漆 ‐シチ‐

 今日最後の授業が終わると、玲花は誰よりも早く教室を抜け出た。

 まだ学生の少ない廊下を通り、階段を下る。昇降口から逃げるように校舎を出て正門へと向かう。

 慣れない空間に気疲れをしていた。だから、早く帰って息を抜きたい。その気持ちが玲花の歩く速度を早める。

 管理棟の前を通りすぎようとした時。

「――っ!」

 スカートのポケットに入れたままのスマートフォンが振動して、驚いた玲花の身体がねた。

 立ち止まりスマートフォンを出して見ると、メールが一件届いていた。相手は今同居している水無月みなづきかつらから。

 玲花は画面を操作して、メールの本文を開ける。


柾矢まさしが来るらしいから、ちょっと待ってて』


 内容を確認して、玲花はしんいだく。

 自分より七歳上で、藤と同い年の柾矢は、この時間は仕事をしているはずなのに、わざわざ来るという。

 仕事中なのに大丈夫だろうかという気持ちと、気心きごころの知れた相手に会える安心感が、玲花の胸のうちで混ざり合っている。

 営業の仕事をしていると言っていたから、もしかしたら外回りをしているのかもしれない。

 もしそうなら、顔を見たい。


『わかった。校庭で待ってる』


 手にしていた純白じゅんぱくのスマートフォンを操作して、藤と柾矢に一斉にメールを送った。

 彼が来てくれる。そう思うだけで、ふわりと心が軽くなる。

 正門に通じる道から離れ、木立こだちの中の小道こみちを南へと進んでいく。

 道の右側には学生食堂と芝生に覆われた広場。その先に格技場、弓道場、テニスコート、部室棟がある。

 道の反対側には、サッカー場、野球場などがはいされていた。

 柾矢が来るまで校庭にいようと思ったのは、その方向から清涼な風が吹いてきたから。

 その風に誘われるように、玲花はグラウンドの方へのんびりと歩いていく。

 生徒の姿のない、ひっそりとしたグラウンド。

「……?」

 ザワザワと不穏な気配が背筋をい上がった直後、不意に風がぎ、周りの温度が一気に下がる。

 強烈な気を感じて、玲花は引かれるように振り向いた。

 冷然れいぜんとした空気。

 玲花が向けた視線の先に、泰然たいぜんと佇む一人の青年がいた。

 黒闇こくあんに浮かぶ三日月のような、冴え冴えとした中性的な容貌ようぼう漆黒しっこくの髪と対照的な白い肌が印象深い。

 圧倒的な存在感に、玲花の心は萎縮いしゅくしてしまう。

 感情のない双眸で見つめられ、足下から恐怖が込み上げてくる。怖いという気持ちが、玲花の身体を強張らせた。


 ……逃げないと。


 そう思うのに足がすくみ、靴が地面にい止められたみたいに動かない。

 耳の奥でどくどくと響く自分の心音を、玲花は遠くで鳴る警鐘のように感じていた。

「風がうるさいから、見に来たら……そういうことか」

 嘲笑ちょうしょうを含んだ、青年の言葉。

 混乱する玲花の心のうちを悟っているのか、青年は口許に笑みを浮かべる。人を寄せつけない、冷めた笑み。

「記憶がなくとも、畏怖いふいだくのか」

 やみのような存在が、一歩近づく。


 ……記憶が? ない?

 何の話をしているの?


 男の放った言葉に、玲花の心に不安の細波さざなみが立つ。

「……」

 こちらに近づく男性を、玲花は瞳にとらえたまま立ちくす。


 ――まさ、しっ。


 無意味と知っていても、助けを求めてしまう。この得体の知れない感覚からのがれたくて、玲花はギュッと目をつむった。

「――っ」

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