捌 ‐ハチ‐

 グイッと左の二の腕を摑まれ、強引に後ろへ引かれてよろめいた。玲花はとっさに自分の身体を支える腕にしがみつき、よく知る体温に慌てて目を開けて、その人物の横顔を見上げる。

 目にかかる長い黒髪。その下の冷ややかな瞳は、険しく細められていた。

「……柾矢」

 その名を呟くと、相良さがら柾矢は一瞬だけ玲花へ視線を向けて、彼女を自分の後ろに引き下げる。長身の彼の背で玲花がすっぽりと隠れた。

「久しいな」

 玲花をまもるように立つ柾矢を眺め、眼前の青年は親しげな笑みを浮かべる。

「何しに来た?」

 厳しい眼差しで、柾矢は鋭く問う。

「風がやたらさわがしくてね。何が起きているのか、見に来た」

 上空を見上げて楽しげに答える青年は、目線を柾矢に戻す。

 柾矢に向けられた気安げな語調が気になり、玲花は柾矢の背中から顔をのぞかせる。

「風が守護する者が現れたのなら、道理どうり

 男は頷きながら玲花に視線を移すと、一歩足を前に出した。

透夜とうや

 いさめるように、柾矢が男の名をきつく発する。


 ……透夜。


 玲花は胸中で青年の名前を呟くと、夜のとばりのイメージが浮かんだ。

 闇をまとう青年。

 透夜が玲花にもう一歩近づいた時、あかい影が視界を横切った。

 はらりと、玲花と透夜の間に割り込むように舞う。目を引く鮮やかな朱色。よく見れば、羽毛のような炎の欠片。

 自分の進路を邪魔する火の粉に、透夜は不快げに片目をすがめた。

「邪魔が入ったので、私はここで退散しよう。では、いま覚醒めざめぬかぜ使つかい殿」

 闖入者ちんにゅうしゃにより興味を失くした透夜が右手を振った瞬間、黒い闇が炎のように立ち上がるとそのまま彼の姿を包み込んだ。

「――っ!!」

 玲花の感覚にげた臭気しゅうきが甦り、一瞬息を止めた。

 黒い炎がめるように建物をおおう。


 ……ダメ。逃げて‼


 眼界がんかいに広がる情景におののき、玲花は無意識のうちに柾矢のスーツのジャケットを強く握り締める。

 柾矢は宥めるように、スーツのそでを握る玲花の手を優しくゆっくりと叩くが、玲花の意識は目の前の異様な光景に張りついたまま。

 音もなく炎が消え失せると、青年の姿もなくなっていた。


 ……う、そ――


 更におびえる玲花に柾矢は大息おおいきをついて、玲花から目線を外す。

 視界をちらつく綿雪わたゆきのような紅い炎。

「これは、お前の仕業しわざだろう。火納家の次期当主」

 校舎のある方向に身体ごと向き直り言い放った柾矢の言葉で、玲花は彼の視線の先を見る。

 自分たちに歩み寄る男子生徒の姿に、玲花は驚く。さっきまで同じ教室にいた、同級生の火納隆弥。

「よく知っているな。表舞台には、あまり出ていないのに」

「表舞台に出ていなくても、旧家だろう」

 後ろに隠れたままの玲花を、柾矢はそっと前に押し出す。背後にいたままだと、いざという時に素早く対応ができなくなる。


 考えていたより、状況が早く動き出したようだ。


 柾矢は舌打ちをしたい気持ちのまま、思案する。

「まぁ、いいや。それより、一緒に来てもらいたいんだけど。さっきまでいた奴の話も聞きたいし」

 相手の都合もお構いなしで喋り出した隆弥の口調は、他人に指示し慣れている人間のもの。人の上に立つ人間には見えなかったから、玲花は意外に思う。

「自分の都合を押しつけるなよ、餓鬼がきが」

 柾矢は冷淡れいたんな面差しを隆弥に向けると、玲花の背中を促すように押しながら歩き出した。されるがままの玲花は今し方の会話で、柾矢が彼を知っていたことを思い知った。

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