ありません……」

 

 

 アステルが手紙に目を通しているうちに、ファウネルは再び執務机の所まで歩いていった。

 

 

ファウネル「私がこの地へ来て知ったのは、メイドを一人も雇えない者は労働階級と見なされてしまう、ということでした……」

 

 

 机上きじょうのグラスを取り上げて、デカンターのワインを半分まで注ぐファウネル。

 

彼はそれをひと息にあおってから続ける。

 

 

ファウネル「それゆえに、当時から評判だった貴方のメイドを紹介していただいたわけですから。

祖国で雇ったメイドはひどかった。

仕事は遅いし、すぐに休むし、おまけに手くせも悪い。

それに比べたら、マリーは何倍もすばらしい。

他のメイドは財産を傷付けるが、

メルヴィル家のメイドは財産を築ける。

まったく、その通りでしたよ。

彼女が来てからというもの、屋敷のこまごまとした管理をする心配もなくなったし、収支も安定してひと財産を持てるようになりましたからね」

 

 

 ファウネルはこちらを向いて、机のへりに尻からもたれかかった。

 

 

ファウネル「貴方とマリーには感謝してもしきれません……。

ですが、お話しした通り、上客の目の前で起きてしまったことでしたので、マリーにひまを出すよりほかにその場をおさめる手立てがなかったのです。

私としても非常に残念です。

ほとぼりが冷めたら、また貴方のメイドを紹介していただきたいと思ってもいるわけです……」

 

 

アステル「なるほど、承知しました」

 

 

 手紙を読み終えたアステルが、封書をもと通りにしてニアへ手渡す。

 

ニアは受け取って、エプロンのポケットへ仕舞った。

 

 

アステル「しかし、解雇ということであれば、手続きをすませていただかないといけません」

 

 

ファウネル「いや、ごもっとも。

それに関しても祖国と勝手が違っているみたいで、こちらの認識が甘かったことはおわびします。

申し訳ない……」

 

 

アステル「では、一度マリーと話してきますので、後日またうかがいます」

 

 

 聞き出すべき事がらを聞き尽くして、あるじは早々といとまを切り出した。

 

 

アステル「できるだけ近いうちに連絡をよこしますので、今日はこの辺で」

 

 

ファウネル「いつでもお待ちしていますよ」

 

 

 別れのあいさつを交わして、アステルとニアはファウネルの部屋を出た。

 

手紙を読んでからの、もしくはファウネルの話を聞き終えてからのあるじの態度が明らかに違っている。

 

 彼は怒っていた。

 

面持ちこそ何でもない風をよそおってはいたが、かすかに荒くなる呼吸と急きこみがちな足取りにいら立ちがにじんでいたのだ。

 

ニアも全部が全部ファウネルが言ったことが正しいとは思いたくなかったが、事実関係を確かめるすべがイゴール・ブラマンテという人物のもとへ向かったマリーに直接問いただすしかないというのは何とも歯がゆい。

 

 2人は足早に廊下を行って大広間へともどった。

 

 

ルナ「ふにゃ、はふへるはわっ」

 

 

 テーブルの上のごちそうにかぶりついていたルナがこちらを振り返って、左右のほほを大きくふくらませてあるじを呼んだ。

 

 

アステル「ふふ、お腹はいっぱいになったかい?

そろそろ行こう」

 

 

 彼の呼びかけに応じて持っていたフォークをテーブルにもどし、彼のかたわらに着くルナ。

 

3人が合流してすみやかに建物の外へ出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。

 

 間もなく出口に差し回された箱馬車に乗り込む。

 

 

アステル「南へ。

コスモス湖の向こうみたいだ」

 

 

 御者に行き先が告げられ、急きょ馬車の旅が始まった。

 

コスモス湖といえば街を出て十数kmも離れた場所になる。

 

 朝帰りとなるかはまだ分からないが、いく分か長い夜になりそうではあった。

 

 

 

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