第11話 においを辿る

 あの夜から何年か過ぎ、僕は日常へ帰って来ていた。

 この頃には、あの日見た全ては、入稿でハイになった頭とアルコールが見せた幻覚だと思うようになっていた。

 僕は初夏の日差しを感じながら、自宅から何駅か離れた街の大通りを歩く。

 やがて編集の山本氏と待ち合わせた喫茶店が見えてきた。

 ガラス張りの壁面ごしに店内を覗くと、こちらを見ていた山本氏のぬぼーっとした顔と目が合った。

 いよー、とばかりに手を振ってくる。

 白い壁と、前面を覆うガラスが印象的な、清潔感のある店だった。

 入り口に回ると、コーヒーの良い香りがしてくる。

 扉は手動で、押し込むと来客を告げる鈴の音が鳴った。

 ぱたぱたとウェイトレスさんが駆け寄ってくる。


「あ、一緒なんで」


 と、山本氏を指差した。

 さすがに喫茶店、店内には芳醇な香気とタバコの煙が交じり合って漂っている。

 僕はタバコはやらないが、こういう場でのタバコの香りは嫌いではない。


「やや、来られた。綿貫せんせ。まあどうぞどうぞ」


 山本氏は立ち上がると、向かいの席を指し示した。

 綿貫というのが僕のペンネームである。この名前で、何本か小説やエッセイを書いている。

 相変わらずあまり有名ではないが、なんとか食べていける程度の稼ぎにはなっている。

 僕が席に腰掛けると、ウェイトレスさんがお冷を差し出してきた。


「アメリカンとホットドッグ」


 間髪いれず、僕は注文する。昼食がまだなのだ。

 キンキンに冷えた水を一口飲んで、やっと人心地がつく。

 そこで初めて気づいたのだが……ぬぼーっとした山本氏の横に、見慣れない人がいる。

 山本氏と比べると小柄で、髪が短い女性である。艶々と光る黒髪は、長ければさぞや美しかろうと思う。

 瞳の輝きは濡れたようで、一見して若々しい風貌に見合わぬ妖しさをかもし出していた。


「はじめまして、先生」

「あ、あ、はじめまして」


 女性から挨拶されて、慌てて返した。

 僕はあまり人とのコミュニケーションが得意ではない。


「せんせ、駒胞さんとは初めてですよね。こちら、駒胞立夏(くぼう-りっか)さん。うちの期待の新人」

「よろしくお願いします」


 駒胞さんは笑顔を見せて頭を下げる。唇の端から八重歯が覗いてかわいい。結婚したい。


「あ、こちらこそ。綿貫です」

「お会いできて光栄です、綿貫先生。私、先生のエッセイのファンなんです。私も先生みたいに、美味しいものを食べ歩きしたいです!」


 僕のエッセイ形式はいわゆる穿った感じの旅行記になっていて、行った先々で何か適当なものを食べて、適当な感想を書き綴っている。

 このだらだらとした文体が不思議と受けていて、少ないながらも固定ファンを獲得するに至っている。

 目の前のチャーミングな女性も、どうやらその変わり者の一人らしい。

 口を開くたびに、少しハスキーな高めの声色が僕の著作の感想を語り続ける。

 さすがに背中がむずむずしてきたので、


「や、や、そこまで」


 と押しとどめた。

 せっかくなら小説を読んでてくれればいいのに。あっちが僕の本領発揮ですぞ。


「小説のほうは読んでみたんですけどわからなかったです」


 アチャー。

 でもその正直なところは美点だと思います。


「お、せんせも気に入ったみたいですね、良かった。せんせ、彼女、私の後釜ですわ。しばらくは担当見習いってことで私も同行しますけどね」

「ありゃ、そうだったんですか。そんじゃあ山本氏は降板?」

「やだなあせんせ、出世ですよ出世。もうウン年もせんせの担当してたんですから、異動が無いほうが不思議ですってば」


 そういえば、山本氏とはかれこれウン年の付き合いである。

 このぬぼーっとした顔も見飽きてしまって久しい。

 そうか、山本氏ともお別れか、と物思いにふけりだしたところで、注文の品がやってきた。

 表面はパリッと、中はほっくりトーストされたコッペパンに、太いソーセージを挟んだホットドッグである。

 マスタードとケチャップが螺旋を描いて絡まりあっている。

 高らかに香る焼けたソーセージに、腹の虫がぐーっと鳴いた。

 駒胞女史のお腹も鳴った。


「山本さん、私もご飯食べたいです」

「え、ほんと?さっき駅前で立ち食いそば食べたじゃない」

「あんなのスナックですよ。もっとお肉お肉したの食べたいです」


 えー、と言う顔の山本氏を置いておいて、駒胞女史はすみませーん、とウェイトレスさんを呼んだ。

 ソーセージ盛り合わせとかいう、明らかに肉肉しい、ビールのお供っぽいものを頼む。

 僕がホットドッグを食べ終わり、指先についた脂を舐めるべきか舐めざるべきかを真剣に懊悩していると、駒胞女史が頼んだソーセージが到着した。


「すてき!」


 今日見た中で、一番の笑顔でそう言うと、駒胞女史は握り締めたフォークで雄雄しくソーセージを突き刺し、食べ始めた。

 惚れ惚れするような食べっぷりである。噛り付いたソーセージが小気味良い音を立てて食い千切られる。食事を終えたばかりの僕も、またお腹がすきそうだ。


「匂いが混じったらいけないと思って、あっさりしたものを食べてきましたけど、やっぱりだめですね。匂いが強いものはやっぱり美味しくてやめられないです」


 そんなものだろうか。肉食系女子のこだわりに違いない。

 山本氏はぬぼーっとした感じでコーヒーを飲んでいる。あれは単純にぬぼーっとして見えるが、苦笑いしているのだ。付き合いが長い僕にはわかる。

 おかわりまでした駒胞女史の食事風景を、男二人でコーヒーなどすすりながら見ていたが、僕は小さいほうを催してきた。


「失敬」


 そう言って立ち上がる。

 そして、はて、今日は駒胞女史の紹介以外に、やることがあったんじゃなかったっけ、と思いながらトイレへ向かった。

 他のお客にもトイレへ用があるものがいると見えて、いやに撫で肩の男性が立ち上がり、僕のあとをついてきた。

 順番ですよ、順番。

 観葉植物の横を抜けて、店の奥まったところにあるトイレにたどり着く。

 扉は閉じていたが、鍵の開け閉めを教えてくれるマークは青かった。誰も中にいない。

 張り切って行こうとドアノブを握り締めた時だ。


「お前だろう」


 背後の男が声を発した。

 はて、他に誰かいるのかと辺りを見回す。それとも携帯電話か。

 じっと、撫で肩の男が僕を見つめていた。いや、これはもう睨み付けている。

 どうしたんだろう。そんなにトイレに行きたいのか?だがこういうのは順番なのだ。僕はこうやって相手を脅して言うことを聞かせるようなやり方は嫌いだ。


「僕が先ですからね」


 僕はドアノブを回した。けして譲る気は無い。

 勇ましい気分で開いた扉の奥で、店の光に照らされる便器を見やった。

 そこに二つの影が落ちている。僕と、撫で肩の男のものだ。

 男の影は僕の腰ほどのところにある。背後にいるのだから当然だ。

 だが、それがどうも、上に伸びてきているような気がする。

 近づいてきているのかと思ってちょっと振り返ると、彼の足元は同じところにあった。

 また便器に向き直る。

 影はさらに上に伸び上がってきている。もう、僕の頭とそう位置が変わらないところだ。

 ……いや、彼の肩口は今までと変わらないところにあって、彼の頭だけが僕の頭と同じ位置に影を落としている。


「お前が……死体を隠したんだろう」


 生臭い息が、僕の耳元から流れてきた。

 彼の足の位置は変わらない。なのに、声はすぐ横で響く。しゅうしゅうと空気が漏れるような声だ。


「ま、まさかあなたは、ろくろ首さん!」


 こういうシチュエーションで恐怖を押さえ込むのは至難の業だ。僕は恐怖のあまり、おかしな事を口走った。職業病かもしれない。


「ふざけるな……イヌガミ派は黙ってやがるが……お前しかいないはずだ……」

「ごめんあそばせ」


 ろくろ首男のしゅうしゅう声に混じって、ちょっとハスキーがかった女性の言葉が響いた。

 直後、何か大きなものがスイングされ、僕の背後にいるはずの影が、首のところから直角に曲がった。


「おごおっ!?」


 頭を直接、何かで殴られたらしい。ろくろ首男は首を曲げた勢いに引っ張られ、真横の壁に叩き付けられた。同時に、何か硬いものが割れる音がする。

 茶色い粉末が飛び散った。僕の頭にも、何やらものが被さって来る。


「ひょええ」


 慌てて払い落とすと、それは土をかぶった大きな葉っぱだ。

 すぐそこにあった観葉植物を思い出す。


「先生、ちょっと頭下げて!」


 響く叫び声。僕は慌てて指示に従い、しゃがみこむ。

 頭上を何かが跳んでいった。人だ。柔らかな曲線を描く白い足が、視界をさえぎる。


「く、駒胞さん!?」


 彼女は僕を飛び越えて、壁に叩きつけられたろくろ首男に組み付いた。

 口にフォークをくわえている。さっきまでソーセージを食べていたあれだ。


「おおおおおっ、イヌガミのぉぉぉっ」


 ろくろ首男が目を見開いて、駒胞女史を振り落とそうと身をよじる。

 駒胞女子は慌てず、くわえていたフォークを握ると、逆手に持ち替えて、ろくろ首男の目玉を突いた。

 何の躊躇もない。しかも、かなりの奥まで一気に突き込んでいる。


「おがっ」


 ろくろ首男が激しく手足をばたつかせる。

 その時には、駒胞女史は僕の隣にいて、スマホをいじっていた。

 唐突に、ろくろ首男が静かになる。

 そこでようやく、僕はその男がろくろ首などでは無いことに気が付いた。

 そいつは、巨大な蛇だった。

 アナコンダかと思うような太い胴に、申し訳程度の手足がついている。それも人間の手足を縮小したような、悪趣味なやつだ。


「先生、トイレはいいんですか?」


 駒胞女史の言葉で、僕はハッとした。

 トイレに転がり込む。大丈夫、今度は漏らしてない。

 僕は勢いよく放出を開始した。

 さて……と出すものを出しながら冷静になっていく頭で考える。

 すごく怖かった。でも、なんだかこの体験、デジャヴュを感じるぞ。

 人が獣になる、というのと、獣が人になる、ということ。狼と蛇。いろいろ違うが、何年か前にあったあの事と、今回は状況が似ていると思うのだ。

 さては、あれはハイテンションとアルコールが見せた一夜の夢ではなかったのか。


「うわあ、おっかねえおっかねえ」


 僕は二度ほど死ぬところだったのではあるまいか。

 ぶるぶると今更ながらに震えが来るが、もう出すものは出たから漏らす心配は無い。ざまあ見ろ、無敵だ。

 ジッパーを上げつつトイレを出ると、店はずいぶん騒がしくなっていた。

 それはそうだろう。いきなり蛇が出たら誰だって驚く。僕だって驚く。

 だが、この騒がしさはちょっと種類が異なっていた。

 物々しいスーツ姿の男たちが、トイレめがけて詰め掛けて来ていたのだ。

 喫茶店を埋め尽くしていたはずのお客の姿は無い。

 僕はすぐさま、スーツの方々に両腕をがっちり固められ、外へと連れ出されてしまった。


「無事でしたか、せんせ!よかったー。シリーズ未完とか連載途中で終了とか考えちゃいましたよ」


 山本氏がやってきて、ホッとした口調で言った。

 心配していた割にはいつもどおりのぬぼーっとした顔である。


「まあ見ての通りですよ。それより山本氏、なんでこんなに物々しいんです?やっぱあれですか」


 僕としては蛇に化けたろくろ首男の話をしているつもりなのだが、まだあれを現実のこととして説明するには抵抗があって、ぼかした言い方になる。


「ですなあ。怖いですよねえ、蛇。警察や保健所が飛んできたときは何事かと思いましたよ」


 蛇で合ってるらしい。それにしても、あれは保健所の範疇なんだろうか。

 ぼんやり考え込む僕の背後を、大きな黒い袋を引きずるように持った一団が通り過ぎていった。

 あちこちで、スマホのカメラが音を立てる。


「搬送中に逃げ出した蛇でして。近くの動物園に行く予定だったのですが」


 そんな説明が聞こえた。

 おかしいぞ。あの蛇は人間だったはずだ。なのに動物園へ搬送だって?


「あやしい」

「何があやしいんですか、先生」


 すごく近くで声がした。

 今度は耳元じゃない、肩口だ。僕の足元から伸びる影に、くっつくようにしてもっと小さい影があった。


「く、駒胞さん!?」


 駒胞女史は背伸びしてくんくんと僕の肩口のにおいをかぐ。

 その仕草に、僕はまたデジャヴュを感じた。


「外だとちゃんと、先生の匂いがわかります」


 直感する。彼女は、かつて僕がであった狼少女だ。

 どういう奇縁か、僕は彼女と再会することになったのだ。

 かくして、僕は彼ら……シェイプシフターが巻き起こす事件に関わっていくこととなった。

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