第 弐 話

壱 ‐イチ‐

 耳許みみもとの電子音で、玲花は目を覚ます。

 視界に入ってきた木目もくめ天井てんじょうは、まだ自分の記憶に馴染なじんでいないがら

 ゆっくりと上体じょうたいを起こして、部屋着のワンピースのまま眠ったことに気づいた玲花は、ベッドから出した足をたたみに乗せながら昨夜のことを思い返す。

 放課後、出会ったやみのような青年。感情の映らない透き通ったひとみ


 ……透夜。


 柾矢が声に出した、青年の名前。

 彼を見た時に脳裏のうりに浮かんだのは、夜。

 全てを包み隠す漆黒しっこく

 柾矢と面識のある、人とは違う存在。



     ◆   ◆   ◆     



 あの――透夜との遭遇そうぐうの一件――後、玲花は柾矢に背中を押されるがまま、駐車場にある彼の車の所まで来た。

 つややかでこっくりとした黒のセダンタイプのレガシィ。

 その色合いに、ほむらのように立ちのぼった闇が玲花の念頭ねんとうをよぎり、心臓を冷たい手でつかまれたみたいに身がちぢがる。

 っ立ったままの玲花をなかば押し込めるようにしてレガシィの助手席に乗せると、柾矢は運転席に回り込んでエンジンをかけた。

「……」

 押し黙ったままハンドルをにぎる柾矢の横顔をながめる。わずかに眉間みけんしわを寄せる彼は、触れたら切れるような鋭利えいりな空気をかもし出していた。

 ふと、まっすぐ自分を見る涼しげなまなしが頭の中に浮かぶ。

 高校生だった柾矢のはなちの整った顔。

 一番古い記憶。

 その時からずっとそばにいたけど、こんな様相ようそうの彼を見たのは初めて。


 ……あの人は、何?

 聞きたいけど、けない。


 信号が赤になり、車がゆっくりと止まる。

「何?」

 柾矢が玲花の方を見て、短く問いかけた。

「えっ?!」

「さっきから何が訊きたい?」

 ためらう玲花に、柾矢がもう一度たずねる。

「仕事は平気なの?」

「ああ。今日は、玲花の初登校だからな。いつも人一倍仕事をこなしているんだ。たまにはいいだろ」

 口のはしを吊り上げる柾矢を見て、玲花は「いつも通りの柾矢だ」と感じ取った。

「……柾矢は、わたしに甘いよね」

「そうか?」

「うん。さっきは、厳しかった」

 信号が変わり、前を向いて車を加速させる柾矢に、玲花は告げる。

 隆弥に対する柾矢の突きはなした態度。柾矢から返ってきた言葉は、それと同じで容赦ようしゃがなかった。

「あれは、一般常識」



     ◆   ◆   ◆     



 着替えてそのままベッドに横になると、身体からだに残るみょうな気だるさを感じた。ざわつく心を落ち着かせたくて、何も考えたくなくて、目をつむったことは覚えている。

 どうやら、そのまま眠ってしまったらしい。

 クローゼットの前まで進み、九条学園の制服に替えるために、ワンピースを脱ぐ。着替え終えて部屋を出て庭に面した廊下を歩く玲花は、庭の木々のあざやかに輝く葉が目に入り足を止めた。

綺麗きれい

 言葉に出してから、玲花は歩き出す。

 居間に入ると、

「おはよう」

 少し低めの女性の声が届く。

「おはよう、かつら

 腰まで届く、いろの髪をうなじでひとつにまとめた背中が、向きを変える。

 きりっとしたおもしが、わずかにけんを帯びる。

「昨日の朝、髪をそのままで学校に行ったでしょう。ここに座って」

 玲花はうなずいて水無月みなづき藤が指し示す椅子に素直に座ると、明るい玲花の髪を持ち上げて、丁寧ていねいにブラシでとかす。


 ……どうして知っているんだろう。


「昨日の朝、風がはしゃぎすぎて、うるさかったのよ」

「風がはしゃぐ……」

 あきれた藤の声が背中から聞こえて、玲花は同じ言葉を繰り返す。

「どうして、あんなに嬉しそうなんだろう」

 ぽつりとこぼした玲花のつぶやきを耳にして、藤は胸の内で盛大せいだいいきを吐く。


 この少女は感覚で認識しているのだ。


 おさない頃から感覚がするどく、直感で見抜くを持っていた。

 十代後半になっても、変わらず純粋なままだ。

 その純真さを、素直な心を、――好む。

 近いうちに、玲花自身が理解するだろうから、藤は明言めいげんしない。

「玲花の長くて綺麗な髪が好きなんじゃない」

 明言しない代わりに伝えると、「そっか」と短く納得した。

 藤はされるがままの少女の無防備な後頭部に視線をそそぐ。髪をふたつにわけて、それぞれを編み込んだ。

「はい、できたわよ」

「ありがとう、藤」

「どういたしまして。さて、朝食にしましょう」

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