第6話 五十一 年まえのひみつ
五十一年前、その年の夏が終わっても、わたしがあるく坂道は夏前とおなじだった。
学校は山のうえにある。山のうえに行くのにわたしは山の南側の旧坂をのぼる。旧坂は百年くらい昔からある坂で、坂のまんなかくらいは臭い。東側の道は新坂という名前でこのまえの戦争がおわったあとにできた道だとおかあさんは言っていた。山の反対側にもうえにのぼる道があるけれど、わたしはまだそこをのぼったことがない。わたしが旧坂をのぼっているときに東側の新坂をわたしとおなじようにのぼっている小学生がいて、きっと山の反対側にもそういう小学生がたくさんいて、毎朝きまった時間になると、わたしとおなじおおぜいの小学生がいっせいに山のうえをめざして坂道をのぼっていくのは蟻が砂糖につられてどんどんあるいていくようでおもしろい。
旧坂は、山のしたのちがうところからうえにむかってのびている道がもう一本あって、そのもう一本の道が坂のまんなかあたりで一本になるところがすごく臭い。そこにたどりつくと小学生の人数が急に増える。わたしは旧坂の本筋をのぼっていくけれど、ちがう道からのぼってくる小学生は百段々という名前の階段をのぼってくる。百段々は木の板と棒で泥をとめた昔の階段が長くうねって続いていて、旧坂をのぼるときよりも足のもものあたりが疲れる。百段々は雨の日に階段の数をかぞえるとのぼるときとおりるときでは階段の数がちがうといううわさがあるけれど、まだ雨の日に階段の数をかぞえたことがないから、ほんとうに階段の数がちがうのか、わたしは知らない。臭いのは百段々のうちばんうえの階段が旧坂のまんなかあたりであわさるところにあるちいさな空き地だ。空き地にはわたしの胸の高さくらいの石の柱が建っていて、その石の柱には字が彫られているけど、わたしはその字が読めない。お墓の石を細くしたみたいで、なんだか気味がわるくて、さわると冷たい。そこに立って石の柱に手をかけながら百段々を見下ろすと家の屋根がたくさん見える。黒っぽい屋根や赤っぽい屋根がおおくて、色はおなじに見えるけど、おなじかたちの屋根を見つけるのはむずかしい。わたしの家の屋根みたいに青と赤が半分ずつになっているトタン板の屋根はいくらさがしても一軒も見つからない。たくさんの屋根のすきまの道を黒い点々が列になってゆっくりと動いていて、黒い点々のなかには黄色の点もあって、それが百段々のほうに動いているのを見ていると小学生の列が歩いているなとすぐにわかって、やっぱり蟻の行列に見える。
空き地のにおいは、旧坂をのぼっていくと風の吹きぐあいでは空き地にたどり着くまえからわかる。そのにおいは空き地の端に建っている小屋からただよってきていて、かいでいると動物園のオリのちかくに立っているような気がしてくる。上級生にどうしてこんなに臭いのかを聞いてみたら
「猫ばあさんの小屋だからだ」
と言った。
「猫ばあさん?」
「猫ばあさんの小屋だから」
わたしはなんのことだかわからなかったけれど、猫ばあさんの小屋だからしかたがないと、だまって小屋を見つめた。小屋からは細い煙突が突き出ていて、その先からうすいむらさき色の煙りがとぎれとぎれに、空にすうっと消えていった。わたしの家のすぐとなりにあるおじいちゃんの家のお風呂を沸かすときに煙突から出る煙りの色はもっと黒いから、お風呂を沸かしているんじゃないとわかった。
「もう行くぞ」
上級生がそう言うからわたしはまた旧坂をのぼりはじめた。猫ばあさんのことはそれきり忘れてしまった。わたしは猫ばあさんよりもお昼の給食になにが出るのかのほうが気になっていた。
猫ばあさんを思い出したのはお風呂の火の番をしているときだった。おじいちゃんの家のお風呂にはわたしたちもはいるからお湯を沸かすのはわたしかおかあさんのやる仕事だった。おかあさんに言われて火の番をしていたら、風のかげんで、しゃがんで火を見ているわたしのまわりを煙がぐるっとかこんできた。それからすぐにうえのほうに消えていったけれど、煙りの黒い色とにおいで猫ばあさんの小屋の煙突から出ていたうすいむらさき色の煙りを思い出して、それから猫ばあさんを思い出した。夕方で、あたりは暗くなっていて風も冷たくて、風呂釜のなかで燃えている火を見つめていると、わたしのまわりがどんどん暗くなってひとりで風呂釜のまえに取り残されていく気がして、それから、手元の薪が風呂釜の火に照らされて昼間の薪とはちがう色になって、薪を持つわたしの手も光っているように見えてきて、顔は熱くなっていくけれど、火から目が離せなくなってきて、その火のなかに口が耳まで裂けてにんげんなのに猫の目をした猫ばあさんの顔がゆらゆらと浮かび上がってわたしのまわりの暗いところから猫ばあさんが飛び出してきそうな気配がしてきた。だけど火の番をしていなくちゃいけないから風呂釜のまえにすわっていないとおかあさんに叱られるし、おしっこもしたくなってきたけど動けなくて、なんだか悲しくなってそのうち煙りで目がちくちくして涙が出てきた。涙をふいていると、何かが近づいてくる足音が聞こえてきて、わたしは薪を持って身構えた。足音はだんだんおおきくなってきて、わたしのそばで止まると、いきなりあたまのうえから
「沸いたかね?」
おかあさんの声がした。わたしは足音に気をとられて地面ばかり見ていたから、あたまのうえから声がしたのでおどろいて、もうすこしでおかあさんに薪を投げつけるところだった。
「あら、あぶないよ」
おかあさんはわたしから薪を取り上げた。おかあさんは風呂釜をのぞきこんでの火のぐあいを見てから、風呂場に入って行った。
「もう沸いたからおじいちゃんを呼んできな」
風呂場の中からおかあさんの声がしたから、わたしはおじいちゃんの家にあがりこんで呼びに行った。おじいちゃんはテレビを見ていたけれど、わたしがお風呂のことを言うと
「おまえが風呂を沸かしたのか?」
と聞いてきた。わたしは
「うん」
と言うと、おじいちゃんは
「そうか、そうか」
と言って、いそいで風呂場に歩いて行った。おじいちゃんの後ろすがたを見ながら、猫ばあさんの顔が風呂釜の火のなかに見えてきた顔なのかどうかを見たくなったけれど、もしもほんとうにそんな顔だったらこわいし、こどもを食べてしまうかもしれないから、やっぱり本物の顔を見るのはやめることにした。
小学校からの帰り道はずっとくだり坂だから歩くのは朝よりも楽だけれど、ノラ犬が出るからひとりで歩いているとこわい。くだり坂のどこで出るのかわからないから、ノラ犬が出てもすぐに逃げられるようにわたしはいつも道のまんなかを歩くようにしているけれど、道のまんなかを歩くと自動車に轢かれてしまうからだめだ、とおかあさんにしつこく言われている。だけど、わたしには自動車のエンジンの音が良く聞こえるからエンジンの音がしたら道の端に寄ればいいのはわかっている。自動車にくらべて、ノラ犬はおおきな音を立てない。どこかの物陰にしずかにしていて、わたしがちかづくといきなり飛びだしてきておおきな声でわたしに吠えてくる。だから自動車よりもノラ犬に注意して歩くのはまちがいじゃない。ノラ犬はほえるときに口からよだれをたくさん流しながらすこし顔をおかしな方向にななめにして、顔はちがう方向にむいているのに目だけでわたしをじっと見ている。それでもノラ犬がおおきな声でほえるときはすぐに襲ってこない。わたしは何回か追いかけられているうちに気がついた。ノラ犬がほんとうにこわいのはしずかなときだ。わたしの知らないうちにいつのまにかすぐうしろに近づいてくるときはノラ犬が本気を出しているときで、わたしのすぐちかくにくるまではぜったいに唸り声も出さない。でも、ノラ犬がうしろから迫ってくるときの音をわたしは知っている。ソロバンを小刻みに降っているようなチャッ、チャッ、チャッという音がして、それはアスファルトの道路にノラ犬の爪があたる音で、その音が聞こえたらノラ犬がわたしを狙っていてうしろから襲おうとしているのがわかる。でも、いきなり駈け出すとノラ犬もすぐに本気で走ってくるのですこしずつ早足にしてわたしでものぼれる電柱を探す。ノラ犬はわたしが足音に気がついたことをすぐにわかるみたいで、チャッ、チャッ、チャッという足音がチャッチャッチャッと早くなってきて、いつのまにかチャチャチャになっている。そのときはわたしも走り出していて目星をつけていた電柱に急いでのぼる。ノラ犬が飛び上がってきても届かないところまでのぼってしまえば、わたしはそこでじっとしていてノラ犬を見下ろしていればいいだけだから安心する。ノラ犬はしばらく電柱のしたでウロウロしているけど、我慢していればそのうちにどこかに行ってしまうから、わたしは電柱から落ちないようにしているだけで大丈夫だ。
だけど、その日の帰り道はちがった。わたしはノラ犬に追いかけられて、電柱を探したけれど、どうしても電柱を見つけられなかった。うしろから聞こえてくるノラ犬の足音はどんどんはやくなってきて、ノラ犬の息遣いまで聞こえるようになってきた。わたしはいっしょうけんめいに走ったけれど、だんだん足がもつれるようになってきた。足がもつれはじめたわたしのうしろのすぐちかくまで聞こえていたノラ犬の足音が急に聞こえなくなったら、いきなりランドセルが重くなった。それからかかとでなにかを蹴りあげた。うしろでノラ犬の鳴き声がした。だけど、わたしは振りかえらなかった。わたしに飛びかかってきたノラ犬がランドセルに爪をすべらせて走っているわたしの足のかかとに蹴りあげられて鳴いたのだと思ったけれど、それをたしかめるよりもわたしがのぼれる電柱を見つけるのが先だった。だけど、電柱はなかなか見つからなかった。そのうちにまたうしろからアスファルトを叩いているノラ犬の爪の足音が迫ってきた。なんだかまえよりもはやくなっているような気がして、わたしはもっとはやく走ろうとがんばったけれど、背中のランドセルが重くなってきてもっとはやく走ることができなくなってきた。道には助けてくれそうなおとなのすがたも見つけられなかった。わたしは、テレビの動物番組で見たチーターの走るすがたを思い出した。うしろのノラ犬がアフリカの草原で獲物を追って走るチーターみたいにからだを弓なりにしならせてわたしを追いかけていると思うと、わたしがのぼれる電柱も見当たらないし、なんだかもう逃げられない気がしてきた。でも、臭いにおいがしてきて、それでわたしは電柱を見つけるかわりに猫ばあさんの小屋のまえまで逃げてきているのに気がついた。わたしの目のまえに猫ばあさんの小屋があった。おまけに小屋の引き戸がすこし開いているのも見えた。わたしはかまわず引き戸にぶつかるようにして細く開いているそのすきまに飛びこんで、後ろ手に引き戸を閉めた。小屋の土間に倒れこんだとき、ノラ犬がぶつかってきてわたしのうしろで引き戸がおおきな音をたてた。土間にはわたしのランドセルに入っていた本やノートが飛びだして散らばった。
「なんだよう」
わたしは土間に寝転んだまま、小屋の奥を見上げた。ちいさな三角の置物が暗いなかにぼんやり見えた。
「なんだよう」
そのちいさな三角の置物がいきなり声を出したからわたしはびっくりして顔が熱くなった。
「びっくりするじゃねえか。なんだよう、おまえさんは」
目が慣れてくると、ちいさな三角の置物のうしろにはたんすがあって、たんすのうえには毛のかたまりが動いているのが見えてきた。引き戸の外からはノラ犬の唸り声が聞こえてきた。わたしは引き戸を指さして
「イヌ、イヌ」
と言った。
「イヌ?」
「イヌ、イヌ」
小屋のなかはせまくて薄暗かった。たんすのうえの毛のかたまりがむくっとおおきくなって、急に毛玉に分かれて、そのひとつの毛玉がしたに落ちてきた。その毛玉は猫だった。
「イヌがそこにいる」
「イヌに追いかけられたんか?」
「唸っている」
「よし」
とちいさな三角の置物が立ちあがると土間に下りてほうきを持って引き戸の前に行った。ちいさな三角の置物は立ちあがってもちいさかった。わたしは土間に散らばった本やノートをいそいで集めて両手に持って、ノラ犬が入ってきたらそれを投げてぶつけようと身構えた。ちいさな三角は引き戸をいきおいよく開けると、いきなり大声を出してほうきをやたらに振り回した。わたしはノラ犬よりもその声のおおきさにびっくりした。ノラ犬もその声におどろいたみたいですばしっこくうしろに飛びのいた。ちいさな三角はほうきで地面を叩きながらノラ犬を追って引き戸の外に出た。わたしはノラ犬がほうきのすきまをかいくぐって土間に入ってくるのが心配だったけれど、外でノラ犬の悲鳴が聞こえてきて、しばらくするとちいさな三角が息をはずませて戻ってきた。
「もう、イヌはいねえ」
「逃げたの?」
「ああ、追っ払った」
「わたしにも、ほうき、貸して」
「イヌは追っ払ったよ」
「いいから、貸して」
わたしはほうきを持った。ちいさな三角のわきをとおるとき動物園のにおいがした。わたしは引き戸から顔を出して外をみたけれど、ノラ犬のすがたは見えなかった。
「イヌはどっちに逃げたの?」
小屋のなかから返事がなかったのでふりむいてもういちど言った。
「イヌはうえに逃げていったの?」
「ああ、うえに逃げていった」
「ほんとう?」
「この目で見たからまちがいねえ」
「したはわたしの帰る道なんだよ」
「ああ、うえに逃げていった。まちがいねえ」
「猫ばあさんが追っ払ったの?」
「猫ばあさんって誰だ?」
わたしは目のまえに立っているちいさな三角の顔を指さした。
「猫ばあさんっておれのことかえ?」
わたしはうなずいた。うなずいているとちいさな三角がだんだん猫ばあさんに見えてきた。でも、猫ばあさんの顔は風呂釜の火のなかに見えた顔じゃなかったから安心した。
次の日の夕方、学校の帰りに猫ばあさんの小屋の軒先に立っていると引き戸が開いて猫ばあさんがわたしを中にいれてくれた。わたしはきのうのお礼を言おうと思っていたけれど、猫ばあさんの顔を見たらなんだかお礼を言うのが白々しくなって、なにも言わなかった。わたしは猫ばあさんの小屋のなかをじろじろ見渡した。きのう見たよりもなんだかせまく見えた。猫ばあさんはわたしを小屋のなかにいれるときのうとおなじに場所におなじ格好で置物みたいにすわった。小屋の土間には石でできた流しが据えてあって、わたしの家の流しよりもちいさかった。猫ばあさんはこんなちいさい流しでいつもご飯のおかずをつくっていると思うとなんだかままごとをしているようでおもしろかった。
うしろでおおきな音がしたからふりかえったら、きのうのノラ犬のかわりに誰かが戸のところに立っていた。小屋のなかに入ってきたのは目がぎょろぎょろして痩せたニワトリみたいな男だった。
「おい、来てやったぜ」
ニワトリ男の声はわたしのお父さんよりもおおきくて、猫ばあさんの小屋が揺れたような気がした。ぎょろぎょろしている両目のまわりがすこし赤くなっていた。
「おい、ばあさん、来てやったぜ」
猫ばあさんは口をもぐもぐさせてなにか言っていたけれど、わたしには聞こえなかった。ニワトリ男はわたしの方をじろっと見ると
「このガキ、なんだ?」
とかがみこんでわたしをのぞきこんだ。ぎょろぎょろした目は白目が黄色くて黒目がこまかく動いていた。
「おい、ばあさん、このガキはなんだ」
顔の近くでニワトリ男の声が響いて、わたしは気持ちがわるくなった。息もなま臭いにおいがした。
「このガキ、震えているぜ。おまけに顔が青くなってら」
「おまえがこわいからだよ。用はなんだよ」
「決まってらあ」
ニワトリ男は靴のまま畳みのうえにあがると、いきなりタンスのひきだしを下から開けはじめた。猫ばあさんはびっくりして男の足を手で叩いたけれど、ニワトリ男はぜんぜん平気で、よっつあるひきだしをしたからうえまで全部引っぱり出しおわると、いちばんうえのひきだしに手をつっこんで
「なあんだ、やっぱりあるじゃねえか」
と足元の猫ばあさんの顔を見てくちをつりあげた。男がひっぱりだしたのは茶色の封筒で、それをさかさにしてふるとなかから小銭がぼろぼろと落ちた。猫ばあさんはそれをあわててひろいあつめた。
「小銭はくれてやるよ。こっちはいただくぜ」
と封筒をそのままじぶんのズボンのポケットにいれた。
「おまえ、あの女とまだつきあっているのか?」
落ちた小銭をかき集めながら、猫ばあさんが言うと、
「それがどうした」
「あんな年上の女、やめときな」
「おれの勝手だろ」
「いまはまだいいけど、おまえが四十になったとき、相手は五十だろ」
「こんな貧乏な家に嫁に来てくれるなら誰でもいいって言っていたろうが」
「そりゃそうだけど、なにもよりによってあんなのといっしょにならなくていいだろ」
「別れるくらいなら死んでやるって、このまえ、言っていたな」
「そんなら、あたしも死んでやる」
「好きにしな。じゃあな」
それからわたしにまた顔を近づけて
「おい、ガキ、だれにも言うんじゃねえぞ」
となま臭い息をわたしにかけてから、猫ばあさんの小屋を飛び出していった。猫ばあさんは畳みのうえに散らばった小銭をひろっていた。わたしはニワトリ男がこわかったけれど、ぽろぽろと落ちた小銭は見ていたから
「そとには飛んでいってないよ」
と猫ばあさんに言った。
「そとには飛んでいってなかったよ」
そう言ってからきゅうに胸がどきどきとしはじめて、顔が熱くなってきた。どうしてだか急に恥ずかしくなって、小銭を探すふりをして土間を見た。小銭が落ちているかどうななんてよくわからなかった。
「ここにも落ちていないよ」
わたしは土間を見ながら猫ばあさんに言った。もしも落ちていたらあとで猫ばあさんが見つけるだろうと思った。猫ばあさんは返事をしなかった。猫ばあさんはニワトリ男が来る前からずっとおなじ格好ですわりこんだままで、そろえたひざがしらのまえにひろいあつめた小銭を見ていた。
「土間にも落ちていないよ」
わたしの胸はまだどきどきしていて、猫ばあさんはやっぱりだまったままだった。きのう見た猫はいっぴきもいなかった。タンスのひきだしはニワトリ男が出したままになっていた。
「タンスのひきだし、しまう?」
猫ばあさんは畳みのうえの小銭をかぞえはじめた。わたしはおかあさんが小銭をかぞえるのは何回か見たことはあったけど、よその人が小銭をかぞえるすがたを見るのははじめてなので恥ずかしくなってきた。
「お金、かぞえているの?」
わたしはじぶんがばかみたいなことを言ったような気がした。開けっぱなしの引き戸から風がはいってきた。風は立っているわたしの半ズボンのしたからすっとうえにあがってきて、それから女の子の歌う声が聞こえてきた。百段々のほうから聞こえてくる歌声はひとりの声じゃなかった。歌っている歌はテレビで聞いた気がした。歌声は百段々をおりていって、わたしはその女の子の歌声を聞いているうちになんだか悲しくなってきた。そのうちに女の子の歌声は聞こえなくなった。
「セーイチだよ」
猫ばあさんはニワトリ男が来たことを言っているのだと思った。台風とかとおなじで、ニワトリ男がとつぜんやって来て猫ばあさんのお金を持って行ってしまうことをセーイチと言っているのだと思った。女の子の歌声が聞こえなくなったら、自動車のエンジンの音が聞こえてきた。坂をのぼってくる自動車のエンジンの音でだんだんとおおきく聞こえてきた。わたしは自動車が坂をのぼるときとくだるときはエンジンの音がちがっていることを知っていたから、その自動車が坂道をのぼっているとちゅうだとすぐにわかった。
「セーイチなんだよ」
自動車のエンジンの音が小屋のまえできゅうにおおきくなってから、猫ばあさんは小銭をかぞえるのをやめた。自動車のエンジンの音は坂をのぼっていく音にかわりはなかった。猫ばあさんは小銭をかぞえるのをやめて
「ありゃ、セーイチなんだ」
と、言った。
「猫、どこにいったの?」
「極道もんだ」
「ねえ、猫は?」
「金になんねえことばかりして。極道もんだ。あの女にだまされているんだ」
女の子の歌声も自動車のエンジンの音も聞こえなくなると、猫ばあさんの声しか聞こえなくなった。わたしはセーイチというのがあのニワトリ男の名前だとやっとわかった。
「どうしようもねえ」
「猫、どこにいったの?」
わたしは猫ばあさんに聞いた。猫ばあさんは
「ああ、もう、どうしようもねえ」
と言った。女の子が歌っていた歌がなんという歌だったのか思い出せそうで、なかなか思い出せなかった。猫ばあさんのひざのまえにある小銭はちいさくて崩れた砂山みたいになっていた。
「ねえ、だますって誰を?」
猫ばあさんは崩れた山のてっぺんをみぎの手のひらでなでていた。
「セーイチは、あれでもいい子なんだよ」
「わたしだってそうさ」
そう言って、猫ばあさんがなにか言うまえに、わたしは猫ばあさんの小屋から走り出た。小屋を出てうしろをふりかえると、猫が小屋の脇にあつまっていて、わたしのことを見ていた。わたしはそのまま坂をかけおりた。つまさきがアスファルトの地面にあたって痛かったけれど、運動靴をはいていたから思ったよりはやく走ることができた。走りながら、猫ばあさんはやっぱり猫ばあさんなんだ、と思った。
家に帰ってから、晩ご飯を食べているときにわたしはおかあさんに
「女って、男をだますの?」
と聞いてみた。おかあさんはお茶碗からご飯を食べながら、わたしの顔をじっと見つめて
「なんで?」
と言った。わたしは猫ばあさんの小屋でニワトリ男を見たときに猫ばあさんがそう言っていたことを言うと
「おまえ、猫ばあさんのところに行ったのか?」
とご飯を口からこぼしながら言った。
「うん。行った」
「いつ?」
「きょう」
「きょう猫ばあさんのところに行ったのか」
「行った」
「どうして?」
「きのう助けてもらったから」
「なんかあった?」
「ノラ犬に追いかけられた」
「旧坂で?」
「うん。ノラ犬から逃げようとしたら、猫ばあさんが助けてくれた」
「そう」
「女が男をだますって言ったの?」
「それはきょう」
「猫ばあさんが言ったの?」
「ニワトリ男に言ってた」
「ニワトリ男ってだれ?」
「そういう男がきたの」
「もう猫ばあさんのところに行っちゃだめだよ」
「どうして?」
「いいから、だめ」
「だめなの?」
「だめ」
「じゃあ、ゴクドーってなに?」
「そんなことも聞いてきたのか」
「猫ばあさんが言ってた」
「極道ってのは、からだに刺青をしているんだよ」
「イレズミってなに」
「からだに絵とか字を彫り付けるんだよ」
それからおかあさんはまたご飯を食べた。わたしもおかあさんの真似をしてご飯を食べたけれど、どうして猫ばあさんのところに行っちゃいけないのかとか、ゴクドーとかイレズミとか、おかあさんのようにご飯を食べてもちっともわからなかった。
つぎの日の朝は猫ばあさんの小屋のまえを通りかかっても、わたしはずっと地面を見たままで顔をあげなかった。目のすみに猫ばあさんの小屋が見えたけれど、小屋の入り口は開いているのか閉まっているのか見えなかったし、小屋の入り口にいるかもしれない猫も見えなかった。わたしはなんだか安心したけれど、猫ばあさんの小屋のまえを通りすぎると、すぐに猫ばあさんのことは忘れてしまった。
わたしの家のうらがわには、コクドーと呼ばれている広い道路があって、まんなかにチンチン電車が走る線路がある。その広い道路のむこうがわには運河があって、船がいつも浮いている。運河はみどりで潮があがってくるとみどりに青がまざって、臭い風が吹いて、ときどき死んださかなが浮いていることがある。わたしはひとりでその運河にかかっている橋のうえに行って、みどりの水のうえに出るあぶくを見ていると、あぶくがたくさん出てきておもしろい。
「おい」
欄干のすきまから顔をだして運河のみどりのみずをのぞいていたら、うしろから肩をたたかれた。
「おい」
わたしはびっくりしてつかまっていた欄干をにぎりしめた。
「あのときのガキじゃねえか」
欄干のすきまからあたまを抜いてふりかえるとオレンジ色のシャツが見えて、見上げるとニワトリ男だった。ニワトリ男の目は明るいところで見てもぎょろぎょろしていた。
「ぼうや、なにを見ていたの」
ニワトリ男のとなりに立っていた女の人がわたしに話しかけてきた。この女の人がニワトリ男をだましているようには見えなかった。女の人が近寄ってきたら、いい匂いがした。わたしは女の人に言った。
「あぶくだよ」
「なんのあぶくなの」
「ときどき、あぶくが出るんだよ」
「それを見ていたの」
「そうだよ」
「見ていておもしろいの」
「おもしろいよ」
ニワトリ男は欄干にもたれかかって運河をのぞきこんだ。
「こんな臭え川がおもしろいのか」
運河も臭いけれど、猫ばあさんの小屋も臭いと言おうとしたけれど、わたしはだまっていた。
「あぶくはどこに出るのか、わかるか」
そう聞くので、わたしは運河をよく見てから
「あっち」
と指さした。すると、わたしが指をさしたあたりの水面がもりあがってから、あぶくが出て、割れた。
「お、すごいな。つぎはどこに出る?」
「こんどはこっち」
わたしはちがうところを指をさした。そこにもあぶくが出て、すぐに割れた。
「おまえ、よくわかるな」
わたしは返事をしないで、つぎはどこにあぶくが出るのかを見ていた。
「どうして、あぶくが出るところがわかる?」
「わかんない。でも、あぶくが出るところはわかる」
わたしはまたちがうところを指さした。そこにもあぶくが出て、すぐに割れた。
「ほお、こりゃおもしれえ。おもしれえや」
ニワトリ男は鉄の欄干を叩いた。ニワトリ男が欄干を叩くと欄干のパイプのなかの方からチーンという甲高い音がした。
「おもしれえけど、しかし、臭えな」
風が吹くと女の人のいい匂いと運河のにおいがまじったへんなにおいがした。
「おい、ちょっと、おれんとこに来い」
ニワトリ男がそう言うと女の人が
「この子を部屋に連れていくの?」
と言った。
「わるいか」
「だって、どこの子かわからないし」
「さらうわけじゃねえよ」
「だけどさあ」
「このガキの履いているくつを良く見てみろ」
「え」
「このガキの履いているくつを良く見ろってんだよ。上等なくつじゃねえだろ」
「まあねえ」
「金持ちの家のガキじゃあねえってことだ。さらったって金になんねえ」
「だからって」
ニワトリ男が女の人と話しているあいだ、川のあちこちにあぶくが浮いてきた。
「ばあさんはおれのこと、なんて言ってた?」
「知らない」
「そうかい。こどもは正直じゃないといけねえぞ」
「そうなの?」
「そうだ」
「あ、そうだ、セーイチはゴクドーモノだって言ってた」
「おまえ、年上の人間にむかってよびすてはいけねえ。セーイチさんと呼ぶんだ」
「どうして?」
「どうしても、こうしてもねえ、それが社会のきまりなんだよ」
「猫ばあさんは呼び捨てにしていた」
「あのばばあ、猫ばあさんって言われているのか?」
「そう」
「おれのことを極道って言っていたのか?」
「ゴクドーってなに?」
「まあ、いいや」
わたしは猫ばあさんの小屋にはいってきたニワトリ男をセーイチさんと呼ぶのがなんだか恥ずかしくなって、だまってしまった。セーイチさんがあるきだしたからわたしはそのあとをあるいた。わたしの家とは反対の方向にどんどんあるいていった。見慣れない電信柱がたくさん見えてきた。
セーイチさんは二階建てのアパートの上の階にのぼっていった。建物の外についている鉄の階段をセーイチさんがどんどんのぼっていくのであわててわたしもそのあとについて階段をのぼった。わたしのうしろからはセーイチさんといっしょにいた女の人がついてきた。
階段のいちばん上につくと下駄箱があって、下駄箱のぶらぶらしている木のふたには白いペンキで数字が書いてあった。セーイチさんが靴をぬいで下駄箱の先の廊下を歩きはじめたからわたしもそのとおりにした。廊下をあるくときには足のうらが冷たくて気持ちがよかった。廊下はうす暗くて足元がぼんやりしたけれど、セーイチさんがどんどん廊下を歩いて、いちばん奥の引き戸を開けると廊下があかるくなって、足元に木の節目が見えた。
「こっちだ」
セーイチさんにいわれてわたしはその部屋にはいった。廊下よりも暑くて畳が足のうらにべたっとした。セーイチさんが窓をあけると風がはいってきたけれど、その風は暑くて涼しくはなかった。わたしのうしろから女の人が部屋にはいってきて右側にある流しの方へいった。
セーイチさんの部屋には窓のすぐしたに文机があって、その机のうえには本がたくさん置いてあった。流しの方からは水を流す音が聞こえてきた。
「本がたくさんある」
わたしがそういうと、流しの方から
「そうなの。困っちゃう」
と女の人が言った。水を流す音がやんで、女の人がセーイチさんとわたしの前にお盆を置いた。お盆には茶色の瓶と水色の瓶がのっていて、茶色の瓶はビールで水色の瓶はサイダーだとすぐにわかった。両方ともこの前のお正月に見たことがあった。
「この机、文机っていうんでしょ」
「文机を知っているのか」
セーイチさんがわたしの目を見て言った。
「おじさんの家で見たことがある」
「おじさんも文机をつかっているのか」
「どうしてこんなに本がたくさんあるの?」
わたしは文机のうえに積まれた本を見た。本の背表紙にはわたしの読める字もあったけれど、読めない字の方が多かった。日本語ではない文字もあった。
「これは何語なの?」
「フランス語だ。LES GOMMESっていう題名だ。おれには必要な本だ」
セーイチさんはお盆にのせたビールの瓶の首を持ってビールの栓を抜いてコップにビールを注いだ。コップの茶色の水のうえには白い泡ができた。
「あ」
「なんだ」
「その王冠、ちょうだい」
「こんなもん、どうすんだ」
と言いながらセーイチさんはわたしにビールの王冠を投げてよこした。
「集めているの」
「そんなもん、集めているのか」
「そう」
「おまえにはサイダーを注いでやる」
セーイチさんはお盆のうえのサイダーの栓を抜いた。
「ほら」
と言ってセーイチさんはサイダーの王冠を投げてよこしたけれど
「いらない。サイダーは集めていない」
とわたしは言ってサイダーの王冠をセーイチさんに返した。
「なんだ。サイダーは集めていないのか」
「本当にそんなに必要なのかねえ」
いつのまにかわたしのよこに女の人が座っていて
「あたしにはちっともわからないよ」
と言った。わたしは女の人にセーイチさんからもらったビールの王冠を横取りされるかと思ったけれど、女の人は自分のコップにビールを注いでから
「ねえ、そんなに本がいるの?」
と言った。わたしはビールの王冠のことじゃないのがわかって
「なにがわからないの?」
と聞いた。
「その本のことだよ。読んでいるのかどうかもあやしいもんだよ」
文机のうえに積まれた本には窓からはいる日差しがあたっていて、その日差しが段々畑になっているようでおもしろかった。
「その本さ。そんなにいるのかねえ」
「わからねえ」
セーイチさんが言った。それからセーイチさんはビールを飲みながら、文机のうえの本を一冊とって畳のうえに置いて開いた。その開いたページをじっと見つめていて
「わからねえ。本当のところはわからねえ」
と言った。
「その本には何が書いてあるの?」
わたしがセーイチさんに言うと、セーイチさんは目のまわりを赤くして
「わからねえ」
と言って、その本をわたしの手にのせた。わたしはてきとうに本を開いたけれど、そのページには絵が描いていなくて、ひらがなもすくなくて知らない漢字ばかりだった。
「おまえには読めねえよ。こっちによこしな」
読めないとわかっていて、じゃあどうしてわたしに読めない本を渡したのか、セーイチさんのしていることがわからなかったけれど、セーイチさんが言うので本を返した。
「おまえ、カエルの解剖はやったことがあるのか?」
「カエルのカイボー?」
「ああ、そうだ」
「やったこと、ない。ゴクドーってカイボーするの?」
「そうか。じゃあ、これから学校の授業でやるんだな」
「なにをやるの?」
「カエルの腹を裂くんだ」
「カエルのおなかを?」
「ああ、そうだ。カエルをつかまえて、あおむけにして手足をピンで板に止めてから、カエルの腹を裂くんだ」
「生きたまま?」
「生きたままだ。生きたままカエルの腹をナイフでたてにすーっと切るんだ」
「カエルは生きているんでしょ」
「カエルは生きている」
「あんた、やめときなよ」
「いいじゃねえか、どうせ、いずれはわかるんだから、いまおしえてやったっていいじゃねえか」
「だって、この子、顔色がわるいようだしさ」
「そんなこたぁ、ねえよ」
セーイチさんがわたしの顔をのぞきこんできたけど、わたしはだまっていた。それからセーイチさんは
「カエルは生きたまま腹を裂かれるんだ。どうして生きたまま腹を裂くか、わかるか?」
わたしはだまっていた。
「生き物のからだの仕組みがどうなっているかを見るためだ。心臓がどうやってうごいているのか、息を吸うと肺がどうなるか、胃や腸がどうやってつながってうごいているか、神経の反射とかな。生きていないとそういうものは見られないからな」
「でも、どうしてそんなことをするの?」
わたしはセーイチさんに言った。セーイチさんの顔は血の色が透けているようだった。
「カエルにしてみりゃ、すげえ痛いだろうな。麻酔もなにもかけられないで、いきなり腹を裂かれるんだからな。だけど、にんげんはそういうことをするんだ」
「どうして?」
「簡単だ。それはおまえのためにするんだよ」
「わたしのために?」
「おまえひとりだけのためじゃない。にんげん全員のためにそういうことをするんだ」
「なんで?」
「そりゃ、にんげんがすこしでも不幸にならないようにだ。ほかの生き物で実験をするんだよ」
「わたしはいやだ」
「そう言ってもだめだ。おい、もう一本ビール持ってこい。肴も出せよ」
セーイチさんはあごをしゃくって女の人に言った。女の人はだまって立ち上がって流しの方にいった。流しはわたしの家や猫ばあさんの小屋にある石の流しじゃなくて、銀色をしていた。
「わたしは学校でカエルのカイボーがあっても、カエルのカイボーはしない」
「もう遅いんだ。おまえが学校でカエルの解剖をしなくても、おなじことをもうやっているんだ」
「だって、わたしはカエルのカイボーをまだしていない」
「見た目、はな。だけど、おまえがいまこうやって話しをしていることが、もう手遅れの証拠なんだ」
「わたしはなにもしていない」
「そうだ。なにもしていないよ。だけど、なにもしていないけど、ここにいることが手遅れの証拠だ」
「どうして?なにもしていないのに」
「肴はキュウリしかないよ」
女の人が新しいビール瓶とお盆を持ってきた。お盆のうえにはななめに切ったキューリがあった。
「キュウリのぬかづけくらいしかないよ」
キュウリには楊枝が三本さしてあった。キュウリのぬかづけはすっぱくて、お母さんがよくお膳のうえに出すけれど、わたしはあまり食べたくはなかった。
「遠慮しないでいいんだよ」
女の人がわたしに話しかけた。セーイチさんは楊枝にさしたキュウリを音をたてて食べた。セーイチさんの持っている本の背表紙が見えたけれど、その背表紙にはわたしの知らない漢字がたてに一列になって書かれていた。
「にんげんは、にんげんのしあわせのためにほかの生き物を殺すんだよ」
セーイチさんはまたキュウリを食べた。
「にんげんは、じぶんたちが健康になるために、ほかの生き物を実験台にして殺す。長生きをするために、ほかの生き物を殺すんだ。もっともこの前の戦争じゃにんげんがにんげんを実験台にしていたらしいけどな。そういうことがすこしずつ積み重なって、いまのこどもの健康があるってわけだ」
「そんなこと、おかあさんは言っていなかった」
「そりゃあ、言わないな。だいたい、ふつうはそんなこと考えない」
「そうなの?」
「だけど、よく考えてみろ。おまえは肉や魚を食うだろ。かならず食うにきまっている。食わなきゃ死んじまうからな。おまえ、まだ死にたくないだろう」
「死にたくない」
「死にたくなければ、食うしかないんだ。いくらなんでも、これくらいはわかるだろう」
「うん」
「にんげんは味を知っているんだ。うまい、とか、まずい、とかいうことがわかる」
「おいしいものはわたしも好き」
「そうだろう。だれだってうまいものは食いたい。ところがうまいもので腹がいっぱいでも、もっとうまいものを食いたいんだ」
「そうなの?」
「そうだ。うまいもので満腹になっても、もっと食いたいんだ。ほかの動物は満腹になったら、目の前にえさがあったって食わない。にんげんだけだ、満腹でもまだ食おうっていうのは」
「それはいけないことなの?」
「いいとかわるいとかの問題じゃない。そういう生き物がにんげんだってことだ」
「あんた、もういいかげんにしたら」
女の人がビールを飲みながら言った。
「なんで?いいところじゃねえか」
「だって、この子いやがっているようだし」
「いやがっているのはおまえじゃねえのか?おれがまた屁理屈ばかり言っていると思っているんだろう?」
「そんなことないけどさ」
「じゃあ、いいじゃねえか」
夕陽がセーイチさんの顔にあたっていた。セーイチさんの顔は血が流れているように赤くて、となりに座っている女の人の顔も赤くなっていた。ゴクドーがどんなものなのかとうとうわたしにはわからなかった。
お母さんが、学校に行ったらなんでも一番になるようにがんばりなさい、と言っていたけど、どうして一番になるのがいいのか、おかあさんのようにいくらご飯を食べてもわたしにはわからなかった。それでも、授業中に先生からさされると元気よく答えるようにした。先生の言っていることがわからないときには、すぐに手をあげて、わかりません、と答えるようにしていた。それから、猫ばあさんのところには行ってはいけないと言われたから、セーイチさんに会ってからも猫ばあさんの小屋にわたしは行かなかった。でも、学校にいくときにはどうしても小屋が見えてしまうから、小屋のまえを通りすぎるときは地面を見るか空を見上げるかして、小屋を見ないようにしていた。それでも、目のすみの方で小屋が見えてしまうから、どうか猫ばあさんは小屋のまえにいないでほしいと両手をぐっと握って歩いた。猫ばあさんのすがたを見たらわたしはあいさつをしてしまうかもしれないから、それがいやだった。でも、猫ばあさんのすがたを見てもあいさつをしないで通りすぎるわたしのうしろすがたも思い浮かんで、わたしはわたしのことがさみしくなった。
それからしばらくして、木枯らしが吹きはじめたころ、猫ばあさんの小屋は旧坂をあがっていけば遠くからでも見えるのはかわりはなかったけれど、でも小屋のようすがなんだかまえとちがっているのに気がついた。わたしは毎日その小屋のまえを通っていたけれど、はじめはなにがちがっているのかがわからなかった。だけど、猫ばあさんの小屋の方から木枯らしが吹いてきてもぜんぜん動物園のにおいがしてこなくなっていた。小屋に近寄っても臭いにおいがぜんぜんしなくなっていた。わたしはそれから毎日猫ばあさんの小屋のちいさな煙突を見るようにしていたけれど、煙突からは一度も煙りは出なかった。猫もいなくなっていた。
先生から二学期のさいごの日に通信簿をもらって、わたしはすぐにそれをランドセルにしまった。先生から通信簿をはじめてもらったときは寄り道をしないですぐにおかあさんに見せるように言われていたからなくさないようにすぐにしまった。通信簿をもらったら次の日からは学校が休みになるから、休みになったら、いつもはさっと通りすぎてしまう猫ばあさんの小屋の裏とかに行って、猫ばあさんやたくさんいた猫をひとりでさがしてみようと、学校からのくだり坂で考えた。通信簿をおかあさんに見せなきゃならないから、わたしは急いで坂道をかけおりた。ランドセルのなかで教科書やノートがばたんばたんして走りにくかった。
「おまえ、これはなんだね?」
おかあさんはわたしがもってきた通信簿を右手でつまんでひらひらさせてわたしに聞いてきた。わたしはおとうさんが仕事場からもってきた青くてざらざらする紙をたばねた本をたたみのうえに寝ころんで見ていた。その本にはテレビで放送するマンガのひとがたくさん描いてあった。わたしは顔をあげて
「先生からもらった」
「そんなことはわかっているよ。なんでイチとニばっかりなんだよ」
「なにが?」
「イチとニしかないだろ」
「だって、イチは一番。ニは二番でしょ」
「なんだって?」
「一番と二番じゃないか」
「ばか」
「いつもおかあさんが一番か二番になれって言っていたじゃんか」
「おまえ、猫ばあさんのところにばかり行っていたろ」
「行ってない」
「猫ばあさんところで遊んでばかりいたろ」
「行ってないよ」
「じゃあ、どうしてイチとニばかりなんだよ」
「そんなの知らないよ」
おかあさんの顔つきがいつもとちがうので、玄関から外に逃げだそうと、さっと起き上がった。わたしの家はたたみの敷いてある六畳と板の間の四畳半しかないからすぐに外に逃げだせる。学校ではかけっこは一番だからつかまりっこないと思って走り出したら、左の足首をつかまれてわたしは姿勢を崩して板の間の床にいきおいよく顔をうちつけた。それから六畳にひきずられて、あおむけにされた。わたしがあおむけになるとおかあさんはじぶんの両脇にわたしの足をかかえこんで立ちあがった。わたしは顔が痛いのとあたまに血がのぼってくるのとで夢を見ているのかもしれないと思った。そのうち、からだはふわっと浮いておかあさんがわたしのからだをぐるぐる回しているのがわかった。天井の丸い蛍光灯が地震のときのように揺れていた。ぐるぐる回されているうちに左肩がなにかにあたってわたしの左腕が人形みたいにぶらぶらになった。おかあさんは回転するのをやめてわたしのからだをたたみのうえにほうりだした。痛くはなかった。でもじぶんの左腕がたたみのうえで見たこともない向きで動かせないでいるのがわかるとこわくなって泣き出した。おかあさんはわたしを抱きかかえると家の裏のおおきい道路を渡ろうとした。
「信号がなかなか青にならない」
交差点でわたしを抱きかかえながら、おかあさんは足踏みをしていた。時間がたたなきゃ青にならないのにと、わたしは信号機を見た。それから、じぶんの左腕がぶらぶらしているが見えた。信号が青になっておかあさんは走り出した。走るとわたしの左腕はよけいにぶらぶらと揺れた。それから運河にかかっている橋を渡った。橋を渡ってどんどん行くとセーイチさんの部屋があるから、もしかしたらセーイチさんの部屋に連れて行かれて、猫ばあさんのところには行かなかったけれどセーイチさんのところには行っただろと叱られるのか思った。けれど、おかあさんはセーイチさんのところに行かないで途中の白っぽい壁のほねつぎにはいった。
わたしは左肩から肘の先までをギプスでかためられて、白いガーゼで腕を吊って診察室を出た。おかあさんはわたしを見て待合室を右にいったり左にいったりした。わたしの後ろから白衣を着たほねつぎの先生が出てきた。おかあさんはその白衣にすがりついて
「うちの子はだいじょうぶでしょうか」
と言った。
「左肩の脱臼がかなりひどいから治るのに時間がかかりますよ」
「そうなんですか」
おかあさんは白衣の端をつかんだままだった。
「だけど、どうして左肩をこんなにはげしく打ったのですか」
「治るのにどのくらいかかりますか」
「まあ、一ヶ月はかかりますね」
「いえ、診察のお金です」
「初診はすこしかかるけど、脱臼だけだから、それほどかからないですよ」
「そうですか」
おかあさんは白衣の端から手をはなして財布のなかを覗き込んだ。
「おかあさん、それよりも左肩を脱臼するなんて、そんなあぶない遊びをさせないようによく注意してやってくださいよ」
うえのほうから白衣がわたしの顔を見て
「これに懲りることだな」
と言った。わたしは返事はしなかった。おかあさんは診療費を支払ってからわたしの右手を引いて外に出た。外は夕焼けで真っ赤になっていた。わたしはセーイチさんの顔にあたっていた夕陽を思い出した。それからセーイチさんのとなりにすわってセーイチさんをだましている女の人を思い出して、あの女はセーイチをだましているという猫ばあさんの声を思い出した。運河のうえの橋を渡っているとき、みどりの水に夕陽があたって黒くなっていて、あぶくが昼間よりもたくさん出ていた。
学校は休みになったけれど、わたしは猫ばあさんの小屋には行けなくなった。ギブスで固めた最初の夜は左肩がすごく痛くなったけれど、そのつぎの日からはぜんぜん痛くなくなった。ふつうにあるくことは平気だけど、あるきにくくて、猫ばあさんの小屋に行ったときにもしノラ犬に追いかけられたら逃げきれないから、小屋に行くのはやめた。セーイチさんの部屋に行く道順もだんだんぼんやりしてきて、道路の目印を忘れてしまった。
セーイチさんは猫ばあさんのこどもなのに猫ばあさんみたいな動物園のにおいがしなくて、どうしてゴクドーで、どうして女のひとがセーイチさんをだましているのか、わたしにはとうとうわからなかった。
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