第34話 いかにして彼女はそれを恋と知ったのか

「立夏さん、それは恋だよ、恋!」


 いきなり断言してきたのは山本嬢、山本玲子さんである。

 山本家に下宿する立夏にとって、歳の近い妹のような存在だった。

 まだ中学生だと言うのにその言葉は力強い。


「立夏さんはきっとまだ、本当の恋をしてなかったのよ! それで彼のかっこいいところ見ちゃったから、本当に恋をしちゃったの!」

「むむう、そういうものでしょうか」


 文芸部に所属しているという玲子さんは、自らも書き物をやったり、時折新聞部の週刊学園タイムズ……週刊なのにタイムズなのだ……に寄稿したりしている。

 将来は父親と同じ編集者になるのだと言う。彼女にとって、若くして編集部で働いている立夏は一番近い目標であった。


「そういうものなのです! 立夏さんって真面目だから、そういうところ初心(うぶ)そうだもんねえ」

「それじゃあ、私が今まで彼に抱いていた感情はなんだったんでしょう」


 自信なさげに立夏が言う。

 一ヶ月も一緒にいて、その時に持っていた気持ちが何だったのかわからなくなっている。


「それは憧れとかだよ。立夏さん、そこから一歩進んで大人になったんだよ!」

「大人に……!」


 玲子さんは山盛りになったうさぎリンゴを掴んで、ばりばり食べた。

 夕食直後なのだが、これは別腹らしい。

 二人は立夏が山本邸に戻ってきて以来、毎日同じような話をしていた。

 玲子さんの恋愛論が炸裂する。

 立夏はいちいち、ほうほう、ふんふん、と傾聴する。


「玲子、もうお風呂はいんなさい! 立夏さんも、暇を見て入っちゃって。もうすぐ旦那が帰って来るから」


 山本夫人の声がした。

 彼女はぬぼーっとした旦那に似ず、てきぱきしっかりとした印象の女性である。

 外見は母親を継承したらしい玲子さんは、中身はしっかり父親譲りだった。

 何事も無責任にいろいろ言う割りに、言葉には中身が無いことも多い。

 そのくせ、ちょこちょこと発言の中に一片の真実が含まれていたりするのでたちが悪い。


「はーい。とにかく立夏さん、そろそろ彼も寂しくなってる頃だから、ここは連絡して勿体つけて戻るべき! 恋のイニシアを握らなくちゃだよ!」

「む、むむむむ、や、やってみます」


 とかやり取りしてたら、山本夫人が現れて娘の頭を軽くはたいた。


「あいた! なにすんのおかーさん!」

「あんたも適当な事言ってないの! お父さんみたくなっちゃうよ! あれはあれでいい生き方だけど」


 夫を下げながらちょっとだけリスペクトする。

 こういう関係性も良いなあと今の立夏は思う。

 ちなみに山本夫人、一日家にいるが、仕事はニュースサイト共同管理人の一人であり、広告収入によって山本家の家計に寄与している。山本家は風変わりな共働きなのである。


「私としてはお父さんみたいになっても一向に構わないけどなあ」


 玲子さんがお風呂に向かって行った。

 ここに戻ってきて一ヶ月と少し、会社も在宅でちょこちょこ仕事をする程度にさせてもらって、ずっと考えてきたけれど、立夏の中で答えはなかなか出ない。

 今まで座右の銘が快刀乱麻か、というくらい、何事もバッサリバッサリ切り捨ててきたものだから、自分の心境変化で、こういう割り切れない事態になると、なんとも対処しようがない。

 立夏はうじうじしていた。

 玲子さんの言うようにやってみるかなという思いもあるが、それで綿貫先生に嫌われるのは絶対にいやだ。

 山本夫妻は放任主義なので、積極的には関わってこない。

 相談すれば答えてくれるのだろうけれど、どういう相談をすればいいのかがさっぱりなのだ。

 このままでは、この懊悩に殺されてしまうのではないか。

 日々、立夏をそんな恐怖が押し包む。

 一ヶ月ほどの約束だったが、まだ綿貫先生に会いに行くこともできていなかった。

 と、そこへだ。


「ただいまー」


 聞きなれた声がした。

 世界で立夏が尊敬する三人のうちの一人、この家の亭主である。

 山本氏が焼き鳥の入った包みをぶら下げて帰ってきた。


「おかえりなさい」


 真っ先に出て行くのが立夏だった。

 尊敬する先輩にして、街に出てきた立夏を世話してくれた恩人を一番に出迎えるのである。

 山本氏はいつものぬぼーっとした様子で、やれやれつかれたよーとか言いながら靴を脱ぎ……突然、彼が抱えた包みから、黒い粒が飛び出してきた。


「きゃっ」


 立夏の声に気付いた山本氏は、立夏めがけて飛んでいく黒い粒に気付いて驚愕した。

 粒は立夏の顔の前で止まり、なにやら、ぶぶぶぶ、ぶぶぶぶぶ、と震えている。

 何かしら伝えたいことがあるようなのだが、この粒一つでは発声器官がない。


「これは駒胞さんが先生につけたやつじゃないのかい?」

「はい、そのはずです。でもこうやって戻ってきてる……」


 立夏がハッとした。

 もしや、綿貫先生の身に良からぬ事が起こっているのではないだろうか。

 こうして粒が戻ってきた以上、その可能性は充分以上にありえる。

 立夏の表情を見て、山本氏はなんとなく嬉しそうに微笑んだ。


「駒胞さん、ずっと煮え切らない感じだったけれど、目標が見つかったみたいだね。とりあえず頑張ってみて。先生を助けてきてよ」


 僕も応援呼ぶからさ、と山本氏。冴えない外見だが、彼が本当は頼りになることを立夏は良く知っている。

 山本氏が、もしもし編集長ですか、と電話している横を、立夏はささっと外行きに着替えて道具を持って、飛び出していった。

 彼女の鼻先で、黒い粒が行くべき方向を指し示している。


「立夏さん!」


 玲子さんがパジャマで飛び出して来た。


「あたしの自転車の鍵! これ使って!」

「ありがとうございます!」


 立夏は鍵を受け取ると、玲子さんのマウンテンバイクにまたがる。

 格好良くて買ったのだが、使い勝手が理解できずに乗らずに置いておかれている不遇のマウンテンバイクである。

 時々山本氏がメンテをしたり、山本夫人が買い物に使っているので、状態はいい。

 立夏は力を込めて漕ぎ出した。


「おおー、立夏さんちょっと吹っ切れた感じだねえ」

「うん、まああの子もまだ若いから、どんどん悩んでいいと思うんだよね。僕らが出来ることって言ったらアドバイスくらいだけど」

「お父さん頑張る子好きだからねー」

「まあ、まだまだ悩むのはこれからだろうね。今は目の前に分かりやすい目的ができたから、そっちに突き進めてるだけだよ。さあ、僕も準備しないとな」


 玲子さん的には、この冴えない父親はなかなかかっこいい父親なのである。

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